2001.4-6


もくじ

◆06.24「神の言葉」マタイ福音書5:13-14、ヨハネ黙示録10:1-11
◆06.17「神と遺伝子と教会」第1コリント3:18-23
◆06.10「神に呼ばれる」イザヤ書6:1-8
◆06.03「聖霊の躍動」ヨエル書3:1-5、使徒言行録2:1-11

◆05.27「祝福するイエス」エレミヤ書10:1-10a、ルカ福音書24:44-53
◆05.20「主の祈り」マタイ福音書6:1-15、ヘブライ書7:11-25
◆05.13「共に旅するイエス」ルカ福音書24:13-35
◆05.06「主の復活とわれらの望み」ネヘミヤ記2:11-18、ヨハネ福音書11:17-27

◆04.29「新しい人」マタイ福音書12:38-42、コロサイ書3:1-11
◆04.22「最も大切なこととして」ルカ福音書24:36-43、第1コリント15:1-11
◆04.15「キリストと共なる生と死」マタイ福音書28:1-10、ローマ書6:3-11
◆04.08「キリストがあがめられる」マタイ福音書21:1-11、フィリピ1:19-27a
◆04.01「目を覚ましていなさい」マタイ福音書26:36-46、第1コリント16:13-14

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◆2001.06.24 聖霊降臨節第四主日

「神の言葉」マタイ福音書5:13-14、ヨハネ黙示録10:1-11

           大宮 溥 牧師                        

 ◇ヨハネ黙示録は世界と教会の歴史を展望しているのであるが、10章で後半の幕が開き、次第にフィナーレヘと展開してゆく。新しい歴史の幕開けに、一人の天使が天から下って来て、海と陸との間(パトモスの島の海岸線)に立つのである。

 ◇天使は人間の運命の岐路に立つかのように海と陸との間にまたがって、大声で叫んだ。その声が天地の間に鳴り響くと、7つの雷鳴がとどろいた。世界をゆり動かす神の意志と決定が告げられたのである。ヨハネがそれを書き留めようとすると、天からの声がそれを禁じる。神がこの世をどのように動かされるのかを、人間は知り尽すことはできないのである。

 ◇しかしそれと同時に、あの大天使は着手を天に上げて(神の御意志に従って)、大声で「もはや時がない」(6節)と叫ぶ。天使のラッパが鳴る時に「神の秘められた計画が成就する」。その時が近いという。人間は将来を知り尽すことができないけれども、この世界は偶然の連続で意味も目的もないままに流れているのではないのである。「神の秘められた計画」とは神のミステリー(秘義)で、人間には隠れているが 神の深い知恵と意志によって実現する歴史のことである。それは悪が砕かれ真実なものが勝利し実現する歴史である。

 ◇このような神の裁きの日が目前に追っている。このような「もはや時がない」という終末意識が、人間を真実な生き方へと引き戻し、立ち帰らせる。「愚かな金持ち」のたとえ(ルカ12:13-21)が語る警告が、今日世界史的な規模で人間に突きつけられている。21世紀に人類は或びるのではないかという切迫感が人々の心の奥底にある。これは人間に悔い改めを迫る神の声なのである。

 ◇このように切迫緊迫した状況においてヨハネは「小さな巻物」(9節)を渡されてそれを食べた。それは「口には蜜のように甘かったが、腹には苦かった」(10節)。

これは「神の言葉」である。巻物は黙示録5章にも言及されており、神の天にある巻物は固く封印されていたが、死してよみがえられたイエス・キリストによって、封印が解かれた。イエス・キリストによって「神の秘められた計画」が実現し、開示されたのである。この福音がキリスト者に示され、またそれを宣べ伝える使命が与えられたのである。それが苦くかつ甘いのは、神は罪と悪に対して怒られるが、その怒りは「愛の燃焼」(バルト)だからである。

 ◇キリスト者は「地の塩、世の光」として、福音を世に証する使命に召されている。

  

