2002.7-9


もくじ

◆09.29「招かれた人々」ルカ福音書14:15-24
◆09.22「神との格闘」創世記32:23-33、マルコ福音書14:26-42
◆09.15「エクソダス-新しい出エジプト」出エジプト記12:21-27、マルコ福音書14:10-25
◆09.08「神より離れし神の子ら」イザヤ5:1-7、マルコ福音書12:1-12
◆09.01「涙の道ゆき」サムエル記下15:30-37、マルコ福音書12:35-37

◆08.25「最も重要な掟」創世記22:5-15、マルコ福音書12:28-34
◆08.18「キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」ヨブ記42:1-6、フィリピ書3:1-11
◆08.11「聖なる民」出エジプト記19:3-6、ロマ書15:14-21
◆08.04「人知を越える神の平安」イザヤ11:1-10、フィリピ4:4-9

◆07.28「最大の罪とは」申命記10:12-11:1、マルコ9:42-50
◆07.21「兄弟を受け入れる」民数記11:24-30、マルコ9:33-41
◆07.14「祈りによらなければ」サムエル記上17:38-50、マルコ9:14-29
◆07.07「洗われ、きよめられ、義とされる」イザヤ書43:1-7、第一コリント書6:1-11

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◆2002.09.29 伝道礼拝

「招かれた人々」ルカ福音書14:15-24

          大村 栄 牧師

 ◇「あの事故の日の長い長い夜に、私はお祈りをして助けを求め、またどうしてどうして!?と怒りながらも、思い切りぶつかっていける方がいて本当に良かったなあと思います」。集団食中毒が起こった年の大島藤倉学園ワークキャンプに参加していたYさんは、祈る相手のいることを感謝したという。不条理に満ちた世界と人生において、私たちは祈りにおいて問いを発することができ、問いを受けとめて下さる方がおられ、人の思いを超えた神の摂理による答えがあると信じる者たちである。

 ◇そのように神の支配に重ねて生きる平安な生活が、「大宴会」にたとえられ、そこへの招きはすべての人々に向けられていると言う。宴席の「用意ができましたから、おいでください」と招きに来られたキリストを宣べ伝えることを、教会は2000年にわたって使命としてきた。だが人々はこの世の富や家族の絆などに心惹かれて招きを拒む。それらの中に真の平安があると考えるからだ。しかし本当は神に委ねることによって、すべての持ち物も祝福される。

 ◇伝統的ユダヤ人を象徴する招きを拒んだ人々に怒った主人は、それでも宴会を中止せず、僕に命ずる。「21:急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」。それでもまだ席があると、「23:通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」。これらの本来招かれざる客は、資格のないユダヤ人や異邦人を象徴する。「無理にでも」という言葉が誤解され、強制的な伝道や信仰の押し付けがこれによって正当化された時代があった。だが伝道とは強制ではなく、宴会を舞台に語られるように、喜びへの招きである。「無理にでも」とは方法論を言うのでなく、神の招きの熱意を表する。

 ◇更にこの言葉は招かれる側の資格が問題ではないことを示す。「23:通りや小道に出ていき」は人と人とを分離する隔てや枠を超える招きであることを意味する。神の熱心な招きだけがこの交わりの根拠だから、そこには底抜けの喜びがある。相応しくない者への招きを感謝し、喜びをもってこれに応えていく者でありたい。

 ◇「困難な経験の1つ1つには悲しみや戸惑いがありますが、神様の大きなご計画の中に私も既に置かれているのですから、もっとゆったりと、おおらかに身を委ねていけばいいのだと思ったのです」(T姉)。その一事が私たちの信仰の目指すところだ。

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◆2002.09.22 聖霊降臨節第19主日

「神との格闘」創世記32:23-33、マルコ福音書14:26-42

          大村 栄 牧師

◇ヤコブの命名は母の胎を出る時、双子の兄エサウのかかと(アケブ)をつかんで出てきたことに由来する。彼は年老いた父イサクから長男に対する祝福をだまし取ったことで兄の激しい怒りを買い、家にいられなくなって母の実家に逃避する。そして20年後、大勢の家族と多くの財産を携えて、彼は意を決して故郷に帰る。しかし問題は兄エサウとの再会だ。兄の復讐を恐れた彼は姑息な手段でトラブルを避けようともしたが、再会の前夜、ヤボクの渡しで「25:ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」。「31:神を見た」とも言っているから、これは神ご自身との取っ組み合いだったのだ。

