1999.1-3


もくじ

◆03.28「星のように輝く」ヨハネ福音書12:20-26、フィリピ書2:l2-18
◆03.21「いと高き神の祭司」創世記14:17-24,ヘブライ書7:1-10
◆03.14「魂の錨」創世記22:15-18,ヘブライ書6:13-20
◆03.07「信仰の成熟」詩編84,ヘブライ書5:11-6:12

◆02.28「わたしは命のパンである」出16:1-5、ヨハネ6:47-59
◆02.21「憐れみ深い大祭司」マルコ福音書14:32-36,ヘブライ書4:14-5:10
◆02.14「阿佐ケ谷にある神の教会」ヨシュア記1:1-9,ヘブライ書4:1-13
◆02.07「今日を生きる」ルカ福音書9:61-62,ヘブライ書3:1-19

◆01.31「解放者イエス」詩編23,ヘブライ書2:11-18
◆01.24「救いの焦点」マタイ福音書16:13-21,ヘブライ書2:5-10
◆01.17「召しに応える」ヨシュア記24:14-18,ヘブライ書2:1-4
◆01.10「主なるイエス」マタイ福音書3:13-17,ヘブライ書1:5-14
◆01.03「神の子の栄光」マタイ福音書28:16-20,ヘブライ書1:1-4

 

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◆1999.03.28

「星のように輝く」ヨハネ福音書12:20-26、フィリピ書2:l2-18

       北見さとみ 牧師

 ◇「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ(ヨハネ12:24)」。これは主イエスの十字架の死を示し、その購いの死によって新たにされる我々を表現している。ここに我々の生きる出発点がある。

 ◇「自分を憎む(25節)」とは、主イエスの救いによって、自己の罪を知り、罪を憎むことである。25節は、主イエスの購いによって罪を赦され、新たにされた者の生き方を示すと同時に、我々も一粒の麦として多くの実を結ばせ、永遠の命に至ることを約束されている。

 ◇使徒パウロはフィリピ教会に、「従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい(フィリ2:12)」と勧めている。従順とは主イエスに倣うことである。主イエスは神の身分でありながら、自分を無にして、人間の姿で現れ、死に至るまで従順(2:6-8)でした。我々にとっては、主イエスに倣い、福音にふさわしい生活(1:27)をすることである。

 ◇しかし自己主張と自我を持つ我々にとって、自我が破れ自己が否定されることは、辛い経験である。この経験をする者に聖書は信仰を伝えている。人間的視点ではなく、垂直の視点、神の業として見るならば、そこにこそ神との出会いがあり、信仰へと目覚め、従順を知る。一粒の麦の死のように、堅い殻の破れる痛みはあっても、己が死んで無になる以外、新しい芽生えはない。

 ◇聖書は我々のことを主イエスの命によって購われた存在、罪を赦され、永遠の命に至る存在であることを伝えている。この世にあってもキリストにある存在である。使徒パウロがフィリピ書を執筆した時、彼は獄中におり、自分の殉教の死を知っていた。「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます(17節)」。礼拝とは、已が死んで無になる場であり、自我が破れ、神によって解放される場、殉教の場が礼拝である。そしてそこで我々が生きる本当の喜びを知る。

 ◇使徒パウロは、「あなたがたは世にあって星のように輝き」と語る。我々は世にあって星のように輝く存在であることを深く心に留めたい。そしてキリストにあるならば、我々がこの世で労苦したことは決して無駄ではない。しかし一粒の麦が殻で破って芽生えるように、我々も従順であることを覚えたい。それは自己の輝きを消すところにキリストの輝きがある。我は、世にあって星のように輝く存在である。

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◆1999.03.21

「いと高き神の大祭司」創世記14:17-24、ヘブライ書7:1-10

       大宮 溥 牧師

 ◇主イエスがゲッセマネの園で魂をふりしぼるようにして祈っておられた時、弟子たちはその傍らで眠りこけていた。このような不甲斐ない弟子たちに対して、主イエスは怒るのでなく、彼らをあわれみ、彼らのために祈られた。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」(ルカ22:31ー32)。このように、イエス・キリストは人間の誰も果すことのできない、神と人との真の執り成し手である。