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◆2001.06.17 特別伝道礼拝

「神と遺伝子と教会」第1コリント3:18-23

           木村 利人 先生            

  ◇英語で「遺伝」「生命」に関する言葉はギリシャ語に語源を持ち、それらは聖書にも用いられ、聖書と繋がりを持つ本来は教会の言葉であった。

 ◇20世紀はどんな時代であり21世紀はどんな時代になるのか。20世紀は生命操作が始まった時代。21世紀はこれがさらに大きな課題となる。21世紀は細胞の「核」と「原子核」との「二つの核」の時代。この課題にキリスト教はどう答えるべきであろうか。

 ◇世界教会協議会(WCC)は今から30年前からこの間題に取り組んでいる。WCCは1973年に「遺伝学と生命の質」という会議を主催し、私もこの会議に出席した。重い遺伝病を科学技術によって治療できる可能性が出て来た時代にあって、全能の父なる神と、神によって与えられた「いのち」とについての信仰を持つキリスト者が、科学者との対話を始めた。急速に発達する科学技術が人間の尊厳を侵す方向に進む場合には厳しく抑制すると同時に、それが癒し得る病をどうやって癒していくことが出来るのか、またその病に悩む人々の苦しみや悩みをどうやって担っていくことが出来るのか、それがこの対話の出発点であった。

 ◇日常的に飢餓に悩む人々が世界人口の70%に及んでいる現代にあって科学技術が問題の解決に取り組み得る可能性が出て来た。しかし、同じ科学技術が新たな重大な遺伝的障害を生み出すことも有り得る。ベトナム戦争で用いられた括れ葉剤や生化学兵器などはその一つの顕著な例である。このような科学の暴走をどう抑制していくのか。WCCや米国のNCCはこの課題に取り組み70年代に提言を出した。神から頂いている生命の尊厳を守る、それを公的で開かれた形で、討議を通じて方向づけていくというのが提言の内容である。この提言を受けた会議を通して、病・貧困・社会的弱者等の問題について、臓器移植やターミナルケアの問題について、社会に対して米国の教会は積極的な発言を続けている。

 ◇「生」、「死」、「いのち」といった言葉は 今は医学や遺伝学の言葉となっている。しかし、元来それらは教会の言葉であった。これらをもう一度教会の言葉の文脈で捉え直そうとする動きが今出て来ている。「すべては、あなたがたのものです。世界も生も死も(21-22節)」。「いのちは私たちのものだ」と確かに聖書は語る。しかし同時 に「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです(23)」と語る。私たち は「私たちのもの」として「いのち」を与えられた。この「いのち」全体が神のものとして神によって支えられているのである。

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◆2001.06.10 全家族音楽礼拝

「神に呼ばれる」イザヤ書6:1-8

           大宮 溥 牧師           

 ◇今日の「全家族礼拝」は、大人も子どもも一つになって、わたしたちが神の家族であることを覚えるものです。教会だけでなく人間は皆神様を父とする家族です。それなのに、まわりの人を敵のように考え、憎んだり攻撃したり殺したりする事件が起きています。父なる神様は深く悲しんでおられることでしょう。もう一度神の家族の心と生活に帰らなければなりません。

 ◇イザヤという預言者がいました。若い時にウジャという王様がなくなりました。病気でありながらよく国を治めた王様がいなくなり、しかも大国アッシリアが襲いかかろうとする様子に、多くの人が心配をしました。若いイザヤも、エルサレムの神殿に行き、神様の守りと導きを祈りました。

 ◇神殿の前の幕にはセラフイムという天使の姿が描かれていました。礼拝が始まり香の煙りがただよい、聖歌隊が「聖なるかな」と力強い讃美の歌をうたっていましたくその時イザヤは心の目が開かれ、生ける神の前に立っていることを経験しました。私たちも礼拝の時に、神様との出会いと交わりを与えられますが、イザヤはもっとはっきり神様を見たのです。

 ◇その時イザヤはとても恐ろしくなりました。尊く清い神様から見ると、自分はとてもみにくく汚れた罪人だということを感じたのです。すると一人の天使が神様の前にある祭壇の上で燃えている炭火を火鋏ではさんで、それをイザヤの口にあてました。イザヤは自分のからだが焼き清められ、罪を拭われた新しい人間になったことを感じました。神様はすべての罪をご存知ですが、それを清めて下さり、愛をもって生まれか わらせて下さるのです。