 ◇恐れと不安に満ちた夜、明日は兄によって財産も、家族や自分の命も奪われるかも知れない。そんな極限状態における「神との格闘」とは真剣な祈りを意味する。「27:もう去らせてくれ」と言う相手に、ヤコブは「祝福してくださるまでは離しません」としがみついていく。ここで祈りをやめたら、将来はないと言わんばかりだ。「28:お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答える。これは名前が物語る彼の過去を、神がすべて受けとめて下さることを表す。その上で神は彼に「29:お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と陥って勝ったからだ」と言われた。

 ◇かかとを掴み、追いっけ追い越せと、闘争的に生きてきた姿勢を象徴する名前が変えられ、「神が戦う」という意味の名前になる。もうお前が戦わなくて良い。すべき戦いは神が戦って下さるのだ。「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」(ローマ12:19)。やられたらやり返せの世界に、報復の連鎖を断ち切る方法は、神の最後の正義を信じてゆだねることだ。

 ◇その信仰に到達するのは、神との真剣な取り組みである祈りにおいて実現する。最も真剣な、死闘とも言うべき祈りの戦いをしたのが主イエス。ゲッセマネの祈りで主は切望される、「36:この杯(運命)をわたしから取りのけてください」と。だが祈りの中で、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という全面的信頼へと導かれて行かれた。そして事実神はこの方において御心を表し、復活という人知を超えた勝利を実現された。復活は神の勝利のしるしであり、歴史の終わりにおける神による完成の先触れだ。私たちはすべての事柄の究極に、神の栄光が用意されていることを信じて待ちたい。

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◆2002.09.15 聖霊降臨節第18主日

「エクソダス-新しい出エジプト」出エジプト記12:21-27、マルコ福音書14:10-25

          大村 栄 牧師

 ◇イスラエルが今も民族の誕生を記念する記念日として祝う過越祭、その起源を記したのが今日の出エジプト記。400年間エジプトに滞在したイスラエルは、その地で部族から民族に成長し、やがてエジプトを脅かす存在と見られるようになった。迫害の中で彼らは神に助けを求め、神は指導者モーセをつかわされた。紀元前13世紀ラメセス?世がエジプト王だった頃のことである。

 ◇彼は有力な労働力であるイスラエルの帰国を許可しなかった。その後一連の恐ろしい災害が起こる。最後にして最大の災いは、神がエジプト中の初子を打って死ぬということ。ただしイスラエル人の家には、事前にその災いを免れる方法が教えられていた。それは羊の血を入り口の柱に塗ってあれば災いがその家を「過ぎ越し」ていくのだ。その夜の災いによって王は帰国を許可し、イスラエルは奴隷の地から解放された。

 ◇その際にほふられた羊は、十字架の主イエスの予兆であると新約聖書は語る。バブテスマのヨハネは主イエスを見た時に、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と叫んだ。主が十字架につかれたのは、ちょうど過越祭の時期だった。マルコ福音書14章は主が弟子たちと「過越の食事」をなさる場面を措く。すなわち「最後の晩餐」である。食事の後に主は捕えられ、翌金曜日に十字架につけられる。奴隷の地エジプトからの解放を記念する過越祭において、人類を罪の奴隷から解放するために、「世の罪を取り除く神の小羊」として自ら十字架への道を歩まれたのだ。

 ◇ローマ書6:61わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」。私たちは十字架の購い、つまり肩代わりによってすでに赦されている。罪の奴隷から解放されている。すでにキリストにおいて、その赦しの中に生かされている自分を知り、感謝して生きるのが信仰生活である。

 ◇「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く」(1ヨハネ4:18)。完全な愛とは十字架の愛にほかならない。私たちは、そしてこの世界はすでにこの「完全な愛」をいただいている。パレスチナ問題を始め、世界には恐れが満ちている。けれども、この世界はすでに、恐れをもたらす罪からの解放のしるしである「世の罪を取り除く神の小羊」を頂いている。この新しいエクソダスの希望に生き、これを宣べ伝え、実現するために仕える者でありたい。

