1999.4-6


もくじ

◆06.27「人生のオアシス」創世記12:1-9,ヘブライ書10:19-25
◆06.20「強さと弱さ」ローマ書15:1-6
◆06.13「救いの完成」ヘブライ書10:1-18
◆06.06「ただ一度の人生」ヘブライ書9:27-28

◆05.30「生命の契約」イザヤ書30:18-19,ルカ福音書4:14-22
◆05.23「燃える人生」エゼキエル書37:1-14,使徒言行録2:1-4
◆05.16「解放の福音」イザヤ書30:18-19,ルカ福音書4:14-22
◆05.09「キリストの犠牲」、ヘブライ書9:1-14
◆05.02「新しい契約」エレミヤ書2:1-3:ヘブライ書8:7-13

◆04.25「自分を生きる」マタイ福音書25:14-30
◆04.18「神の右にいますイエス」ルカ福音書24:50-53,ヘブライ書8:1-6
◆04.11「主の光の中を歩もう」イザヤ書2:1-5,エフェソ書5:6-14
◆04.04「永遠の大祭司」ヘブライ書7:11-28

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◆1999.06.27

「人生のオアシス」創世記12:1一9,ヘブライ書10:19-25

        大宮 溥 牧師

 ◇人生は旅である。ヘブライ書もキリスト者を「荒野を旅する神の民」として描き出している。それは個人として旅するだけでなく、共同体としての旅でもある。阿部志郎先生は2l世紀に向かっての旅は「連帯の形成」という形をとるべきことを示唆されたが,それと共にこの旅を導く「雲の柱火の柱」をはっきり見ることができるための「霊性の養成」が求められる。

 ◇この旅の人生において、旅を可能にするのは霊的な糧であり、それを得る場としての人生のオアシスである。それが礼拝である。今日の御言葉はわれわれに「集会を怠らない」ようにすすめている(25節)。

 ◇今日の個所は、7章から10章にかけてのヘブライ書本論の結びの部分である。この本論では、イエス・キリストが真の大祭司として、神と人間とを結び合わせ、人間が神の民として生きる道を完成してくださったことを語ってきた。そして10章15-39節において、われわれ神の民がどう生きるかを教え、前進を励ましているのである。

 ◇今日の部分は先ずヘブライ書本論のまとめが与えられる。?「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れる」こと、即ち完全な贖罪、きよめが与えられていることである(19節)。「十字架の血に潔めぬれば/来よとの御声を我は聞けり」(讃美歌515)。?イエスによって、神に至る「新しい道」が開かれた(20節)。主イエスが「肉」すなわち人間としてこの世の人生を歩まれることにより、人間が神と共に歩む道が切り開かれたのである。われわれはエマオの旅人のように、神への道を導く同伴者をもっている(ルカ24章)。?神の前に出る時、われわれを神にとりなす「偉大な祭司」キリストがおられる(21節)。主はあの十字架の傍らの盗賊と同じように、われわれをも父なる神にとりなして下さる。

 ◇そこから3つの勧めが与えられる。?「信頼しきって」(直訳すると「信仰に満たされて」)「真心から神に近づく」(22節)。放蕩息子のように神から迷い出た者が「本心」に帰って、神のもとに帰る。?「公に言い表わした希望」(直訳すると「希望の信仰告白」)を揺がぬようにしっかりと保つ(23節)。疲れたり絶望したりする時、「神の国」の約束と「主の再び来りたもうを待ち望」んで、希望と勇気を新たにする。?「互いに愛と善行に励む」(24節)。荒野の中で同情の旅仲間と、祈りと交わりを共にして、励まし合って進むのである。このような信仰・希望・愛を新たにする人生のオアシスこそ、われわれの礼拝である。

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◆1999.06.20

「強さと弱さと」ローマ書15:1-6

        阿部 志郎 先生

 ◇1947年9月14日、大型台風が東京・関東地方を襲った時、カトリックの修道士であるゼノさんは、被災後翌晩、恐怖に曝されている人々に励ましの言葉と共に、一本の蝋燭とマッチを配って歩いた。災害に襲われた人々が必要とするのは今食べる物であって、一本の蝋燭など何の価値もないはずである。しかし、その一本の蝋燭を運ぶゼノさんの行為に人々は災害から立ち上がる勇気を与えられたのである。

