1999.7-9


もくじ

◆09.26「外に出る」レビ記16:6-10,ヘブライ書13:9-19
◆09.19「聖化の道」ヘブライ書12:14-29
◆09.12「変わることのない方」ヘブライ書13:1-18
◆09.05「主の訓練」ヘブライ書12:1-13

◆08.29「内なる光」エゼキエル書37:1-6、ヨハネ福音書11:1-16
◆08.22「救いの岩」詩編42:1-12、ヨハネ福音書7:37-38
◆08.15「苦悩の冠」イザヤ書61
◆08.08「信仰の完成」ダニエル書3:14-18ヘブライ書11:32-40
◆08.01「忍耐による勝利」出エジプト記15:1-6、ヘブライ書11:23-31

◆07.25「アブラハムの信仰」創世記15:1-6、ヘブライ書11:8-22
◆07.18「信仰」の歴史」創世記15:1-6、ヘブライ書11:8-22
◆07.11「世界の実相」創世記1:1-13、ヘブライ書11:1-3
◆07.04「堅忍の信仰」ヘブライ書10:26-39

 

メッセージへ

ホームページへ

 


◆1999.09.26

「外に出る」レビ記16:6-10、ヘブライ書13:9-19

       大宮 溥 牧師

 ◇ヘブライ書はキリスト教的生活指針の結びとして「神の言葉を語った指導者たち」に従うことを勧めている。教会の基礎として「信仰と職制」faith and orderがある。「信仰」とは信仰告白のことで、信仰の基本を要約したものである。われわれが礼拝ごとに告白する「使徒信条」、洗礼式ごとに告白する「日本基督教団信仰告白」などである。それに対して「職制」とは、教会制度のことで、教会の組織と秩序を神の民にふさわしく築き上げようとするものである。教師の位置づけはその中でも大切な問題である。

 ◇教会の基礎は生けるキリストであるが、これは生ける人間(教師)によって伝えられる。教師は聖書と信仰告白に記されているキリストを、自分に生き生きと迫るキリストとして、説き明かし、証する使命が与えられているのである。教師は人間として欠けもあり有限なものであるが、その証しする「イエス┬疋キリストは、きのうも今日も、永遠に変ることない方」である(8節)。このような証人としての教師(指導者)に「見倣い」(7節)、「服従しなさい」(11節)とすすめるのである。

 ◇しかし教師の中にも、自己流の教えを説き、それによって教会が混乱させられることがある。教会の信仰でなく異端の教えが広がることがある。それ故「いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません」(9節)と警告が与えられている。当時の教会には「食物の規定」を強く主張する人たちがあった様である。それに対して著者は「食べ物ではなく、恵みによって心が強められるよう」、信仰の根本に立って生きるよう勧めている。

 ◇信仰の根本は礼拝である。「わたしたちには一つの祭壇があります」(1O節)。旧約では祭壇上に犠牲の血が注がれ、雛の動物の体は神殿の外で焼却された。それは血が表わす命を神に返し、罪の身を葬ることであった。この犠牲の完成がイエス┬疋キリストである。主はわれらの罪を担って十字架に死に、われわれの命を更新して下さったのである。

 ◇イエスはわれわれを救うために、エルサレムの門の外で十字架にっかれた。「門の外」とは、神の都から閉め出された場所である。主イエスは神のもとを去り、滅びの渕(縁)に立っている人間のところに来て、われわれを救われた。神の中心から周辺に来、それによって周辺に斥けられているわれわれを、神の愛の中心に迎えて下さった、この恵みを与えられたわれわれも、外に出て、伝道と奉仕に励まねばならない。

       もくじへ 


◆1999.09.19

「聖化の道」ヘブライ書12:14-29

       大宮 溥 牧師

 ◇この聖書の個所は「キリスト者にふさわしい生活の勧告」が記されている。その冒頭に「すべての人との平和を」求めよとすすめられている。平和、シャロームはユダヤ人が日常の挨拶とするほど、生活の根底からの祈りであった。諸大陸間の交通の要所であるパレスチナは、諸民族の激突する所で、人々の生存には平和が不可欠であった。そして平和は契約が成立し、諸民族が信頼関係の下に生きることによってのみ確保されるのである。