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◆2002.09.08 聖霊降臨節第17主日

「神より離れし神の子ら」イザヤ5:1-7、マルコ福音書12:1-12

          大村 栄 牧師

 ◇「ぶどう園と農夫のたとえ」は、美しいぶどう園を舞台にした恐ろしいたとえだ。ぶどう園を農夫たちに預けておいた主人が、収穫の季節に収益を取り立てるために使いをつかわすが、農夫たちは契約を無視して使いの僕を空手で帰し、再度送り込まれた者を殴り、更に遣わされた僕を殺した。その後も大勢の僕たちが殴られ、殺された。今日、世界に見られる「暴力の連鎖」だ。

 ◇主人も武力で対抗するのが普通だろうが、彼は「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と、最後に最愛の独り息子を送り込む。何というお人好しか。これに対して農夫たちは、「7:これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」と話し合った。彼らは地主との契約関係を一方的に破棄して、農地を自分たちのものにしたいと願う欲望にかられた。その結果ついに「8:息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった」。これは、ゴルゴタの丘に立つ十字架を暗示している。「みやこの外なる丘のうえに、主を曳行きしは何のわざぞ。神より離れし神の子らの、幾重と知られぬ罪のきずな」(讃美歌261番1節)。

 ◇神に向き合って生きる神の子とされた人間は、農夫たちのように契約を無視して「神より離れし神の子ら」となった。ところが神はあくまで契約に忠実で、繰り返し使い(旧約の預言者たち)を遣わし、それらが拒絶されたら独り子を遣わして人間との約束を果たそうとされた。しかし人間はこれをも無視して十字架につけてしまう。

 ◇主人には「9:戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与える」だけの権力があった。しかし彼はそれを行使しない。独り子が「10:家を建てる者の捨てた石」のように捨てられるのを阻止しなかった。しかし「10:これが隅の親石となった」(詩編118:22の引用)。それは排除されたものを用いて世を救い、「暴力の連鎖」を解く唯一の方法であった。十字架と復活はそういう逆転的出来事だったのである。

 ◇直前の11:27-33に「権威についての問答」。ぶどう園の主人には権威と権力があった。自発的に従っていこうという思いを起こさせるのが「権威」、力ずくで服従させようとするのが「権力」。神は人間を権力をもって裁くことを放棄し、愛すること、救うことを決意された。私たちは神の「愛の権威」に服そうではないか。「滅びの道より主は我らを、帰して御国へ導きたもう、我らも主イエスを愛しまつり、み業にいそしみ、み旨にそわん」(讃美歌261番4節)。

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◆2002.09.01 聖霊降臨節第16主日(振起日)

「涙の道ゆき」サムエル記下15:30-37、マルコ福音書12:35-37

          大村 栄 牧師

 ◇メシア=救世主は偉大なるダビデ王の子孫に生まれると言い伝えられていた。しかし主イエスは、十字架への距離が近づくに連れ、「ダビデの子」としてのメシア像を否定される。詩編110編ダビデの歌に「主は、わたしの主にお告げになった…」とある。最初の「主」は神のこと、次の「わたしの主」はメシアのこと。「このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」(37)。ご自分はダビデよりも上位に位置する偉大な存在だと言いたいのか。

 ◇聖書はダビデの政治的手腕などよりも、個人的、人間的記録を多く記す。失敗も多い。特に部下であるウリヤの妻を手に入れるために、夫を最前線で死なせた行為は神を怒らせた。ダビデは預言者ナタンを通して指摘された罪の重さに気づき、神の前に深く悔い改めてひざまずく。その時に歌った詩が交読した詩編51。ダビデは罪を犯さない人ではなく、犯した罪を真実に悔い改めることのできる人だったと言えようか。