 ◇この後イザヤは神様が、「これからのユダヤ人には、神の愛を知らせ、勇気をもって国を立て直すように教える人が必要だ。誰かそのような仕事を引き受けてくれる人がいないだろうか」と言われるのを聞きました。そこで彼は「どうかわたしにその仕事をさせて下さい」と申し出ました。そして神の言葉を伝える預言者として働くようになりました。

 ◇イザヤだけでなく、人間はみんな神様に呼ばれて、神様から御用を与えられ、それを果たす使命があります。神様の御用です。子どもたちは、その御用が果たせるように、体をきたえ知識を身につけましょう。大人は、今の自分の生活の中で、神様が与えて下さっている使命と課題は何かを、折にふれて受け取りなおし、イザヤのように「わたしがここにおります。わたしをお遣わしください」と使命に生きたいものです。

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◆2001.06.03 聖霊降臨祭礼拝

「聖霊の躍動」ヨエル書3:1-5、使徒言行録2:1-11

           大宮 溥 牧師           

 ◇聖霊降臨祭は天に昇られた主イエスが聖霊を弟子たちに降し、彼らを強めて教会を設立された記念日である。教会はキリストの体であり、われわれが地上で今日出会うキリストは「教会として現実存在するキリスト」(ボンヘッフアー)である。そして教会がキリストの体として歩むためには聖霊によって生かされ動かされることが不可欠である。

 ◇使徒言行録によると、聖霊は「突然、激しい風が吹いて来るように」来たり、また「炎のような舌が一人一人の上にとどまった」(2-3節)。風と火というイメージで示されている。風(ギリシャ語では霊と同じ言葉プニウマ)は自由と解放の力である。エゼキエルは神の風が白骨を生きた人間に変える幻を見た。霊は死と絶望の只中に命と望みを与える。火はからだを暖め、心を燃やす神の愛の力を示している。聖霊は最初の殉教者ステパノを、主イエスと同じ赦しの愛の人とした(使徒7:60)。聖霊は「力と愛と思慮分別の霊」(テモテ第二1:7)である。ペンテコステにあたり、われわれもこれを再び燃え立たせよう。

 ◇最初のペンテコステの日、弟子たちは聖霊を受けると、いろいろな国の言葉で福音を語った。これは福音が人種民族の境を越えて全世界に広められてゆくことを示している。

 ◇ペトロの説教では、この聖霊降鯨の出来事はヨエルの預言の成就であると語られている。ヨエルの預言で印象的なのは、当時経験したと思われるいなごの大軍の襲来の描写である。中近東ではいなごが黒雲のように天を覆い、一つの地域に一斉に下って来ると一木一草も残さず食い尽すという。ある人はこれはペルシャの大軍がエジプト遠征にくり出し、途中にあるユダヤを踏みつぶし奪い去って行ったことを象徴的に表したのだと言う。

 ◇ヨエルはこのような全国的悲惨を、人々が神の警告として聞き、自己中心の生活を悔い改めて神に立ち帰り、神の憐れみを呼び求めるように勧めた。私はこの預言は鎌倉時代の日蓮が、真の宗教に帰依しなければ国が滅びると警告したのに似ていると思う。国は民によって立ち、民はその心に何を宿しているかによって立ちもし倒れもする。或る人は21世紀の困難を予測して、これを乗り越えさせるのは科学と宗教の一致だと言う。神との関係という縦軸と人と物との関係という横軸という人生の座標軸を確立することと言ってもよいであろう。聖霊はわれわれを神との関係に入れ、これによって人生を躍動させる。

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◆2001.05.27 復活節第7主日

「祝福するイエス」エレミヤ書10:1-10a、ルカ福音書24:44-53

           大宮 溥 牧師           

 ◇今日は「昇天後主日」である。イエスキリストが「天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」という御業を覚える日である。主イエスは天から地に下られた「下降」の道と、地から天に上げられた「高挙」の道をたどられた。下降の道は主が人間を救うために人間となり、人間と連帯し、共に歩まれた道である。しかし連帯した人間を罪と滅びと死から救うためには、罪を砕き死から解放する、復活と昇天という高挙の道が必要なのである。

