メッセージ


もくじ

2003 


◆11.30「永遠の命を得るために」イザヤ書55:1-5 ヨハネ6:27-35
◆11.23「真理とは何か」エレミヤ書23:1~6, ヨハネ福音書18:33~40
◆11.16「恵みの善い管理者」マラキ書3:19~24, 第一ペトロ4:7~11
◆11.09「祝福の源となれ」創世記12:1~9, ローマ書4:13~25
◆11.02「独り子をお与えになったほどに」民数記21:4~9, ヨハネ福音書3:13~21

◆10.26「いのちの始めと終わり」 創世記1:1-3,24-31
◆10.19「ギデオンの勇気」 士師記7:1~7, マタイ福音書19:16~22
◆10.12「┬柊招きに応える┬稗  イザヤ書6:1-8,ガラテヤ書1:11-17
◆10.05「小事に忠実な者は」アモス書8:4-7 ルカ福音書16:1-13

◆09.28「愛することは赦すこと」  ルカ福音書15:11-32
◆09.21「信仰と家族と将来」 サムエル下18:28-19:1 ルカによる福音書14:25-33
◆09.14「報いを望まで人に与えよ」 ルカ福音書14:7-14 フィリピ書2:1-11
◆09.07「何のため、誰のため」エゼキエル18:30-32 ローマ書14:1-9

◆08.31 「聞くに早く話すに遅く」 アモス書5:18-24 ヤコブの手紙1:19-27
◆08.24「神の子の声を聞く時」創世記42:29-38、ヨハネ福音書5:19-30
08.17「敵が兄弟になるまで祈る」哀歌3:25-36 マタイ福音書5:38-48
◆08.10「もう罪を犯してはいけない」創世記2:1-3、ヨハネ福音書5:1-18
◆08.03「してもらいたいと思うことを人にも」レビ記19:9-18ルカによる福音書6:27-36

◆07.27「愛されてこそ愛せる」エレミヤ書31:31-34、ルカ福音書7:36-50
◆07.20「キリストの出番」サムエル記下12:15b-23、ルカ福音書8:40-56
◆07.13「小さなものの一人まで」エゼキエル書34:11一22マタイ福音書18:10-20
◆07.06「平和があるように」詩編122:8-9、第一コリント 3:1-7

◆06.29「はっきり言っておく」民数記21:4-9、ヨハネ福音書3:1-15
◆06.22「信じること」ヘブライ書11:1-7,「信じてふみだす」ヘブライ書11:8-16
◆06.15「その話に聞き入っていた」ルカ福音書10:38-42
◆06.08「聖霊による教会の誕生」創世記11:1-9、使徒言行録2:1-13
◆06.01「地の果てまで」マタイ28:16-20,?コリント9:19-23

◆05.25「新しい創造」イザヤ書40:25-31,コリント?5:17-21
◆05.18「真実のよそおい」申命記7:6-11,ガラテヤ書3:26-4:7
◆05.11「朽ちる食べ物のためではなく」出エジプト記16:4-18,ヨハネ福音書6:34-40
◆05.04「心の目を開いて」イザヤ書51:1-6、ルカ福音書24:36-49

◆04.27「主と共に歩み」列王記下7:1-16、ルカ福音書24:13-35
◆04.20「よみがえりを信ず」ルカ福音書24:1-12、第1コリント15:12-20
◆04.13「ロバに乗る王」イザヤ書53:1-5、ルカ福音書19:28-36
◆04.06「常に主を覚えてあなたの道を歩け」箴言3:1-12、ヨハネ14:1-7

◆03.30「十字架の言葉は」エレミヤ9:22-25、第1コリント1:18-31
◆03.23「わたしの十字架」イザヤ書63:7-14、ルカ福音書9:18-27
◆03.16「天からのしるし」出エジプト記8:12-15、ルカ福音書11:14-26
◆03.09「本国は天」イザヤ書25:1-9、フィリピ書3:17-4:1
◆03.02「五つのパンと二匹の魚」イザヤ書41:8-16、ルカ福音書9:10-17

◆02.23「新しい革袋に」イザヤ書58:3-8、ルカ福音書5:33-39
◆0216「聞く耳のある者は」ルカ福音書8:4-15、エゼキエル33:30-33
◆02.09「神の民」ヨシュア記1:1-9、第1ペトロ2:1-10
◆02.02「主よ、献げます」ハガイ書2:1-9、ルカ福音書21:1-9

◆01.26「逃れる道をも備えてくださる」民数記9:15-23、第1コリント10:1-13
◆01.19「しかし、お言葉ですから」申命記7:6-11、ルカ福音書5:1-11
◆01.12「罪人を救うために世に来られた」第一テモテ1:12-17、イザヤ書49:1-6
◆01.05「心を新たに」箴言3:1-12、ローマ12:1-8

2002 

◆12.29「この目であなたの救いを」イザヤ書40:1-5,ルカ福音書2:21-40
◆12.22「ここに愛がある」イザヤ書45:22-25,ヨハネ福音書1:1-14
◆12.15「先駆者の使命」ルカ福音書1:5-25,第1ペトロ2:1-10
◆12.08「神に立ち帰る時」ルカ福音書4:14-21,イザヤ書55:1-11
◆12.01「夜明けは近い」エレミヤ書33:14-16,ルカ福音書21:25-36

◆11.24「主の言葉が臨んだ」エレミヤ書1:4-10,マタイ福音書28:16-20
◆11.17「死んだ者の神ではない」エレミヤ書31:31-34,ルカ福音書20:27-40
◆11.10「笑わずにいられない」創世記8:1-15,ローマ書9:6-12
◆11.03「最初の罪・最後の赦し」創世記3:1-19,ローマ書5:12-21

◆10.27「神の計りごと」ヨブ記38:1-18,ルカ福音書12:13-31
◆10.20「なすべきことはただ一つ」サムエル記下6:12-23、フィリピ書3:12-26
◆10.13「わたしは何者か」出エジプト記3:1-12
◆10.06「人間に従うより神に」ダニエル書3:13-27、使徒言行録5:27-42

◆1月~3 ◆4月~6 ◆7月~9

2001 

◆1月~3 ◆4月~6 ◆7月~9 ◆10月~12

2000
◆1月~3 ◆4月~6 ◆7月~9 ◆10月~12

1999
◆1月~3 ◆4月~6 ◆7月~9 ◆10月~12

1998
◆1月~3 ◆4月~6 ◆7月~9 ◆10月~12

1997 
◆1月~3
 ◆4月~6 ◆7月~9 ◆10月~12

1996
◆9月~12

ホームページへ



2003.11.30 待降節第1主日

「永遠の命を得るために」  イザヤ書55:1-5、ヨハネ6:27-35

        大村 栄 牧師

◇ヨハネ福音書6章は「5000人に食べ物を与える」記事から始まる。あの出来事に感動した人々は、ガリラヤ湖対岸の町まで主イエスを追うが、主は彼らに、「26:あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と指摘し、「27:いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と告げられる。これを目指し、求めて生きることが、キリストを通して神から与えられる人生の新しい意義であり、喜びである。

◇その価値に気づいた群衆は、それを得るためには「28:何をしたらよいでしょうか」と問う。「永遠の命」は何かの行為に対する報酬だと考えている。しかし主は行為に対する報酬でなく、「29:神がお遣わしになった者を信じること」のみが必要と告げる。すると群衆はキリストを信じるための保証を求める。「31:わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました」。出エジプトの際にモーセを通じて与えられた食物、あれと同じようなしるしを見せてくれ、そうしたらあなたを信じようと言う。

◇主の答えは「35:わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。これ以上のしるしはない。主を信じる者の命を、神は「飢えない、乾かない」ものに変えて下さる。「27:永遠の命」は終わりの日の希望であると同時に、今ここで信じる者に実現する恵みである。

◇聖書はこの福音を私たちに語る書物である。5:39「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」。聖書は読んだら終わりではない。薬の効能書きと似ていて、読んだらそれを信じて飲む決断が不可欠。聖書は福音を信じて生きることを私たちに求める。

◇キリストに表面的な豊かさだけを期待した群衆は、やがて「41:つぶやき始め」、それまで「群衆、人々」と呼ばれていた彼らは、「ユダヤ人」と呼ばれるようになる。ヨハネで「ユダヤ人」と言えばイエスを十字架に付けた人々のこと。自分を変えないで、キリストを評価しようとする人は、彼を否定し十字架に付ける者となるのだ。主イエスは「永遠の命に至る食べ物」であるならば素直にこれを飲み込もうではないか。それを象徴するのが聖餐であり、そこへの招きに応えるのが洗礼である。復活の主によって霊肉共に養われるものでありたい。

もくじへ 


2003.11.23 降誕前第5主日

「真理とは何か」  エレミヤ書23:1-6、 ヨハネ福音書183340

        大村 栄 牧師

◇ポンテオ・ピラトによるキリスト尋問の場面。ピラトの最大の関心はイエスが「33:ユダヤ人の王なのか」、つまり反ローマ抵抗勢力のリーダーなのかという点。しかし主イエスは「36:わたしの国は、この世には属していない」と答える。彼の属する国は地上の領域ではなく、神の領域に属する世界である。まったく土俵が違う。しかしピラトは理解できず、「37:それでは、やはり王なのか」と問う。どんな国であろうと、そこの最高権力者であるなら、それなりの責任を要求するのがローマ的判断である。

◇ローマ的な偶像崇拝の世界では、王は神をも自由に扱うほどの存在と考えられていたが、ヘブライズムの絶対神信仰においては、王は常に神の前でのあり方を問われる。王は神への畏れをもって民に奉仕する。それを怠るならば、「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」(エレミヤ23:1)との裁きを受ける。「イエスは良い羊飼い」(ヨハネ10:7以下)を連想する。王と民の関係は、羊のために命を捨てる羊飼いと羊の関係を反映するものでなくてはならない。そしてそれは一つの王国における王と民でなく、すべての人間において実現されるべき、すべての人を根底で支える愛の関係である。キリストはその愛を実行するために来た。「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)神がそれを実現せしめたのである。

◇この愛の支配こそが聖書全巻の示す「真理」である。「37:わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきた」。しかしピラトは最後まで理解せず、「38:真理とは何か」と問う。彼の求める「真理」は合理的な判断に立って、「何か」と問えるようなものに過ぎない。昔も今も、人は真理を悟ることができれば賢くなり、様々な不自由から解放されると考えている。そういう便利な理論や方法として「真理」を求めている。だからピラトは「真理とは何か」と問うたが、答えなどあるまいとその場を去ってしまった。彼は自分の目の前にいるその人が「真理」そのものであることに気付かなかったのだ。

◇「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)。主イエスご自身が生きた真理である。私たちは主イエスとの交わりを通して、神の愛と、それによる自由を生きる者となるように招かれている。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31-32)

もくじへ 


2003.11.16 降誕前第6主日

「恵みの善い管理者」  マラキ書3:1924 第一ペトロ4:711
        相澤眞喜先生

◇キリスト教信仰は、終末信仰である。4節の「万物の終わりが迫っています」というのがそれである。この言葉だけ聞くと奇異に聞えるが、これは万物には終わりがあるということである。神はこの世界の自然も人間もすべてを創造し、支配されておられる。神が初められたのだから、終わりの時に完成してくださるという信仰である。?ペトロ15に「あなたがたは、終わりの時に現わされるように準備されている報いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」とあるように、わたしたちは終わりの時に向って生きているのである.

◇終末に向って生きるわたしたちの信仰生活はどのようにあるべきか.まず第一に基本的な在り方として、「思慮深くふるまい身を慎む」ということである.健全な考えを持ち、心をしっかりとまとめることである.いつも目覚めた思いを持って判断を正しくすることである.それには謙遜でなければならない。神に対して謙遜になる時、人に対しても謙遜になり、そこから真の冷静さと敏感さが生まれるのである。「よく祈る」ことである.M.ルターは「祈りに対して裸になれ」と言っている.素直に自分の思を隠さず大胆に祈ることである。一切を神に委ねて絶えず祈ることである。「心を込めて愛し合うこと」、これはイエス・キリストの十字架の愛に生かされなければ成し得ぬことである.

◇第二に具体的な奉仕の業について教えている。10節に「あなたがたは、それぞれ賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」とある.善い管理者とは、忠実であること、つまり賜物を他者のために、神のために生かして用いることである。また各自に賜物が与えられているのは全体の益になるためである (?コリント1248)。

◇わたしたちは、神からいただいた恵みを善く管理し奉仕する目的は、「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるため」である.神の栄光のために、祈りつつ歩んで行きたい.

もくじへ 


2003.11.09 降誕前第7主日

「祝福の源となれ」  創世記12:1~9, ローマ書4:13~25</A>数記21:4~9 ヨハネ福音書3:13~21

        牧師  大村 栄

◇我々の引っ越しは各自の都合によるが、アブラム(後のアブラハム)は神がすべてを備えて下さると信じて「4:主の言葉に従って旅立った」。引っ越しがなくても人生は旅だ。最終目的地は天の故郷。「主の言葉に従って」歩みたい。アブラムは「5:蓄えた財産をすべて携え」て出発した。後戻りはしないという覚悟が現れている。信じて飛び込んでいくならば、ヨチヨチ歩きのおさなごを待つ母のように、神は必ず手を添えて支えて下さる。甥のロトも同行するが、これが後にトラブルのもととなる。しかしそれによってアブラムは成長させられた。私たちの旅の重荷も同様であろう。

◇たどり着いた目的地には、「6:カナン人が住んでいた」。神はアブラムに、先住民と戦って土地を奪い取れと言うのか。「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ福音書5:5)。最終的に土地を得るのは、戦って取る人々ではなく、柔和で謙遜な人々である。自分が勝つことより、神が最善を為して下さると信じる信仰が人を柔和にさせる。「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです」(ローマ4:13)

◇結局イスラエルはカナン人と戦って彼らを追い出したのではない。最後まで共存関係を持ち続けた。イスラエル人は彼らから農耕技術を学んだが、同時に偶像礼拝の影響を受け、預言者たちはその排除に力を尽くし、神の言葉を求めて戦かった。望まざる共存だったけれど、ロトの同行のように、重荷と思える状況が成長の糧となった。思いのままに自分の周辺を整えたい願望を、どこまで抑制できるかが問われる。

◇アブラムは目的地に着いて、まず「8:祭壇を築き、主の御名を呼んだ」。引っ越したばかりで課題や不安は多い。しかし、神を呼ぶ祈りと礼拝は、彼にとって「すべきこと」ではなく、「せずにおれないこと」だった。人生はそれぞれの重荷をかかえた旅だが、最後の天国の故郷を目指して、新しい出発を繰り返していく。その時々に、私たちは「主の御名を呼ぶ」礼拝と祈りを繰り返すことによって支えられていく。
◇このような生き方をする者に向かって、神は言われる。「3:地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」。信仰者の旅は、自分を豊かにする旅である以上に、世界の「祝福の源」となる。旅を続けながら世界に祝福をもたらす源となること、これが私たち教会に召された者たちに託されている使命であり、喜びである。

もくじへ 


2003.11.02 降誕前第8主日

「独り子をお与えになったほどに」  民数記21:4~9 ヨハネ福音書3:13~21

        牧師  大村 栄

◇先週の1031()は宗教改革記念日だった。1517年のこの日、ドイツのウィッテンベルクで、マルチン┬疋ルターが教会の扉に95ケ条の提題を掲げ、当時ローマ・カトリック教会で行われていた免罪符の販売や煉獄の教えを批判した。これが宗教改革の引き金となったのである。煉獄は死者が罪の償いを果たすまで置かれて苦しむ場所。教会は、これが地上の家族の執り成しによって代償されると教えた。仏教の「追善供養」に似ている。「免罪符を買えば、死んだおじいさんは、煉獄から天国に席を変えられる」と言って資金集めをしたのだ。

◇「わたしの父の家には住む所がたくさんある。わたしがそれを用意しに行くのだから」(ヨハネ14:2)と告げる「聖書のみ」を規準とし、行為ではなくただ「信仰のみ」によって救われることを信じる。その二点に宗教改革の精神は集約できる。

◇教会では死者のために供養はしないけれど記念式は行う。そして「キリストの記念」(?コリント11:24)としてパンとぶどう酒を分け合う聖餐式こそが、キリストにおいて眠ったすべての人々のための、最善の記念式である。「15:信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るため」に十字架に死んだ主イエスを仰ぎ見るのだ。

◇「16:神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。ルターが「この一節だけで小さな聖書である」と言った言葉だが、私たちは独り子を賜うた神の痛みにどれだけ思いを致しているだろうか。

◇「阿佐ヶ谷教会の歴史を生きた人々?」に掲載されている後藤豊という方は、優秀な学徒だったが結核に冒され、壮絶な病いとの戦いの末、1950(昭和25)年に30才の若さで逝去された。母の後藤文子さんが後に書いた本『暁の翼をかって』を読むと、彼女は愛するわが子を失うという厳しい体験を通して、父なる神が「その独り子をお与えになったほどに」世を愛されたことの重さを、身をもって知ったのだと分かる。

◇しかしそういう体験や理解はめったにあるものではない。人生に起こる苦難の意味も分からないことばかりだ。ヨブ記は「苦難の意味」を知るということをテーマとしている。しかしその主題は「分からない」ということだ。分からなくても、独り子をお与えになったほどに世を愛された神が、必ずや最善を成して下さる。その福音を告げる「聖書のみ」を信じる「信仰のみ」に生きることが宗教改革の原点なのである。

もくじへ 



2003.10.26 在天会員記念礼拝

「いのちの始めと終わり」 創世記 1:1-3,24-31

        牧師  大村 栄

◇今日から降誕前節、別名契約節。「キリストの来臨と生涯は、歴史の中途からスタートしたというよりも、世の初めからの神様の救いの歴史、神が人々と共に生きようとされる契約の歴史が展開していて、時満ちてイエス・キリストが来られたのだということを心に留める。それが契約節であります」(大宮溥先生説教集『希望の旅』)

◇その歴史は神による始めから、神による終わりに向かって、一本の直線のように進む。聖書の教えは、創世記冒頭に「初めに、神は天地を創造された」があって、巻末にヨハネ黙示録の最後、「アーメン、主イエスよ、来てください」があるように、神の創造に始まり、キリストの再臨と神による完成に終わる歴史。その間に私たちの人生があって、今日という日は一度しかない。

◇この直線的な時間の見方は、羊を連れて移動する遊牧民の生き方から来た。草地を求めて移動する彼らには、いつか草がなくなるかも知れないという危機感がある。それに対して、農耕民族の歴史観は円環的だ。春に蒔いて夏に成長し、秋実って冬には枯れる。しかしまた春になれば芽が出てくる。そこから来る歴史観は円環的な繰り返し。終わってもまた新しい出発がある。その究極が仏教の輪廻転生の教えだ。