 ◇ヘブライ人への手紙は7章から10章にかけて、その中心部分である大祭司キリスト論を展開している。7章冒頭では、主イエスが旧約宗教の担い手であったレビ系の祭司制とは全く異なる「メルキゼデクと同じような大祭司」であることを説いている。メルキゼデクはアブラハムの時代に、パレスチナを舞台にしてメソポタミヤ連合軍と地元連合軍と戦い、メソポタミヤ側が勝利した時の歴史に登場する。捕虜となったロトを救うためアブラハムは追撃して勝利した。その凱旋するアブラハムをメルキゼデクは迎え、彼を祝福したのである。

 ◇メルキゼデクは「永遠の祭司」(3節)であった。レビ系の祭司は命に限りがあるので交代する。しかし、メルキゼデクのように主イエスも「きのうも今日も、また永遠に変ることのない方」(13:8)である。それ故、キリスト教会においては、他の人間の祭司はもはや必要がないのである。

 ◇キリスト教では、神と人間とを和解させ、結び合わせ、交わりを与えるのは、イエス・キリストだけである。人間はどんなに背伸びしても神には届かない。しかし主イエスは、真の神でありかつ真の人であり、努力の結果人間が神に到達したというのでなく、その存在そのものが、神と人とを重ね合わせ、一つにするものである。

 ◇神と人間とが結び合わさる時、聖なる神と罪人なる人間との問に拒否反応が起る。キリストの十字架の死はその結果である。しかし神はキリストにおいて、その罪を砕かれ、人間を受け入れ、交わりを回復されたのである。この意味でイエス・キリストは、人間の祭司が果すことのできない、真の執り成しを完成して下さったのである。

 ◇この大祭司のとりなしの下で、キリスト者は全員が、隣人をキリストに執り成す祭司となる。万人祭司である。メルキゼデクにはアブラハムも贈り物をし、祝福を受けた。われわれもキリストのとりなしと祝福のもとで、罪赦された神の民として進む。

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◆1999.03.14

「魂の錨」創世記22:15-8ヘブライ書6:13-20

       大宮 溥 牧師

 ◇アブラハムの生涯は信仰に生きる者すべての生涯と重なり合っている。彼はかつて古代文明の盛えたメソポタミヤの町ウルに住んでいたが、神はそこを出て「わたしの示す地に行け」と命じられた。彼は「これに服従し、行く先も知らずに出発した」(11:5)。神が命じるならどこへでも行こうと、未知の世界へ冒険の旅に出たのである。

 ◇しかしアブラハムの人生は、順風満帆ではなかった。彼は星のような子孫を与えられると約束されていたが、100歳近くなるまで子がなかった。そしてようやく与えられた一子イサクを、神はモリヤの山で犠牲として献げよと命じたのである。しかしアブラハムは黙々としてそれに従い、まさにイサクを手にかけようとした時、神の声がそれを制し、彼の信仰が認められ、神の祝福が約東されたのである。

 ◇ヘブライ書の今日の個所は、このモリヤの山で語られた神の言葉を引用している。ここで問題になっているのは、人生の嵐が襲いかかり、神が今までの恵みから掌をかえしたように、自分を見捨てた、自分を僧むようになったと思われて、人間が神への信頼を失うことである。アブラハムは、あの試練の中でも、神の約束に対する信頼を失うことはなかった。信仰とは、神の真実に応答する人間の真実のことである。アブラハムはそのような信仰の人であった。

 ◇神の約束と誓いは変ることがない。このことを信じる信仰と、そこから生じる希望は、わたしたちの魂にとって「頼りになる、安定した錯のようなものである」(19節)。錨は舟が嵐にもまれて漂流したり、あるいは岩や崖にぶつかって砕けたりしないで、安全な港に止ることを助けるものである。主イエスはその錨である。

 ◇主イエスは大祭司として至聖所の垂れ幕の内側に入られた。マタイ福音書は主イエスが死んだ時、神殿の重れ幕が上から下まで真二つに裂けたと記している(27:51)、これは神と人とを隔てている罪の障害が取り払われ、神と人間の交わりが回復したことを示している。しかも主イエスは旧約の大祭司のように自分だけが至聖所(神の臨在の場所)に入るのでなく、「わたしたちのために、先駆者としてそこに入った」(20節)。この主に従ってわれわれも、神との直接の交わりに入ることが許されているのである。