 ◇主の祈りの中に「日毎の糧を今日も与えたまえ」という祈りがある。動物は日毎の糧があれば満足するが、人間は日毎の種以上のものや、人のものまでも欲しがる。ニコライ・ベルジャエフは次のように言った。「自分のパンを心配することは物質的であるが、人のパンを心配するのは精神的な問題である。」人はパンなくしては生きられないが、そのパンがいかなる仕方ででも与えられれば良いのではない。手段であるべきパンが、目的化されることによって、私達は生きる目標を喪失するのである。

 ◇聖書は「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい」と語る。ヨハネ4章において、旅に疲れ井戸で休んでいた主イエスが、サマリヤの女に水を求めた時「ユダヤ人であるあなたがなぜサマリヤ人の私に水を求めるのか」と彼女は答えた。民族、グループ、イデオロギーが違うということで、一杯の水を差し出すことができないのが私達の現実である。

 ◇沖縄の「チムリグサ」という言葉は、人が病気であって、自分が健康であることを申しわけなく思う、そのような気持ちを表した言葉である。マタイ9章には、飼うもののいない羊達を見て、主イエスが憐れまれたとある。この「憐れみ」という言葉は「内臓」という意味である。主イエスはここで内臓が動かされたのである。弱い人を見て、全人格が動かされたのである、聖書でいう強さは、弱いものを押し退ける強さではなく、弱い者の弱さを担う強さである(ローマ書15:1以下)。

 ◇タイの小乗仏教では、沢山の僧侶が朝早く托鉢に出かけていくが、村人達が道に出て、僧侶を待ち受けて、食べ物を布施する。受ける僧侶の方は立ったままで、お礼の言葉を一言も発しないで、逆に与える方が脆くのである。主イエスが脆いて僕の足を洗われた姿はまさにそのようなものである。主イエスは十字架の死を通して、ご自身を私達に捧げて下さった。礼拝は、神が私達に仕えて下さる時である。神は強い者も弱い者も等しく神の子として受入れ、共に生きるように促しておられるのである。

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◆1999.06.13

「救いの完成」ヘブライ書10:1-18

       大宮 溥 牧師

 ◇西東京教区創立総会の開会礼拝で、ヨハネの黙示録冒頭にある7つの台(灯台)の間を歩まれるイエス・キリストの御言葉を学んだ。西東京教区の99の教会が、それぞれの置かれた場で福音の灯台として輝き、その間を生ける主が歩んで下さるよう祈るものである。このような現実に目が開かれるのは礼拝である。

 ◇ヘブライ書はキリスト教を真の礼拝の宗教として描いている。今日の10章では、旧約と新約の礼拝を影と実体との関係にあるとし、旧約の人々が不完全で暫定的な形で守っていた礼拝が、イエス・キリストによって完全な形で行われるようになったことを告げている(1-4節)。

 ◇旧約の礼拝は未完成なので、「毎日礼拝を捧げ」ているが(11節)、キリスト教は「ただ一度」のイエス・キリストの犠牲によって救いが完成された(10節)という。しかしそれでは、キリスト教が日曜日毎に礼拝を捧げるのは、どういう意味であろうか。人間が永遠的超越的なものを求め、これと交わるという、宗教の次元では、キリスト教も他宗教も変わりはない。その点ではお互いに学び合うべきである。

 ◇しかしここで問題になっているのは、神と人間とを誰が、あるいは何が結び合わせているかである。旧約においては、人間の中から選ばれた大祭司であるのに対して、新約においては神人イエス・キリストである。そして旧約では大祭司が神に捧げるものが動物犠牲であるのに対して、新約ではイエス・キリストの御自分の体、御自分の命である。

 ◇このことをヘブライ書は詩編40を引用して説明している。ここで注目されるのはヘブライ語原典では「わたしの耳を開いてくださいました」とあるのを、ギリシャ訳聖書から「わたしのために体を備えてくださいました」と書いていることである。こうして動物犠牲でなく、キリスト御自身の犠牲が捧げられたことが強調されている。キリストの犠牲の死は、歴史上唯一度であり、それによって全人類の救いが完成した。。しかし、それをわれわれ自身の日々の生活の中で受け取り直すために、主日ごとの礼拝がささげられるのである。

 ◇旧約の祭司は未完成の業を継続しつづける必要から「立って」執務するが、主イエスは救いの業を完成し、全能の父なる神の右に「座して」おられる(12節)。しかしステパノは自分の危機に際し「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」(使徒7:56)と告白した。主イエスは今も生き生きと働いておられる。