 ◇サムエル記下15章は、ダビデの息子「アブサロムの反逆」の記事。ダビデの三男アブサロムが腹違いの長男アムノンを殺してしまい、追放される。彼は自らの美貌を利用して人々の心を引き付け、父王への不満をあおって反乱軍を旗揚げする。ついにアブサロムはダビデを追い出して、都エルサレムをも手中に入れた。そして「ダビデは頭を覆い、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら上って行った。同行した兵士たちも皆、それぞれ頭を覆い、泣きながら上って行った」(15:30)。ここには比類なき名君ダビデの雄姿は全く見られない。

 ◇主が、メシアはダビデの子孫ではないと言われるのは、私はこんなみじめな人間ではなく、栄光に満ちた救い主だと青いたかったのか。そうではないだろう。上記の姿を「ダビデのヴィア・ドロローサ(悲しみの道)」と呼ぶことがある.つまり主イエスの十字架の道ゆきに似ていると言うのだ。

 ◇ダビデの、一人の罪人として神の前に立って罪悔いるという姿勢が、どんなに優れた能力よりも尊いものならば、キリストは神の裁きの中で、ダビデよりもっとへりくだって、従順に十字架で死んでいこうとするメシアなのである。だからそれは人々が期待した「英雄ダビデの子」ではない。そのことを自らがお示しになった上で、主イエスほ十字架への道を歩んで行かれる。「振起日」に当たり、私たちの「ヴィア・ドロローサ」を共に歩んで下さる主を覚え、そのしるしである聖餐に共にあずかろう。

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◆2002.08.25 聖霊降臨節第15主日

「最も重要な掟」創世記22:5-15、マルコ福音書12:28-34

          大村 栄 牧師

 ◇「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という律法学者の問いに対して、主イエスは、「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(申命記6章4-5節)を第一に掲げるが、続けて「第二の掟は、これである」と言って、「隣人を自分のように愛しなさい」を並列させる。

 ◇一番大切な掟は一つではない。信仰生活は一極集中ではなく、二つの中心点を持つ楕円形だ。“神に従う純粋さがあれば何をしても良い”とか、“神を敬わない不純な人間は抹殺しても良い”などと考えかねない宗教の持つ「原理主義」的な危険性、不寛容さに対する主イエスの警告である。

 ◇しかし、ただ隣人を愛し、社会のために奉仕していれば良いなら、私たちが日曜日に礼拝に来るのは何の意味があるのか。10年程前の、東海教区総会分科会での発言を思い出す。教会の社会に対する責任について、例として「日曜日の朝礼拝に行く途中、困っている人に出会ったら、礼拝を休んでもそちらに対処すべきか」ということを論じ合った。ある有力な方(教団問安使)の、「礼拝に優先するものがありうる」という発言に、一人の婦人信徒が「ちょっと違うのでは…」と言いだした。「私たちは農繁期などの忙しい時も、礼拝に行くことで生きる力を取り戻すんです。それは神さまのみ前に立つ、掛け替えのない時なんです」。

 ◇神は、アブラハムがモリヤの山で「自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」と喜ばれた。我が子という、自分を必要とする存在を滅ぼしてまで従えと命じられる。主イエスも「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10:37)と言われた。「隣人を愛せよ」を二番目に掲げた方が、自らそれを否定するような言い方だ。しかし一度このように言われなければ、私たちは隣人を愛する、尊重すると言いながら、いつの間にか人間を絶対的なものとし、ついには神とする過ちに陥るのかも。

 ◇楕円形の中心である二つの戒めは、厳しい緊張関係にある。「敬神愛人」の両方を程良くこなすなどという合理主義は成り立たない。私たちの信仰生活は、生涯を通じてその真実が問われ続けるであろう。そしてその度に私たちは繰り返し、愛されることを求める神ご自身が、究極の隣人愛を実行された方であることを思い起こし、そのことのしるしである十字架を見上げたい。

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◆2002.08.18 聖霊降臨節第14主日

「キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」創ヨブ記42:1-6、フィリピ書3:1-11

          須田則子 牧師

 ◇パウロはフィリピ教会の人々に三度「注意しなさい、警戒しなさい」と呼びかけました。「義」となるために割礼をはじめとする律法の業を行うよう強要する人たちをです。それらの人々は自らの「生まれ」や「行い」を誇りとしていました。パウロは、これらの人々に出自や行いで勝負できないから、信仰でいこうとキリスト教に転向したのではありませんでした。生まれも育ちも文句なし。誰よりも真面目に、熱心に、優秀に、「正しく」生きていました。強い自信と誇りを持っていました。