◇しかし聖書が言うのは、単に繰り返しがきかないということではない。大事なのは、神の意志による創造が歴史の始まりだということ。すべてのものは決して偶然に、意味もなく存在するのではない。「31:神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」。神が望まれたから世界が始まった。そしてそれは神の満足されるものだったのだ。

◇しかしその後の人間は、残念ながら神の意志に背く「罪の歴史」を生きてきた。世界と社会の混乱を見るに付け、このまま世は終わるのだろうかと思ったりする。しかし、神の創造の意志が愛と喜びであったなら、必ず歴史はその方向に向かって進んでいく。聖書の言う「終末」は世の破滅を指すのではない。本来の「極めて良かった」状態が回復され、神の意志が成就する形で、歴史がその目標に到達することだ。
◇そのような希望に向かって、私たちの人生は意味ある日々を加えていく。今日は在天会員記念礼拝。名簿には300人を超える方々の名前がある。一人一人に与えられる一度限りの人生、完成に向かう直線的な歴史の中の意義ある一部分を、この方たちは生き切った。私たちもまた神の前に感謝をもって、これを生きていくのである。

もくじへ 



2003.10.19  全家族礼拝
「ギデオンの勇気」 士師記7:1~7  マタイ福音書19:16~22
        牧師  大村 栄

◇「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ8:10)。どんな時も一緒に礼拝すると、落ち着いて力がわいてくる。その力は、みんなで一緒に生きる力、神さまを信じる力、人を愛する力だ。

◇ギデオンはミディアン人との戦いに際して力を求めていた。この力は礼拝で与えられる力とは違う。大勢の仲間を集めて自信を付けて安心したい、そういう力である。しかし主は彼に言われた、「2:あなたの率いる民は多すぎる」、だから「3:恐れおののいている者」は帰らせよ。そのようにすると、「3:二万二千人が帰り、一万人が残った」。三分の一に減ってしまった。

◇ところが神は「4:民はまだ多すぎる」、エン・ハロドの水辺で「彼らをえり分ける」と言われる。水辺で「5:犬のように舌で水をなめる者」は帰らされ、「6:水を手にすくってすすった」者だけが選ばれる。それは1万人のうちわずか300人。すなわち3パーセント。しかし主はギデオンに、この「7:三百人をもって、わたしはあなたたちを救」うと言われた。そしてその通りになった。世界中の人々に聖書を配る活動を行っている国際ギデオン協会は、協力者を募る100通の手紙に応えたわずか3人から始まった(これも3パーセント)。今では全世界で聖書配付の活動がなされている。

100人を期待したのに3人。1万人いて心強いと思っていたのに300人に減らされる。私たちが増えること、増やすことを望む時に、神さまは減らすことを求められる。そうやって自分自身に対する信頼や自尊心を打ち砕かれる。さらには地上のいかなる力も実は信頼に値しないものであり、神にのみ頼るべきことを教えられるのだ。

◇一人の金持ちの青年がイエスに、「先生、永遠の命(神さまから頂く最高の宝物)を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)と尋ねた。あらゆる律法の戒めは守ってきた。この上さらに何をすれば、と問う青年に対して、主イエスは言われた。「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」。主は青年の自信のもといである財産を手離せと命じられる。自分の持ち物を減らしていけばいくほど、天に宝を積むことになるのだ。

◇ギデオンは去っていく兵士たちの後ろ姿を見ながら、神を信頼せずにおれない心境に追いこまれていっただろう。地上の望みが消えるたびに、神への信頼と信仰が強められ、深められていく。ここにこそ「ギデオンの勇気」、本物の勇気がある。


もくじへ 



2003.10.12 
「招きに応える」 イザヤ書6:1-8  ガラテヤ書1:11-17

        船本 弘毅 先生

◇最近┬匹ハイワイ(ハイ┬疋スクールYMCA)運動の大会に行った┬鼻私は1953年に高校を卒業したが┬匹当時はキリスト教主義の高校だけでなく┬匹公立学校でもハイワイ運動が盛んだった┬鼻戦後の混乱の中でハイワイに連なり┬匹そこで作られた信仰の交わりの中で主の召しを考える機会が与えられた┬鼻

◇パウロは┬匹召された時のことを┬匹私はキリストに出会い捉えられ┬匹何の準備もなく努力も決心もなく┬匹主が召して捉えてくださったと語る┬鼻人生は出会いだ┬鼻マルティン┬疋ブーバーは┬匹 『出会い』という書物の中で、書物との出会い┬匹人間との出会いについて次のように言う┬鼻?ぢ自分は若い日には┬匹良い書物との出会いと人間との出会いのどちらかを選べと言われたら┬匹良い書物との出会いの方を選んだが┬匹歳を経て┬匹今は人間との出会いを選ぶ┬鼻人との出会いで人生が深く豊かなものになったからである┬稗と┬鼻しかしパウロとキリストの出会いはそのような出会いとも異なる┬鼻母の胎内で選びは始まっていたという語り方は┬匹パウロの召しが人間によるものでなく神によるものだということだ。

◇ルカ福音書14章には┬匹宴会に招かれた人 が次々と一様にその招きを断るたとえがあ る┬鼻宴会の招きを断る理由は┬匹畑を買う┬匹 結婚する等人生の一大事で┬匹正当な理由で あり生活がかかっている┬鼻しかし┬匹自分が自分の生活を安定させ┬匹持ち物を増やすなど┬匹自分のことを優先している限り┬匹神の招きに応じることはできない┬鼻

E((I%ブルンナーは┬柊イエスのたとえ話┬稗の中で┬匹私達が最初に手をつけるのでもなく┬匹私達が中心でもなく┬匹神が与え┬匹神が何事かをして下さることを聖書は福音として語るという┬鼻またテイリッヒは┬匹信仰は受容の受容だと言う┬鼻神によって受け入れられていることを私達は感謝を持って受け入れることが招きに応じることだと言う┬鼻

◇東洋英和は┬匹1884年カナダ┬疋メソジストの婦人宣教師カートメル先生が来日し┬匹2名の生徒に教えることから始まった┬鼻先生は4年半で病を得て帰国されたが┬匹?ぢ私をお遣わし下さい┬稗という神の召しに応えようとする祈りから始まったことは事実┬鼻最近┬匹聖ステパノ学園の50周年記念式典でで祝辞を述べる機会が与えられた┬鼻この学校は┬匹沢田美喜が始めたエリザベス┬疋サンダースホームの子供達が学齢期になった時に小学校を造ったことから始まる┬鼻 神がまず人を愛し┬匹招いてくださる┬匹この神の備えて下さった道に私をお遣わし下さいと祈ることが招きに応じることだ┬鼻

もくじへ 



2003.10.05 世界聖餐日・世界宣教の日礼拝

「小事に忠実な者は」 アモス書8:4-7 ルカ福音書16:1-13

        牧師  大村 栄

◇今日のような難解なたとえは、伝道に派遣する弟子たちに、聞いてじっくり考えさせ、悟って立ち上がらせるために語られたのだろう。「管理人」は遠くにいる主人の財産を管理運用する責任があった。不正が発覚して免職されそうになると、主人に負債を負う人々の負債を軽減してやる。自己保身のために、主人の財産を盗用したのだ。しかし何と主人はこの管理人の「8:抜け目のないやり方をほめた」。一体なぜか。

◇「9:不正にまみれた富(「この世の富」と言い換えたい)で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。「金がなくなったとき」は、使い果たした時ではなく、金が無用になくなる時。すなわち個人レベルでは死、歴史全体では終末。その時に「永遠の住まい(天国)に迎え入れてもらえる」ための保証となる友達がありえる。「この世の富」を用い、すべてを用いてそういう友達を作りなさいということ。その友とはイエス・キリストだ。

◇キリストを友とする方法はマタイ25章の最後に記される。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。今日のテキストで言い換えると、「10:ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」。「最も小さい者の一人」に誠実に接し、「ごく小さな事に忠実」な人が「大きな事」、すなわち世界に平和を造り出す人となるのだ。今日は「世界宣教の日」。日本基督教団から世界各地に派遣されている宣教師たちは、その土地と人々を愛し、そこに注がれている神の恵みを宣べ伝え、分かち合っている。「ごく小さなことに忠実」であろうとしているのだ。

◇「11:不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。12:また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか」。忠実であるべき対象として、「不正にまみれた富(この世の富)」と「他人のもの」が並置される。このことから示されるのは、キリスト者にとってこの世の富は「他人の」、仮のものでしかない。しかしそれらの管理や活用に忠実であるならば、やがて次の段階として、「11:あなたがたに本当に価値あるものを任せる」と言われる。それは永遠に続く真理である。そしてそれらが「12:あなたがたのもの」として与えられることを、私たちは最大の望みとするのだ。

もくじへ 


2003.09.28  

「愛することは赦すこと」  ルカ福音書15:11-32

牧師 大村 栄 <伝道礼拝>

◇松原郁哉兄(神奈川歯科大学講師)の証し「与えられた信仰」を聞いた。信仰の証しとは、客観的・科学的な証明と違う。科学では証明できない何かの促し、つまりは神のご計画であったと信じるほかない出来事を、感謝の内に語るのが証しであり、私たちは今日それを耳にした。ひとりの人の人生に起こった、そして起こっている神の愛の出来事を間近に見たのである。

◇レンブラントの絵に『放蕩息子の帰宅』がある。父の前にひざまずく息子を、父がマントで覆っている。「家庭とは、欠点や弱さが、愛情というマントの下に覆われる、地上でただ一つの場所」という言葉がある。息子は今や、彼自身の本来の居場所がある家庭、愛に満ちたマイホームに帰ってきた。父は息子の罪の告白を、最後まで言わせない内に「一番良い服」や「指輪」などを調えさせる。これらは彼が正当な家族であり、ここに彼の居場所があることを証明するものだ。罪の告白は赦しの前提条件ではなく、赦しと愛への応答である。

◇こうして与えられるまことの居場所とは、松原兄が求道生活の末に発見した一つのあり方が言い当てている。「高校以来、自分を自分で支えようとしてきたが、自分で支えなくても大丈夫なのだと知った」。大宮溥先生がよく青年たちに言われたのは、「自律」と「他律」を超えた先に「神律」という世界があるということ。自分を自分で支えなくても、神の支えの中に自分らしく生きる場、居場所がある。そしてこの居場所は、地上のいのちの先にも存在する。「家には一人を減じたり。さはれ天に一人を増しぬ。清められ救はれ全うせられしもの一人を。…主イエスよ、天の家庭に君と共に坐すべき席を、我らすべてにも与へたまえ」(ストック女史、植村正久訳)。

◇もう一人の登場人物である兄息子は、もう一人の放蕩息子だ。父を裏切って勝手に飛び出した弟が、赦されて再び迎えられることなどあってはならない。弟を赦せない、愛せない、そういう心のとげを抱えて家の外に立ち続ける兄に対し、父は、弟に走り寄ったのと同様、外に出てきて「子よ」と呼びかける。赦されるはずのない人間()と、人を赦せない人間()が、等しく神に赦される。赦しとは愛である。愛されることは赦されることだ。

◇私たちは教会の礼拝において繰り返し神の愛に触れ、この愛に包まれている自分を知り、自分で自分を支えなくても良い、神に委ねて生きることのできる本来の居場所、生死を超えて存在する真の居場所を取り戻していくのである。

もくじへ 


2003.09.21  聖霊降臨節第16主日

「信仰と家族と将来」 サムエル下18:28-19:1  ルカによる福音書14:25-33

       牧師  大村 栄

◇「弟子の条件」として、「26:父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」。また、「33:自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」と主は言われる。ここで言う家族を「捨てる」とは手放すことではない。一度人間的な関係を捨てて、主の前に新たな人格的関係を結ぶということである。

◇「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」(マタイ13:44)。持ち物を売り払う、つまり大事なものを捨てることができるのは、それよりもはるかに優るものを発見したからだ。「天国」はそれほどに価値がある。新刊の『ケセン(気仙沼)語訳聖書』(山浦玄嗣著)は、「天国」を「神様のお取り仕切り」と訳す。神の取りしきる世界を生きられるなら、それは他の何ものにも優る。第一のものの敵は第二のものと言う。第一も第二も大事と思う時、両者は敵対する。第一・第二の序列を区別できるなら、両者は生かし合う。大切なもの(家族)を大切にするために、もっと大切なものの存在を覚えたい。

◇そしてこのもっと大切なものの存在は、覚悟して心に刻んでおく必要がある。究極の選択を迫られる場面はめったにないけれど、万一その時が来てから、まだ迷っているようではいけない。「28:塔を建てようとするとき」の費用計算と、「31:戦いに行こうとするとき」の作戦計画とは、そういう覚悟を迫るたとえである。そのうち何とかなるだろうと、あいまいな態度でいると、すべてを失うことになる。信仰生活にはある種の決断と緊張が必要である。

◇ダビデはそういう緊張感に欠けたために家族における悲劇を体験した人だった。彼の子供たちの間には王位継承を巡る抗争があった。息子の一人アブサロムは異母兄を殺した罪で追放されるが、父ダビデは叱るわけでも、赦すわけでもない。やがて息子は不満分子を集結して反乱軍を組織するが、鎮圧されて殺される。その報告を聞いたダビデは「身を震わせ、城門の上の部屋に上って泣いた」。この悲劇を語る文章には神様が登場しない。すなわち神への祈りが欠如しているのだ。「祈り」は神にすべてを委ねること。ケセン語訳聖書で言う、「神様のお取り仕切り」に任せること。それこそが最大の「弟子の条件」であり、信仰生活に必要な覚悟なのである。

もくじへ 



2003.09.14 聖霊降臨節第15主日

「報いを望まで人に与えよ」 ルカ福音書14:7-14  フィリピ書2:1-11

     牧師  大村 栄

◇主イエスは宴会を例にして二つの譬えを語る。まずは祝いの席に招かれた人のたとえ(7-11)。上座を占める高慢と末席に着く謙遜。高いところも低いところも、自分がどういう地位や立場を取るべきかは自分で作り上げるのではなく、ただ与えられたままに受け取るべきである。ふさわしい地位や名誉を正当に得る方法はただ、無欲に、謙遜に仕える時に与えられる。

◇そういう謙遜を身につけるためには、完全なものとの比較をすることである。それによって自分のやっていることの拙さがわかる。夏の家族キャンプでは、富士サーキットでプロドライバーの運転するレーシングカーに乗せてもらった。運転とはこうすることかと体感した。私たちの人生そのものを、最も完全な、主イエスの人生と比較してみたらどうか。この方の生涯と、自分の自己中心な生き方を比較してみるなら、私たちのおごりは失せるだろう。

◇「11:だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。単なる謙譲の美徳を奨励する教訓ではない。膝まずいて弟子の足を洗い、世の人々の罪を肩代りして死なれた主イエスの十字架への道、そこに徹底した「へりくだり」の生き方がある。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:8)。そしてこの一番低い席に座ったために、上席を与えられたのが主イエスだった。私たちの身につけるべき謙遜は、このキリストの姿に信仰によって結び合う時に、賜物として与えられるのである。

◇続いて後半(12-14)のたとえは、招く側の人への勧め。食事に招くとは、愛を行なうことである。しかしその相手が友人や身内の者、近所の有力者に限られているとすれば、愛の狭さを示すことになる。主イエスが私たちに期待する愛とは、返礼などありえないような関係の中でこそ行なわれるものである。例示される「貧しい人、云々」は当時の社会生活から除外される人々だった。そのような人々にこそ愛を注げと言われる。それはそういう人たちの必要に応えて、援助を与えよというのではない。彼らを食卓に招けと言われる。

◇それは天国の宴席を目指す主の食卓である。そこに私たちも、共に一つのテーブルに座して食べる。この宴席は聖餐の食卓を中心とする礼拝そのものにほかならない。ここへの招きが、愛を行うことだ。礼拝に招くということは、尊い愛の業であり、伝道は愛の業である。本人の拒絶という壁に直面しても、繰り返し愛の業に励もう。

もくじへ 



2003.09.07 聖霊降臨節第14主日  <振起日礼拝>

「何のため、誰のため」  エゼキエル18:30-32 ローマ書14:1-9

   牧師 大村 栄

◇「1:信仰の弱い者を受け入れなさい」。ここで言う信仰の弱さとは、信仰の結果である生活のあり方、たとえば食べる物や日の吉凶などについて、「こうでなくてはならない」と考え、そうできない時に悩むこと。もっと大らかに生きる「信仰強い者」が弱い者を「受け入れなさい」というのは、単にベテランは新入りに配慮せよということではない。自分と異なるものは切り捨てようとする態度を問題にしているのだ。

◇人を受入れることのできる最大の根拠は「3:神はこのような人をも受け入れられたからです」。私たちは互いにキリストの貴い犠牲によって罪から救い出され、買い取られた。そして今もその神の愛に包まれ、守られている。信仰の周辺的な事柄について固執し、対立し、裁き合うのは、神に先立って最終判断を下す傲慢な態度である。

◇彼/彼女をも愛し、そのためにキリストを差し出された神は、各人に別々のプランを持っておられる。「常に主を覚えてあなたの道を歩け」(箴言3:6)。決して画一的な道ではなく、「あなたの道」と言われている。神は各人にふさわしい道を備えておられる。人の生き方を安易にさばいたりするのは、神の事業にあらさがしをすることだ。私たちの教会では「信仰の一致が生活の多様性を生む」ということを大切にしたい。信仰の一致を求めない宗教は、生活の一致を要求する。本当の信仰による自由を得ている人は、柔軟に他者を受け入れ、多様性を喜ぶこともできるはずだ。

◇ルターの『キリスト者の自由』に、「キリスト者は何人にも従属しない君主である」と同時に、「何人にも従属する僕である」とある。私たちは「仕えられるためではなく仕えるために」(マタイ20:28)来られた主にならって、すべての人に仕える姿勢を持つが、究極は私たちはそのキリストの僕(4:召使い」)である。決定権はキリストにある。さらに「8:生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。私たちは生死を超えて主のものである。「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか」。「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります」(ハイデルベルク信仰問答)。

◇今日は振起日。聖餐をいただいて新たに私たち一人一人が十字架の主に召された僕であり、主のものであることを自覚し直したい。そしてお互いを、共に召された者同士として見出し、尊重し合いたい。

もくじへ 


2003.08.31 聖霊降臨節第13主日

「聞くに早く話すに遅く」 アモス書51824 ヤコブの手紙11927

    牧師 大村 栄

◇「22:御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と、信仰と行為の両立を語る「ヤコブの手紙」を、宗教改革者ルターは価値の低い「わらの手紙」と呼んだ。彼の宗教改革は、ローマ書にある「キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(322)を根拠として「信仰義認」、すなわち信仰によってのみ人は義(=正しい)とされると説いた。16世紀の教会は権力と財産を維持するために、信じるだけでなく行為が必要と教え、免罪符を売ったりしていた。ルターはこれに対抗(プロテスト)せずにおれなかったのだ。