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◆1999.06.06

「ただ一度の人生」ヘブライ書9:27-28

       大宮 溥 牧師

 ◇教会は「神の家族」です。父なる神さまのもとで大人も子どもも兄弟姉妹です。世界が神の家族となるように、父なる神に導かれ、兄弟姉妹としての交わりを深めましょう。

 ◇私は小学校に行く前にはじめて教会に行きました。そのころ父が病気で家族が苦しい時でしたが、教会学校に来て、天の父を知らされ、慰められました。その父が亡くなった時、子ども心にも、人間はいつか必ず死ぬのだということを切実に知りました。「人間にはたた一度死ぬこと」(ヘブライ10:27)を知ったのです。それ故、わたしたちは神さまがくださった命を感謝をもって受け取り、それを大切にしなければなりません。「生命への畏敬」(A.シュヴァイツァー〉です。

 ◇聖書はさらに「その後に裁きを受けることが定まっている」と告げています。ただ一度の人生をどのように生きたかが問われるのです。世の中の多くの人が、人間は死んだらそれでおしまいで、後何も残らないと考えています。そして生きている間も人がそばに居て見ているのでなければ,誰も私のことを知らないと思っています。そこで、隠れていじめをしたり、不正を働いたり、人を殺したりします。しかし人間が見ていなくても、神さまが見ておられ、裁かれるのです

 ◇ダギーという9才の子どもがガンになりました。彼はキュブラー・ロスという先生に手紙を書いて「いのちって何?死ぬとはどういうことですか?どうして私のような子どもが死ななければならないのですか?」と質問しました。キュブラー・ロス先生は心をこめて返事を書きました。『ダギーへの手紙』一(アグネス・チャン訳、俊成出版社発行)です。

 ◇「ダギー、この世とその中にあるものはみんな、神さまがお造りになったものですね。神さまは、太陽のように、世界中を照らし、私たちを暖め、花を育ててくださいます。雲が太陽をかくしている時でも、雲の向うでは太陽が輝いていて、地球を明るく照らしています」。「神さまの愛は、すべてに同じように注がれる無条件の愛です」。「人生は学校のようなものですね。そこで大切なことを学びおえると、われわれは卒業します。本当の家に帰るのです。神様のところで、愛する人たちと一緒に生きるのです」。そこは、われわれと同じように「ただ一度の人生」を生き、われわれのために死んで下さった愛の教主イエス・キリストが、われわれを迎えて下さるところです。この主と共に人生を歩みましょう。

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◆1999.05.30

「生命の契約」エレミヤ書2:1-3,ヘブライ書8:7-13

       大宮 溥 牧師

 ◇聖書全巻通読を実施して、阿佐ケ谷教会が神の民として、例言葉に生きるという実質を得たいと願っている。ヘブライ人への手紙も旧約聖書に深く養われていることを知らされる。今日の個所では、聖書の宗教が「契約宗教」であることを強調している。神の選びの愛と神の民の応答の誓いが結び合って、深い信頼関係を作り出しているのである。

 ◇「契約」はヘブライ語で「ベリース」と言い、「裂く」という意味がある。契約の儀式として、犠牲の動物を真っ二つに裂き・当事者がその間を歩いた。これは契約不履行の時は自分の身が引き裂かれてもよいとの意思表示であった(エレミヤ34:18参照)。生命をかけた誓いである。神が人間とこのような契約を結ばれるということは、人間をはるかに越えて高くいます神が低く小さな人間のもとに下り、これと向き合って共に歩んで下さるという恵みの行為である。神は「低きに下る神」(左近淑)である。

 ◇しかし神がの契約に対して真実てありつづけられるのに、人間は弱く、不真実に堕するという問題が生じる。神は真実であるから・人間の不真実に怒し、これを裁かれる。しかし、それに止るのでなく、更に進んで、不真実なるものを真実なものへと変えずにはおかないほどの激しいものである。預言者ホセアは妻、ゴメルとの結婚生活において、相手の変心に怒り嫉妬する状態から、更に進んで「憐れみに胸を焼かれる」(11:8)状態へと転じる、真実の愛を経験した。そして神の愛こそそのような愛であると知らされ、これを「憐れみ」(ヘセド)と呼んだ。これは「契約愛」(N.スネイス)である。預言者エレミヤはこの思想を引き継ぎ、「新しい契約」の思想を展開したのである。