 ◇今日の新約のテキストは、復活の主イエスが、弟子たちに現われて最後の教えを与えた後に、天に昇られたことを記している。ここで主イエスは第一に、十字架と復活の出来事が、聖書の証している、神の救いの業であることを教えておられる。聖書は神の救いの歴史(救済史)の記録である。その涙点が十字架と復活である。それによってわれわれは、世界の歴史もわれわれの人生も、神が導いて下さっていると確信することができるのである。そして第二に主は、弟子たちがやがて聖霊を受けて立ち上り、主の救いの証人になることを約束された。救いの歴史の担い手となるのである。

 ◇この最後の教えを与えて後に主は「祝福しながら天に上げられた」(51節)。主は弟子たちに背を向けて去ってゆかれたのではなく、彼らを招くように、祝福しつづける姿で昇られた。そして今もわれわれの方を向き祝福しておられるのである。

 ◇主の召天について考える時、第一に心に刻まなければならないのは、主はわれわれ人間の代表として天におられるということである。受肉前のキリストは「神の子」としてのみ存在されたが、受肉後のキリストは、神の子でありつつ、同時に人間として、神の右におられる。従ってわれわれは主によって天につながり、団斧が天にある者とされているのである(フイリピ3:20)。

 ◇第二に、イエス・キリストの昇天は、主こそすべての人を養い導く「王」であることを示している。主イエスは神の言葉を人に伝える預言者、人を神に執り成す祭司であると共に、王としてわれわれを支配されるのである(キリストの三職)。この神の恵み深き支配が理解されない時、人間は真の神以外のものを神とする偶像崇拝に陥るのである。今日の旧約テキストは偶像崇拝に対する預言者エレミヤの批判であるが、小山晃佑教授がここにある「きゅうり畑のかかし」を神とするようなことを、かつての天皇制絶対主義者が行い、国を破滅させたと述べている。王なるキリストに従う道こそ全世界が愛と正義と平和に至る道である。

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◆2001.05.20 復活節第6主日

「主の祈り」マタイ福音書6:1-15、ヘブライ書7:11-25

           大宮 溥 牧師           

 ◇今週木曜日は「昇天日」である。主は復活後40日日に天に昇られたが、その時弟子たちに聖霊を与えると約束され、祈りつつそれを待つように命じられた。彼らはそれを守り「心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒1:14)。祈る群に聖霊が与えられたのである。

 ◇主イエスは祈る人であった(マルコ1:35)。それを見て弟子たちは「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11:1)と願い、主から与えられたのが「主の祈り」である。マタイ福音書は主の祈りを山上の説教の真中に置き、主の教えの中心であることを示したのである。

 ◇主の祈りは、父なる神への呼びかけのあと、神に関する3つの祈りと人に関する3つの祈りを述べている。これは、神の国(神の支配、導き)の実現を祈っている。冒頭の呼びかけは「天の父」に向けられる。主イエスは神を「アッバ」と呼んだ。それは子どもが父親に呼びかける親愛の思いにあふれていた。この主がわれわれと神とをとりなして下さる故に、われわれも父なる神と親しく交わることができる。

 ◇「御名が崇められる」とは、神を聖とする祈りである。神は恵みに満ちる方であるが、われわれはそれに甘え、あまく見るのでなく、神の尊厳を畏敬をもって仰がなければならない。それによって神の導きがすべてに及ぶのである。「御国が来ますように」とは、光と閣がぶつかる、神とサタンの戦いの激しい現在の世の中に生きるわれわれに、終末の勝利を信じて生きる希望を与えるものである。「御心が行われますように」は、人生と歴史を通じで神の御計画の実現を祈るものであるが、それはまた主のゲッセマネの祈りのように、我意でなく神の御心のままに生きる信従の心をあらわしている。

 ◇人に関する3つの祈りの中の日毎の糧の祈りは、われわれの生存は神によって可能であることを思い起させる。罪の赦しは神との交わり(縦軸)と隣人との交わり(横軸)から成っている人生を、神の赦しによって建て直すための祈りである。誘惑より守りたまえとの祈りで、誘惑とは、「無防備のまま敵の攻撃にさらされること」(ボンヘツフアー)である。アダム以来堕落の道に転落する人間の中で、主は荒野からゲッセマネまで、誘惑に勝利された。この主の助けによって、われわれも勝利する。