 ◇錨が舟を港の中にしっかりとつなぎ止めるように、イエス・キリストはわれわれを神の御手の中に、神の愛の中につなぎとめて下さる。それ故恐れなき人生を歩む。

 

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◆1999.03.07

「信仰の成熟」詩編84、ヘブライ書5:11-6:12

       大宮 溥 牧師

 ◇ジョン・バニヤンの『大路歴程』(巡礼の前進)は、クリスチャンという主人公が滅びの町を出て「命、命、永遠の命」と叫びつつ、試練や誘惑と戦いながら、天の国を目指して進む旅を描いている。ここには人間の信仰の生涯が示されている。ところがCSルイスは『巡礼の逆戻り』という本を書いている。われわれの信仰の歩みが停滞し、逆行していないかという問いかけである。

 ◇ヘブライ書の今日の個所も、同じ問いかけと警告を発している。この手紙の受け取り手は、信仰生活に入ってからある程度の年月がたっていると思われ、信仰においても知識においても教師として人を導く位の実力がついている筈であった。ところが少しも成長せず、改めて初歩から学びなおさなけれぱならない状態だと言うのである。それ故発奮して「(人生)経験によって訓練され」「善悪を見分ける感覚」を鋭くして、信仰生活を築くようすすめている。

 ◇6章冒頭には信仰の初歩段階が示されている。これは洗礼準備教育で教えられる基礎教理である。信徒はそこに留ることなく成熟段階に進めと命じる。それは基礎を軽んじるのでないが、それを単にお題目のように唱えるのでなく、その基礎から、生きた信仰生活を築くように、現実生活に応用問題を解くように立ち向かえと勧告している。

 ◇4節以下は、信仰の後戻りの果てに信仰を失った人の場合を描いている。「ここは聖書の中で最も恐ろしい箇所の一つである」(バークレー)。ここから受洗後の堕落には赦しがないという恐れが生じた。しかし著者が訴えているのは、神の赦しを口実にして、それに甘え「安価な恵み」(ボンベッファー)と考える傾向を正そうとしているのである。神の恵みは、人間の救いのために御子を犠牲にされるほどの「高価な恵み」なのである。人間の罪は「神の子を自分の手で十字架につける」(6節)ことである。これに気付く時、われわれもシンゲヴィッチの『クオヴアディス』(いずこに行かれるか)の主人公ペトロのように悔い改めて、信仰の逆戻りから前進へと転じるのである。

 ◇9節以下では、これまで語ってきたことは、読者の信仰を目覚ませ前進させるためであって、恐怖と失望に沈ませるためでないことが、ていねいに語られる。むしろ人々の中に現に信仰と希望と愛が、埋もれ火のように残っていることを指摘し、それを一層熱く燃え立たせようとするのである。受難節もそのような信仰再燃の時である。

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◆1999.02.28

「わたしは命のパンである」出16:1-5、ヨハネ6:47-59

       野崎卓道 伝道師

 ◇ヨハネ福音書第6章全体のテーマは「パン」である。つまり「私達人間を生かすものは一体何であるのか」という問題である。ここでユダヤ人達は、自分達の「腹を満たすため」(6:26)に主の下にやってきた。彼らは自分達の先祖が荒野でマンナを食べたように、主にそのようなしるしを求めた(6:30,31)。

 ◇それに対して主は「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである」(6:47)と言われた。それは、私達が主を信じ、手を空にして、その手を主に差し伸べる時、初めてこの命のパンである主と交わりを持つことができるからなのである。

 ◇マンナの奇跡が良く表わしているように、私達は「日毎に新しく神と交わる」ことによってのみ本当に生きたものとなるのである。マンナは明日の分まで所有することが許されず、ただその日の分だけを頂くことができた。それは、イスラエルの民が日々新たな決断をもって、神に依り頼むことを忘れないためなのである。ユダヤ人達はこのことを忘れ、自分達がマンナの奇跡を体験した先祖の血筋を引いていることを誇りとしたのである。私達は過去を誇ることによって生きるのではなく、日々新しく神と交わることによって生きるのである。「わたしは命のパンである」という主の言葉は、ご自身と交わるようにとの主の招きなのである。