 ◇ヘブライ人への手紙は、この「新しい契約」が、イエス・キリストによって打ち立てられたことを告げている。ホセアは妻のために身受けの金と穀物を支払ったが、主イエスは御自分の生命を犠牲にして、人間の罪を腰い、神との新しい愛の交わりにわれわれを入れて下さったのである。ルターはキリストの死を「神の死」と呼んだ。神が自分の命を投げ出して人間との交わりを回復しようとしておられるのである。

 ◇「遺言」(15節)は「契約」と同じ言葉(ギリシャ語の「ディアセーケー」)である。いずれも命がかかっている。この恵みを、われわれは忘れることなく、われわれも心から応答するものでありたい。信仰とは神の真実に応える人間の真実である。

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◆1999.05.23

「燃える人生」エゼキエル書37:1-4,使徒言行録2:1-4

       大宮 溥 牧師

 ◇聖霊降臨日は「ペンテコステ」とも呼ばれるが、これはギリシャ語で50を意味する。ユダヤ教最大の祭である過越祭から50日目で、イスラエルの民が出エジプトの旅に出発して50日目にシナイ山に到着し、神から律法を受与された、ユダヤ教成立の記念日であった。イエス・キリストは過越の祭の時に十字架にかかり、ペンテコステの日聖霊を降して、キリスト教会を建てられた。そしてユダヤ教が律法の宗教であるのに対して、霊的宗教としてのキリスト教を生み出されたのである。

 ◇ペンテコステまでの弟子たちは、キリストの復活にもかかわらず、意気消沈していた、太陽が世界を照らしているのに、戸を閉めた家の中の様に、暗かったのである。彼らはエルサレムの一つの家の中で「心を合わせて熱心に祈っていた。」(使徒1:14)。この祈りに答えて、約束の聖霊がこの日彼らに降ったのである。この日聖霊は「激しい風」「燃える炎」のように降った。風は自由解放、炎は愛と情熱をあらわす。聖霊を風にたとえた最も力強い表現は、エゼキエル37章である。民俗滅亡を経験したイスラエルは白骨の谷のように、死と絶望の中にあった、しかし神の命の息(風)が吹き来ると、それは生気を取り戻し、大群衆となった。神の息がアダムを生かした様に、聖霊は生きた共同体を生み出す。教会はそのような霊的共同体である。聖霊はウェスレーに働いて「わたしの魂は不思議にも燃えるのを覚えた」と告白せしめている。

 ◇また聖霊は火のように、冷えた心を燃やす。モーセは「燃える柴」を見、それが「火に燃えているのに、燃えつきない」(出エジプト3:2)のをいぶかって近づいた時、「あなたの立っている場所は聖なる土地だ」と語られた。火は神の臨在のしるしである。これは神の愛の燃える働きであり、われわれは冷えた心を暖められ、闇に放置された人間が、照らされ燃やされて立ち上ることカミできる。聖霊に燃やされた弟子たちは、閉じこもっていた家を出、大胆に福音を宣べ伝え、地の果まで主の証人として出て行ったのである。

 ◇スコットランド教会の紋章は、燃える柴であり、そこに「しかし燃え尽きはしなかった」とラテン語がそえられている。教会は火のような試練をうけても、それによって燃えつきることがない。この世の力はわれわれを燃え尽きさせるが、主の愛はわれわれを支えつづけ、暖めつづけ、燃やしつづける。現代人は「燃えつき症候群」におちいっているが、聖霊はわれわれを新しくし、生命に燃えて歩むものとする。

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◆1999.05.16

「解放の福音」イザヤ書30:18-19,ルカ福音書4:14-22

       大宮チヱ子 牧師

 ◇洗足木曜日から始まり、第一主日に復活祭を祝って迎えた新年度の歩みも、先週木曜日は主の昇天日であった。教会の主であり頭であられるイエス・キリストは、十字架の主であり復活の主である。教会は主の復活の生命と恵みによって生かされ支えられている。主イエスは天に昇られる前弟子達に、父なる神が約束された聖霊が与えられるのを待つようにと言いのこされ、聖霊によって、弟子達は力を受け、地の果てに至るまで神の証人となると言われた。