 ◇聖書の基本の「契約」は、第一に「神との契約」である。そして神は、神の敵となっていた人間を、怒って滅ぼすのでなく、罪を赦し、受け入れ、愛され、破れた契約を更新されるのである。特に新約聖書は、神がキリストを犠牲として、敵対関係を愛と信頼の関係に変えて下さった。ここに神と人との平和が確立された。この平和にあずかった者は、隣人との間の平和を作り出してゆくのである。

 ◇キリスト者の生活は、平和を作り出す生活であると共に、「聖なる生活」である。キリスト者の生活の基本としてr義認」と「聖化」がある。「義認」は、神が罪人をキリストの犠牲故に、義と認めることである。罪にもかかわらず、義人とみなし、受け入れて下さるのである。それに対して「聖化」は、神と交わり、神と共に歩む中で、潔められ、聖なる実質を与えられることである。ルターが用いたたとえのように、黒く冷たい鉄が赤く燃える火の中に入れられて、自ら赤く燃えるようになるのである。われわれは死ぬまで、完全にはなれず、絶えず義認の恵みを頂くことが必要であるが、しかし、常に出直して、聖化の道をたどるのである。

 ◇ヘブライ書はこの聖化の道を、個人レベルにとどまらず、教会がたどる道であり、教会がこの世において「地の塩、世の光」となる道として示している。そのためキリスト者は、教会の中で落伍者にならず、全体をつまずかせる「苦い根」とならず(15節)、脱落者とならないよう、奮起をうながしているのである(16-17節)。

 ◇聖化の道を歩む源動力は礼拝である。「近づく」という言葉は、礼拝において神の前に進み出ることを示している(19節、22節)。新約の礼拝は、旧約のように掟と裁きの神でなく、赦しと救いの神に近づき、生ける神の民に加えられることである。その中心に「新しい契約の仲介者イエス」(24節)が立っておられる。キリストというぶどうの木に、礼拝によって新しくつながれ、生ける枝として実を結ぶのである。

      もくじへ 


◆1999.09.12

「変わることのない方」ヘブライ書13:1-18

       大宮 溥 牧師

 ◇この伝道礼拝で、昨年受洗されたSさんの証を伺った。どなたの証を聞いても、人生途上においてキリストと出会い、主と共に歩む経験が示され、それによって、われわれ自身の人生もキリストが共に歩んで下さっていることに気付かされるのである。Sさんと同じく、病気を経験された隅谷三喜男氏は、それによって人生の座標軸の横軸が切断される時、改めて縦軸としての神との関係が受け止め直されたことを語っている。人事という横軸は、神との関係という縦軸によって、断ち切られ、また新しくされるのである。

 ◇ヘブライ書13章は、この書の結びとして「いかに生きるか」の勧告を与えている。ここでは、もつぱら人間関係を如何に築くかという人生の横軸についてのすすめである。しかし、それを生かすものとしての縦軸がしっかり据えられているのである。

 ◇先ずキリスト教倫理の根本としての、愛の教えが説かれている。主イエスは律法の要約として神への愛と隣人への愛を教え(マルコ12:28-34)、パウロは隣人愛に集約した(ローマ13:9-10)。ヘブライ書ではこれが、兄弟愛(1節)から、旅人への愛(2節)へと拡がり、更に積極的に苦しむ者と連帯する生活(3節、マタイ25:31-46参照)へと展開してゆく。4節になると結婚生活、5節では経済生活の指針が示される。神の愛に養われて拡がってゆく愛への励ましと、神を畏れて身を慎しむ生活が示されているのである。

 ◇これを読む時、今日の社会がこれとは正反対の姿を呈していることに気付かされる。エゴイズムと生命への畏敬を忘れた生きざまである。それらの問題の根底に「人生の縦軸」が抜けてしまった問題が見えている。もう一度神の恵みと真実に立ち帰り神を愛することと神を畏れることの基本に立ち帰らなければならない。

 ◇ヘブライ書は、この倫理をすすめるにあたって、神が「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」(5節)と語られた言葉を思い起させている。これはイスラエルの民が約束の地に入ろうとするにあたって、モーセとヨシュアを通じて神が語られた言葉である。(中命記31:6,8、ヨシュア記1:5)。そして、これを聞いて語られる信仰の告白をrはばからず」に言おうという時、この言葉は「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)のr勇気を出す」と同じ言葉が使われている。この変ることのない主こそ、出発点であり力である。