 ◇更に、私達が「キリストの肉を食べ、キリストの血を飲む」ということは、究極的な神との交わりを表している。これは聖餐式だけに限定されることではない。それは、私達が十字架で裂かれ流されたキリストの肉と血によって、本当に私達の罪は赦されたと信じ生きることである。私達が、キリストの肉を「食べ」、血を「飲む」時、それは私達の内に入り込み、キリストは私達と一体となって、私達の内に生きて下さるのである。

 ◇『夜と霧』の中でフランクルは、アウシュビッツの強制収容所での地獄のような生活を振り返って次のように言った。強制収容所で初めて人間性を破壊されるのは、体が弱い者ではなく、外的な環境に負けてしまい、自ら内的な自由を罪に売り払い、内面的な拠り所を持たなくなった人間であると。

 ◇私達もしばしば周りの環境に負けてしまい、私達の優柔不断な態度を環境のせいにしがちである。しかし、今や主が私達の一番奥深くまで入り込み、私達の内面的な拠り所となって下さるのである。

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◆1999.02.21

「憐れみ深い大祭司」マルコ福音書14:32-36ヘブライ書4:14-5:10

       大宮 溥 牧師

 ◇受難節第一主日を迎え、今年も十字架の主を心新たに仰ぎ、悔改めと神への立ち帰りの時としたい。旧約においても年に一度贖罪の日があり、大祭司が至聖所に入って「償いの座」に犠牲の血の半分を注ぎ、民の命を主に返し、新しい命を受け、外に出て宮の庭に集う民に残りの血をふりかけ、神と人とが新しい生命的な関係に入ることを示したのである。

 ◇ヘブライ人への手紙は、旧約の神殿や祭は、キリストによって成就した救いの雛型、模型と考えている。イエス・キリストは「もろもろの天を通過された偉大な大祭司」(4:14)である。大祭司がエルサレムの神殿の聖所と至聖所を通過する様に、主イエスは神と人間を隔てている下層の天を突き抜けて、最上層の神のもとへと昇られたのである。

 ◇この神の右に座しておられる主イエスが大祭司として、神と直結し、また人間とも直結して、神と人とをしっかりと結び合わせて下さるのである。神との結びつきについては、詩編2:7(受洗の時の言葉)と同110:4(復活高挙の言葉)が引用され、キリストが神に選ばれ、救主に任命され、よみがえらされて、神と人とをしっかりと結ぶ者とされたことが語られているのである。

 ◇次に主イエスは、人間の弱さを自分の弱さとして経験し、それをわれわれと共に担ってくださることが示されている。主は「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(4:15)。この「罪を犯されなかったが」というのは、われわれと違う状態というより、われわれと同じ試練を受けながら、単に「同病相憐れむ」のでなく、この状態(苦しみと悪と死)に敗北するのでなく、これに勝利し、これを克服して下さったことを示しているのである。それ故に主は、まことの助け主なのである。

 ◇キリストが人間のどん底に身を置かれたことを、最もリアルに示しているのは、十字架の前夜ゲッセマネの園でされた祈りである。ヘブライ書5:7はそれを実に的確にえがき出している。これは人間の最も激烈な恐怖と絶望の経験である。これを知る時、われわれは「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださる」(コリント11013)という教えを、深い慰めをもって味わうことができる。どん底にも主がおられる故、われわれはどこに居ろうと、主イエスと共にあり、共に歩めるからである。

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◆1999.02.14

「阿佐ヶ谷にある神の教会」ヨシュア記1:1-9,ヘブライ書4:1-13

       大宮 溥 牧師

 ◇阿佐ケ谷教会の創立を感謝する時、2つの事を心に留めたい。第一はカナダ・メソヂスト教会の日本伝道開始について、創立者の平岩愃保先生が記していることである。カナダ・メソヂスト教会は、世界伝道の開始にあたり、イタリアのローマか日本かという議論の末に、日本伝道を決定した。19世紀の海外伝道というと大教会が各地に多くの宣教師を送ったように考えがちであるが、実は一人の宣教師を送り出すのに、多くの祈りと献金が集中して可能になったのである。神がこの人たちを動かして、日本伝道を進められた。わが教会の歴史の出発も、このような神のわざであったことを忘れてはならない。