 ◇けれども、主と出会ったとき、それらは色あせて見えました。私どもも誰かに出会い、これまでの価値判断が覆されることがあります。無償といえるような好意を受け、「これまでそれなりの生き方をしてきたと考えていたけれども、このように誰かを大切にしたことがあっただろうか。たった一人の人をもまともに愛したことがなくて、どうして自らの生き方に自負など持てたのだろう」と気づかされることがあります。

 ◇パウロは主イエスに出会いました。私どものため、何もかも捨て去って十字架につけられた主イエスの生き方と死の姿を知った時、主を苦しめるパウロを愛し、赦し、使徒の務めへと招く復活のキリストを知った時、パウロは他の一切を損失と見ました。塵あくた、ごみくずと見ました。無というだけでなくこれまで有利であったものがキリストの恵みを分からなくさせていたからです。キリストの大いなる義を前にして、「自らの義を立てたところで、一体それが何だというのか」と自らの小ささを知りました。パウロは、自らの生き方を相対化する自由を得ました。

 ◇主は、パウロに、そして私たちに「あなたなら私に相応しい」とお選びになります。私たちが優れているからではありません。主の御前に、どうしようもない人間だからです。主が特別に深く強く私どもを忍耐してくださったから、「もはやあなたは同じ過ちを繰り返そうとはしないだろう。貞分のことを棚に上げて人を裁くことはないだろう。あなたのような者まで救いに与ったのだから、誰に対しても希望を持ち続けるだろう」と私どもを選んでくださいました。主に選ばれるとは、主に忍耐していただくことです。主は「あなたとなら共に生きていける」と私どもを選び招いてくださいます。もはや主から離れることなく、その死の姿にあやかりながら、このことを喜びとしていきたいと願います。

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◆2002.08.11 聖霊降臨節第13主日

「聖なる民」出エジプト記19:3-6、ロマ書15:14-21

          山本信義 伝道師

 ◇山から語りかける神の言葉は「神の救い」と「神の啓示」との二つの神のわざを記す。イスラエルは神に救われた故ではなく神御自身が民と出会い語りかけられたが故にこそ「神の聖なる民」となるのである(出エジプト記19:4-6)。

 ◇木曜求道者会である方が「キリストを信じるか否かによらず、全ての人が救われるのですね」と尋ねられた。教会に来ていない具体的な方々を思い起こしての問いだった。全く切実な問いである。しかし私は即座に「そうですよ」と答えられなかった。キリスト者である意味を否定するように思えたからだ。私たちがキリスト者である意味は何なのか。

 ◇預言者アモスもイスラエルを神の特別な民と呼ぶ(3:卜2)∴しかし同じ預言者が9章で救いをイスラエルに限定しようとする態度を痛切に批判する。神の救いの射程は人の思いを超えて周囲の民に及ぶ。神ご自身が全世界を統べ治める方だからだ。しかし尚イスラエルは神の聖なる民である。救いの神が民と出会い民を知って下さるが故に神の特別な民なのである。

 ◇救いの神は一人の方を通してまことに救いを成し遂げられた。この救いの射程は私たちを超え遥か遠くに及ぶに違いない。しかし私たちにはこの救いの神が出会って下さった。主イエスの十字架とよみがえりを通して私たちは救いを知りそれに応える者とされたのである。それ故にキリスト者は「聖なる民」なのである。

 ◇自らを「聖なる民」などというと面映ゆい気がするかもしれない。しかしパウロはキリスト者を「聖なる者たち」と、人々の態度姿勢いかんに拘わらず何の躊躇も無く呼ぶのである。「聖なる者」の第一の意味は「神さまの者」ということに他ならないからだ。

 ◇神御自身が主イエスキリストを通して成し遂げた救いの御業。神はこの救いをまことにご自分の業としてご自分の民にお示しになられた。「神さまの者」である「聖なる民」は救いの御業を神の業と知りそれに応えるものである。