◇パウロの「信仰のみ」は、信仰に入る条件に関する勧めである。ほかには何もいらない。一方ヤコブはすでに信仰に入った者について語っている。もし信仰が、愛と憐れみの行為となって実を結ばないならば、その信仰は空しいと言わぎるを得ない。実際は信仰と行為の両方を、偏りなく尊重するのが本来のあり方であろう。

◇信仰と行為が両立する生きた信仰を奨励したのは、メソジスト運動を展開したジョン・ウェスレー(17031794)。彼はパウロの「信仰義認」を継承しつつも、同時に信仰が生活面での実りを挙げることを大切にした。彼は社会問題にも関心を持ち、産業革命を迎えた18世紀イギリスの抱える様々な問題に積極的に参与した。

◇以来、メソジスト教会はそのような性格を持って世界に拡大した。後に、カナダのメソジスト教会が日本に最初に派遣した宣教師カクランから受洗した若者の一人が平岩愃保牧師。晩年に自宅を開放して日本メソジスト阿佐ヶ谷教会を開いた(1924年)。

◇戦時中に合同した日本基督教団は、1954年に各旧教派から代表が集まって、「信仰告白」を制定する。その際に旧メソジストの牧師たちは、告白の中の「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ」という「信仰義認」の条項に加えて、「この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果(み)を結ばしめ、その御業を成就したまふ」という言葉を挿入することを強く要求したという。この「義の果」が信仰の実践である行為に当たる。

◇しかしそういう理解をしても、言葉と行いが分裂し、実践に踏み出せない自分に気付かされる。このような自分の弱さから目をそむけず、少しでも変えられることを神に祈り求める者でありたい。それが真実に人生を生きることなのではないだろうか。


もくじへ
 


2003.8.24 聖霊降臨節第12主日

「神の子の声を聞く時」創世記42:29-38、ヨハネ福音書5:19-30

     伝道師 川俣 茂

◇父なる神は御子を愛している。父なる神はご自身の為さることのすべてを御子に示す。そして御子はその示されたことを為す。その中で最も大きな業は、 主が命を与えるという業であり、裁きを為す業である。

◇父なる神は死者を復活させて命を与える。これは旧約の教えでもある。しかしその命はあくまでも神が与えるものであって、御子が与えるとは語られては いなかった。父なる神が亡き者を手に取り、霊的な命によみがえらせて下さるとともに、御子も同様に死の状態にある者を取り、与えたいと思う者に霊的な 命を与えて下さるのである。

◇父なる神と御子とは一体である。それゆえ、裁きの権能が御子に与えられ、御子の言葉を信じる者は父なる神をも受け入れることになる。そしてそれに よって永遠の命が与えられる。永遠の命をいま持っていることの意義は、いま現在だけではなく、終わりの日にも裁かれることはない点にある。また主イエ スは終わりの日に、人々を裁く裁き主となる。「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」。霊的に死んでい る者は、神の子の声を聞くことによって生き、生かされることになるのだ。

◇それとともに2829節で、死者を墓から呼び出すのは、御子の声であると断言している。終わりの日に御子の声が復活の到来を告げる。死んだ人すべ てが呼び起こされる。しかしその時に、その人の信仰が本物かどうかが問われる。それに基づいて裁かれるかどうかも決まることになる。

◇私どもに求められていることは、創造以来の神との関係、これを受け入れて命を得るか、それを受け入れずに結果として裁かれることになるのかを選択し なければならない。人となられた神、イエス┬疋キリストを受け入れるか否かが問われている。確かに死によって人間の声を聞く耳は閉ざされる。しかし、神 の子の声を聞く耳も閉ざされるわけではない。神の子の声とは、すべてを造りたもうお方の子の声である。それゆえ、聞く力が与えられ、命に目覚めさせら れることになる。ルカ福音書の十字架の記事にあるように、死なんとする犯罪者であっても、主を心から受け入れた者は死に飲み込まれてしまっても、楽園 での命が約束され、神の子の声を聞くことが許されているのだ。

◇死んでも神の子の声を聞くことが許されている。そこに私どもの拠るべき真理がある。そこに私どもはすべてを委ねきることができる。信頼することがで きる。そこにこそ信じる者にとっての慰めがある。

もくじへ 


2003.08.17 聖霊降臨節第11主日

「敵が兄弟になるまで祈る」 哀歌32536 マタイ福音書53848

    牧師 石田 悦子

◇善いサマリヤ人のたとえは、「わたしの隣人とはだれですか」という質問の答えとして、イエスさまが話してくださったものでした。私は、「わたしの敵とは誰ですか」と考えさせられました。

◇詩編4110「わたしの信頼していた仲間、わたしのパンを食べる者が、威張ってわたしを足蹴にします」。詩編551314「わたしを嘲る者が敵であればそれに耐えもしよう。わたしを憎む者が尊大にふるまうのであれば彼を避けて隠れもしよう。だが、それはお前なのだ。わたしと同じ人間、わたしの友、知り合った仲」。ここでは、敵はもっとも近くにいる同胞が変質したものです。

◇悪魔は、思い上がって堕落した天使であり、主イエスを裏切ったのは12使徒の一人のユダでした。敵は兄弟との関係が悪い方向に変化したものです。兄弟や友が敵に変化することもあるし、敵が友や兄弟に戻ることもあります。善いサマリヤ人のたとえは、関係が悪くなっていた人々の中で行われた親切でした。

◇敵が兄弟に戻るのは、キリストの宣教・伝道においては日常的におこりました。その代表例がパウロです。パウロは、ステファノというキリストの兄弟が迫害にあって殺される時、殺す側にいた人です。そして、ステファノの殺害に飽き足らず、キリストの弟子を捕らえることには熱心な人でした。明らかにパウロは、キリスト教会の敵でした。しかし血筋からいえば兄弟といえる人でした。キリストの弟子たちは、パウロの熱心な追跡を恐れました。その追跡の途中、パウロは復活のキリストに出会い、「なぜわたしを迫害するのか」と語りかけられ、キリストの弟子に変わりました。180度の転換がおこりました。パウロは、キリストの敵から使徒に変わりました。敵が友に変わると、かつての同胞から裏切り者と思われます。パウロは、伝道旅行のあちこちで、かつての仲間からひどい迫害を受けるようになりました。

◇実際の戦争で敵を愛したら大変です。その人は同胞からは敵のスパイだと思われます。しかし、歴代のキリストの弟子たちは迫害する者のために祈りました。十字架の上の主イエスが祈りました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書2334節)そして、ステファノも自分に石を投げている人のために祈りました。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録760節)。この祈りの先に、パウロの回心があります。祈りにより、神が敵を兄弟に戻してくださったのです。もともと父なる神から創造されたのですから、敵がいるのは不自然なのです。父は、敵が兄弟に変わる祈りを待っていてくださいます。


もくじへ
 


2003.8.10 聖霊降臨節第10主日

「もう罪を犯してはいけない」 創世記2:1-3   ヨハネ福音書5:1-18

    伝道師 川俣 茂

◇イェルサレムのベトザタの池。そこに38年間も病に苦しめられている男がいた。どんな策を講じても癒されることはなかった。

◇主イエスはこの男に「良くなりたいか」と問を発する。他のいやしとは異なり、このいやしは主が主導権を握っていたことが示されている。

◇この男に対し、主は「起きよ、床を担いで歩け」と命じる。我々はいやしの前提として信じる、あるいは信仰を告白することが必要ではないかと考えるこ とがあるが、この例では必要とされていない。救いがすべての人に開かれていることを示しているのにほかならない。
◇この出来事が起こったのは安息日であった。安息日とは本来、神がすべての創造の業を離れ、安息された日である。神の日・主の日である。しかし、律法 の厳守という観点から、次第に安息日の本来的な性格が見失われてしまったのである。

◇ユダヤ人たちは、このいやされた男に対し、この日が安息日であり、男の為した行為(床を担いで歩いた)が律法に抵触していると告げた。このことに驚 愕した男はすべての責任を主に負わせようとした。

◇主は後に神殿でこの男に出会い、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない」と語る。このいやしは永久的なものであることを示し、それ ゆえに以後、罪を犯してはならないと命じるのだ。その結果による永遠に続く滅びの方が、肉体的な滅びよりもはるかに重大な事態であった。

◇この一連の出来事によって、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」という言葉、そして自分自身が安息日の主であるとい う真理が引き出されることになった。神は休むことなく働いておられる。それゆえ、子なる自分も働く。安息日が父なる神・子なるキリストの働きに干渉す ることはできない。

◇しかし、何を語ってもユダヤ人にとって主の言葉は神を冒?するものでしかなかった。やむなく主は反論されたが、結果としては祖先の律法を破る者とし て非難され、それは同時に、十字架への道を歩むということも意味していた。

◇男に起き上がって歩き出す力を与えたのは、主の権威ある言葉であった。律法だけでは人を救うことはできない。と同時に、何よりも14節の言葉によっ て、主は我々の肉体的な健康よりも霊的な生活、霊的な意味での健康に心を砕いてくださるお方であることが示されているといえる。

もくじへ 


2003.08.03 聖霊降臨節第9主日

「してもらいたいと 思うことを人にも」 レビ記19918ルカによる福音書62736

   牧師 大村 栄 <平和聖日>

2728「憎む者に親切を。悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈れ」。相手の態度に応じてではない、積極的な愛の行為が命じられている。32「罪人でも、愛してくれる人を愛している」。この「罪人」とは、神との関係を大切に考えない人々のことだが、世間一般の常識を象徴している。昔から一般約に社会秩序の親範とされてきたのは、ハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」であろう。「同害報復法」と言われるこの制度は、報復を合理化、制度化したものだ。人類社会の秩序を保つ原則は、報復の正当性だということになる。やったらやられる、だからやらないという規準で規制しようとし、しかし親制しきれないできたのが人類の歴史である。

◇主イエスの示す新しい規準は、「31:人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という「黄金律」Golden Rule。相手の出方に応ずるのでなく、積極的・自発的に行う善は、相手が受けとめてくれるとは限らないから勇気が必要である。しかし神が見ておられ支えて下さるとの信頼によって可能となる。「35:人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」。

◇今日は平和聖日。「平和を実現する」(マタイ58)行為にも勇気が要る。相手の出方次第と考え、報復の正当性を主張する社会では、この勇気は育てない。「我々が再軍備しないと主張するためにはいかなる根拠があるか。その一つは神こより頼んで絶対平和に立つことを決心する国民に対しては、いかなる外国の軍隊も侵入して来ないであろう、神は神を信じる者を捨て給うことはないであろう、という信仰であります。これは、神の守りを信ずる絶対信頼から生ずる態度であります」(矢内原忠雄「聖書から見た日本の将来」1951年)。安全だったら神を信じるのではない。相手が好意的だと分かったら善を行うのでもない。勇気を出して積極的に、神の見守りを信じて、善を行い、平和を造り出す者になりたい。

◇「善いサマリア人」は傷ついた旅人を預けた宿屋(教会)に「帰りがけ」に再び来る。その時まで教会は、世の課題に関わる委託を受けている。消極均・防御均な関わりでなく、積極均で自発的な、「してもらいたいと思うことを、人にも」行うような関わりをしていく勇気を、「再び来られる主」を見上げる信仰によって与えられたい。


もくじへ
 


2003.07.27 聖霊降臨節第8主日

「愛されてこそ愛せる」エレミヤ書3131-34、ルカ福音書73650

          大村 栄 牧師

 ◇ファリサイ派のシモンの家に主イエスが客として招かれていた.、宴席の設けられた中庭には誰でも自由に入ることができ、一人の「罪深い女(娼婦)」も主の言葉に聞き入っていた.その内に彼女は「38:後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」.洗足や塗油は最大級のもてなしの行為だが、シモンはこれらを怠った.招かれざる客である女だけは、心底この方をこの方を自分の中に迎え入れ、この方を「主」として迎えたいとの熱い思いに満たされたのだ.

 ◇彼女にそんな決断を与えた主の言葉は何だったか.そのヒントとなるのは主が語られたたとえ話し.50050デナリオン(約30030万円)それぞれ借りた人が、どちらも帳消しにしてもらった.42:二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」.もちろん多く赦された方だ.この借金は神に対する罪を象徴する.人間に内在しながら人間をゆがめる罪は、これを罰する立場にある神に赦すと言われて始めて解決する。そんな話しを開いていた「罪深い女」は、赦しの本質を始めて知って涙したのだ。

 ◇シモンは、「39:この人がもし預言者なら自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ.罪深い女なのに」と思った.彼はファリサイ派らしく、この女の罪を忌まわしい汚れと考え、主イエスは罪を指摘し、批判する立場にある「預言者」のはずなのに、汚れた女の接触に寛容すぎると思っている.しかしイエスの立場は少し違う.罪を批判する面もあるけれど、それを超えて赦しを語る.その赦しに包まれて、罪人が自分の罪を直視し、克服して生まれかわるようにと促してくださる.借金のたとえで、貸し主のみが借金を帳消しにできるように、神の前での罪は、神とその独り子のみがこれを赦すことができるのだ.

 ◇エレミヤ書31章は「新しい契約」と呼ばれる.「34:わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」.その「新しい契約」のしるしがイエス・キリストの到来にほかならない.深い罪の自覚を持つ女は、主の足もとにおいてこの方の到来の意味を感じ取り、感謝して愛の涙を流した.「42:二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」.「どちらが感謝するだろうか」ではない.その後の彼女については不明だが、多く赦されたことによって多く赦すことができる人に、多く愛されたことによって神を多く愛し、人を多く愛する者になっていてくれたら、と思う.
   

もくじへ 


2003.07.20 聖霊降臨節第7主日

「キリストの出番」サムエル記下1215b23、ルカ福音書84056

          大村 栄 牧師
   
 ◇会堂長のヤイロは、会堂を追われた主イエスに、自分の立場も忘れてひれ伏し、一人娘の癒しを求めた。その癒しのために赴こうとする主イエスを群衆が取り巻き、その中から長血をわずらう女がそっと近寄った.この病は不浄であるとして、礼拝はもちろん、友人との交わりにも入れなかった.からだの病である以上に心の痛みでもあったろう.讃美歌300番の3節「こころもからだも病めるときに、御袖にふれなばたちまち医えん」。すがる思いで主イエスの服のすそに触れそして「たちまち医」えた.

 ◇主イエスは「わたしに触れたのはだれか」と、名も告げずに退散しようとする女を追い求めた。主は癒しだけにとどめず、さらに踏み込むことを求める.弟子たちはそれを理解しなかった.私たちも奇跡(=御利益)こそが「救い」であると思っている.「重い皮膚病」を患う十人をいやす記事(ルカ171119)の中で、癒されたのは10人だったが、完治を認定された後、戻ってきて「神を賛美」したのは1人だけ.この1人に対して「あなたの信仰があなたを救った」と言われた.残る9人は「癒され」たけれど「救われ」てはいないのだ.

 ◇キリストの宣教の中心は「癒し」でなく「救い」である.救いとは神との関係の崩れを回復し、自分が神に造られ、生かされてもいる者に相応しく生きるようになること.それを実現するために神はキリストを世に送り、十字架の購いによって関係を回復しようとされた.そうした神による関係の回復への招きに応えることが求められている.長血の女も主の招きに応えて「47:震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した」.彼女は主を信じて、過去も現在もすべてをみ手に委ねた.すると主は言われる.「48:娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」.「力を捨てよ、知れわたしは神」(詩編4611)招きに応えてすべてを委ね、まかせきること.それが「信仰」であると言われる.

 ◇長血の女をみている内に会堂長ヤイロの娘は死んでしまった.「この上、先生を煩わすことはありません」という状況でも、主は彼の家に行き、「娘よ、起きなさい」と呼びかけると娘は起き上がった.このような人間の手の及ばなくなったところにこそ「キリストの出番」がある.死後の事柄にも唯一手を差し伸べることのできる方を信じる信仰によって、神との交わりに引き戻され、「あなたの信仰があなたを救った.安心して行きなさい」と告げられたい。

もくじへ 


2003.07.13 聖霊降臨節第6主日

「小さな者の一人まで」エゼキエル書341122、マタイ福音書181020

          大村 栄 牧師
   
 ◇前半「迷い出た羊のたとえ」で、迷い出た羊はわずか一匹でも、羊飼いはこれを軽んじない.10:「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」。ルカ福音書1537に同様の並行記事があるが、一匹がいなくなったことに気づいた時、羊飼いが残り99匹を残しておいた場所が、ルカでは「野原」、マタイでは「山」。

 ◇マタイで山と言えば58章の「山上の説教」.山の上で弟子たちに集中的に教えが語られた.17章では「山上の変貌」.山の上で主イエスの姿が変わって輝き、神の子であるということが明らかにされた.そういう聖なる場所、そして学びの場所.これは「教会」を暗示している.羊の群がここに集められ、神の民、神の家族として共に暮らす。そこから迷い出る羊がいた時には、どんな弱い人でも、一人一人を大切に扱い、山である教会に戻してあげる.それが今日のテキストの構造的な主題である.

 ◇「つまずきは避けられない」世にあって、羊飼いなる主イエスは、つまずき倒れる弱い者を一人一人訪ねて、神の家族なる教会へと導いて下さる。そういう主の委託を覚え、私たちはその手足となって働こう.

 ◇今日おこなう地域別一斉集会の原点は、メソジスト教会の「組会」であり、その起源は18世紀イギリスのジョン・ウェスレー.彼は神の言葉を求める者がいればどこへでも行って語ろうとした.そのような伝道への熱意を実現するために作られた制度が「組会」.小さな者の一人にも福音が届くことを願って、この制度を大切にしたい.

 ◇教会が語る福音の究極は、【キリストの購いによる罪の赦し】である.「18:あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」.これは人間を罪から解放する(赦す)か否かという重大な問題を指す。教会が赦しを取りつがないならば、天においても解放を得ない.「19:あなたがたのうち二人が地上〈教会〉で心を一つにして(罪の赦しを)求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」。ここに教会の権威と、重大な責任がある.

 ◇小さな者の一人でも、その人の救いと赦しのために共に祈り行動する。教会はそういう機関である.機関とは「個人または団体がその目的を達する手段として設ける組織」(広辞苑).教会は手段であって、それ自体が目的ではない.神の目的に添って機能する組織でなくてはならない.すべての者が与えられた命を豊かに生きることを望んでくださる神の目的に仕えよう.
 

もくじへ 


2003.07.06 聖霊降臨節第5主日

「平和があるように」詩編12289、第一コリント 317

          石田 悦子 牧師
    
 ◇キリストの使徒パウロの願いは、人々が争いをやめることです.霊による啓示が大事でありながら、わたしはあなたがたに肉の人に語るように語ったと反省していまいます.かつて一緒にいた頃は、霊の人に語るようには語ることができなかったので、今この手紙で語り続けるのです.