     もくじへ 


◆1999.09.05

「主の訓練」ヘブライ書12:1-13

       大宮 溥 牧師

 ◇ヘブライ書l2章は信仰の振起をうながす勧告である。11章で紹介した信仰の先達たちを一括して、われわれが「おびただしい証人の群れ」(口語訳では「雲のような多くの証人たち」)に囲まれていることを思い起させる。ここは通常、彼らが自分の競走を完走して、観覧席につき、現在のコースを走っているわれわれを見守っているように解釈される。しかし、彼らも終末の神の国をめざして走る仲間として、共に走っているのである。神の民は「天にある者も地にあるものも」共に、神の国に向って走り、互いに励まし助け、とりなしつつ走る仲間なのである。

 ◇この競走の先頭を「信仰の創始者一また完成者であるイエス」(2節)が走っておられる。「創始者」と訳された言葉は、レースの先頭に立ってチームを引っ張ってゆく者のことである。われわれを抜いて、引き離して行く人でなく、すぐ前で、ここが山場だ、投げ出さずに忍耐する様に励ましリードする人である。「完成者」は、われわれの後を引き受けて、競走のアンカーとして、勝利を確保してくれるものである。

 ◇「このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て」(2節)という言葉は、口語訳では「彼は、自分の前にある喜びのゆえに」と訳されていた。「喜び」の前にある前置詞は「故に」とも「逆らって」とも訳せるのである。「逆らって」と訳すと、主イエスが本来の神の子の喜びを捨てて十字架の道を歩まれたことを指し(フィリピ2:6と同じ)、「前に」と訳すと、主イエスは十字架の死においても、それが最後でなく、入間の救いと復活の勝利が前にあるとの確信をもって、十字架の道を希望をもって歩み抜かれたことを指す。二つとも真である。

 ◇主イエスは教主であると共に模範である。キリスト者は、主イエスの救いと愛を感謝して受けると共に、十字架の道を愛と希望をもって進まれた、主イエスを模範として人生のレースを走り抜くのである。

 ◇このレースを完走するために必要なのは忍耐であり、神はそのような堅忍不抜の人生を歩むように、われわれを「鍛練」訓練される。ライオン歯みがきの創始者、小林富次郎氏が、若い時にマッチ製造を手がけ北上川上流の木材をいかだに組んで海に運ぼうとしたのが、台風で流失、木材が橋げたを破壊し、地元の怨みを買った。絶望して投身自殺しようとした時、前日とどいた長田時行牧師の便りに「神の訓練」とあったのを思い越し、心機一転して現在の仕事の基を開いたと言う。

    もくじへ 


◆1999.08.29

「内なる光」エゼキエル書37:1-6、ヨハネ福音書11:1-6

      野崎卓道 伝道師

 ◇主イエスとラザロ、及びマルタとマリヤは特別に親しい関係にあった。それだけに、主イエスが「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」(5節)ことに彼女たちは蹟きを覚えた(21,32節)。耐え難い苦しみの中にある時、神に祈っても一向にその苦しみはなくならない。そのような時、私達は神の愛に対して疑問を持つようになる。

 ◇弟子達も主イエスに躓いた。主イエスが「もう一度、ユダヤに行こう」(7節)と言われたからである。彼らはユダヤ人達を恐れて、危険な目に遭いたくないのでこう言ったのである。私達も信仰に伴う良い面は受入れるが、辛い面、厳しい面をなかなか受け入れようとはしない。主に従っているように見えても、都合が悪くなると、私達の自己中心的な思いが露になる。

 ◇主イエスは、そのような弟子達に対して、決断を迫られる(9節)。夜歩くというのは、自分中心に生きる生き方のことである。その人の内には、人生を導く光がないから躓く。昼間歩くというのは、自分中心の生き方を捨てて、神のご意志に従って生きる生き方である。そのような人に対しては、神自らが光となって、その人の行くべき道を照らして下さるのである。