 ◇全ての民が聖なる神の民とされる。聖なる神の山シオンへ進み行き一つの民として礼拝を献げる。イザヤが語りパウロが抱いた終わりの日の幻である。復活の主と出会ったパウロは異邦人を聖なる者とする祭司の務めへと召された(ロマ15:16)。教会もまた終わりの日の「聖なる民」の礼拝に向かって、聖霊の導きによって歩んで行く。救いの神に知られ、神を知り、神に応えて歩む歩みをこの週も歩んで行きたい。

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◆2002.08.04 聖霊降臨節第12主日 <平和聖日>

「人知を越える神の平安」イザヤ11:1-10、フィリピ4:4-9

          大村 栄 牧師

 ◇パウロはフィリピの信徒らに「5:あなたがたの広い心がすべての人に知られるよう

になさい」と求める。口語訳は「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい」。辛抱強さ、忍耐、優しさ、穏やかさなどとも訳せる。最大の手本は「キリスト賛歌」にある。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ書2:6-8).

 ◇主イエスに倣う「広い心」とは、規則や慣習や建て前にこだわらず、神の望みたもう善の実行のために、とりわけ愛の実践のために、必要ならば自分の立場に固執することもやめて、愛のために行動を起こしうる、柔軟で寛容な態度のことである。

 ◇今日はシオン会がアッシジのフランチェスコの「平和を求める祈り」を歌う。「主よ、わたしをあなたの平和の道具とさせてください」で始まるこの祈りの最後は、「人は自分を捨ててこそ、それを受け、自分を忘れてこそ、自分を見出し、赦してこそ赦され、死んでこそ、永遠の命に復活するからです」。これは「広い心」の精神を言いあてている。そしてこの祈りを生きるための支えが、復活の主イエスである。

 ◇ドイツ福音教会の戦争責任告白である「シュトウツトガルト宣言」(1945年10月19日)の中に下記の言葉がある。「なるほど我々はナチの権力支配のなかにその恐るべき姿をあらわした霊に抗して、長い年月を通じて戦って来た。しかしながら、我々は自らを告発する。我々がもっと大胆に告白しなかったことを、もっと忠実に祈らなかったことを、もっと喜んで信じなかったことを、そしてもっと燃えるような思いをもって愛さなかったことを」。

 ◇神の立場を自ら捨てて、僕の身分となられたキリストがすぐそばにおられることを覚え、自分の立場や役割に固執するのをやめて、神の望みたもう愛の実践のために行動を起こすものでありたい。キリストにならう「広い心」を持つ「神の平和の道具」となって私たちが生きる時、「平和の神」が共にいて下さり、「7:人知を超えた神の平和」を個人と世界において実現して下さるとの約束を信じよう。

 ◇「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。」(コロサイ書3:15)

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◆2002.07.28 聖霊降臨節第11主日

「最大の罪とは」申命記10:12-11:1、マルコ9:42-50

          大村 栄 牧師

 ◇幼子を抱きあげて、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(9:37)と言われた主は、主の名をかたって癒しを行っている者を、「わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」(38)と言ったヨハネを叱られた。「あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者」は、「キリストの弟子だという理由で」そうするのだ(41)。人間的な魅力や能力によるのではない。キリストを宣べ伝えるものは高慢を捨て、子供のように小さくならねばならない。

 ◇主はそのような、信じて従う以外に方法がない人のことを「小さな者」と呼び、彼らを尊重される。「わたしを信じるこれらの小さな者をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(42)。地方の教会で、ただキリストを素朴に信じる「小さな者」として、仕えている人々を見てきた。今日まで三日間の「つくしの家ワークキャンプ」でもそんな出会いがあった。

 ◇「つまずき」はスキャンダルの語源。他人に対する中傷や陰口を青うことも指す。教会ではそういうことのないようにしたい。

 ◇43節以下は自分自身の中につまずきとなる要素があった場合の対処について。「片一方の手」「片方の足」「片方の目」(43-47)が罪を犯し、つまずかせるなら、切り捨て、えぐり出してしまいなさい。五体満足で地獄に投げ込まれるより、満身創痍でも命にあずかる方がよい。罪を犯したことがない完全無欠な人より、自分の罪と悪戦苦節して戦い、罪を犯した片手を痛みを持って切り落とし、涙を持って片目をえぐり出した人たちが天国の住民になるのだ。