 ◇争いをやめさせようと語り続ける姿は、ルカ福音書15章の放蕩息子と真面目な息子の不和の中にいる父親の姿のようです。父親は二人の違う性格の息子を、ひとつの食卓に祝宴の席につかせようと苦労します.出ていった息子が帰ってきたことを無条件に喜ぶ、父親のやり方に不平を言う上の息子のところに出かけていき、説得します。生き方が違う、ふたつの陣営のあいだを行ったり来たりして、争いをやめるように語り続けます.和解の願い、平和の願いは、父の願いです。そして、放蕩息子のたとえの結末は、ありません。兄が弟をゆるし、自分の態度を反省し、共に祝宴の食卓についたとは語られていないのです.ここで、たいがいの親は、もう喜ぶことはできません。

 ◇兄弟の間で争いがある以上、考えます。自分の育て方が間違っていたのではないか.そうやって心を痛めているのは、息子の父親であり、理解されない神であり、十字架につけられたキリストであり、あなたがたのうちに住んでおられる聖霊なのです。

 ◇兄弟の間の争いは、いったん建てた神の家を火のように燃え尽くしてしまいます。イエス・キリストを土台に家を建てることは、ゆるしあいながら家を建てることです.性格の違い、立場の違い、趣味の違いを超えて、一致にいたる力は、愛の力です.兄弟の間の争いを、鎮めようと語り続けられるこの手紙には、キリスト信仰の大事なことがすべて含まれます.キリストの十字架以外何も知りたくない、と語り始め、信仰があっても愛がなければ何にもならないと語り、キリストの復活がなければ、あなたたちの信仰はむなしいのだと語るのです.信仰という言葉さえ、キリストの十字架、キリストの復活、神の愛の前には、かすんでしまうのですから、ましてあなた方の間にある争いの原因である事柄は・・・という思いが手紙からあふれ出ています.

 ◇争いは、神の子イエス・キリストを悲しませます。そのことを、わたしたちの心に住んでおられる聖霊が教えてくれます。心の平和は、争いのあるところにはありません.そして、人をゆるせないときも平和はありません.そんな時は、心の中に住むキリストを証しする聖なる塞が教えてくださいます。心の中に響く、良いすすめに従って生き、平和をつくりだすもの、キリストの子、神の子に成長していきたいと患います。
     

もくじへ 


2003.06.29 聖霊降臨節第4主日

「はっきり言っておく」民数記2149、ヨハネ福音書31-15 

          川俣 茂 伝道師
  
     
 ◇ある夜のこと、ニコデモという人が主イエスのもとにやって来た。ニコデモの問に対し、主は直接応答せずに、すぐに核心となることを語る.ニコデモが問わんとしていたことは、主イエスが語らんとしていることでもあった.しかし、ニコデモは主の語っていることがわからなかった.

 ◇「新しく生まれる」ということは人間の側の努力では為し得ない。と同時に神の賜物であるイエス・キリストを喜んで受け入れることでもある.それは人生の内的な意味に於ける180度の方向転換であって、闇から光へと移される出来事にほかならない.

 ◇ニコデモの困惑(9節〉に対する主の言葉は大変に重要である.「新しく生まれる」ということから、「主イエスを信頼する」ということが強調されている.主は「地上のこと」を証ししたのだが、信じてもらえなかった。主は天から来たお方である。しかし、天に上った者は誰もいない.天に上ろうと思うことは『イザヤ書』14章の「時の子」のように真に罪であった。確かに天に上ることは不可能だとは言い切れない.しかし、それは「霊によって生まれる」ことによってのみ可能となるのであって、「人の子」なくしては為し得ないものである.

 ◇主は『民数記』21章の「青銅の蛇」の物語から、ご自身の死の目的を示そうとしている。十字架上に高く上げられるだけではなく、荘厳に高く上げられることをも指している.それは信仰ある者の目には、至高の栄光であるだけではなく、いまも栄光の姿である.なにより主の死の目的は信じる者に命を与えることであった.

 ◇この31-15の主の言葉には3回、「はっきり言っておく」が入っている.そしてそれに続いて重要な真理が語られていることに注目。しかし、2人の会話はかみ合っていない.聴くには聴いているが、理解できていない.これは何もニコデモだけではない.弟子たちもそうであったし、今日の私どもにも共通しているかもしれない.

 ◇この福音書ではこの後、ニコデモは2回登場する(7章・19章).変えられたニコデモの姿を見ることができる.主の言葉は聖書の働きによって、むなしく帰ることはなく、それを成し遂げる力を持っている.

 ◇私どもには厳しい現実があるかもしれない.思いもよらぬ出来事があるかもしれない.しかし、「新たに生まれる」ことによつて、また神の憐れみによって慰めが与えられることがある.ここにこそ、信じる者の慰めがあり、希望がある.

もくじへ 



2003.06.22 全家族礼拝

「信じること」ヘブライ書1117
「信じてふみだす」ヘブライ書11816

          大村 栄 牧師

 ◇「1:信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」.自分には「見えない」けれど、神はすべてをご存じだから大丈夫、と信じる心が信仰.「2:昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」.例えばノアは「7:まだ見ていない事柄(大洪水)について神のお告げを受けたとき」に、すべてをご存じの神さまがおっしやるのだからと信じた.「神さまください、信じるカを」(ようじさんびか).

 ◇カインとアベルはアダムとイブの間に生まれた兄弟、神への献げ物をめぐってけんかをし、兄のカインが弟アベルを殺してしまう.「4:アベルは死にましたが、信仰にょってまだ語っています」.信じて生きた人は、たとえ悲惨な最期を迎えても、その信仰は空しく終わらない.「5:信仰によって、エノクは・・・天に移されました.神が彼を移されたので、見えなくなったのです」エノクは若くて死んだ.人の目には無念な死に方に見えても、神の世界にその人の存在の意味があって「移された」のだ.

 ◇「8:信仰によって、アブラハムは、・・・出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」.彼の生涯は決して偉大ではない.弱さを持った人だけれど、聖書はアブラハムを「信仰の父」とする.信仰で大事なのは失敗しないことや、罪を犯さないことではなく、ただ信じて従うこと.彼は「信仰によって」、「行き先も知らずに」未知の土地へと旅立つことができた人だった.

 ◇「3:信仰によって、わたしたちは、この世界が神の青葉によって創造された」ことがわかる.どんな未知の土地へ赴くとしても、そこも必ず神の世界の一部.どこでも、どんな時も、神を信じて歩むことができる.私たちにとって最も未知の土地とは、死後の世界と歴史の終わり.これに閑しても、「8:行く先を知らないで」旅を続けた信仰の先達たちに学ぶことができる.

 ◇「13:この人たちは皆、信仰を抱いて死にました.・‥自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表した」.よそ者とは、故郷を目指して旅を続ける人。神さまの約束された故郷に到達するのはまだ先だけど、そこに最後の目標があることを知り、希望を持って旅を続ける旅人たち.途中にアベルやエノクのような辛いことがあっても、アブラハムのような失敗や不安があっても、最後に一番良い「16:故郷、すなわち天の故郷」が備えられていることを信じて踏みだすのである.

もくじへ
 



2003.06.15 特別伝道礼拝

「その話に聞き入っていた」ルカ福音書103842

          松居  直 先生
  
 ◇マルタとマリヤの話.ある人は話を聞き、ある人は話しを聞き流す、この違いはいったいどこからくるのだろうと、ある時期真剣に考えたことがあります.そして、聞く人はその人の中に、聞いた言葉と響き会う言葉を持っていることに気づきました。自分の中に受け皿を持っているのです。ですから、こどもの中に言葉の種を蒔くことはとても大事なことです.

 ◇ハイジは人の話をよく聞く子どもでした.その力は、聖書物語を読んでもらったことに由来します.語られた言葉に興味を持つと、子どもは文字を覚えます.そして今度は人に読んであげることができるようになります.ハイジは、目の見えなくなったおばあさんに讃美歌を読んであげました.おばあさんが涙を流して喜んでくれたので、ハイジもうれしくなりました.人は、自分の話しを聞いてくれる人がいることに喜びを感じます。聞いてくれる人が誰もいないとノイローゼになります.人の話しを聞くということは大事です.教会が、聞いてくれる場所であってほしいと願います.

 ◇赤ちやんを育てているお母さんの言葉は、無意識に語りかけているのですが、とても暖かいのです.皆さんは誰から育葉をもらいましたか.私は母からです.言葉をもらい、命をもらいました.命を支える言葉をもらい、自分を表す言葉、名前をもらいました.赤ちやんはお母さんの声が分かります.聞こえてくる方を頻繁に見ます.特にお母さんの口元をよく見ます.そしてその声を聞くと安心できるのです.語りかけられた言葉の力は大きいのです.命や言葉は、神さまが母親を通して下さったものです.しかし最近は、あまり語りかけないお母さんもいるようですが….教会は子育てに戸惑っているお母さんのために、開かれた場所であってほしいと思います.

 ◇言葉を身につけていくことは大切です.24才の子どもは、好きな本なら一言半句違わないで覚えます(俵万智さんの例).彼らは言葉を聞いてむさぼり食べます.喜びの言葉を聞いて、生きる力をもらっているのです.パウロ書簡は朗読されました.「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます」(?テサロニケ527).私たちも聖書の言葉を聞いて、むさぼり、命を得ましょう.「あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました.あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました」(エレミヤ書1516).教会の力に衰えがあるとしたら、それは聞く力の衰えに違いありません.

もくじへ 



2003.06.08 聖霊降臨祭礼拝

「聖霊による教会の誕生」創世記1119、使徒言行録2113

          大村 栄 牧師
   
 ◇「五旬祭」(ペンテコステ)の日、弟子たちは失意を抱えて集まっていた.主イエスを裏切り、我先に逃げ出した忌わしい経験を通して、自分の弱さを思い知らされた彼らが、共に座して祈っている.ここに聖霊が注がれる.カラの器には水が多く入るように、絶望の中にあった彼らには神のカなる聖霊が一杯に満たされた.そして「4:一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままにほかの国々の言葉で話しだした」.これが世界に教会が誕生した日である.

 ◇地中海から中近東にかけては、人種と言葉の坩堝場。使徒たちがそれらの言語を使い分けたのか.あるいはすべての人に共通する言語がここに開発されたのか。

 ◇創世記11章「バベルの塔」は自らを高め、神の領域に達しようという、人間の傲慢な企てだった.主はこの傲慢な試みに「待った」をかける.行き過ぎた文化に対する神の介入と阻止である.言葉が通じなくされたことによって工事は中断し、やがて塔は廃墟となった.同時多発テロの標的となったNY世界貿易センタービル崩落を、バベルの塔と関連して考えた人は多い.どちらも音葉の乱れによる騒乱だ.今こそ世界は言葉の混乱を正され、この混乱を招いた傲慢をうち砕かれなくてはならない。それについての希望を、私たちはペンテコステの聖霊降臨に見出すのである.
 ◇ペンテコステには、それまで破壊されていたコミュニケーションが聖霊によって再生した.使徒たちが「11:神の偉大な業を語る」という出来事において、言語の隔てが解消されたのだ.神のみ業を語る言葉には、言語の違いを越えたものがある.私はインドではヒンズー語の礼拝に出席し、タイの山奥の村ではカレン語の礼拝に出席した.神への讃美や祈りには、言語の違いを越えた信仰の一致によるコミュニケーションが存在するのを確信した.ペンテコステに起こったことは、「神の偉大な業」を告げる讃美と祈りの言葉は、言語を超えて人の心に伝わり、人の心を一つとすることが出来るという事実の証明だったのである.

 ◇それは人間の努力によって習得される言葉ではない.聖霊に導きによって与えられる言葉である.聖霊は天地創造において「土の塵」で造られた人間に注ぎ込まれた「命の息」である(創世記2章).私たちはもう一度、天地創造の始めに返り、神の息吹に生かされる者としての、被造物の原点としての自分自身を取り戻し、お互いを、そしてこの世界を取り戻したい.誰よりも神ご自身がそれを望んで下さっている.

もくじへ 



2003.06.01 復活節第七主日

「地の果てまで」マタイ281620,?コリント91923

          大村 栄 牧師

 ◇先週29日(木)はイースターから40日日に当たるキリストの 〈昇天日〉。これは使徒言行録13「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」を根拠にする。昇天によって主は、(1)天国の存在を保証し、そこへの道を開かれた.(2)時間と空間を超えてすべての人と共におられる方となった。さらに(3)紳の右に坐し、私たちの祈りをとりなして下さる.

 ◇昇天に当たって伝道への派遣がなされる。福音書が単なる伝記でなく、復活に及び、さらに復活後の派遣にまで及んでいるというのは、福音を信じて生きることと、それを宣べ伝えることとは一体であることを示す.伝道は困難なことである.特に身近な家族などに福音を宣べ伝えるのは最も困難だ。しかし伝えることと生きることは一体であるから、私たちが本当に福音に生きようとするならば、福音は自ずから周囲に伝達されていく.伝道は「道を伝える」と言うより、それ以前に私たち自身が「道を伝う」(生きる)ことであり、そうすれば自ずから「道は伝わる」と信じたい.

 ◇キリストの派遣命令をよく見ると、「弟子とせよ。洗礼を授けよ。教えよ」との三段階を踏んでいる。キリストの弟子とはイエスをわが主として従う者(キリスト者)である。~教徒や~主義者ではなく、キリストと共に生きることを望む人。この弟子になるために洗礼を受ける。パブテスマは聖霊の導きによって起こる主イエスとの出会いであり、その導きに身を委ねる決断であるが、これに続いてみ言葉の学びが行われる.それが「教えよ」.「洗礼を授けよ.そして教えよ」との順番を覚えよう。

 ◇時には疑いもあろう.「17:しかし、疑う者もいた」.この世の現実は別にある・・・と。主イエスがガリラヤ湖上を歩くのを見てペトロも歩き出した。しかし途中で「怖くなり、沈みかけた」(マタイ14)。信じて踏みだした時は歩けたのに、現実に目が奪われ、心が割れた時に歩けなくなる。疑いはそのように私たちの歩みを妨げるものであるが、そういう者にも手を伸べ、「18:イエスは、近寄って来て」下さる。

 ◇「19:あなたがたは行って、すべての民」に宣べ伝えよと、地の果てまで送り出されるのだが、ルオーの絵画「郊外のキリスト」に見るように、私たちの日常生活のすぐそばに、福音を必要としている魂がある。派遣されていこう。「20:わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」.

もくじへ 



2003.05.25 復活節第六主日

「新しい創造」イザヤ書402531,コリント?51721

          大宮 溥 牧師

 ◇阿佐ヶ谷教会の教師としての任を終えるにあたり、土の器としての欠けを思いつつ、主の導きによってその務めを最後まで果すことができたことを心から感謝している.私はキリスト教には縁のない家庭に育ったが、幼ない時から神秘荘厳なものへの畏敬を覚えてきた.「世界が造られた時から、目に見えない神の性質、神の永遠の力と神性は被造物に現れている」(ローマ120).

 ◇しかしこの神がキリストを通して、明らかに示され、確かな救いを与えて下さること、「キリストにある神」の福音に触れたのは、太平洋戦争後であった。あの時日本は焦土と化し、精神的にも民族神化の道がくつがえされ「地の基は震え動く」(イザヤ2418)状態であった.闇の中を手探りする思いで故郷の教会に行き「新しい創造」の福音を聞いた.社会もまた未成年の自分も、罪と壊滅の中に放り出されていたのに対して、それを今一度再生再起させる力がキリストを通して与えられているというのである.キリストが十字架と復活を通して、壊滅状態の世界を御自分に引き受け、これを清算し、更に復活の生命を私たちに与えて下さったというのである.「和解」(カクラゲー)(18節)は原語で交換を意味するが、キリストと私たちとの運命の交換によって、われわれは「新しく創造された者」(17節)とされたのである.

 ◇この福音によって新しくされ、伝道者として今日に至ったが、これを果すことができたのは、全く神の憐れみと導きである。ある挫折経験から悶々として夜を迎えた時、瀬戸内海の満天の星空に息を呑むような感動を覚えたが、その時「なんぢ眼をあげて高きを見よ.たれが此等のものを創造せしやを思へ」(イザヤ4026)と「なんぢ腰ひきからげて丈夫(をとこ)のごとくせよ」(ヨブ383)であった.私はこれを私への神御自身の呼びかけとして聞いた。天地の造り主である神が土の器をお召しになっている.だから一度や二度の失敗に挫折せず、立ち上って歩もうと決意させられた.

 ◇イザヤ書4031は、神が行き悩む人間に「仲間の旅人の足跡」(クレイブヘル)を示す言葉である。人生の厳しい局面に立たされて、雪原に放り出された様な人に、同じ場を旅した人の足跡が、行くべき所を示し、歩む力を与えてくれる.主はわれわれの旅仲間として、勝利の道を示して下さる.現代は何を土台として生きるか、土台のぐらついている時代である.主と結ばれて、「新しい創造」としての自覚を与えられこの福音に生き、この福音を伝えよう.

もくじへ 


2003.05.18 復活節第五主日

「真実のよそおい」申命記7611,ガラテヤ書32647

          大村  栄 牧師

 ◇ガラテヤ327「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。クリスチャンとは、裸の上に服を着るように、罪のからだめ上に「キリストを着る」人のこと。聖書に最初に登場する衣服は、禁断の果実を食べたアダムとエパが裸の腰を覆った「いちじくの葉」(創世記17)。神は彼らを罰して楽園から追放するが、その際に「皮の衣を作って着せられた」(同321).皮の衣はいちじくの葉よりずっと丈夫だ。罪を見逃さない正義の神は、同時に愛と憐れみの神である.

 ◇神の憐れみによって祝福の「29:相続人」とされた私たちだが、「1:未成年」、すなわち未完成であり、成人するまでは「2:後見人や管理人の監督の下」に置かれた。それは「養育係」とも呼ばれる「律法」のこと。「律法はわたしたちをキリストのもとへ導く養育係」(324)。律法とは多くの戒めで、人間はそれらによって整えられると言うけれど、実際はそれを完全に実行することは不可能で、むしろできないと知って萎縮するばかり.養育係がついていても、色々な迷信など、人の心を捕らえて離さない魔力のような「3:世を支配する諸霊に奴隷として仕え」る状態だった.律法は決してそれらからの自由を実現するものではない。

 ◇私たちが霊的に成長し、成人してそれらの諸霊から解放される前に、駄目になってしまいそうなのを見た神は、一つの決断を下された.それは御子を遺わして、私たちを未成年のまま、不完全なままでわが子とし、養子に迎えることだ。それによって私たちは神を「6:アッパ、父よ」と呼びことができるようになった。「7:あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です.子であれば神によって立てられた相続人でもあるのです」。かくしてアブラハム以来の祝福を、正統に受け継ぐ者として頂いたのである。

 ◇キリストを着るとはユニフォームを着て画一的な人間になることではない。むしろ人間は、裸でいるときに自信が持てず、周囲と同じであろうと自分をつくろうものである。しかし神からの新しい皮の衣としてキリストを着る者は、それによって初めて自らを正しく獲得し、自分を発揮できる.「キリスト者であるとは、人間であることだ」(ボンへツフアー)。このような神の愛に生かされている自分自身を大切にし、お互いを受け入れ合っていこう.キリストを着て「神の子」とされた者は、「28:キリスト・イエスにおいて一つ」とも言われる。「わたしにつながっていなさい」(ヨハネ15章、「ぶどうの木のたとえ」)。

もくじへ 

 


2003.05.11 復活節第四主日

「朽ちる食べ物のためではなく」出エジプト記16418,ヨハネ福音書63440

          大村  栄 牧師

 ◇出エジプト後に民は不平不満を言い出した.荒野の旅がこんな苦しいなら奴隷の地エジプトで死んだ方がましだった.「3:あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに」.モーセとアロンは言う、「8:あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ」.ただし主はそれを叱られるのではない.「9:主があなたたちの不平を聞かれたから、主の前に集まれ」と招集される.この集まりは礼拝だ.小言を言い合い、傷つけ合っている人間を、神はそのままで礼拝へと招かれる.礼拝は日常生活から離れて逃避するところではない.日常のあらゆる問題や悩みを携え行き、それらのただ中に神の支配があることを知らされるところである.