 ◇カトリックの信者であられ、放射線医学の医者であられた永井隆さんの書物『この子を残して』の中に次のような一節がある。人は生まれながら完全な幸福を求めており、ある者はお金に、ある者は社会的地位に、ある者は学問にそれを求める。しかし、私は自分の幸せに必要だと思われたものをすべて原子爆弾によって奪われて、初めて完全な幸福を手に入れるためには宗教による他ないことを知った。完全な幸福は神のみ栄えをあらわし、神と一致することである。神のみ栄えのために働くことが完全な幸福の道なのだから、病気も苦痛も失敗も逆境も、私の幸福には関係がない。

 ◇主イエスはラザロの病気について「この病気は神の栄光のためである」(4節)と言われた。ラザロは死んで、全く無力になって初めて神の復活の力を顕す器として用いられた。神のみ栄えを現すのに、人間の能力の優劣は全く関係ない。むしろ、私達の才能が神の御栄えを曇らしてしまう危険の方が多い。教会は無力の中にあって、神の力によって生きるのである。弱さの中にあって、主に頼って生きる時、主は私達の「内なる光」となって私達を照らし、復活の力を私達の内で働かせて下さるのである。

    もくじへ 


◆1999.08.22

「救いの岩」詩編42:1-12、ヨハネ福音書7:37-38

      大宮チヱ子牧師

 ◇日本の夏は祭りの季節として賑わう。祭りの由来や祝い方にはそれぞれ特徴があり、深い意味がある。聖書の民イスラエルも多くの祝い事、祭りを行った。イスラエルの祭りは神への感謝と讃美を表す礼拝の一形式、一方法であった。歴史的な出来事を想起し記念するために、日常生活の節目をとらえて行った。祭りは日常生活を中断して、人々の心を神に向けさせるものであった。週毎の、月毎の、年毎の、あるいは時折の多くの祭りが行われた。安息日は週毎に行われる祭りであった。従って、現在主日毎に守られる礼拝も祭りであり、家庭やグループでの礼拝も祭りである。神の恵みの御業を覚えて感謝し、喜び祝い、讃美する祭りである。

 ◇主イエスは、イスラエルの三大祭りの一つで秋の収穫を祝う「仮庵祭」に行かれた。この祭りの間(7-8日)、畑に小屋を建ててそこに住んだことからこの名で呼ばれた。人々はかつての出エジプトにおける荒野の旅を想い起し、その苦しみと不思議な神の導きを覚え直すと共に、地上の生活が限りある旅であり、仮の住居であること、永遠の住居である故郷に向かっての旅であることを覚えた。この祭りが「最も盛大に祝われる終わりの日」、水注ぎが行われる日に、主イエスは「渇き」について語られた。本当に潤っているのか、渇いていないのか、喜びに溢れているのかと鋭く問われた。そして「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(37節)とr生きた水」、命の水であられる御自身を示された。◇詩編の第二巻冒頭にある42編は、バビロン捕囚の時の歌であろうといわれる。異郷での捕われの生活は苦難と恥辱に満ちたものであった。「うなだれ、呻く」日々であった。なかでも彼らの最大の苦しみは、神の宮での共なる礼拝を「いつ」守れるようになるか分からないことであり、「お前の神はどこにいる」との絶え間ないののしりであった。

 ◇それ故詩人は、rわたしの魂は渇く」と、「涸れた谷に鹿が水を求めるように」神を慕い求め、渇きをいやして下さる「命の神」、「救い」であり「岩」である「神の御顔を仰ぐことができる」日を熱望した。神による助けと導きを固く信じ望み、自らに「神を待ち望め」と繰り返し語りかけ、励ましている。かって神の宮で共に捧げた喜びの礼拝を思い描き、ゆるがない「救いの岩」である神に望みをおいて、「生きた水」に与る喜びと恵みを受けている。

   もくじへ 


◆1999.08.15

「苦悩の冠」イザヤ書61

     中山ふみ 先生

 ◇かつての聖地旅行の折、死海のほとりに立った日のこと。神様が参与なさる途方もなく深遠なる歴史に思いをはせ「無限なる宇宙の流れの中におけるこの小さな一点にすぎないわたし」(パンセ)の感概に深くうたれたことを忘れることはできない。