 ◇来週は、復活祭から50日を経て、ペンテコステ(第50の意)、聖霊降臨日を迎える。聖霊は教会の中に働き、一人一人と共にいて下さる、神の力、神の臨在である。

 ◇主イエスの御生涯の節目に、特別に豊かな聖霊の働きと導きがあった。(1)誕生に際して聖霊が降り、いと高き方の力に包まれた(ルカ1:35)。(2)救い主としての公生涯へのきっかけとなった洗礼者ヨハネによる受洗の時、天が開け、聖霊がイエスの上に降った。そしてイエスは、聖霊に満ちてヨルダン川から帰られた(3:21一22,4:1)。(3)聖霊に満たされ、神の特別な恵みの力と祝福を受けた主イエスは、荒れ野における40日にわたる、まことに激しく厳しい様々の誘惑に勝利された(4:14)。

◇ガリラヤに帰られた主イエスは、郷里ナザレの会堂で預言者イザヤの巻物を手にされ、「主の霊がわたしの上におられる。主がわたしを遣わされたのは、……主の恵みの年を告げるためである」(イザヤ61:1-2)という聖書の言葉は、今日、実現したと語られ、この預言の言葉をご自分に当てはめられ、ご自身の使命を示された。主イエスは、神の霊(聖霊)を注がれ、神によって油注がれた神の選びの器としての使命を自覚され、神の福音を告げ、もたらす方であると語られた。

 ◇このイザヤ書の言葉に、神の福音、主イエスによって神が私共に与えて下さった福音、喜びの音ずれの内容が示されている。神の福音は、解放の知らせであり、回復の告知、自由の宣言である。

 ◇私共は様々なことに捕われ、こだわり、縛られ、不安を抱き、思い悩んでいる。生活のこと、仕事のこと、人の言葉、人間関係、社会のことが押し迫ってくる。一つのことにこだわり思い悩むと、与えられている恵みや賜物にも気付かず全体やまわりを見ることができなくなる。

 ◇主が常に共にいて下さり、主の恵みと愛が注がれていることを知ると、人間らしく自由に解放されて生きることができる。 

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◆1999.05.09

「キリストの犠牲」ヘブライ書9:1-14

       大宮 溥 牧師

 ◇人生は旅である。この旅を孤独な旅としてでなく、神と共に歩む巡礼の旅とするのが信仰である。アブラハムのように、神の招きを聞いて旅立ち、その行く所々において祭壇を築き、主の名を呼ぶのである。ヘブライ人への手紙は、神の民の歴史を礼拝の歴史としてとらえ、イエス・キリストによってまことの礼拝がささげられるようになったことを語っている。9章の前半においては旧約の礼拝から新約の礼拝への変化が示されているのである。

 ◇ここには旧約の礼拝の原型である出エジプト時代の場所と規定が先ず解説されている。荒野の旅をつづけるイスラエルの民は「臨在の幕屋」で礼拝した。その幕屋(テント)の真中にr垂れ幕」があり、前方の聖所と後方の至聖所を仕切っていた。前方の聖所では一般の祭司が毎日礼拝をささげていたが、至聖所は年に一度の贈罪の日に大祭司がただ一人、犠牲の血をたずさえて入り(血は生命のしるし)、民の命を神に返し、神から新しい命を受けて帰って来たのである。聖所は神との出会いの準備と応答の場であり、それが意味をもつのは、至聖所に臨在する神がそれを受け、応えて下さることによってであった。

 ◇中央の「垂れ幕」は人間の良心のしるしである。良心(英語でconscience)は「(神と)共に知る」という意味で、人間は神の前に立つ時、良心が働いて、自分の本当の姿を照らし出すのである。良心(9節)は罪人を神の前から閉め出す。そこで人間は犠牲をささげて罪の蹟いをし、神との関係を取りもどそうとしたのである。

◇しかしこの動物犠牲は「しるし」であって、その血は厳密には人間の生命の代りにはならない。これに対してキリストの犠牲(十字架の蹟い)は、キリスト御自身がわれわれと連帯した御自分の生命を神に捧げられたのであり、これによって人間が実際に、古い自分に死に、新しい命を受けて生きる道が開かれたのである(11-14節)。このことを明らかに示しているのがヨハネ福音書2章の宮潔めの物語である。キリストの体、生けるキリストこそ、われわれの礼拝を成り立たせる真の神殿である。