 ◇さらに神は言われる、「12:あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する.あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」.人生と世界のあらゆる事柄は、それらを通して神を知る媒介である.そして肉として「うずら」が与えられ、朝には「13:薄くて壊れやすいものが大地の霜のように」与えられた.人々は「15:これは一体何だろうと、口々に言った」.「何だろう」はアラム着で「マンナー」。そこから「マナ」と名付けられた.モーセは言う、「15:これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである」.

 ◇各人の一日に取る量は「1オメル(2.2リットル)」と規定された.がめつく多く取った者も、出遅れて十分に集められなかった者も、「18:量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた」.まさに各人に等しく与えられた恵みのしるしである.また、取っておいて明日食べようと思っていると、腐って溶けてしまう.しかし6日目に集めたものだけは翌日も腐らず7日日の安息日には常Iこ備えがあった.

 ◇日曜日は、出エジプトの民がマナを集めなくても必要なだけ与えられたように、私たちも自分たちのためにあくせく働くのをやめて、そうしなくても神に養われていることを知る日である.「わたしが命のパンである」(ヨハネ635)と言われたキリストを通して、‘神が今日ここに最高の食卓を備えて下さり、私たちを招いておられる.様々な問題や課題を携えてここに集まる私たちに、世界の創造主にして、その世界を独り子を賜うたほどに愛された神が、朽ちない食べ物を用意して待っていて下さる.

もくじへ 


2003.05.04 復活節第三主日

「心の目を開いて」イザヤ書5116、ルカ福音書243649

          大村  栄 牧師

 ◇復活の主はアパ・ルーム(屋上の間)に集まっていた弟子たちに現れ、「36:あなたがたに平和(シャローム)があるように」と言われた.これを亡霊かと思って恐れ、主の手足を見ても「41:信じられず、不思議がって」いた弟子たちに、主は「ここに何か食べ物があるか」と言って焼き魚を食べた。これは十字架の死によって中断された弟子たちとの食事共同体を回復することだった.エマオの宿でも食事を共にしたし、ガリラヤ湖畔でも弟子たちは復活の主と朝食を共にする (ヨハネ2119).この具体的体験によって、弟子たちは復活の主との再会を確信させられる。復活のキリストと食事を共にするということが、教会の「聖餐を中心とする礼拝」の意味である。

 ◇ただし、彼らはその食事を共にすることによって信じて立ち上がったとは書いていない.その後、言葉による説明が行われなくてはならなかった.「行為」の後に「言葉」が必要だった.エマオの宿では逆に、言葉による説明では理解できなかった弟子たちが、共に食卓を囲むことによって主イエスだと気づいた。

 ◇これらは礼拝をこ於ける「聖餐と説教」を表していると言える。礼拝は「神の言葉を中心とする」と同時に、「聖餐を中心とする」という二つの焦点を持つ。その具体的表現が礼拝堂の説教台と聖餐卓の配置に現れている。両者は同等に置かれるべきだ.

 ◇しかしそれ以上に大事なのは、主が「45:彼らの心の目(ヌース)を開いて」下さったという点だ.ヌースは多くの場合「心」 とだけ訳されパウロ書簡に多く見られる.神に喜ばれる心のありよう(ローマ122)や、キリストによって一つとなる心(第1コリント110)を示す.これらはいずれも、神との正しい平和な関係(シヤローム)が成り立ってこそ実現する.主イエスはこのシャロームを実現するために、十字架と復活によって、神との関係を乱す「罪」と、罪の結果であるとされる「死」に勝利されたのだ.

 ◇「48:あなた方はこれらのことの証人となる」。この証言は評論家的な証言でなく、復活のイエスの命が今自分の中に働いて生きていることを証言すること.そのような証言は、弟子たちが言葉と行為の両方を必要とした様に、私たちにはみ言葉と聖餐を中心とする礼拝から与えられる.それによって「49b:都にとどまっていなさい」という、最も困難な中への派遣にも従うことができる.どんな困難が待っていようと、そこに復活の主がおられ、「平和があるように(シャローム)」と語りかけて下さる.

くじへ 


2003.04.27 復活節第二主日

「主と共に歩む」列王記下7116、ルカ福音書241335

          石田 悦子 牧師

 ◇過ぎ越しのお祭りのために、多くの人々が遠くから近くからエルサレムに集まっています.そして、そのお祭りの最中に、主イエスは、十字架につけられて死んだのです。墓に納められた主の遺体はなくなっており、一部の女性の弟子が、主イエスは復活されたと言っていますが、そんなことは、故郷のエマオに向かう二人の弟子には、信じられません.失意のうちにエマオに向かって二人の弟子がゆっくりと気のすすまない調子で歩いています.

 ◇エルサレムには、主イエスの弟子仲間が集まっているのだけれど、もう見切りをつけて帰ることにしたのだろうと思います. ◇その二人に、復活された主イエスは、近づき、同じ歩調で歩いてくださいます.エマオに向かう二人は、主は死なれたが、復活はされなかった、と暗い気持ちでいたのですが、そこに予想も期待もしない復活の主が来てくださったのです.

 ◇十字架につけられたイエスは、知っている、そして墓に納められた主イエスの体がなくなっている、ということも伝え聞いた、しかし二人にとってそのことは、議論になるばかりでした.加えて、この二人は、幼い頃から聖書を、良く知っていた、しかし信じ希望することはできなかったのです.このエマオに向かう二人に、復活の主は、現われ、共に歩き、歩きながら、聖書の解き明かしをしてくださいました.

 ◇モーセと預言者というのは、旧約聖書のことです.主イエスは、モーセ五書のひとつの出エジプト記の12章以下に由来の説明がある過ぎ越しの祭りの期間に、十字架につけられて死なれたのでした.そのようなことを、丁寧に二人の弟子に説明されたのだと思います.

 ◇今日与えられた旧約聖書には、預言者エリシャの預言と成就の記事が出てきます。この中において、エリシャの預言を、信じることのできない王の側近が、登場します.希望し、信じることの大切さの反面教師になっています。

 ◇もう駄目だと思う状況の中で、主なる神は、人の予想や期待を超えて、救いの計画を推し進めてくださるのです.

もくじへ 

 


2003.04.20 復活祭礼拝

「よみがえりを信ず」ルカ福音書24112、第1コリント151220

          大村 栄 牧師

◇今日、日曜の朝、女たちは先週の金曜日に十字架で死に、葬られたイエスの葬りの仕上げをしようと、墓に出掛けた.しかしそこに主はおられず、み使いの「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」との驚くべき青葉を聞く。キリストは墓におられない。「生きておられる」のである.

 ◇「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」(?コリ1517).キリストが死んだのは私たちの受けるべき死というさばきを身代りに受けて、私たちを罪から解放し、同時に、罪の結果である死に打ち勝ち、私たちを死の恐怖から解放するためだった。だから、主を信じる者にとって、死はもはや恐怖でも呪いでもない。むしろ永遠の神の国を継ぐための勝利の凱旋である。ハレルヤ・コーラスを葬儀に歌ってくれと言い残した牧師がいた.「ハレルヤ」は、「主を讃美せよ」の意味。王の王、主の主なるキリストが、この世の国を御国に変え、そこを永遠に統べ治めたもうと歌う.死後の世界にこのような明るい希望を持つ時、人はこの世のいかなる試練にも立ち向かうことできる。

 ◇今日、信仰告白をしたHさんの動機の一つに、S姉(昨年11月逝去)の死と葬儀があった.大宮牧師の葬儀説教を通して、HさんはS先生の死への備えと希望の姿勢に感動した。死からの解放は、困難に直面する人にも、命の希望を回復させる。この神の力による新しい命と希望を得させるために、主イエスは復活されたのである.「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生れさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えて下さった」(第1ペトロ13・本日の礼拝招詞)。

 ◇涙の中に立ちすくんでいる人々を思う。先週15日で北朝鮮から帰国して半年になった曽我ひとみさんは、記者会見で「ばらばらになった家族を又一緒にしてくれるのはだれですか?そしてそれはいつですか?心からよろこびあえる幸せの日を一日でも早く私にかえして下さい」と訴えた.この苦しみから彼女を解放するためには、イラクと同じようにあの国を攻撃し、国家体制を破壊すればいいのか・・・。私たちが聖書に示されるいのちの問題に関する究極の解決は、いのちの充実を最も阻害する死そのものに勝利することである。今日、主イエスの復活された日曜日に、私たちも「よみがえりを信ず」との信仰告白を新たにしたい。

キリストは生きておられる.ハレルヤ!

もくじへ 


2003.04.13 棕櫚の主日

「ロバに乗る王」イザヤ書5315、ルカ福音書192836

          大村 栄 牧師

 ◇民衆が「ホサナ」の歓声を挙げる中、主は「ろば」に乗って今日エルサレムに入城された。このデモンストレーションは、ゼカリヤ書99の成就だ.「娘シオンよ、大いに踊れ.娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ.見よ、あなたの王が来る.高ぶることなく、ろばに乗って」.当時バビロン捕囚から帰還した民は、荒れ果てた祖国と廃虚となった神殿を目の当たりにした.預言者ゼカリヤは失望している同胞に、「見よ、あなたの王が来る」と希望を語った。その預言が520年後の棕櫚の主日に実現したのだ.私たち、教会に集う神の民の最終的な希望は、この「あなたの王が来る」という出来事である.「主の再び来たりたまふを待ち望」み、それに備えたい.

 ◇イスラエルの民が期待した王は、昔のソロモンの栄華を取り戻してくれる力強き王だったが、やって来たメシアは預言の通り、「高ぶることなく、ろばに乗って来る」という柔和な王だった.主が来られたのは滅ぼすためでなく愛するため、裁くためでなく赦すためだった.この人の思いと神の計画とのギャップ、食い違い・・・.これが今日棕櫚の主日に与えられるメッセージである。

 ◇そのギャップは、イザヤ書53章「苦難の僕の歌」のテーマでもある.「3:彼は軽蔑され、人々に捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている」。そんな悲惨な人を見た者は、「4b:神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ」と考える.しかし、「4a:彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」のだ.神のみ心と人の思い、その間にある深い溝を承知の上で、主は今日ろばに乗って入城された。この溝を埋めるために、いや自らをそこに埋めるために.「彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」のである。

 ◇昨年69日の特別伝道礼拝で船本弘毅先生(東洋英和女学院院長)より、「人の計画・神の計画」と題する説教を伺った.そこで取り上げられた聖書は箴言1921「人の心には多くの計らいがある.主の御旨のみが実現する」。人の計画と神のご計画との激しいギャップは、時として耐え難いものがある.特に人生の大きな試練の時にはそう感じる.しかしこのギャップに身を埋めて取りなして下さる方の存在がある.この分裂の溝に身を投じて、私たちの根本的な救いを実現して下さった主イエスの、その究極的な恵みの出来事を体験する今週を、感謝と献身の志をもって過ごそう.

もくじへ 


2003.04.06 受難節第五主日

「常に主を覚えてあなたの道を歩け」箴言3112、ヨハネ14:1-7

          大村 栄 牧師

 ◇新年度の教会標語として「常に主を覚えてあなたの道を歩け」(歳言36)が選ばれた.直前の5節には「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず」とある.「主を覚えて」とは、自分の知恵や能力に頼るのでなく、ただ「主に信頼し」て生きること。人間の知性や感性を否定する訳ではない。それらも神の賜物である.「頼る」は「もたれかかる」の意味で、自分の分別や判断力に依存し過ぎることを警戒する。「私にはできません」などの判断も得てして的外れ。自分自身よりも、創造主なる神の方が私たちをご存じなのだから.

 ◇6節後半には「そうすれば(主に信頼して歩くならば)主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」。広い雪原を歩く時は、足下だけを見ていると蛇行してしまう.遠くの山や高い木に目標を定め、そこを見つめつつ足を進めると、まっすぐ進むことが出来る.足下の分別や判断力に頼るのでなく、彼方に主がおられることを覚えて、ひとあしひとあし誠実に進んで行くのだ。

 ◇「道」と言えば連想するヨハネ146、「わたしは道であり、真理であり、命である」。主イエスは「訣別説教」において、 ご自分が天へ帰ることは「あなたがたのために場所を用意しに行く」ためだと告げ、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と身を挺して天国への道となって下さる.この招きに応えることが、人生最大の平安である.

 ◇それに先だって主は弟子たちに、「4:その道をあなたがたは知っている」と言われるが、トマスは「5:どうしてその道を知ることができるでしょうか」と食い違ったことを言う。「知る」という言葉の理解が違うのではないか。主イエスが言われるのは、知的に納得することではない.自分の「分別には頼らず」、主に信頼して歩む道であり、それならば必死にしがみついていなければならない道ではなく、神様が私をつかんでいて下さる。あなたがたはその道を知っており、すでにそこを歩いている。あなたの道は、神によって備えられた道だと教えられているのだ。

 ◇神は私たちが歩くそれぞれの道をご存じで、キリストにおいて共に歩いて下さる.そして地上の道の最後に、天国への道も開いて下さった。「常に主を覚えて」歩く我らの道は、天国に目標を据えた希望の道でもある。教会は、この道を歩く者同士が、支え合い、励まし合い、信じる喜びを分かち合う所だ。阿佐ヶ谷教会の新しい一年の歩みに、祝福を祈る。

もくじへ 


2003.03.30 受難節第四主日

「十字架の言葉は」エレミヤ92225、第1コリント1:18-31

          山本 信義 伝道師

 ◇「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(118).教会に十字架が高らかに掲げられ、召されて集う私たちがこの十字架を仰ぐ。十字架は教会のしるしだ。十字架が指し示す十字架につけられたキリストこそが、私たちにとっての神の力。このキリストを宣べ伝える言葉こそが十字架の言葉である。

 ◇この十字架の言葉が「滅んでゆく者には愚かなもの」と記される(1節).「十字架につけられたキリストは、異邦人には愚かなもの」と記される(22節).聖書が「愚かなもの」と記す言葉は「愚直」と訳されるような生易しい言葉ではない.「愚劣」さらには 「狂気」とさえ訳できる強い言葉だ.十字架刑は極刑である礎刑に他ならない.十字架という言葉は人々にとって耳障りで嫌悪の感情を惹き起こさずにはいられない言葉なのだ。決してこれを単なる符牒として捉えることは出来ない.

 ◇主イエスが受けられた十字架の死は、人間が自らを犠牲にして苦しむそのような英雄的な華々しい死や、私たちが倫理的な模範をそこに見出すことの出来るような死では決して無い。覆い隠せるものなら覆い隠してしまいたくなるような、残酷で惨め極まりない卑しむべき死を主は負われた.「このような最も惨めな死を遂げた方が救い主」。全く持って有り得ないことだ.この主の死を「蹟き(スカングロン.英語のスキャンダルの語源)」・「愚かなもの」と拒むことは容易いし、理にかなっている.

 ◇しかし私たちはどうだろうか.私たちが救われるなどということが有り得るというだろうか。聖書は27節から28節で、世の無学な者、世の無力な者、世の無に等しい者を神様は選ばれたと記す。コリントの教会に召された人たちを具体的に反映しているだろうが、それだけに留まらない。これこそが、私たちの姿だ.「無い、無い、無い」.全く神様の前に何も無い者.そんな惨めな者が選ばれ、召された者の姿だ.神の目からみた私たちの姿だ.このような私たちが、救われるなどということこそ、全く有り得ないことだ。

◇だからこそ、主イエスはあの「愚かさ」の極みの十字架に着いて下さった.主が負われた惨めさは私たちの惨めさ以外の何ものでもない。だからこそ私たちは十字架を掲げる。十字架を仰ぎ、主の十字架を誇りとし、十字架の主を宣べ伝える.十字架に掛けられたキリスト以外に私たちの救いは有り得ないのだ。

もくじへ 

 


2003.03.23 受難節第三主日

「わたしの十字架」イザヤ書637-14、ルカ福音書9:18-27

          大村 栄 牧師

 ◇「ペトロ、信仰を言い表す」という場面.イエスを「神からのメシア(救い主)です」と答える信仰告白に先立って、「イエスが一人で祈っておられた」(18節)とルカは告げる。信仰の決断はキリストの執り成しの祈りによって引き出される。しかし続いて主は、「この事を誰にも話すな」(21節)と弟子たちに命じる。当時の人々は「メシア」に祖国の独立を取り戻す英雄を期待した。しかし改革は一時的な回復でしかなく、やがて色あせる。病の癒しは大きな喜びだが、やがては肉体の限界を迎える。一時的な癒しより大きな喜びは、肉体の死が罰や滅びではないという事実を知ること。主イエスの禁止命令は、そのためだった。

 ◇それに続けて、「メシア」の本当の務めを語る.「22:人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」.「必ず~ことになっている」というのは、それが神の計画であって、必ず実現するということ。神は、頑固で神をも恐れぬ傲慢な私たちを見捨てない。神は民の立ち帰りを呼びかけ、待ち続けてくださる。その招き手として送られたのが、独り子キリストである。だから主は、自分から望んで十字架の道を歩くのではない。それが神の計画であるから服従する。そして言われた、「23:わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。イエスを「神からのメシア」と告白し、主の十字架が、自分を罪と死から解放するためだったと信じる者は、その救いの実現のために、十字架を背負うことが求められる.