 ◇今を遡ること半世紀余、奇しくも発見された「死海文書」の中で、最も量が多く、宇宙万物をも抱きこむスケールをもち、預言書中の預言書ともいわれ、格調高く荘厳で美しく、激越でありつつ優しさを秘めているイザヤ書。その中の第三イザヤと呼ばれている預言は、50年にも及ぶバビロニヤ捕囚から帰国したユダヤの民の、お先まっ暗な状況に対し語られたみ言葉である。そこに於ては、神さまが慈しみをもって、憐れみをもって、苦悩のただ中にある人間を捕え導いて下さる預言に充ちている。

 ◇「主はわたしに油を注ぎ主なる神の霊がわたしをとらえた。……」(1-2節)ルカ福音書4章18節には、イエスが安息日にナザレの会堂で、イザヤ書のこの個所に目をとめられ朗読なさったと記されている。束縛をうけ苦しんでいる者が、精神的にも肉体的にも解放されることこそ福音にほかならない。

 ◇どのよう┬疋な苦悩のただ中にあろうとも神によって「正義の樫の木と呼ばれるようになる」(3節)との約束に、主の切ないまでの愛と願望をよみとることができる。

 ◇帰国したものの、荒廃、恥辱など、さまざまな試練にあって苦闘していた民、捕囚という大きな試練の後遺症にいたく悩まされ、暗いトンネルの中で立ちつくしていたような民に向かって、「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る」(10節)と、思いもかけない救いの預言が語られる。

 ◇神さまの恵みは隠されていて、神秘でありつつ確実である。捕囚という大いなる試練をうけ、苦悩にあえいでいた民も、うち砕かれた心をもって主に帰り、主を仰ぎみた時、恵みに充ちた励ましが与えられることを告げてやまない。「聖書は、人の賢さが崩れる時を直視する。しかも、そのような時にもなお、人間を耐えさせ生かすものを示す」(左近淑)。

 ◇今日8月15日は54年目の終戦記念日にあたる。日本が犯した罪の数々を深く俄悔し、尊い犠牲によって得たこの戦いの終結の意味を深くかみしめたい。平和がどんなに有難いかを、しんそこかみしめる日であることを想起しよう。「神さま、私たちの裡にひそむ敵意を滅し、あなたによる平和を実現して下さい」と切に祈りたい。

   もくじへ 


◆1999.08.08

「信仰の完成」ダニエル書3:14-18、ヘブライ書11:32-40

        大宮 溥 牧師

 ◇ヘブライ人への手紙は11章で信仰者の歴史を綴っているが、今日の結びの部分では、個々の事跡でなく、信仰の先達たちの名を挙げるに止めている。しかしこの手紙の読者たちはその名を聞くだけで、その人たちの生涯が生き生きと浮かび上り、彼らの生きた歴史の舞台に、今自分が呼び出されて立っていることを感じたであろう。

 ◇その冒頭に出てくるギデオンは、イスラエルの歴史形成期に、強敵ミディアンの抑圧からイスラエルを解放し、民族の独立をなしとげた勇士であった。彼は元来臆病でrミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた」(士師6:12)ような人であったが、召命を自覚した時、300人の兵士をもって何万という敵を敗走させるような勇気の人となった。「弱かったのに強い者とされ、戦いの勇士となり、敵軍を敗走させた」(34節)。「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(ローマ8:31)との信仰に生きたのである。

 ◇このような信仰による勝利の例が次々と記される反面、この世において信仰の妥協をしなかったために、迫害に会い、苦難を忍び、殉教の死をとげた例も多い(35一38節a)。信仰は単なる御利益追求ではないのである。ヘブライ書は「世は彼らにふさかしくなかったのです」(38節b)とさえ言うのである。

 ◇聖書はこの世が神の創造の世界であることを教えているので、キリスト者は現世否定や禁欲主義の態度でなく、積極的に生きるのであるが、この世を絶対化しない。この世において神を人生の座標軸の原点であり、縦軸であるとして、神との関係を確立することを第一の課題とするのである。この人生の原点と縦軸が確立することによって、横軸である人間関係、この世における人間のあり方が正しくされるのである。神に従うところから、人間の交わり、自然の中での芝生の道が整えられるのである。キリスト者は、人々がこの道を歩むように努めるが、「たとえそうでなくとも」(ダニエル3:18)、主なる神への信仰を貫くのである。