 ◇言い換えれば、一番大切なものを確保するために、それ以外のものを捨てる勇気を持つということでもある。大事なのは何が一番大切なものかを見極めることである。R・ニーバーの祈りを連想する。ただしそこで大事なのは、自分にとってではなく、神の目にとっての善し悪しである。

 ◇「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」(48)に関連して、マルコは「人は皆、火で塩味を付けられる」(49)をここに配置する。塩は極めて貴重なもの。自分自身と周辺にある「つまずき」を切り捨てるために、「火の中をくぐり抜ける」(第1コリ3:15)ような痛い体験をすることがある。しかしそれによって、「自分自身の内に(貴重な)塩を持ちなさい」(50)。そういう体験を持つ人々によって「互いに平和に過ごす」(50)世界が築かれていくのだ。

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◆2002.07.21 聖霊降臨節第十主日

「兄弟を受け入れる」民数記11:24-30、マルコ9:33-41

          大村 栄 牧師

 ◇「日曜日の午後の礼拝が、私はいちばん好きだった。…私は厳かなものへの感覚、静けさと精神の集中への欲求とを、幼少のころに出席した礼拝によって身につけた。私はそれなしには自分の生を考えることができない。だから私は、子どもをおとなの礼拝に出席させるのは物心つくまではさせるべきではない、とする意見には賛成できない。大切なのは、理解することではなく、荘厳なものを体験することである、おとなの敬度な姿を見、おとなの敬虞な祈りに心を打たれること、これが子どもにとって大切なのだ」。(A・シュヴァイツァー、1875-1965、『我が幼年時代』より)

 ◇伝道の旅の途上で、弟子たちは「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」(34)。愚かな話しである。これに対して主イエスは、35「いちばん先になりたい人は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言い、子供を抱き上げて言われた。37「わたしの名のためにこのような子供の-人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。「すべての人に仕える」とは、子供に象徴されるような弱い者も受け入れよと言うことだろう。

 ◇だが私にとって、子どもたちはいとおしい弱者であると同時に、時には私の時間を奪い、精神の集中を妨げるような存在でもある。昨日から始まった夏休みは、ある種の覚悟を必要とする季節だ。主が子供を示すのは、弱者を代表させるだけでないのでは。

 ◇今日のテキストは、その直前にキリストの第二回目の受難予告がある。第一回の予告は8章にある。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと患う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(8:34-35)。

 ◇自分を高めたい、自分を大事にしたい、つまり「自分の命を救いたい」と思っている私たちに、キリストは子供を抱き上げて示し、「わたしの名のゆえに自分を失い、自分の持っている時間や、すべてを要求してくるこれらの者に捧げることが、ひいては自分のすべてを失い、命をも捧げようとしているわたしに従うことになるのだよ」と教えているように患える。

 ◇トルストイ作「靴屋のマルチン」の原題は「愛あるところに神あり」。私のためにすべてを捨てて十字架について下さった主イエスは、私たちの周囲の兄弟を受け入れることを通して、キリストに従い、神に出会う方法を教えて下さったのである。

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◆2002.07.14 聖霊降臨節第九主日

「祈りによらなければ」サムエル記上17:38-50、マルコ9:14-29

          大村 栄 牧師

 ◇主イエスが3人の弟子だけを連れて山に登り、「山上の変貌」を経験しておられる最中、ふもとでは悪霊に取りつかれた息子を癒してもらいたいと願う父親が来ていた。しかし弟子たちはこれを癒すことができない。群衆は彼らをからかい、律法学者たちは難癖をつけたろう。責める方も落ちこむ方も、どちらも重病の少年はそっちのけで自分の事ばかり考えるが、その割に自分自身の愚かさを知らない。

 ◇山から下りた主イエスはこの有様を見て、「なんと信仰のない時代なのか」と嘆かれた。父親は主に「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と、半分あきらめたような言い方で訴える。信仰はあっても何もできないと考え、無力感にとらわれている者に、主は「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と力強く呼びかける。主はこの父親を、また弟子たちを「信ずる者」に、そして「何でもできる」者に変えたかったのだ。