 ◇このような「主の祈り」は、主御自身の祈りであり、主が教えて下さった祈りであるが、主はまた真の祭司として祈るわれらをとりなして下さるのである。

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◆2001.05.13 伝道礼拝(復活節第5主日)

「共に旅するイエス」ルカ福音書24:13-35

           大宮 溥 牧師           

 ◇阿佐ヶ谷教会では毎月1度祈祷会において教会員の証を聞く。この25年の間に通算300人以上の証があった。それを聞くたびに、わたしはルカ福音書24章のエマオの旅人の物語を思い起す。それは、一人一人の人生の道を主が共に旅して下さっていることを知らされるからである。

 ◇エマオはエルサレムの北西60スタディオン(約11キロ)のところにあった。都からそこに下る春の道を2人の人が旅していた。のどかな春の日に滑らされながら、彼らの顔は暗く、歩みも重かった。それは自分たちが「イスラエルを解放してくれると望みをかけていた」(21節)イエスが、3日前に十字架上で死に、自分たちの希望が砕かれたからである。

 ◇ところがその旅の中でふと気がつくと一人の人がいつの間にか自分たちの傍を同じ歩調で歩んでいたのである。彼らは自分が選んだ道を旅していた。その道を主イエスが同伴して下さったのである。H.F.ライトは、晩年結核のため牧師を辞して転地療養に出かける前の夕「主よともに宿りませ」(讃美歌39)の讃美歌を綴った。孤独な一人の旅に共に歩んで下さる主を仰いだのである。

 ◇この同伴者イエスに対して、あのこ人の弟子は「目が遮られて、イエスだとは分からなかった」(16節)。彼らが主に気付いたのは、主が道中聖書を説き明かして下さり、自分たちの心がそれによって燃えたという経験と、宿で食事の席についた時であった。これはわれわれが聖書を読み、また聖餐式にあずかる時、生ける主と出会い、それに気付くことを示している。

 ◇聖書はわれわれをキリストに導く「道しるべ」である。私が日本基督教団の教師検定試験を担当していた時に触れた人々の中で、強烈な印象を受けた一人は大日和繁というハンセン病を患った人であった。彼は絶望の果て自殺もはかったが果せず、生きる意味を求めて聖書を読みはじめた。そしてイエス・キリストの愛に触れて慰められたが、彼が単なる聖人でなく神の子である証拠を見つけようと読み進むうち、主が十字架上で敵のために「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と祈った場面で、その聖なる愛に触れて納得がいった。このように聖書はわれわれをキリストに出会わせ、心を燃やしてくれる。

 ◇あのエマオの夕食は、聖餐を思い起させるが、これを教会の交わりと理解することもできる。われわれは「キリストのからだ」としての「母なる教会」で主イエスと結びつくのである。

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◆2001.05.06 復活節第4主日

「主の復活とわれらの望み」ネヘミヤ記2:11-18、ヨハネ福音書11:17-27

           大宮 溥 牧師           

 ◇新約聖書の中で主イエス・キリストの復活以外に「死者の復活」について極めて印象深く記しているのは、ラザロの復活物語である。ドストエフスキーの『罪と罰』の中で主人公ラスコリニコフが、売春婦でありながら心の清さと暖かな愛を失わないソーニアの生きる秘密を確かめようとしてこのラザロ復活の物語を読んでもらう場面は、この物語のもっている、人間を生まれ変わらせる力をよく伝えるものである。

 ◇主イエスがラザロの姉妹マルタに向って「あなたの兄弟は復活する」(23節)と告げた時、彼女はそれを世の終りのことと考えた。それに対して主は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」(26節)と答え、復活は生ける主と出会う時、今ここで起こると言われたのである。ゴッホはラザロの復活を描いた時、石の洞穴の中にラザロが横たわり、今目が覚めたという表情をしている。その傍でマルタとマリアが両手を拡げて驚いている。これは主が「ラザロよ、出て来なさい」と呼ばれた瞬間であるが、ゴッホはその洞穴に太陽を書き入れた。主が来られる時、それは死の閣を照らす太陽のように、われわれを照らす。その命と恵みの光を浴びて、われわれの新しい生活が始まる。