 ◇第二は、大村勇牧師が折々「阿佐ケ谷にある神の教会」と呼ばれたことである。教会は一人の主の体として、全世界を貫く一つの群である。阿佐ケ谷教会はこの一つの主の教会が、この地に露出しているのである。歴史の主イエス・キリストの恵みに生き、この主を人々に運ぶ世界的共同体の一端を扱う群として、新しく歩み出したいものである。

 ◇ヨシュア記冒頭は、イスラエルの民が40年の荒野の旅を終え、約束の地カナンに入ろうとした時、神が民の指導者ヨシュアに語られた言葉である。モーセの時代はイスラエル宗教の形成期であった。しかしその時期は終り、これからは新しい環境での生活が始まろうとしていた。人々は沙漠の生活から農業生活に移る時、新しい生活技術と共に、信仰も変える危険があった。しかし主なる神はこの門出にあたって、生ける神としてヨシュアに出会われた。そして「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる」と約束きれた(5節)。新しい歴史も、これまでわれわれを救い導かれた主によって切り開かれる。それ故、われわれもヨシュアと同じく「強く雄々しく」、信仰に堅く立ち、主の導きを信じ、希望と勇気をもって進まなければならない。

 ◇ヘブライ書は、カナンの地に入る時、神が約東されたのは「神の安息」に入ることであったと教えている。それは天地創造の完成の時に神が経験された安息である。それは「神と共に歩むことによって与えられる祝縛」である。イスラエルは神の言葉に開き従わない不信仰によって、この安息に入ることを拒否された。それ故われわれキリスト者は、これを他山の石として神の言葉に真剣に聞くようにすすめられる。神の言葉はわれわれを切り裂くが、そのわれわれを、主イエス御自身が身を裂いて包み、救って下さる。ここにわれわれの力がある。

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◆1999.02.07

「今日を生きる」ルカ福音書9:61-62,ヘブライ書3:1-19

       大宮 溥 牧師

 ◇教会創立75周年にあたり『阿佐ケ谷教会の歴史を生きた人々2』が出版される。その準備をする中で、阿佐ケ谷教会の歴史とは、この教会に召された一人一人の歴史の総括であることを感じた。われわれ一人一人の人生は、神の民の歴史を構成するものとして、神の御心に消えることなく刻まれているのである。

 ◇ヘブライ書は3章冒頭において「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と呼びかけている。われわれの地上の生涯に天にいます神が目をとめ、選び、召し、共に歩んで下さるのである。「あずかる」とは「共有する」という意味である。教会員同士は、神の御招待を共にいただいて進む仲間なのである。「聖」とは、元来区別するとか取り分けておくという意味で、神の所有を示している。キリスト者はこの世から召し出されキリストに属する民に加えられて、この世に証しを立て、隣人に奉仕して歩むものとされたのである。

 ◇このような「神の民」が形成されるためには、われわれを神に執り成し、われわれと神とを結び合わせるイエス・キリストの働きがあった。従ってわれわれは絶えずこの主イエスを仰ぎ、この主に導かれて歩まなければならない。当時の教会はイエス・キリストを「使者であり大祭司である」(1節)と告白していた。「使者」は「遣わされた者」という意味で、新約聖書の他の個所では「使徒」と訳され、主イエスの直弟子の称号である。しかし主イエスはこの直弟子たちに「父がわたしをお遺わしになったように、わたしもあなたがたを遺わす」(ヨハネ20:21)と語られた。主はわれわれの先頭に立って、われわれを導いて下さるのである。また主はわれわれを大祭司として、父なる神に執り成して下さる。

 ◇この主イエスは、われわれを救い導く働きにおいて、まことに「忠実」であられた(2,6節)。われわれを救うために苦しみ死ぬという危機に直面しても、神の意志に忠実に、われわれのための愛に燃えて、十字架の道を歩み抜かれたのである。