◇イエス・キリストが十字架上で死なれた時「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」た(マタイ27:5ユ)。主イエスの犠牲によって神と人とをへだてる障害が完全に取り除かれたのである。その時良心は罪を告発するのでなく、キリストの救いを証しする証人となる。召天日(今年は5月13日)は、われらの犠牲となられた主が執り成し手として天にいますことを示す。

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◆1999.05.02

「新しい契約」エレミヤ書2:1-3,ヘブライ書8:7-13

       大宮 溥 牧師

 ◇ゴールデン・ウィークの只中に憲法記念日を迎える。現行憲法の平和主義、国民主権、信教思想の自由等の基本理念が、今日の国際国内の現実に真の方向づけとなってほしいものである。今日のヘブライ書の御言葉は、人類の歴史の基礎である、イエス・キリストによって打ち立てられた「新しい契約」について語っている。

 ◇「新しい契約」について最初に語ったのは預言者エレミヤであり、今日のテキストはエレミヤ書31章の引用である。エレミヤは若き日に「万国の預言者」(1:5)として召命を受けた。彼はその時早春に花咲くアーモンド(ヘブライ語でシャーケート)を見、神がその民イスラエルを見張って(ショーケート)いることを知った。しかしイスラエルの民は眠りこけ、神に背いて政治的駆け引きに明け暮れていた。彼は同胞に悔い改めを叫んだが聞き入れられず、ついに紀元前587年の滅亡を招いた。

 ◇エレミヤはこれを、ユダに対する神の審判と見た。しかしその中で絶望する同胞に向って、シナイにおける「旧い契約」は破棄されたが、神は恵みをもって「新しい契約」を結び、新しい神の民を起して下さると語ったのである。この新しい契約は(1)外面的な捷ではなく、民の「思いと心に」刻まれて内面から人を生かし、(2)「すべての人」と結ばれる普遍的なものであり、(3)罪を裁くにとどまらず、罪を蹟い、赦すものである。

 ◇エレミヤが語った「新しい契約」は、イエス・キリストの生と十字架と復活を通じて実現した。キリストによって、人類が過去の罪を赦されて、新しい神との交わりを回復し、新しい神の民として歩み出す基礎を与えられたのである。◇先日、知人のキリスト者が自分の子どもの友人が、誤解からいわれない憎しみの対象となり惨殺されるという現場に立たせられた話を聞いた。周囲の人々が「神も仏もあるものか」と言うのを聞いて、その人は自分がキリスト者であって、どんな状態の中でも神様はおられると告白したが、この悲惨の意味はわからず、まことに懊悩の毎日を送った。しかし、その子の埋められた場を訪ねた時、自分の心の中でその子の顔と十字架の主の顔が重なったと話された。

 ◇この世に病がある限り誰かがそれにかかり、この世に憎しみの刃がなくならぬ限り誰かが切りつけられる。その人は人間誰しもが受け得る病いや刃を、代表して受けている。それを通して、イエス・キリストがわれわれすべてのために贖いの死をとげ新生の道を開かれたことを知らされる。

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◆1999.04.25

「自分を生きる」マタイ福音書25:14-30

       小島誠志先生

 ◇タラントンとは、お金の単位を表すもので、相当の額である。現在で言うならば、数億円に値すると思われる。家の主人は、ある者には5タラントン、ある者には2タラントン、ある者にはlタラントンを預けて旅に出た。多くもらった人々は、そのお金を用いて商売をし倍の利益を得た。しかし、1タラントンをもらった人は、それを隠しておいて、主人が得ってきた時それを返した。すると、主人は怒り、その僕を追い出した。

 ◇主人とは神のことであり、3人の僕達は私達人間のことである。私達人間には、それぞれのタラントンが預けられており、それを用いて働くことが求められている。しかし、1タラントン預けられた僕はなぜ商売をしなかったのであろう。彼は、主人が厳格なのを知り、恐れて商売をしなかったのである(24,25節)。自分は残酷な運命の下にいると考える人は、生命を生かせない。

 ◇また、彼は、自分だけが少ないのを見て落胆し、それを土の中に埋めたのである。私達は、多い人と比べると自分が意味のないように思えて、自分のタラントンを無駄にしてしまう。しかし、タラントンとは相当の額なのである。神は取るに足りないようなものを人間に委ねはしない。