 ◇平岩愃保牧師(当教会創立者)の娘婿である河上丈太郎氏は、1952年に日本社会党の委員長に選出された時の演説で、「自分に課せられたこの使命は私にとっての十字架だ」と言ったことから、「十字架委員長」と呼ばれた。「自分の十字架」は自分で探し出すものでない。イエスの十字架が神の計画であったように、私たち一人一人に相応しい十字架が、その人に負いうる十字架が上から与えられるのである。

 ◇「24:わたしのために命を失う者は、それを救う」。主イエスにならい、十字架を負って従うところに、命を最大に全うする道がある.「25:全世界」よりも重い私の命を意義あるものとするために、主は十字架への道を歩んで下さった.この主イエスを思いつつ、日々神から自分に課せられる十字架を背負って信仰の道を歩もう。その背後に、主イエスの執り成しの祈りがある。

もくじへ 


2003.03.16 受難節第二主日

「天からのしるし」出エジプト記81215、ルカ福音書11:14-26

          大村 栄 牧師

 ◇聖書の時代、原因不明の災いはみな悪霊の仕業と考えられていた.悪霊のねらいは、神にかたどって、神に向かって造られた人間の人間性を破壊することである。人間は神への信頼の中で、感謝と自由をもって生きるべく造られたのに、悪霊はこれを憎しみや不安に生きるものへと変えようとする.主イエスの使命は、この悪霊の計略を阻止し、世界と人間を神との正しい関係に立ち返らせることだった。

 ◇悪霊と闘う主イエスを見た人々は、「15:あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と批判するが、もしそうならそれは「内輪もめ」だと主は反論する。「16:イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者」もいた。「しるし」とは目に見える不思議な事象で、それによって主を信じる保証とすること。それは自分と主イエスの間に保証を置き、主体約直接的出会いを避けることである。教会の歴史やそれを生きた先輩たちなど、私たちを信仰に導くしるしは満ち満ちている。しかしそのしるしだけに留まる人は、信仰の傍観者にすぎない。その先に主イエスと自分との直接的な出会いを求めてほしい。

 ◇20:わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。モーセと魔術師が力くらべをする。モーセの力に降参した魔術師がファラオに「これは神の指の働きでございます」と言った(出エジプト815)。ここでの「指」は、本体である神のみ業を末端にまで実現する器として描かれているが、同時に指は何かを指すもの。伝道者を「神の指」と言うことがある。それ自体は不器用であっても、節くれ立っていたり、きゃしゃだったりするが、大事なのは指自体でなく、指し示す先。指を見ないで指の先にあるキリストを見てはしい.

 ◇21:強い人(=悪霊)が武装して自分の屋敷(=地上)を守っているときには、その持ち物(=人間)は安全である(悪霊にとって)。22:しかし、もっと強い者(=キリスト)が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配(=人間を解放)する」.キリスト到来と共に神の人類救出作戦が開始したのだ。その戦いの武器は剣でも弓矢でもなく、一本の十字架だ。

 ◇悪霊がはびこる世界の破れや悩みを、払いのけ、追い払うのでなく、これを全身で受けとめ、これを担ったまま十字架に死ぬことによって勝利された。この解放と救いのための戦いは今、十字架のふもとに立つ教会に託されている。

もくじへ 


2003.03.09 受難節第一主日

「本国は天」イザヤ書21-9、フィリピ書3:17-4:1

          須田 則子 牧師

  ◇「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい.」(フィリピ317)自分を完全と思うのでなく、不完全さを認める姿勢に倣いなさいとパウロは勧めました。彼のために死んでくださった主を仰ぐ時、「この方に従いたい。この方に倣いたい」との「志」がくめどもつきずあふれでてきました。パウロに倣うとは主に倣うことでした。

 ◇キリストに倣うとは謙遜に歩むこと。謙遜、よいものは全て神から来ます.実りを受けた稲穂が穂先を低く垂れるように、神から恵みを受けた人たちは、その身を低くします。主の十字架により神の恵みを知った人たちが謙遜な歩みを始めました.

 ◇この歩みとは逆に十字架に敵対して歩む者が多いとパウロは涙ながらに語ります.主の語られた御国の福音を信じない者は、この世のことしか考えられませんでした.

 ◇「しかし、わたしたちの本国は天にあります.」パウロは告げます.(20節)本国となる国籍は通常、出生地や住んだ実績など「過去」に規定されます。ですが主イエスは私たちが天に住むとの「将来」の約束に基づき、今、天の国籍をお与えくださいます。本国では争いもわずらいも憂いもありません。主の十字架がこのことをしてくださったからです。そうであるなら異国であるこの世において私どものなすべきことは、その主に倣い、天での生き方を指し示すこと、礼拝をはじめることです.

 ◇パウロはこの「将来」に希望をもっていました。キリストの栄光ある体と同じ形に変えられることです。復活された栄光の主は十字架の傷そのままでした。パウロは、神、隣人のために血を流すことをいとわない手、人の罪を心から赦し、犠牲となって十字架への道を行く足、欲望に飢え渇く腹ではなく、槍で刺された時、人々を聖め、糧となる血と水のあふれるわき腹に変えられたいと願いました.主はパウロの願いをかなえてくださいます。この体こそ天において永遠に生き続ける形です.死に勝利する完全な愛が全うされているからです。主は私たちをご自分と同じ形に変えてくださり、「よかった.本当によかった」と喜んでくださいます.この希望によって私たちは生きることができます.

 ◇パウロは、主の喜びとフィリピ教会の人々の与えてくれる喜びに満たされていました。誰もこの喜びを奪うことはできません。「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」(41

もくじへ 

 


2003.03.02 降誕節第十主日

「五つのパンと二匹の魚」イザヤ書41:8-16、ルカ福音書9:10-17

          大村 栄 牧師

 ◇主はご自分と弟子たちに追いすがってくる「群衆」を迎えて(マルコ634では「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」)、彼らに「神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」。神の国を仰ぐということは、自分の飼い主は誰か、自分は何につながっているかを知ること.それを告げることが本当の癒しになる.

 ◇やがて日が傾き、弟子たちは群衆を心配した.「わたしたちはこんな人里離れたところ(「荒れ野」)にいるのです」から。しかし主は、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われる.弟子たちは驚いた。男だけで5000人ほどいるのに「パン五つと魚二匹しか」なかったのだから。しかし主イエスはそれらを手に取り、天を仰いで祈り、「裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」.するとからし種ほどの小さな信仰が山を動かす(マタイ1720)ような驚くべき事が起こった.「すべての人が食べて満腹した.そして、残ったパンの屑を集めると、12籠もあった」と言う。

 ◇なぜこれが可能になったかは不明だ.ただキリストが中心にいて働かれる時、人間の予想や能力をはるかに超えた何かが起こるのだ。ただし主はそれを御自分で全部やってのけはしない.「~しかない」とつぶやく弟子たち、それと同様に、荒れ野に直面し、意気阻喪しているような私たちを敢えて用いて、主は恵みの御業をなされる。

 ◇満たされないものを抱えて主を追い続ける群衆を、主イエスは「50人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた.この頃から彼らは「群衆(オクロス)」ではなく「人々(民、ラオス)」と呼ばれている。「座る」はお辞儀をするように体を曲げることを意味する.拝礼の姿勢だ.彼らはもはやさっきまでの御利益を追究していた烏合の衆ではない.教会の鉄序に則って主の前にひざまづき、礼拝を捧げる神の民に他ならない.この「民(ラオス)」は「レイマン(信徒)」の語源である。食事への招きはすべての者に等しく注がれているが、それに応えた者は、主のみ前に深く額ずく礼拝者に変えられている.今日はTさんがその招きに応えて受洗した記念の日である。

 ◇飼う者のない、救いを求める群衆を、主は暖かく迎え、主の前に座る神の民と変えて下さる.そしてこの民を用いて、パンと魚の増加のような大いなる御業があらわされる.そしてこれを媒介する弟子たち、自ら荒れ野の試練におののく弱い者でありながら、これを担わされる弟子たちの働きを、教会は担っていく。

もくじへ 

 


 

2003.02.23 降誕節第九主日

「新しい革袋」イザヤ書58:3-8、ルカ福音書533-39

          大村 栄 牧師

 ◇主イエスとその弟子たちは、伝統的な宗教行為である断食を行わなかった.断食のような苦行は、これだけ苦しんでいるのだから、神は私の祈りに応えて下さるだろう、いや、応えるべきだと、神を自由に動かそうという傲慢。あるいはこうでもしないと、神さまは聞いてくれないという不安の現れである。しかし神は人間が要求し、強くアッピールしなければ目を向けて下さらないような方ではない.

 ◇神が独り子を世に下さったのは、人間の要求に応えてではなく、人間を救うにはこの方法しかないという、神ご自身の自発的なご決断による.私たちがなすべきは、この神の子の到来を、婚宴に花婿が到着した時のように喜んで迎えることである.「34:花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」.花婿を迎えたのにまだ断食しているとすれば、それは喜びの席を曇らせる失礼な態度だ。

 ◇苦行を必要とする<古い教え>に対して、どんな苦行(捧げもの)にも優るキリストご自身が犠牲の小羊となって下さったのだから、もはや人間の苦行はこれを必要としないという<新しい教え>。この新旧の対比に関して、「布切れ」と「ぶどう酒と草袋」のたとえがここに挿入されている.しかし本来のテーマは新旧の対立ではなく、「花婿が一緒にいる」という<喜び>と、「花婿が奪い取られる時」の<悲しみ>との対比なのである.

 ◇人々はしばしばキリストの教えを、<新しい教え>として捉え、それを古い布と縫い合わせようとして失敗してきた.あるいは<古い教え>と対立するもの、対立して当たり前のものとして捉えてきた.特に我が国では、伝統文化と鋭く対立することを福音宣教の宿命と考え、苦行のような信仰生活も、時にはそれが救いを得るために必要だと考えてきた面もある.だがこれからは対立ではなく、受け入れ合い、喜び合う時代でありたい.その喜びのわき出る泉を、私たちは「独り子を賜うた」神の無条件の愛と赦しの中に見出すのだ.これこそが教会が語り継いできた、そしてこれからも宣べ伝える教全の宝である.

 ◇「いつも喜んでいなさい.絶えず祈りなさい.どんなことにも感謝しなさい.これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(一テサ51618).「喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい.あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」(マタイ512・口語).

もくじへ 

 


2003.02.16 降誕節第八主日

「聞く耳のある者は」ルカ福音書8:4-15、エゼキエル3330-33

          大村 栄 牧師

 ◇先週は創立記念礼拝。79年に亘ってこの地で福音の種蒔きが行われてきた.「種蒔きのたとえ」で、「11:種は神の言葉」であり、蒔かれる土地とは、それを聞く人の心。「良い地」のほか、三種類の悪い地にまかれた.御言葉がしっかり受けとめられるのは、確率から言えば四分の一。福音の種蒔きの効率の悪さ、困難さがある。

 ◇ミレーの絵画「種をまく人」(Sower)では、農夫が手を振り上げ、ザアッと大ざっぱに種をまいている。上空には鳥が、農夫が去ったら種を喰ってやろうと待ちかまえている。「12:後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る」のを表しているようだ.「14:富や快楽」という茨もある.農夫は、こういう蒔き方では必ずしも全部の種が実るとは思っていない.しかしだからといって種蒔きをやめることはしない.たとえ効率は悪くても、きっと最後に収穫はあると信じて彼は種をまいている。

 ◇それはつまり、人間に「良い土地」と「悪い土地」があっても、「種まく人」=キリストは、何の区別もなく、どちらにも種を蒔いて下さるということだ.どんな「悪い土地」も、いつかきっとこれが「良い土地」になることを信じ、期待しておられる。主が「8:聞く耳のある者は聞きなさい」と「大声で」言われたのは、熱い招きを示すものだ。そういうキリストの愛と忍耐の中で、福音の種蒔きは行われていく。

 ◇「10:『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるため」という言葉には戸惑いを感ずるが、民の無理解という伝道の困難を言っているのだ.預言者エゼキエルの時代も同様だった。彼は紀元前6世紀末バビロンの補囚人となった同胞ユダヤ人たちに、神の民のアイデンティティーを取り戻して肴望を得ようと叫んだ。 しかし民は「31:あなたの言葉を聞きはするが、それを行いはしない。口では好意を示すが、心は利益に向かっている」。だがそれでも神の備えたもう終わりの日は近づいている。「33:そのことが起こるとき---見よ、それは近づいている---彼らは自分たちの中に預言者がいたことを知るようになる」.

 ◇終わりの日はいずれ来る.そのことを究極の希望として告げる福音に対して、「見ても見えず、聞いても理解できない」という反発が起こるのは運命的と言えよう。しかしそれでも、キリストの僕である私たちは愛と忍耐を持って種蒔きを続ける.地味な作業だが、私たちの教会もこのキリストの種まきの作業に参加し、そのステージとして用いて頂きたいと祈るものである.

もくじへ 

 


2003.02.09 創立79周年記念礼拝

「神の民」ヨシュア記1:1-9、第1ペトロ2:1-10

          大宮 溥 牧師

 ◇阿佐ヶ谷教会は1924211日を創立記念日とし、日本メソヂスト教会第二代監督平岩愃保牧師によって「エス教友団」、朝谷教会として出発した.大村勇牧師は「阿佐ヶ谷にある神の教会」と呼ばれた.ここには、教会は全世界を通じて一つであって、各地の諸教会は一つの教会がその地域に露呈している姿だという信仰が表わされている。教会はキリストによって創設され、全世界を通じて一つの群として、ペンテコステから終末まで歩みつづける「神の民」なのである.

 ◇ペトロの第一の手紙では、教会は「各地に離散している選ばれた人たち」(11)と言い表わされている.「離散した人たち」はギリシャ譜で「デイアスボラ」であり、本国を離れて異国で異民族の間に住むユダヤ人のことを指した.神の民がそのように人々の中の少数派として住むのは、神が人々の間から彼らを選んだからである.「あなたがたは選ばれた民、聖なる国民である」(29).聖とは「神のために取り分けておく」という意味である.神はわれわれを人々の中から選び出し、御もとに召して養って下さるが、次に神のもとからこの世へと御派遣になる。教会は「集められた教会」として礼拝と交わりを持ち、「散らされた教会」として、この世に「地の塩、世の光」としてつかわされ、伝道と奉仕にあたるのである.

 ◇神の民として生きるキリスト者は「生まれたばかりの乳飲み子のように混り気のない霊の乳を慕い求めなさい」(2節)と勧められる.「霊の乳」は「御青葉の乳」である。洗礼は人間の霊的誕生、再生であるが、その新生は過去の一度の出来事でなく、日々新たに起らなければならない.それは神の言葉を新しく聞き、生ける神と交わることによって与えられるのである。阿佐ヶ谷教会の歴史もこれによって導かれてきたのである.

 ◇御言葉によって教会はキリストと固く結びつき、キリストを土台とすることによつて「神の家」として築き上げられる(45節).キリストが人間を生まれ変らせ堅く立たせる土台となって下さった様に、教会はこの世に福音を宣べ伝え、神の命と愛を運ぶことによって、この世を生かす神の家なのである.平岩牧師と若き日の交わりを持たれた植村正久牧師は、教会を「福音の干城(楯と城)」、「社会の木鐸(警告を発し教え導くもの)」と称した.われわれは主の力を受けてこの使命を果さなければならない.主はかつてヨシュアに語られたように「強く、雄々しくあれ」「あなたがどこへ行ってもあなたの神、主は共にいる」と我々にも語られる.

もくじへ 

 


2003.0202 降誕節第六主日

「主よ、献げます」ハガイ書2:1-9、ルカ福音書211-9

          大村 栄 牧師

 ◇神殿で「レプトン銅貨二枚」(約150円)を献げる婦人を見て、主イエスは言われた.「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」(34節).

 ◇彼女は持ち合わせたレプトン二つの内、一つを残すことも出来たのにそうせず、二つとも捧げた。すなわち自分の持ちものをゼロにして、ただ将来を神に委ねきって生きようとする姿勢を、主は高く評価された.私たちは様々な方法で自分の生活の基盤を確保し、しかしそれだけでは不安なのでプラス・アルファで神を信じようとしてはいないか.自分の退路を断ち切って、神に委ね切るという信じ方が必要である。

 ◇自分のすべてを神に委ねる思いでやもめが献げた献金は、神殿の増築工事のために用いられた.弟子たちがそのヘロデの神殿に感激していると、主は「6:あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と言われた.その言葉の通り神殿は70年にローマ軍によって破壊される.〕主イエスは建物だけでなく、あらゆる地上の物事に目を奪われ、それらを頼みとする私たちに対する警告を発しておられる.

 ◇ハガイ書はバビロン補囚から帰還した民が、ダピデ家の血すじのゼルバベルを指導者に頂いて、神殿再建に取りかかる記録.様々な障壁に直面する民を、神は預言者ハガイを通じて励ます.最大の障壁は民自身の、神殿を捧げようという信仰甲熱意の欠如.彼らは自分たちの生活が改善したら、次に神様のことを考えようとしていた。そんな生き方をするなら、「食べても、満足することなく、飲んでも、酔うことがない.衣服を重ねても、温まることなく、金をかせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるようなものだ」〈16)とハガイは告げる.

 ◇あの貧しいやもめがしたように、自己中心を捨てて神にすべてを委ね、献げる心の上に主の喜びたもう神殿が建つのだ.ソロモンの神殿、ゼルバベルの神殿、ヘロデの神殿にまさる神殿、どんな時代の嵐にも負けない、信仰の砦をたてよう.「この場所 (新しい神殿)にわたしは平和を与える、と万軍の主は言われる」(29).私たちはその<内なる宮>をもって「世の終わり」(28)に臨むのである.それ以外のものはいつでも手放せるように心掛けよう.いつでも自分のもっているレプトンを二つとも、主に捧げる覚悟をもって、信仰生活の歩みをしていきたい。

もくじへ 


2003.01.26 降誕節第五主日

「逃れる道をも備えてくださる」民数記9:15-23、第1コリント101-13

          大村 栄 牧師

 ◇出エジプトして荒野を旅するイスラエルの可動式聖所である「幕屋」を、神の臨在を象徴する「雲」が覆う間、民は何ケ月でもじっと待ち、それが離れて天に昇ったら、たとえどんな時でもすぐに出発した.早く進みたくても留まらされ、のんびりしたくても急かされる.人間的な都合や好みは退けられ、ただ神に従ったのだ。

 ◇パウロはこの体験を追想して言う。「1:兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい.わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け…」.皆で同じ信仰生活を営み、皆で同じ試練を体験し、同じ慰めや養いを受けてきた.「5:しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました」.彼らの犯した過ちは、「7:偶像礼拝、8:みだらなこと(姦淫)、9:キリスト(神)を試みた、10:不平を言った」ことなどだが、これらはみな神の導きを信じずに、もっと合理的で快適な人間の都合や欲求を優先させることだった.そして「6:これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです」.

 ◇雲の動きに従うというのは、乳と蜜の流れる地に導くと言って下さった紳の約束を信じるということだ.自分の都合や欲求を超えて、神の約束を信じ抜くということが、私たちの信仰の課題である.