 ◇この忠実・真実な主をしっかりと仰ぐ時、われわれもそれに応えて、人生の最後に至るまで、主に忠実に従おうとの決意に導かれるのである。ヘブライ書は、詩編95編を引用しつつ、イスラエルの民が出エジプトの神の恵みを受けながら、荒野の旅においてそれを忘れ挫折したことを思い起させ、「今日」信仰を新たにし、今日恵みの主に出会い、今日新しく主に従うように呼びかけている。主に従うとは主の体なる教会の一員として信仰に生きることである。

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◆1999.01.31

「解放者イエス」詩編23,ヘブライ書2:11-18

       大宮 溥 牧師

 ◇イエス・キリストの働きについて、古来「預言者・祭司・王」の三職が挙げられてきた。「預言者」は、神の言葉を人間に伝えて、神から人への働きを担う者である。「祭司」は、人間を神に執り成すという、人から神への働きを担う。そして「王」は神から与えられた権威と力をもって人間を導き、人々を神の民として整える者であった。この三職をキリストが担われるということは、主が神としてわれわれを信仰に導き、人間仲間としてわれわれを担い、更に主としてわれわれを冶めて下さることを示すものである。

 ◇ヘブライ人への手紙2章は、キリストの「祭司」としての働きを教えている。そして祭司の働きの第一は、神と人との間に立って、人々を神に導くために、先ず他の人間と一身同体となること、人間との連帯である。それ故ここでは、主イエスが人間の「兄弟」となられたことが強調されている(11-13節)。12節の言葉は詩編22:23の引用である。詩編22は冒頭に「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という悲痛な叫ぴがあげられており、これは主イエスが十字架上で叫ばれた言葉である。そこでは神に棄てられた人間の告白であるが、それが23節になると一転して「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを讃美します」と、讃美と喜びの歌に変るのである。これは神が人間の祈りを聞きとどけ、苦しみから解放して下さったからである。これは十字架によって人の罪をあがない、復活の勝利と解放をなしとげられたイエス・キリストにふさわしい詩編である。

 ◇14節では主イエスが、われわれと同じ人間となり、「血と肉を備えたもの」になって下さったことが示されている。人間が生老病死の厳しい現実を痛感するのは肉体を通じてである。主イエスはそれを生ま身の人間として経験し、それ故にわれわれの生ま身の試練の中で助けて下さるのである。また「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にある者」を、十字架の死を経験された方として「死の陰の谷を歩むとも」共にいて下さる方として、同伴して下さるのである。

 ◇このようにイエス・キリストは、生ま身の人間の弱さと苦しみを、自分のこととして引き受け、それを神の力によって砕き、われわれを担って神のもとに導く「大祭司」のつとめを果された。この主のもとで、われわれも互いに他をとりなす存在として生きるよううながされるのである。

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◆1999.01.24

「救いの焦点」マタイ福音書16:13-21,ヘブライ書2:5-10

       大宮 溥 牧師

 ◇イスラエルの民が約束の地パレスチナに入ろうとした時「前方に抜き身の剣を手にした一人の男」が立っていた(ヨシュア5:13)。それは「主の軍の将軍」でありイスラエルの前進を導くためであった。このように、国々民族毎に、その守護天使がいると考えられていた。それに対してヘブライ書2:5では、「来るべき世界」(神の国、人間の救い)はイエス・キリストによって与えられると説いている。

 ◇更にヘブライ書は、このイエス・キリストがどのような方であるかを語っている(6-8節)。その際詩編8編が引用される。これは人間に対する特別な神の恩顧を歌ったものであるが、それがイエス・キリストの説明として受けとられている。「人の子」イエスが「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」。これはイエスの地上生涯の姿である。主は天使のように神と人との中間に止るのでなく、人間になり切られたのである。そして「死を味わわれ」、それを飲みつくして勝利し、復活して神の右に座したもうのである。ここにわれわれの救いが全うされたのである。

 ◇しかし、キリストが万物を「足の下に従わせる」と約束されていながら、「しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません」(8節)。末だ神の国に程遠く、現在は光と闇の交叉する、未解決の問題に満ちている。