 ◇この信仰の歴史は「わたしたちを除いては」「完全の状態に達しない」(40節)。これは、キリスト者の信仰が先達よりすぐれているというのではない。信仰を生じさせ育てる神の恵みが、イエス┬疋キリストによって完成したというのである。イエス┬疋キリストの救いは、弱いわれわれをも完全に救う。その恵みによって信仰を励まされるのである。

 

   もくじへ 


◆1999.08.01

「忍耐による勝利」出エジプト記15:1-6、ヘブライ書11:23-31

        大宮 溥 牧師

 ◇日本基督教団は、8月第1日曜日を「平和聖日」と定めている。これは大村勇牧師が教団総会議長であった1962年に制定されたものである。当時は米国とソ連との冷戦時代であった。今日そのような大きな対立はなくなったが、逆に民族間などの紛争が各地で起っている。その中で日本は国防新ガイドラインの制定など、平和への努力よりも戦争協力への動きの方が優先しているかに見える。もう一度第二次大戦直後の平和立国の初心に帰り、平和と共生の新時代を築く志を新たにしなければならない。

 ◇戦争は国家間、民族間のぶつかり合いであるが、その際それぞれの国が自国をどう理解しているかで、国の生き方が違ってくる。戦争終結までの日本は、自分を神国と称し、八紘一字(世界を一つの家とする)とのスローガンのもとに、他国侵略を正当化した。それに対してユダヤ人はかつて自分たちは奴隷の民であったが、神の恵みによって解放されたことを心に刻み、神への感謝と他民族の苦しみを覚え共に歩もうとしたのである。日本の国も自己栄光化の神話でなく、戦後の崩壊から平和国家として再出発したあの歴史(平和憲法の理念)を、国家形成の原点とすべきである。

 ◇今日の聖書は、ユダヤ人(イスラエル)が出エジプトの解放を与えられた時の指導者モーセの信仰を述べている。そこではモーセとその家族が、エジプトの王の権力をも恐れなかったことが記されている(23,27節)。人間の権力の絶対化を拒否したのである。この姿勢は他国の権力だけでなく、自国においても権力者の自己絶対化が否定された。人間を支配するのは神であって、国家も個人も、神の恵みによって生かされていることを感謝し、神の恵みの支配のもとで共に生きる道を歩むべきである。

 ◇モーセは、エジプトの王宮に留まって支配者になるか、同胞と共に生きるかの選択を迫られた時「はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選」んだ(25節)。人間は神の民の一員であり、それ故場合によっては、自分の国に対しても批判を加える。キリストは「教会のかしら」であると共に「世界の主」であり(クルマン)、教会と世界はキリストを中心とする同心円なのである。それ故教会は世界に中心であるキリストを証する。

 ◇この主イエスは、父なる神のもとからこの世に来て、世の救いのために犠牲になられた。中心から周辺に来、周辺に追われていた人間を神のもと(中心)へと導かれれこの主に応えて愛と共生に生きる時に平和が築かれてゆくのである。

    もくじへ 


◆1999.07.25

「アブラハムの信仰」創世記15:1-6、ヘブライ書11:8-22

        大宮 溥 牧師

 ◇アブラハムは「信仰の父」であり、信仰者の原型である。彼によって示される信仰の道は、第一に、神の召しに応えて、行く所を知らずして出発する冒険の生活である。彼は古代文明の代表的都市ウルを出て沙漠の道を通り、辺境のパレスチナに行った。部族が繁栄増大したため新天地を求めて移住したのか。あるいはその地から追われるような不祥事とか争いがあって、心ならずも旅立ったのか。聖書はそれらについて一切語らず、ただ神が旅立ちを命じられたのでr行き先も知らずに出発した」(8節)と語る。われわれも入信の動機は色々あるが、大切なことはそれを契機として、神が私をお召しになり、主に従うことを命じられたことである。信仰は神を仰いでその招きに答えることである。

 ◇アブラハムの信仰の第二の特徴は、彼が約束の地であるパレスチナに到着した後も、そこに安住して眠りこけるので意く、目を覚まし「地上では旅人であり寄留者である」(13節口語訳)ことを自覚し、「天にある故郷」に向って前進しつづけたことである。信仰者は自分の置かれた場所を、神がつかわして下さった約束の地として受け取り、根をおろし腰をすえて生きる。しかし他面、旅人として「跡を濁さず」また次の歩みを始めるものである。公害問題も人間が自分の環境を神から託され次世代に引き渡すべきものと考えず、自分だけで浪費し放置した結果である。