 ◇太宰治の短編小説『走れメロス』は、約束を信じ抜くことの尊さと壮絶な戦いを描いている。それは疑いとの戦いである。真剣に信じようとするから疑いが生じるのだ.「12:立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」.自分は疑いもなく信じている、信仰によって立っていると自認する者こそ注意が必要なのかも知れない.疑う心をごまかす必要はない.約束を疑わせる事態は内外から押し寄せるけれど、その都度主が、疑いを乗り越えて、約束に生きる姿勢を取り戻させて下さる.「13:あなたがたを興った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです.神は真実な方です.あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」.

 ◇荒野の旅の苦難の時に、民を養ったものがある.「4b:彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た喪均な岩からでしたが、この着こそキリストだったのです」.千歳の岩(ホレブの岩)なるキリストに支えられ、逃れる逼をも備えて下さる神の約束を信じて、まことの故郷への旅路を、皆でご一緒にたどりたい。

もくじへ 


2003.1.19 降誕節第四主日

「しかし、お言葉ですから」申命記7611 ルカ福音書5111

          大村 栄 牧師

◇弟子たちの召命の場面.ガリラヤ湖で主イエスは、夜来の漁を終えて「網を洗っていた」シモン(後のベトロ)の舟に乗り、そこから岸辺にいる群衆に向かって語られた.シモンは皆が神の言葉を求めている時に、それには無関心で職業に勤しんでいた.話し終えた主は、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われる.「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」.常識均には考えられないことだ.「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」.彼はこの方の言葉を信じようと決心した.信じるのは、信じるに値する状況が揃ったからではない.信じようと決意するからだ.

 ◇その結果、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」.彼は結果を見て信じたのではない.主の言葉を信じて従ったら、素晴らしい結果が与えられたのだ.シモンは主の足もとにひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください.わたしは罪深い者なのです」と悔い改めを告白している.それは単なる謝罪ではなく、人生の方向転換である.現実の困難から逃避しようとするような弱さから、「しかし、お言葉ですから」と、主の導きを信じて踏み出すことのできる人生への方向転換である.

 ◇これに対して主は「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と告げる.この漁は、海を自由に泳ぐ魚を捕らえて食べてしまう漁とは違う.聖書において「海」は神の支配から遠い闇の世界。いのちが軽んじられ、踏みにじられる愛のない世界だ。弟子たちは、そして教会はそこから人間を奪い返し、神の支配の中へと取り戻すために用いられる.

 ◇その動機は何か。「主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた.主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった.ただ、あなたに対する主の愛のゆえに・・・」 く申命記768)。神は弱い小さな私たちを「宝の民」と呼んで下さる.だから現実は厳しくても、「しかし、お言葉ですから」と立ち帰る肴望を持とうではないか.

    人々にそういう決断を促すのが「人間をとる漁師」のつとめであり、伝道である.信じて行ったシモンの漁が成功したように、きっと私たちの行うつたない歩みも豊かに用いられる。「主の招く声が聞こえてくる。こんなに小さな私たちさえも、みわざのため用いられる」(讃美歌21516番)。

もくじへ 


2003.01.12 降誕節第三主日

「罪人を救うために世に来られた」第一テモテ1:12-17、イザヤ書49:1-6

          金子 健 神学生

 ◇エルサレムでキリスト教徒弾圧に猛威を振るっていたサウロが、ダマスコの諸会堂に対する家宅捜索令状を携えて、ダマスコの近くにやって来たとき、天からの光に打たれて、主に捕らえられた。キリスト教徒を迫害する者から、一転して、キリストの福音を宣べ伝える者に変えられた.この時、パウロは二つの問題を抱えていた.一つは、自らの「使徒としての権威」の問題、もう一つは、「人は何によって救われるのか」の問題であった.

 ◇「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした.しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので憐れみを受けました.」(?テモ113) 知らずに行ったことでも、罪を免れることは出来ない。イエスが十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください.自分が何をしているのか知らないのです」と祈った. パウロは、イエスを十字架につけた群舞の中の一人として、自分の姿を見ていた。

 ◇主はこのような者を召し出して宣教の御用に当たらせてくださる.「神の憐れみがわたしに臨んだ」とパウロは確信した.

 ◇「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた.わたしは、その罪人の中で最たる者です.」(115)パウロは、自らを「罪人の最たる者」と言っている.これは、パウロ一人、パウロ個人のことだけではなく、ここに人間の姿、人間一人一人の姿を象徴している.ここに、わたし自身の姿があるのです.

 ◇わたしが憐れみを受けたのは、「この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本」となるためでした。(116) わたしたち、先に、神に召し出された者は、イエス・キリストによる信仰と愛と共に、神の恵みが与えられている.わたしたちの隣人も、この方を信じて永遠の命を得られるように、手本にならなければならない.

 ◇パウロは、ローマ帝国の東方で、宣教の務めを果たしたと感じた時、帝国の西方、ローマ、イスパニアヘの宣教を新たに決意した.その時、ローマの信徒に宛ててこう書き送った.「その時には、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行きたいと思います.」(ロマ1529

 ◇わたしは、四国の太平洋に面した大都会の小さな教会に遣わされて行きます.この言葉を携えて、遣わされて行きます.

 ◇永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン

もくじへ 


2003.01.05 新年礼拝

「心を新たに」箴言3:1-12、ローマ12:1-8

          大村 栄 牧師

 ◇新年2003年も52回の主日礼拝が行われる.教会の命であり、信仰の中心である私たちの礼拝が、「1:これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と言われるにはどうしたらよいのか。そのためには「1:自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」と示される.礼拝の本質は「献身」にあるのだ.しかし世界史に名を残すような人々の偉大な献身なら分かるが、私たちが多少立派な献身をしたからと言って、それが「神に喜ばれる…いけにえ」となるとは思えない。

 ◇パウロもそれは承知で、冒頭に「1:兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」と言う.「憐れみ」は漢字で「隣の心」と書く。神がそのように私たちの隣人となり、苦しむ者と共に歩んで下さる。そのしるしが馬小屋に生まれた神の子キリストである.献身とは、神の憐れみのしるしである主と共に歩むこと.家を捨て、職を変えて特別な人生を歩むこととは限らない.与えられた人生のままで、キリストに生涯の目的を据え、身を委ねて共に生きることだ.その時、この体は「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」となる.

 ◇「聖なる」ものとされることを「聖化」と言い、特にメソジスト教会はこの教理を大切にしてきた.今年はメソジスト運動の創始者であるジョン・ウェスレーの生誕300年.彼は日常生活の中で素直に主に従うことが聖化に至る道だと言う.しかし同時に聖化は人間のわざではなく聖霊の働きだ.人間自身には聖なるものに化する力も資格もない.自分で上に昇るロケットとは違って、飛行機はただ自動車のように滑走路を前へ進むだけだが、翼の下に空気が巻き込んで空へと持ち上げる。私たちは聖なるものになろうと飛び上がるのでなく、ただひたすら神に向かってひと足、またひと足と進んで行く.それが聖霊の働きによって、いつの間にか上昇運動に変えられる。そういうことが恵みとして実現するのだ。

 ◇箴言356「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」.広い雪原を歩く時は足下だけを見ていると蛇行してしまう。遠くの山や高い木に目標を定め、そこを見つめつつ歩けばまっすぐ進むことが出来る。「神に喜ばれる」ことを人生の目標として歩むならば、どんな荒野にも道が開かれ、やがて聖霊の風に吹き上げられて高みに達する時が与えられるに違いない.それを目指す礼拝〈献身)の生活を、今年ご一緒に。

もくじへ 


2002.12.29 歳末礼拝

「この目であなたの救いを」イザヤ書401-5,ルカ福音書221-40 

          山本 信義 伝道師

 ◇シメオンの賛歌はラテン語聖書の最初の二文字をとって「ヌンク・ディミッティス」く今こそ、去らせたまえの意)と呼ばれる。私達の教会にはそのような成文祈祷の習慣はないが、カトリック教会では聖務日課(日々の祈り)として、朝にザカリアの賛歌(ベネディクトウス)を、夕にマリアの賛歌(マグニフィカト)を、床に着く前にこのシメオンの賛歌を祈る。「この目であなたの救いを見た。今こそ、去らせたまえ」神の救いを我が事と確認し、安らかにその日一日を終えるのである.一年の終わりの主の日にこの御言葉に聞きたい.

 ◇福音書の描く主イエスの誕生と幼年期の記事には、旧約の預言書と帝篇からの多くの引用がモザイクのようにちりばめられている。しかし、それだけではない。そこに描かれる登場人物の一人一人が、旧約聖書の登場人物を思い起こさせる.ザカリアとエリザベトはアブラハムとサラを思い起こさせるだろう.ガブリエルはダニエル書に出て来る終末の天使である.今日与えられたこの場面もまた旧約聖書の場面そのものであると言って良い.両親は主の律法に従って幼な子イエスを神殿へと連れて行く.そこで旧約聖書に出て来ても何の不思議もない、イスラエルの救いを待ち望む正しい人シメオンと神殿で神に仕える女預言者アンナ、二人の老人、老女と出会うのである.

 ◇旧約聖書の約束が長い時を経て御子の誕生によって成就したことをクリスマスの記事は語っている。そう言って良いだろう.しかし、それだけではない。福音書は旧約が描き出していた舞台の只中に幼な子キリストを描き出す.何百年の時を経て成された神の救いの成就が、主イエスキリストにおいて今一つの時一つの場面の出来事として結び合わされている.「この目であなたの救いを見た」旧約全体を代表してシメオンは今この場面で讃美を歌うのである.

 ◇旧約と新約との時の隔てを破り、一つ時一つところで御子イエスにおいて結び合わされ措かれる神の救い.二千年余りを経た私たちもこの救いに確かに与かっている.クリスマスの出来事は私たちと無関係な遠い過去の出来事ではないのだ.「わたしはこの目であなたの救いを見た.」シメオンの讃美は私の讃美である.この目は誰か他人の目でない私自身の目なのだ.神の救いは誰か他人のではない私自身の救いなのだ.私たちも今ここで主の救いと出会ったのだ.今この年の終わりにあって、神の救いを目の当たりにした平安を胸に、新たな年の歩みを歩み出して行きたい。

もくじへ 


2002.12.22 降誕祭礼拝

「ここに愛がある」イザヤ書452225,ヨハネ福音書1114

          大村 栄 牧師

 ◇クリスマスにはヘンデル作曲のオラトリオ・メサイヤを聞く。ハレルヤコーラスの少し前に、今日交読した詩編2編「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/人々はむなしく声をあげるのか」を激しく歌うバリトンのアリアがある。朝鮮半島やパレスチナ問題など、国々が騒ぎ立つ状況を抱えたまま、世界は今年もクリスマスを迎える.

 ◇クリスマスの最大のメッセージは、天使がヨセフに告げたイエス誕生の意味にある。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む.その名はインマヌエルと呼ばれる.この名は『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ123).しかし本当に、神はこんな愚かな世界に共にあろうとされるのだろうか。ノアの洪水の後も、この世界は今に至るまで神を悩きせ、造ったことを後悔させ続けてきたのではな-いか.

 ◇このような人類と共にあろうとされた神によって差し出され、「14:肉となって、わたしたちの間に宿られた」神の子を、しかし民は拒絶した.「11:言(キリスト)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。神などなくても人類は自然に進歩するし、世のあらゆる間蓮は自力で解決できるという愚かな自信が、神の差し出したキリストを十字架につけた。神はそれを予測できたはずだが、なおもあえて不合理な、無防備な行為をされた.そうせずにおれないという、熱き思いによって。

 ◇左近淑先生(19909月、59才で召天)はこれを「泥まみれの栄光」と呼んでいる。「クリスマスは神様が『地に平和』を与えるために、ご自分の栄光をお捨てになった日であります。神様がご自分の栄光を捨てることを『神の栄光』とされた日、それがクリスマスであります.クリスマスによって、神様はいわば泥まみれの栄光、泥だらけの栄光をお持ちになったのであります」.たとえ泥まみれになっても、神は世界と共にあろう、愛していこうとして下さった。

 ◇「わたしが共にいる/治らなくてもよいではないか。/わたしが共にいる/長患いでもよいではないか/わたしが共にいる/何も出来なくてもよいではないか/わたしが共にいる/それでよいではないか/或る晩/キリストが「そう言って下さった」(原崎百子『わが涙よ、わが歌となれ』より).心配は限りなくあるけれど、神様が共にいて下さる。そのしるしのクリスマスがあった。だから大丈夫.降誕祭は「ここに世界を支える愛がある」ことを知って、それに身を寄せるときだ。神の愛に真実をもって応答する心を深めたい.

もくじへ 


2002.12.15 待降節第三主日礼拝

「先駆者の使命」ルカ福音書1525,1ペトロ2110

          大村 栄 牧師

 ◇今年の世相を表す漢字は「帰」だという記事が新聞に載った。北朝鮮からの帰国や景気の回復傾向などが反映されたのだろう。クリスマス前のアドペントこそ「神に立ち帰る時」である。祭司ザカリアとエリサベトの夫婦には「7:子供がなく、二人とも既に年をとっていた」が、彼らの祈りが聞かれて男子の誕生が予告される.「20:時が来れば実現するわたし(天使)の言葉を信じなかった」ために、ザカリアは一時口が利けなくされたが、こうして生まれたのが後の洗礼者ヨハネである。天使によれば彼は「16:多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせ」、また、「17:準備のできた民を主のために用意する」人物だという.

 ◇預言の通りヨハネは荒れ野で預言を行った。ユダヤ人の偏狭な選民意識を激しく批判して「神に立ち帰る」こと、すなわち罪の悔い改めを説き、ヨルダン川で「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(ルカ33).これを聞いて「洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆」があったが、彼らは単に天国へのキップを得るために、罪の赦しを求めたのだ。そんな人々をヨハネは「まむしの子らよ」と激しく叱った(37)。罪の赦しは人間の要望や意志によって成るのではない。終わりの日の裁きは、極めて厳密なものである。

 ◇しかし、ヨハネはその厳密な恐ろしい裁きについて語った後、「民衆に福音を告げ知らせた」(318)とある。「福音」は恐ろしい話しではなく「良い知らせ」の意味。赦されるはずのない我々が、赦されるという良い知らせである.その赦しはメシア(救世主)によって可能となる.この「メシアを待ち望んで」いた「民衆」(ラオス、315)と、熱心に求めれば御利益として赦しが与えられると考えた「群衆」(オクロス)が、ちやんと区別されている。「群衆」は不特定多数だが、「民衆」は特定の集周や共同体を指す。「民衆」は自らの罪を自覚してメシアを待つ人々だ。ヨハネはこの、悔い改めて「準備のできた民を主のために用意する」務めを担う先駆者だった。

 ◇この用意された共同体こそが教会である。LaosLayman(信徒)の語源だ.教会のいのちは信徒の存在と働きにある。「主のために用意された民」を用いて、主は世界にみわざを現そうとされる。その媒介となる教会の大きな事業に携わっていきたい.そのために、私たちは唯一従属すべき神に立ち帰り、「時が来れば実現する神の言葉」を信じ祈りつつ、更に「メシアを待ち望む」民として、自らを捧げていきたい。

もくじへ 


2002.12.08 待降節第二主日礼拝

「神に立ち帰る時」ルカ福音書41421,イザヤ書551-11

          大村 栄 牧師

 ◇安息日に主イエスは、会堂(シナゴーグ)で預言者イザヤの言葉(イザヤ書6112)を読まれた.「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(1819節).主は私たちを様々な束縛から解放するために、この世に来られた.

 ◇最後の「主の恵みの年」とは、50年に一度来る「ヨベルの年」で、「おのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る」(レビ記2510)。土地の売買やそこから派生する身分格差、奴隷制度などの積もった垢を、50年に一度きれいに洗い流し、一人一人が神様から与えられたものによって生きる原点に帰ろうという制度。実際に施行されたという記録はないが、「人も土地もすべては本来神のもの」という信仰の原点を私たちも忘れてはならない.

 ◇主イエスの解放とは、悪魔的な束縛から単に人々を解放するだけでなく、解放された魂が次にどこに帰属すべきかを示すものである。「汚れた霊が戻って来る」というたとえ(マタイ124345)があるが、カルト宗教のマインド・コントロールに苦しむ青年などを、ただ彼らの心をカラにすることだけでなく、次に満たすべきものを示すことが大事なのである。「あなたは本来神のものだ」ということを示すのは、決して人の自由を奪うことではない。私たちに「~からの自由」と同時に、「~への自由」を与えるものが福音でなくてはならない。

 ◇「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」(イザヤ書557)。バピロン捕囚はイスラエルが神の言葉に背いた結果であった。だから今、預言者は単に場所として故郷へ戻るだけでなく、主に帰れ、信仰に帰れと語る。

 ◇「人間はだれもが生きている自分を自覚している。こうしてわたしは生きていると、そう思っている。だが、あるとき、ある瞬間、自分は生きているのではなく生かされているのではないか、ということに気付く。そしてそのときから、その人は人生の旅人となる」。(森本哲郎『禅の旅人』)

 ◇人によって様々であろうこの「ある瞬間」の出来事を通して、私たちは自分の位置を正しく認識し直して、「主に帰る」こと、本来の姿に立ち帰ることを始める。帰る勇気も必要だが、主は待っておられる.すべての人に向けられている、神様へのウェルカム・ホーム(おかえりなさい)を言い合えるクリスマス・シーズンでありたい。

もくじへ 


2002.12.01 待降節第一主日礼拝

「夜明けは近い」エレミヤ書331416,ルカ福音書212536

          大村 栄 牧師

 ◇ルカ21章は「小黙示録」と呼ばれる。世の終わりに「人の子」、すなわちキリストが「雲に乗って」再び来られる。その際、天地万物に異変が起こり、「25:諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る」。さらに「26:人々はこの世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失う」。しかし、恐ろしさに身を隠せと言うのではなく、「28:身を起こして頭を上げなさい」。しっかりとその日を迎えなさいと命じられる。なぜなら、「あなたがたの解放の時が近いからだ」.その日は滅びの日ではなく、「解放の時」、希望の日なのである。

 ◇続いて「いちじくの木のたとえ」が語られる.いちじくは夏に葉を茂らせ、9月頃に実を収穫する.そのような自然の移り変わりと同様に、歴史の移りゆくさま、世の終わりも兆しを感じ、予想することができると主は言われる.しかし兆しとなりそうな天変地異も、事件や事故もすでに頻繁に起こっているが解放の時は来ない。これだけでは足りず、もっとひどいことが起こらねばならないのだろうか.「身を起こして頭を上げ」て迎えるような栄光の時、平和の時はいつ来るのか。いやそもそも本当に来るのか。しかし主は言われる。「28:あなたがたの解放の時は近い」.そして「33:天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。アドヴェントはこの言葉、主の約束を信じて待つときだ。

 ◇処女マリアが親類のエリサベトを訪ねた時、彼女はマリアに、「主がおっしゃつたことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ145)と語る.それはマリアが天使ガブリエルから受胎告知を受けたときに、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(138)と信じて委ねたことを指す.神の言葉を信じて委ねたマリア、それを喜び祝福したエリサベト。エリサベトの夫ザカリアはそれと対照的に、ヨハネの誕生を予告されても、不可能だ、到底あり得ないと信じなかった。すると天使ガブリエルが言う.「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる.時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」(11920)。

 ◇「時が来れば実現する神の言葉」を信じて待つことがアドヴェントのテーマだ.待ち続ける時間のあまりに長いのを感じるが、なおも平行線に耐える信仰を持ち続けたい。待つこと自体が喜びだと言えるようでありたい。天地は滅びても、主の言葉は決して滅びないのだ。夜明けは近いのだ。

もくじへ 


2002.11.24 降誕前第五主日礼拝

「主の言葉が臨んだ」エレミヤ書1410,マタイ福音書281620

          坪内克浩 神学生

 ◇主なる神は、エレミヤという若者を預言者として召し出す.主が「語れ」という言葉を語っていったために、エレミヤは涙を流し、人々から罵られ投獄までされるという、苦難の日々を生きた。そのエレミヤの預言者としての歩みが、この召命の場面から始まるのである.