 ◇この物語の中で、神はどの者に対しても、同じ言葉で祝福を与えている(21,23節)。人間は自分に与えられたタラントンの分だけ働けばよいのである。それ以上のことを神は求めない。背伸びをする必要はないし、自分を卑下する必要もないのである。

 ◇イエス・キリストはある時「野の花を見なさい。栄華を極めたソロモンでさえこの花の一つほどにも着飾ってはいなかった」と語られた(マタイ6:28,29)。ソロモンは、紀元前千年頃にユダヤを冶めていた王であり、貿易によって世界中の財宝を集めていた。ソロモンの栄華は、いろいろなものを集めて自分を飾る美しさである。野の花は自分の花を咲かせている美しさである。人は自分の花を咲かせている時こそ美しい。人間がしなけれがならないのは、生涯をかけて自分の花を咲かせることである。

 ◇人間は失敗を恐れず、神の大きな御手の中で安心して生きれば良いのである。神は、イエス・キリストの十字架の救いゆえに、私達人間を受け入れて下さっている。私達は少ししか持っていないとばかり思っていると、人生を台無しにしてしまう。むしろ、与えられたものに感謝して生きる時にこそ、私達は生き生きと生きることができるのである。

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◆1999.04.18

「神の右にいますイエス」ルカ福音書24:50-53,ヘブライ書8:1-6

       大宮 溥 牧師

 ◇聖書は神が一週間で世界を創造したと記しているが、それはイスラエルの人々が一週間毎に安息日を守り礼拝を捧げることを通じて、生ける創造者なる神に出会い、歴史を新しく始める恵みと力を与えられたことを示唆するものである。ヘブライ書は8章冒頭に信仰の「要点」を示し、人々をキリスト教信仰の基礎に立たせようとしている。

 ◇この「要点」とは、キリストが「天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」(使徒信条)という、キリストの「高挙」である。主イエスは人間と連帯してこれを担うために「へり下り(謙卑)の道」をたどり、十字架につかれたが、復活して天に昇るという高挙の道によって、われわれと神とをしっかりと結ぶ大祭司、とりなし手となられたのである。イエス・キリストの高挙は、別離ではない。主は弟子に背を向けてでなく、彼らの方を向き「祝福しながら」天に昇られた。これは、われわれ自身が神のもとに引き上げられたことを意味するのである。

 ◇キリストが大祭司となられることにより・旧約時代の祭司制度は不用になった。ヘブライ書は旧約宗教を、新約のキリスト教に対して「原作に対する写し」「本体に対する影」であると言う。旧約宗教は、人間の歴史を「救済史」「救いの歴史」とみている。その歴史の担い手は神の民イスラエルであった。そこで神は人間と共に歩んで下さるのであるが、両者が一つとなることはない。それは2つの焦点をもつ楕円である。それに対してイエス・キリストは神にして人であることによって、キリスト教は主イエスを中心とする円である。この円はすべての人間を包み込んでいる。

 ◇旧約の歴史は人間が神に背いて、神の民が、全人類からイスラエルへ、イスラエルから「残りの者」へと狭められ、主イエスが十字架についた時には、彼の他のすべての人間が神に背いて裁かれるべき姿となった。しかし主イエスはすべての人間の罪を負うて死に、すべての人を生かすため復活した。旧約の祭司制度がなそうとしてなし遂げられなかった、人間と神との真の和解と交わりが、主イエスによってなしとげられたのである。主イエスは旧約の救いの約束の成就者である。

 ◇主イエスが天にいますというのは、遠いどころではない。見える現実の裏にある見えざる現実が天である。われわれは神なき現実を生きている様であるが、その深味において主イエスかわれわれを受けとめ、支え生かして下さるのである。

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◆1999.04.11

「主の光の中を歩もう」イザヤ書2:1-5,エフェソ書5:6一14

       大宮 溥 牧師 

 ◇1999年度の教会標語は「主の光の中を歩もう」(イザヤ書2:5)である。20世紀も終りとなり、政治・経済・教育など各方面で行きづまりと危機が感じられ、夜の闇の中で夜明けを待つような時代に、上から射してくる光に気づき、その光に導かれて歩むようにと、われわれを励ます例言葉である。