 ◇「ただ……イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています」(9節)、神の国はまだ見ていないが,十字架の主が勝利しておられる姿をはっきりと見ているのである。ここに救いの焦点がある。冬のなお寒さ厳しく周囲は雪に閉ざされている時、道の傍らに立っている木が芽とつぼみに春の準備をしているのを見て「冬来りなば春遠からじ」(シェリー)との希望を与えられる様なものである。十字架と復活の主こそ、神の国の前兆であり、その保証なのである。

 ◇主イエスはフィリポ・カイサリアで、弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタイ16:ユ5)と問われた、これは人間に対する聖書全体の問いかけである。それに対してペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」(16節)と、最初の信仰告白をした時、主イエスはこれを深く喜ばれると共に、メシアの道が十字架への道であり、受難の道であることを示された。この十字架と復活の道が、滅びから救いへの転換の道であり、救いの焦点であることを心にとめ、この道を我々も歩もう。

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◆1999.01.17

「召しに応える」ヨシュア記24:14-18,ヘブライ書2:1一4

       大宮 溥 牧師

 ◇新年の歩みも、港を出し沖に向おうとしている。ヘブライ書の今日の個所は、われわれの人生航路を導く神の言葉への聴従をすすめている。「注意を払う」と訳された言葉は「船の錨をおろす」、「押し流される」は「水夫が風向きや潮の流れに対する注意を怠ったため、船が港や停泊地点からはずれて漂流してしまう」ことを示す航海用語である。それ故1節は「わたしたちは教えられたことがら(神の言葉)に人生の錨をおろし、人生という船が港から押し流されて破船しないようにしよう」(バークレー)とすすめているのである。

 ◇ここでヘブライ書は旧約の言葉さえ、真剣に守られてきたのだから、それよりはるかにすぐれた新約の福音に堅く立つように注意をうながしている(2-3節)。ヨシュア記24章の「シケムの契約」は、イスラエルの民が、約束の地に入ろうとするにあたって、主への信仰を真剣に告白したものである。彼らは新年祭に「主の即位式」を行い、年毎に新しく信仰を告白したのである。

 ◇キリスト者に伝えられている福音(救い)は「主(イエス)が最初に語られ」(3節)たものである。そして「それを聞いた人々によって、わたしたちに確かなものとして示され」ている。使徒の後の世代の人々は、使徒の証言を通して、イエス・キリストとその救いに触れるのである。しかしこのような過去の言葉を、我々が今読む時・生ける神がその言葉を介して、直接に語って下さる(4節)。これは「聖霊の内的証示」(カルヴァン)である。聖書を読む人の心に聖霊が働いて、今ここで生き生きと語りかける神の言葉となるのである。

 ◇ある人は教会を、敵に向って、隊列を組んで進んでゆく軍隊にたとえた。先頭部隊から後方部隊に伝令が来て、最前線で強力な敵に遭遇し、激しい戦いが姶まったことを告げる。後続部隊はそれを聞いて、敵と直面する備えをしつつ進むのである。ここで敵は神、先頭部隊は使徒たち、後続部隊は我々、伝令のメッセージは使徒たちの証言(聖書)である。神は敵でなく、大いなる救いであるが、その恵みは最大の敵である死をも砕くほどに強いのである。減ぼす力ではく、われわれを救わずにはいない激烈な愛である。われわれは、聖書の福音に聞いて、今ここでわれわれのところに来られる主イエス・キリストと出会い、その召しに応えて、宣教と奉仕のわざに、隊列をととのえて進むのである。創立75周年の教会の歩みも、そのように召しに応えるものでありたい。

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◆1999.01.10

「主なるイエス」マタイ福音書3:13-7、ヘブライ書1:5-14

       大宮 溥 牧師

 ◇1月6日は公現祭もしくは顕現祭(エピファニー)で、主イエスがヨルダン川で洗礼を受けたことを記念する日である。あの時天が開けて聖霊が鳩のように主イエスに下り、また天から「これはわたしの愛する子」(17節)という声が聞こえた。主イエスが神の子であることが、公に現れ出たのである。

 ◇この天来の声は、実は旧約聖書の詩編2編の言葉である。ユダヤの人たちは聖書の言葉を、自分に対して今語りかける神の言葉として聞いた。主イエスも洗礼を受けた時、詩編2:7の言葉を、自分に父なる神が直接語りかけるものとして聞いたのである。そして生涯それが心に響きつづけ、それ故神を「アッバ父」と呼び、神の子として生き働かれたのである。