 ◇父親はこれに答えて、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫んだ。だめかも知れないと諦めかけている自分を捨て去り、主が助けて下さると確信する。この絶対の信頼こそが人間にとって一番困難なものであり、「信じる者には何でもできる」の「何でも」には、何よりまずこの絶対的信頼が挙げられねばならない。

 ◇少年ダビデがペリシテの大男ゴリアトに、ただ小石と石投げ紐だけ持って立ち向かった際、彼は「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ」(サム上17:47)と言う。人間的な知恵や力を象徴するよろい兜を脱ぎ捨て、神の戦いだから、神の御業を信じてたたかい、勝利した。ただ神の戦いに連なればよい。ただ神のなさる業に倣っていけばよい。

 ◇神のご計画に身をゆだね、自らを捧げていくこと。自分を神の意志に適応させること。それを促すものが祈りだ。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」(29)。あらゆる宗教に見いだされる祈りは、力によって神々を動かし、自分の目的を遂げようとする手段だが、聖書の教える祈りは、神との人格的な交わりであり、自己の意志を神の意志に従わせる作業である。これによって私たちは、神の戦いの勝利を我がものとする。祈りはどんな武具にまさる「神の武具」(エフェソ6:13)なのである。主イエスの不在を生きる教会は、祈りによって整えられつつ、再び来られる主を待ち望みたい。

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◆2002.07.07 聖霊降臨節第八主日

「洗われ、きよめられ、義とされる」イザヤ書43:1-7、第一コリント書6:1-11

          山本 信義 伝道師

 ◇主イエス・キリストの名と神の霊とによって、「洗われ、きよめられ、義とされた」。そうやって私たちは「神さまのもの」とされたのである。

 ◇「義とされる」。「信仰者である私の正しさが神に認められる」。最初はそんなふうに考えていた。しかし聖書は常に「私の正しさ」を問題とする前に「神の正しさ・神の義が示された」ことを語る。「神の正しさ」。それは「救いの神が御自身の救いを成し遂げて下さる」ことに他ならない。罪と死の力の下に囚われていた私たちを、神は御子の貴い血という代償を払ってまでも御自身の元へと貴い戻して下さった。

 ◇民の救いを宣言して神は語る。「恐れるな、わたしはあなたを購う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたを呼ぶ(43:1)」買い戻され、購われた私たちに神ご自身が親しく呼びかけて下さる。しかしそれに留まらない。私たちは「神の名によって呼ばれる者」(7節)とされる。キリストの名によって呼ばれる者、「キリスト者」として私たちは「神さまのもの」とされるのである。

 ◇どんな貴い代価を払ってでも、私たちを「御自身のもの」に取りもどし、神は御自身の正しさを示された。私たちはこの神の救いの正しさに与かるものとされたのである。「義とされる」とは、「私の義が示される」こと以上に「神の義によって私たちが救われ、神が私たちの神となられ、私たちが神の民とされた」ということなのである。

 ◇コリントの教会には争いがあった。「神の国を受け継ぐ」ため、「自分の正しさ」を明らかにしようとしてお互いが争い、裁判ざたにまで至っていた。「正しくない者が神の国を受け継げないことを知らないのですか(9節)」。パウロは激しく嘆いてこう語るのである。神が求める正しさは躍起になって裁判で争い勝ち取る「自分たちの正しさ」などではないからだ。「今、あなたたちは洗われ、聖なる者とされ、義とされているのです。(11節)。」こうパウロは語る。主イエスを通して成し遂げられた神の救い、この救いを通して示された神御自身の義にこそ彼らは与かっている。皆が共に、神の救いに与かるがゆえにこそ、皆が義とされているのである。「この神の義を前にして自分の正しさを追い求める在り方をやめようではないか。神の義にこそ頼れ」とパウロは語るのである。

 ◇何物にも代え難い犠牲を払って神ご自身が示された神の義に、私たちも与かっている。義の道具、義を盛る器与して「神さまのもの」として歩んで行きたいと願う。

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