 ◇イザヤ書は1章から2章5節までが序文で、イザヤ書をどのように読むかについて示唆を与えるものである。1章2-9節はイザヤの晩年に起ったアッシリア王センナケリブのユダ王国攻撃(紀元前701年)直後の預言である。全土征服されて都エルサレムだけが大海の孤島のようになり、その落城も時間の問題と見られた矢先、一夜にしてアッシリヤの大軍が徹退した。その時イザヤは、この国難はユダが自分の力を誇り神に背いたことへの審判であること、しかも神は憐れみに富む故に、滅ぼし尽くすことをせず、「残りの者」を救われたことを告げたのである。

 ◇1:10以下では、神は何故神の民であるユダを激しく怒られたかを語っている、これはイザヤの初期の預言である、ユダの人々は表面的には盛大な礼拝を捧げ神をあがめているように見える。しかし内面においては、神に背いている。その証拠に、富める特権階級が肥え太り、貧しい人々が搾取されている。それ故悔い改めて神に従い愛と正義の社会を築けと訴えたのである。

 ◇2章になると、ここには生まれ変ったユダの国が世界の中心となって、平和が訪れる姿が描き出されている。イザヤ最晩年の預言と思われる。当時はアッシリアの世界支配が一応完成して「アッシリアの平和」が訪れていた。しかしイザヤは「聖なる神」の支配によってのみ真の平和が来ることを預言したのである。

 ◇以上のようなイザヤ書序文を通して、イザヤは人々を神の前に呼び出し、神は過去における罪を裁かれると共に、しかも神はわれわれを滅ぼすのでなく、生きながらえさせ、新しい時代を築く機会を与えて下さっていることを告げている。それ故「主の光の中を歩もう」と呼びかけている。

 ◇今日世界は「地球村」として一つであるのに、その中で部族争いに引き裂かれている。しかも人間が社会を築くより、自分の穴にこもり、外に出ると自己崩壊におちいる。このような問題の根底には、神が忘れられ、神を縦軸とし隣人を横軸とする生活が築かれていないことがある。主の光に気付き、それを仰いで生きなければならない。

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◆1999.04.04

「永遠の大祭司」ヘブライ書7:11-28

       大宮 溥 牧師

 ◇復活祭を迎え、「わたしが生きているので、あなたがたも生きる」(ヨハネ14:19)と語られる主イエスを仰いで、新年度の歩みを始めよう。

 ◇グリューネヴアルトが描いたイーゼンハイム修道院の祭壇画は、表には主イエスの十字架像が描かれている。その肌は当時この地方に流行していた病気にかかった人たちの血の塗んだ肌である。主がわれわれの病いを担って下さっているのである。ところがその絵を中央から開くと、正面にキリストの誕生、そして右に復活のキリストがあらわれる。夜明け前の闇の中に、太陽のような光輪を背にして、両手を拡げて、空中に飛翔している。地上では番兵たちがロケットの噴射に吹き飛ばされたようにころげている。復活の力の勢いを感じさせる。死と病いと闇を打ち破られる主の前に立つ思いがするのである。復活祭はこの主の前に立っ時である。

 ◇ヘブライ人への手紙は「イエスは永遠に生ぎているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです」(24節)と告げている。生けるキリストが大祭司として神とわれわれをしっかりと結び合わせて下さるというのである。この永遠の大祭司の姿を鮮やかに描き出しているのは、ヨハネ福音書20章のマグダラのマリアと復活の主イエスとの出会の物語である。主に名を呼ばれて、生ける主に気付いたマリアが、喜んですがろうとした時、主は昇天前の身であるからとそれをたしなめた。そして弟子たちに「わたしの父であり、あなたがたの父である方……のところへわたしは上る」と伝えるように命じられた(20:ユ7)。

 ◇キリストを抜きにしては、神はわれわれの父というより、造り主であり、われわれは被造物である。厳密に言えは主イエスのみが神を父と呼べる。しかし主イエスがわれわれと同じ人間となって下さったので神はわれわれをも子と認め、深い交わりを与えてくださるのである。主イエスのとりなしによって、神はわれわれの父となる。

 ◇祭司のつとめはいけにえを献げることである。それは動物の伽があらわしている生命(われわれの生命)を神に返し、神から新しい命を受けることであった。しかし動物犠牲はしるしであって、人間の生命そのものを献げるのではない。しかしキリストは御自分の命を神に献げ、新しい命を神から受け取り、それをわれわれに与えて下さる。わたしは5年前の手術の時、死ぬべき時間的存在である人間を、永遠者である神がその始点(誕生)と終点(死)と途上で出会って下さる恵みに触れ感謝した。

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