 ◇この詩編の言葉がヘブライ人への手紙1:5にも引用されている。これを初めとして、ここには旧約聖書から7つの個所(そのうち5つは詩編)が引用されている。当時の教会には、旧約聖書の中で特にイエス・キリストを預言するものと思われる章句を集めた「キリスト証言集」のようなものがあり、ヘブライ人への手紙の著者もそこからこれらの章句を抜粋したものと思われる。

 ◇これらの章句は、1:4にある「御子は天使たちより優れた者となられました」という、天使に優る主イエスの権威と優越性を示す証拠として引用されている。当時の世界では天使崇拝が広く行われており、主イエスも天使の一人と考える人があった。天使など現代人には疎遠な話のように思われるかも知れない。しかし天使は神と人間とを仲介する存在である。宗教は「絶対者と人間との媒介」(熊野義孝)であるからこれを、諸宗教とキリスト教の闘系を考えるヒントとすることができる。

 ◇神は他宗教を通しても人々に語りかけ働きかけている。だから邪教として対立的にのみ取るのでなく、正しい宗教に対して敬意を払い、学び合い、可能な点では協力する。しかしそれは宗教はどれも同じで、キリスト教も多くの宗教の一つだと言うことではない。ヘブライ書で「御子は天使にまさる」と強調しているように、イエス・キリストは、神の一人子であり、神が直接われわれに出会って下さるのである。

 ◇ヘブライ書1章に引用された聖句は、元来イスラエルの王について語られたものが多い。それを初代教会は、父なる神が御子キリストに対して語っておられると考えた。主は誕生と十字架と復活を通じて、真の教主となられたのである。

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◆1999.01.03

「神の子の栄光」マタイ福音書28:16-20,ヘブライ書1:l-4

       大宮 溥 牧師

 ◇1900年代の最後の年を生命の年として迎えられたことを感謝する。今年はまた阿佐ケ谷教会創立75周年である。これまでの主の導きを心に刻み、神の民の新しい歴史を築きたいものである。

 ◇ヘルンフート兄弟団の『日々の聖句』では、l999年の「年の聖旬」としてマタイ福音書28:20「見よ、わたしは世の終りまでいつもあなたがたと共にいる」を掲げている。マーガレットFパワーズの「足跡」の詩が語るように、主はわれわれと人生の歩みを共にして下さり、われわれが歩けないような試練の時には、われわれを背負って歩んで下さる。この主の約束の故に、われわれは今年も希望新たに、それ故に大胆に勇気をもって、自分に与えられた道を前進してゆきたいものである。

 ◇年頭から暫くrヘブライ人への手紙」を連続して学びたい。これは新約の教会における、第二世代のキリスト者によって書かれたものである。教会建設にあたった初代の使徒たちが世を去り、主イエスに直接出会ったことのない後継者たちが、ユダヤ人や異邦人の無理解や迫害の中で、伝道と教会形成にあたった時代である。創立75周年を迎えた阿佐ケ谷教会の歩みに共通のものがある。

 ◇ヘブライ書の冒頭は、手紙というより論文もしくは説教の語り方をしている。そしてこの手紙は格調の高いギリシャ語で書かれており、著者が熱い信仰と高い教養と深い思索の人であったことを思わせられる。この冒頭部分で著者は、人間の歴史の中に一貫して働いている、神の救いと導きについて語り、その頂点がイエス・キリストであると説いている(1-2節)。ここに「神は語られた」と2度繰り返されており、人間の歴史を通じて、神は人間に御自分の存在と働きを、語りつづけてこられたことを強調している。神は沈黙しておられるのでなく、心の耳を澄ませるませるならば、神の声が聞こえてくるのである(ローマ1:19A)。

 ◇神は自然を通して語られる(詩編19)。また「預言者たちによって…語られた」。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」(ミカ68)。21世紀の日本人は地球市民として生きるために個の確立が大切である。そのためには神に聞いて神と共に歩まなければならない。

 ◇旧約において語られた神は、主イエスにおいて、この世に来られ、われわれと共に歩まれる。この主と共に歩みはじめよう。

  

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