 ◇アブラハムは旅の人生で試練に会っても、昔の生活にもどろうという後向きの生活でなく、前に向って進んだ。ヘブライ書の時代のキリスト者は、迫害の中でくじけて信仰以前の生活に逆もどりするのでなく、「信仰こそ旅路を導く杖」と頼み、信仰を貫いて前進した。高齢社会に生きる人間も昔はよかったと昔を懐しむのでなく、「夕べになっても光がある」(ゼカリヤ14:7)故に、主に導かれて「老いの坂を上りゆく」(讃美歌284)のである。

 ◇アブラハムの信仰は希望の歩みであった。彼は独り子イサクを通して繁栄を約束されていたのに、そのイサクを献げるように命じられた。ヘブライ書はその時アブラハムは「神が人を死者の中から生き返らせることがおできになると信じた」(19節)故に敢て献げようとしたと記している。しかしむしろ彼は、手中の玉のようなイサクを奪われるような時も、その手中に神をにぎりしめ、神に絶対の信頼を置くことによって、前進できたのである。彼の希望は人間的希望でなく神への信頼であった。ここに人間が前進し得る秘密がある。

    もくじへ 


◆1999.07.18

「信仰の歴史」創世記15:1-6、ヘブライ書11:8-22

        大宮 溥 牧師

 ◇ヘブライ書は「旅する神の民」が主題である。教会は神の民として、歴史の只中を、信仰の灯をかかげて道を照らし、神の国をめざして旅している。神の民の歴史は人類の歴史と同じ時に始まり、世代から世代へと信仰の灯を引き継ぎながら、信仰の歴史が続いてゆくのである。

 ◇ヘブライ書の11章4節以下は、この信仰の歴史の主な流れ、主なる担い手を描いている。しかし人間の始祖アダムの名が記されていない。彼は不信仰による堕落の道を歩んだからである。それ以来人間の歴史はエデンの楽園の外で展開する。理想でない、厳しい現実の只中を、人間は信仰によって希望と勇気を与えられて、道を切り開いてきたのである。

 ◇カインとアベルの歴史は、「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」(創世記4:4-5)という、不条理な現実をありのままに描き出している。それに対してヘブライ書は「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ」(4節)たと言う。アベルは、信仰によって自分を神に献げるという「献身」のしるしとして、供え物を献げた故に、嘉納されたのである。こうして神と共に歩む時、その生命的な交わりは死によっても断たれることなく、彼は「死にましたが、信仰によってまだ語っています」。

 ◇エノクについては、聖書はほとんど何の記録をも残さず、「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(創世記5:24)とだけ語っている。これをヘブライ書は「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました」(5節)と説明する。信仰の生涯は神がパートナーとなって下さる旅である故に、地上においてすでに永遠の命と力を宿して生きることができるのである。

 ◇ノアの場合は、混乱と破滅の状態にあるこの世において、神の言葉によって「まだ見ていない」約束を信じて、それに向って生活を築く信仰者の姿が示されている。彼は不信の世の只中における、信仰の証人であった。神に背を向けた人間の世界は、対立と混乱によって自滅してゆくが、この世界を神は放置なさらず、赦しと新生の恵みを与えて下さる。「虹の契約」希望の約束が与えられている(創世記9:15)。キリストの十字架は、神が人間の救いを御自分の犠牲と責任において果してくださる保証である。信仰者は、人間に悔い改めを迫りかつ再生の約束を告げる証人である。

    もくじへ  


◆1999.07.11

「世界の実相」創世記1:1-13、ヘブライ書11:1-3

        大宮 溥 牧師

 ◇今年はフランシスコ┬疋ザヴィエルによって日本伝道が開始されてから450年にあたる。彼はスペインのバスク地方の領主の家に生れたが、9才の時戦いによって一家離散の悲しみを経験した。彼はパリに留学し一家の再興を志したが、そこでイグナティウス┬疋ロヨラに会い、世俗的な名誉心を砕かれ、イエズス会の宣教師として献身した。そのきっかけとなったのはロヨラが会う度毎に告げた「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイ16:26)という御言葉であった。