 ◇「主の言葉がわたしに臨んだ」(14).これは、主なる神ご自身の方からエレミヤのもとに来てくださった、彼に出会ってくださった、ということである。神は突然、一方的にその人の人生に介入してくる。エレミヤは、神からの突然の迫りを受け、捕えられ、そして、自分が何者なのか、自分の人生の本当の目的が何なのかを発見したのである.人間の生涯への神の介入。それによって、その人の人生は全く新しい意味を持つようになる。我々が教会に連なっているその根本にも、各々の人生への、神の介入が確かにあったからである。我々もまた、今日の時代に、預言者的な働きを託されているといってよい。

 ◇生まれる前から、神はエレミヤを選び捕らえていた.神の召命に対し、エレミヤは自分の欠けを思う。自分は若く、知識も経験も乏しい。預言者という重大な務めが務まるはずがない。しかし、主はその言い訳や判断を許さない.「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じる土とをすべて語れ」(17)。神の召しの前では、人間の側のどんな事情もそれを断る理由にはならないのである。

 ◇すべての職業は、神の召命によるものである。また、主は我々が生まれる前から、その特別な目的のために特別な仕方で、捕え、知っていてくださっている。一人一人が神の特別な招きによって、唯一の神に礼拝を共に捧げている.このことこそ、神の召しに他ならない。また我々は皆、隣人にキリストを伝えるために召されているということもいえるのである。

 ◇「恐れるな.わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」(18)。これを、我々への語りかけとして聞きたい.主が共にいてくださるのだから、恐れる必要はない。主が命じることを語ればよい.「わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける」(19)。

「私の言葉」ではない、「主に授けられた言葉」を語っていく、という姿勢で伝道に取り組んでゆきたい。我々が静まって、自分の言葉や思いではなく、主の御心を求めるならば、主ご自身の言葉が圧倒的な力を持って我々に臨んでくださるのである。

もくじへ 


2002.11.17 降誕前第六主日礼拝

「死んだ者の神ではない」エレミヤ書3131-34,ルカ福音書202740

          大村 栄 牧師

 ◇「27:復活があることを否定するサドカイ派」が主イエスに論争を挑んできた。七人兄弟が順番に一人の女をめとっては死に、その女も死んだとしたら、「33:復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか」。家名存続のためにモーセの定めた再婚の制度ではあるが、非現実的で不健全な、人を馬鹿にしたような設問である.

 ◇この間いへの答は二つ。まず、よみがえりの時、私たちは全く変えられるということ。「34:この世の子らはめとったり嫁いだりするが、35:次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」.この世の経験や常識で、神の領域を推測してはならない。私たちはキリストの十字架によって罪を肩代わりして頂いているのだから、安心して神に委ねよというのだ.

 ◇もう一つはモーセが主を「37:アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している」こと。神は今生きている孫のヤコブと、すでに死んだ祖父アブラハムとに対して等しく神である。そう言った上で更に「38:神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ.すべての人は、神によって生きているからである」と言う。人間の目には死んだ人も、神の前では生きている。ラザロの死に臨んで主イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ112526).肉体が不滅だとか、霊魂は生きていると言うのではない。アダム以来罪に対する飼であり滅びであった死が新しい命への出発へと変えられたのだ。

 ◇先週、須釜さんの葬儀を行う間、教会の看板には、今日の説教題「死んだ者の神ではない」が掲げられていた。これを見た人々は、故人は神に見捨てられたと考えただろうか。聖書が言うのは、そうではない。死んだ人も含めて「38:すべての人は、神によって生きている」ということだ。「わたしは確信しています。死も、命も、・・・他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ83839).ここに、独り子を願うた神の愛は極まる.この聖句を読んだ須釜さんの最期の病室には平安があった。

 ◇愚かな問いを発して復活を疑い、永遠の命を疑うサドカイ派はあわれだ。私たちは永遠の生命を完成して下さったキリストを仰ぎ、疑うことなく平安に歩んでいこう。

もくじへ 


2002.11.10 降誕前第七主日礼拝

「笑わずにいられない」創世記81-15,ローマ書9612

          大村 栄 牧師

 ◇アブラハムには長いこと子供がなかった。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」(154)と約束されていたが、実現の兆しはない。神による可能性を信じつつも、不可能としか思えない現実にたじろぐのは、常に信仰者の苦悩である.女奴隷ハガルによってイシュマエルを得るという人間的な方法を工夫したが、神は妻サライを祝福し、彼女を「諸国民の母とする」と言われる。だがアブラハムはそれを聞いて笑った。もう時が経ちすぎている。あまりにも現実的でない事柄に、冷たい笑いを浮かべずにおれない.それでも神はサラの出産を約束し、「その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい」(1719)と言われる。神の皮肉のような命名である.

 ◇そして18章では、彼らの天幕を訪れた旅人(それは主なる神だった)が、「来年の今ごろ…、サラに男の子が生まれているでしょう」。天幕でこれを聞いていたサラは、前章のアブラハムと同じように、「12:ひそかに笑った」.もう自分も夫も年を取りすぎている.あまりにも現実的でない、と彼女も冷たい笑いをせずにおれなかった.

 ◇私たちは世界の現実の厳しさを前にして立ちすくみ、冷笑を浮かべるしかないときがある.しかし世界の混乱の中にも、神の人類救済計画は変更なく遂行されていく.パウロは言う、「神の言葉は決して効力を失ったわけではありません」(ローマ96)。ハガルによってイシュマエルを産んだのは不可能に対処する人間の工夫だった。しかし神はイサクの出産を可能にし、彼を祝福した.「肉による子供(人間的対処)が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供(神のご計画)が、子孫と見なされるのです」(98).人間的な可能性においてでなく、神ご自身の約束に対する誠実さにおいてのみ、不可能が可能とされていく。

 ◇サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった.聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」(216).「どうせむりだ」というような、冷笑、を浮かべていたアブラハムとサラ夫妻に、喜びの笑いが与えられた.信仰とはこのように、現実の厳しさの前で、なおも「独り子をお与えになったほどに、世を愛された」神の愛と救いのご計画を信じていくことだ.「神の愛なんて、約束なんて…」と現実との激しいズレを感じ、冷ややかに笑わずにいられないような時にも、なお信じ抜くこと.そこに神の新しい可能性が生まれ、やがて書びの笑いが生ずるのである。

もくじへ 


2002.11.03 降誕前第八主日礼拝

「最初の罪・最後の赦し」創世記3:1-19,ローマ書5:12-21

          大村 栄 牧師

 ◇聖書の語る創造論的世界観は、科学的歴史観と対立するように思われるが、科学は世界が「どのように」出来たかを語り、聖書は「どうして」出来たかを語る.「初めに、神は天地を創造された」で始まる創世記は、この世界は神の意志によって創造され、また世界の誕生は、神の大きな喜びであったと告げる。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(131).しかし最初の人間アダムとイブの段階で、すでに神の期待を裏切って罪を犯し、それが人類の本質に関わる問題となった。

 ◇「エデンの園」に住まわせられた二人は、禁断の果実に手を伸ばした.「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」と蛇にそそのかされたからだ.神のようになりたいとの欲望に溺れた結果、二人は恥を覚え、神から身を隠すものとなった.しかしその二人に神は「どこにいるのか」と尋ねられる。居場所を知らない筈はない。捜しているというより、応えを求めている.人間の側から破ってしまった神との関係を、神の側から回復を呼び掛け、人間と和解しようとして下さるのだ.

 ◇しかし二人は罪をなすり付けあい、神のせいにさえしている.神との関係の破れは二人の関係に破れをもたらし、さらに罰として「19:塵にすぎないお前は塵に返る」との「死の宣告」がなされた。この人類の始祖であるアダムの罪のことを「原罪」と言う。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからですJ(ローマ512)。「一人の人」とはアダム。しかし彼一人の責任でなく、彼に始まって私たちも含む「すべての人」が罪を犯している。欲望に突き動かされ、神のようになれると信じておごり高ぶり、それ故に失敗して、「木の間に隠れ」ている。

 ◇そこへ注がれる神の呼び声「どこにいるのか」。この和解のために神が差し出して下さったのが独り子イエス.「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」(519).アダムに始まってすべての人が犯してきた「不従順」の罪は、もう一人の人キリストの、神への徹底的な「従順」と「へりくだり」(フィリピ28)によって赦された.世界と私たちは、このキリストを賜うほどに世を愛された神の愛を受けて、あの創造の最初、「極めて良かった」に戻ることが出来る.

もくじへ 


2002.10.27 在天会員記念礼拝

「神の計りごと」ヨブ記38:1-18,ルカ福音書12:13-31

          大村 栄 牧師

 ◇ヨプ記のテーマは、なぜ人はこの世で苦しみ悩むのかという不条理の問題である。富豪で信仰深いヨブは、すべてを失う悲劇の中でも、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主のみ名はほめたたえられよ」(121)と言い、「素焼きのかけらで体中をかきむしる」ほど苦しんでも、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(210)と言う。だがやがて、見舞いに来た友人たちとの対話で、ヨブは自分の生まれた日を呪う(3章).ここから始まる苦悩と悲嘆の青葉こそが、聖書における「ヨブ記」の存在価値である。

 ◇慰めに来た友人たちは、やがて苦難を受けるにはそれなりの理由があるという因果応報論を語り出す。古今東西、人はこれによって苦難の意味を納得しようとしてきた。しかし解決にはならない。ヨブは自分が知りたいのは苦難の原因より、神がなぜこんな目に合わせるのかだと言って、友人たちにでなく、神に直接問いかけていく。神の胸ぐら掴んで問い乱すような姿勢だ。私たちも同様に、「神様、なぜ」と叫ぶことがしばしばある。そして答えは必ずある。

 ◇遂に38章で「1:主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。2:これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは」。「神の経綸」とは創造主なる神がその被造物世界を治める意志や計画。口語訳では「神の計りごと」。それを「暗くするこの者はだれか」という言葉に続いて、「4:わたしが大地を据えたとき/お前はどこにいたのか。知っていたというなら/理解していることを言ってみよ…」等々、神は天地創造の手順やその秩序を述べ、それらをどれほど知っているというのかと迫り、知識を過信する人間の高慢を砕かれる。

 ◇結局ヨブ記において苦難の神秘は理論的には解決されない。しかしもっと大きな答えがある。それは「知らなくても良いのだ」という神への絶対的な信頼だ。「暗黒の神秘が四方を囲むとも、わずかに澄み輝く奇跡が漏れ知らされることを知るだけで十分である」R・ゴルデイス『ヨブ記』)。主は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」(ルカ1220)と警告され、続けて、Iあなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(1225)と言い、さらに「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」(1231)と言われる。これら<神の青葉>の中に「澄み輝く奇跡」の極みがある。

もくじへ 


2002.10.20 神学校日・伝道献身者奨励日礼拝

「なすべきことはただ一つ」サムエル記下6:12-23、フィリピ書3:12-23

          須田 則子 牧師

 ◇「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることですj(フィリピ31314)。パウロは一事に努めました。「走る」ことです。「走る」は生き方の比喩ですが、私たちはどのような時走るでしょうか、走るのを覚えたでしょうか。幼子は、親に向かって走ります。受けとめられる時の喜びを先立って味わいながら、信頼に瞳を輝かせながら。パウロはそのようにキリストに向かって、父なる神様に向かって走りました。

 ◇前に向かって走らない人もいました。「私は既に描らえた」、「私は既に完全」と言う人です。パウロもかつてそうでした(356)。しかしキリストを知ってしまったからには、「完全」など言えません。神様のご覧になる「完全」は二つのことからなります。全きものを用意し、それを完全に捧げ尽くすことです。旧約の献げ物で言うなら、何の傷も欠けもない肥えた献げ物を完全に焼き尽くすことです。完壁なものであればあるほど、献げるのは惜しくなります。はじめは何とか自分を肥やしていきます。教養、知識、名誉、財産、そして徳。次に神様はそれを全部捨てなさい。主のため、隣人のためあなた自身を全部捧げなさいと言われます。「完全な者」となるために、これまで律法を守り、施しも怠らなかったであろう金持ちの青年が、主の言葉に自らの「欠け」を深く悲しむしかありませんでした(ルカ18章)。ただ主イエスおひとりのみ、何の価値もない罪人のため全てを捨て、自らを低くして墜ちていく者を全身で受け止めてくださいました。

 ◇私たちはもう、墜ちていく生き方をしなくていいのです。親の胸に飛び込む幼子のように、父なる神様に向かい、キリストに向かって駆けていきます。神様が父でいてくださいます。神様の子育てに失敗はありません。私たちを必ず育ててくださいます。

 ◇走ること、走り続けるのは時として苦痛かもしれません。しかし、苦しみが「完全」へと導きます(ヘブライ書2章)。私たちは計り知れない新しい道の途上におかれているので苦しみがあるのではないでしょうか。この道の先に、主の栄光ある体に変えられる「将来」があります。主は、私たちに対する完全な愛の証しの御傷を示し、両手を広げ待っておられます。「何の価もなくていいから。何の功しもなくていいから。私のもとに来なさい。」主の呼びかけに応え私どもも走っていきたいと願います。

もくじへ 


2002.10.13 全家族礼拝

「わたしは何者か」出エジプト記3:1-12

          大村 栄 牧師

 ◇モーセは痛み苦しむ同胞のイスラエル人をエジプトから連れ出せと命じられた。しかしそんなことの出来る自信は到底ない。「11:わたしは何者でしょう」。どうして私なんかに、そんな大きなご用が出来ましょうかとためらっている。しかし思えば多くの場合、神は自分にはそんな資格も能力もないと感じるような人に、あえて神さまのご用をさせられる。箱舟を造ったノア、行き先も知らずに出発したアブラハム、網を捨てて主に従った弟子たち、キリスト教徒を迫害する人だったのに、キリストご自身に出合って生き方を変えたパウロ。これらはみんな、神さまに呼ばれて、自信はないけれど応えた人々なのだ。

 ◇そのように自信のない人をあえて選んで用いる神は、そのかわりご自分の計画には力を与え、確実に実現に至らせられる。だから神さまは自信のないモーセに、「12:わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」と言われた。あなたに力がありそうだから選んだのではない。私が一緒にいて力を与えるから大丈夫と言われる。

 ◇しかしモーセはまだ納得しない。どういう神が一緒にいて下さるというのかを知りたくて、13節で神さまの名前を尋ねる。すると神は、「14:わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えられた。その意味は「私は何があろうと、神として存在する」ということだ。「あなたが信じようが信じまいが、昔も今もこれからも、私は歴史の最初から最後までずっと、神として世界を救いにいたらせる作業を続ける。そのためにあなたを用いる。だからわたしはあなたと共にいる」と言っておられるのだ。

 ◇「恐れるな、わたしはあなたを購う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(イザヤ書431、本日の礼拝招詞)。家族や社会のために、私は何が出来るんだろう。これからどうなっていくんだろう。最期はどうなるんだろう。死んだらどこへ行くんだろう。そんな疑問がいっぱい沸いてくるけど、私たちはみな、「何があろうと私は神であり、あなたと共にいる」と言われる神さまのものだ。神さまに任せてお従いしていけばいい。神は大切な独り子イエス様を下さるほどに、この世を愛して下さる神さまなのだから。

 ◇その神さまの愛を表す十字架の下に立つ教会を、いっまでも私たちの大切な場所としよう。「あなたはわたしのもの。わたしはあなたと共にいる」と言われる神さまに従って生きる喜びが、ここに集う大人も子供も、すべてに注がれますように。

もくじへ 


2002.10.06 世界聖餐日・世界宣教の日

「人間に従うより神に」ダニエル書3:13-27、使徒言行録5:27-42

          大村 栄 牧師

 ◇日本基督教団から30名近い宣教師とその家族が世界各地に遣わされ、福音宣教に献身しておられる。望月賢一郎先生がかつてタイのチェンマイに派遣される時、当時の鈴木正久教団議長は派遣式において、「あなたはタイに新たに神の福音を教えに行くのではない。すでにそこに働いておられる神の御業を、タイの人々と共に分かち合うのだ」と勧めた。望月先生はこの言葉を覚えて10年間、現地の人々と共に生きた。

 ◇ダニエル記の登場人物たち「シャドラク、メシヤク、アベド・ネゴ」はバビロンに連れてこられたユダヤ人捕虜(紀元前600年頃)の中でも、ダニエルと共に容姿端麗で才能と知恵のある少年たち。しかしこれを妬む着たちがいて、彼らは「ネブカドネッアル王の建てた金の像を拝まない者は、燃え盛る炉に投げ込まれる」との法律をでっち上げ、拝礼しない3人を陥れようとする。

 ◇王の前に引き出された3人は言う。「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも(口番訳「たといそうでなくても」。安利淑女史の著書の名)、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません」(31718)。旧約的信仰の限界を超えた、新約的な復活信仰に近いものがある。たとい目に見える直接的な解決や救いがなくても、現世における幸福が得られなかったとしても、神による希望はなおその先にある。だから神をあきらめて、偶像にひれ伏すことはしない。

 ◇使徒言行録5章では使徒たちが多くの奇跡を行い、それゆえに迫害されるが、なおも雄々しく語り続ける場面。彼らの勇気の源は「人間に従うよりも神に」(529)という信念だ。永遠に変わらぎる神の支配を信じ、重ねて生きる平安がここにある。

 ◇ハイデルベルク信仰問答の第一の問いと答え。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」。一生きるにも死ぬにも、わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです」。この言葉に表される信頼と信仰が2000年来の教会を支え、教会に連なる着たちを生かしてきた。この信仰の中に、人間を崇高に、強靭に、そして美しくする力がある。

 ◇私たちは「人間に従うより神に」従うことの豊かさ、喜びを讃美し、人間よりも神に喜ばれる着でありたい。世界各地に遣わされ、神の恵みを分かち生きる人々と共に。

もくじへ