 ◇ヘブライ人への手紙は「わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です」(10:39)と励ましている。この真の命を得る道である「信仰」とは何であるかを語るのがヘブライ書11章である。その冒頭に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と定義されている。「確信」と訳された原語は「本質」とも訳せる言葉で、人間の「意見」に関係なく、厳然として存在するものを指す。一般の希望は、人間には将来は自分の手の中にないので不確かなものであるが、神は将来をも手の中に持っておられ、われわれは自分をこの神の手に委ねることである故に、信仰から生じる希望は確かなものなのである。

 ◇「見えない事実を確認する」といわれる場合、「確認」とは動かない証拠という意味である。信仰とは「見ないのに信じる」(ヨハネ20:29)ことであり、感覚でなく魂で把える霊的な経験である。信仰者は感覚的でない霊的な次元において神と出会い、神と共に歩むのである。エリシャの僕は霊的な目を開かれて「わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者(アラムの軍隊)より多い」(列王下6:16)ことを知った。「神がわれわれと共におられる」ことは、そのような確信と勇気を与えるのである。

 ◇3節から信仰者の歴史が描き出されるが、3節はそのような人間の活動の舞台であるこの世界の姿が描かれている。創世記には、世界が神の言葉によって造られたと語られている。この世界は偶然に生じたのでなく、神の愛の意志によって存在するに至ったのである。従って「見えるものは、目に見えているものからできたのではない」(3節).ニケア信条は「天と地と、見えるものと見えないものすべての造り主を信じます」と告白している。この見えない霊的な現実を心にとめ、この世界に生きることによって、真の明日が築けるのである。

   もくじへ 


◆1999.07.04

「堅忍の信仰」ヘブライ書10:26-39

        大宮 溥 牧師

 ◇今日洗礼式をとり行ったが、神を知り神と共に歩むことは、人生の目的を達成することである。ジュネーブ教会信仰問答  1「人生の目的は何ですか」答「神を知ることです」。問2「どんな理由であなたはそういうのですか」答「神は、私たちの中であがめられるために、私たちを造り、世に住まわせて下さるのですから、また神は私たちの命の源ですから、私たちの命を神の栄光をあらわすように用いるのは、まことに当然であります」。月が太陽の光を反射して夜の世界を輝かすように、人間は神の恵みを知って感謝し、その恵みを証して生きるように造られているのである。

 ◇しかし、人間の長い人生においては、われわれはしばしば本来の生き方から逸れて、月や星が輝かなくなるように、信仰の軌道から逸れることがある。今日の聖書はそのような信仰のゆるみや逸脱に対する警告である。ヘブライ書が書かれた時代は初代教会の第二第三世代で、初期の熱情が薄れ、また迫害が厳しくなった時代であった。このような時代を生き抜く堅忍の信仰を勧めているのである。

 ◇ボンベッファーは「安価な恵み」という考えを批判した。恵みに慣れると、それを受けるのか当り前のように受け取られ、少し困難があると安易に拾ててしまう。しかし恵みは、イエス・キリストの十字架の犠牲によって可能になった「高価な」ものなのである。それ故、主の恵みを故意にあなどる時、恵みが取り去られ滅びしかない可能性があることが警告されるのである。「生ける神の手に落ちるのは恐ろしいこと」であるとの、畏れの感覚を失ってはならない(31節)。

 ◇警告の後に激励が与えられる。信徒たちが信仰に熱心であった「初めのころ」(32節)を思い起し、その熱心に立ち帰るようにとのすすめである。「初めの愛」(黙示録2:4)に帰ることである。ここには迫害の中で、キリスト者自身がそれを雄々しく耐えるだけでなく、隣人の苦しみを自分の苦しみとして担う連帯の姿が示されている(33-34節)。主がわれわれと連帯して下さったことを思い起し、われわれも主のため、また隣人と連帯して生きるのである。囚人仲間がイオフニチェクのために、その身代りとなったコルベ神父のように。

 ◇このような試練を担い抜く勇気と忍耐は、われわれ自身の力によるのでなく、われわれを担って下さる主の力による。ヘブライ書は、そのことを堅く信じて、確信と忍耐と信仰をもって、主と共に歩むようにすすめているのである。

   もくじへ 

 


ホームページへ