 ◇今日のもう一つのテキストであるネヘミヤ記2章は、バビロン捕囚を終えて故郷に帰ってきたユダヤ人を導くため、ペルシア王から派遣された総督ネヘミヤが、都エルサレムを視察した時のことを記している。この町は長く放置されていたので「荒廃し、城門は焼け落ちたまま」であった(17節)。この廃墟と化した焼跡に立って、ネヘミヤは同胞に呼びかけ、激励し、祖国再建に立ち上がり、先ず町の城壁を築き直そうと提案するのである。すると茫然自失の状態にあったユダヤ人が「このよい企てに奮い立った」のである く18節)。

 ◇これは悲しみと絶望の世界にイエス・キリストが来られることによって、人々が死から命へと大きな転換に導かれたこと、また主によって命へと呼びもどされた一人のラザロを通して、彼の家庭に、ベタニアの村に、慰めと喜びが拡がって行ったことをも思い起こさせる.〕われわれもラザロと同じように、主イエスに出会い、命の太陽に照らされて新しい歩みを始めている。

 ◇今日の日本社会は太平洋戦争の廃墟から立ち直ったが、心の通い合う愛の共同体が築かれているかというと、脆く崩れたままである。神はネヘミヤに同胞奮起の使命を与えたように、われわれにも愛と道義の共同体を築く使命を与えておられる。

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◆2001.04.29 復活節第3主日

「新しい人」マタイ福音書12:38-42、コロサイ書 3:1-11

           大宮 溥 牧師           

 ◇信仰は生けるキリストに対する無条件の信頼である。主イエス御自身も、生前メシヤ、神の子であるしるしを求められた時、それを拒否して、彼の存在そのものが「しるし」であることを告げられた。主イエスは御自分を、奇跡や超能力によって誇示するのでなく、普通の人間として生きられた。これは主イエスがわれわれ人間と全く一体となられたことである。このことをフイリピ書2章の「キリスト讃歌」は美しく語っている。「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(2:6-7)。このように卑下の道を描き、われわれに代って死なれた主イエスを、神は捨ておかれず、死者の中から復活させ万物の主として立てられたのである。この十字架と復活の主の存在そのものが、メシヤのしるしである(マタイ12:40)。

 ◇コロサイ書は、このイエス・キリストの死と復活が、われわれ自身の死と復活であることを告げている。主が復活して天に昇り、父なる神の右に座し給うことによって、神とわれわれは切っても切れぬ強い結びつきを与えられたのである.)コロサイ書の世界理解では、父なる神のいます天とわれわれの住む地上との間には、諸霊が充満して、天と地の交流を遮断していると考えられた。厚い黒雲が天と地をさえぎって、地上を暗くしている様な状態である。それに対して復活の主は、自分を死と罪の闇の中に閉じ込めようとした諸霊の力を打ち砕き、天地を隔てる黒雲を引き裂いて、天にいます父なる神のもとに帰られた。そしてわれわれと神との間を執り成し、しっかりと結び合わせて下さったのである。

 ◇それ故われわれは闇と罪と死の力に閉じ込められず、神の愛と力に導かれて、信仰と希望と愛の生活を築いてゆく。われわれは天に国籍を持つ者とされたので、「上にあるものを求めて」生きるのである(1節)。5節以下の勧めは、積極的に言いなおせば、神を愛し人を愛する生活の確立である。

 ◇これは「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着ける」(9-10節)ことである。人間は「神の像(かたち)」に造られている。人間は神との交わりを得て真の人間となる。ところが現実には神との関係が切れている。これが「古い人」である。キリストはこの「古い人」を御自分の身に引き受けて死に、もう一度われわれを神と結びつけて下さった。「新しい人」である。

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◆2001.04.22 復活節第2主日

「最も大切なこととして」ルカ福音書24:36-43、第1コリント書15:1-11

           山本 信義 伝道師        

 ◇「福音・良き知らせ」へとパウロはもう一度われわれを向けさせる。「どんな言葉でわたしがそれを告げ知らせたのか思い出しなさい」と語る。第1コリント書15:3-8にその言葉が記される。この言葉をパウロは「最も大切なこととして」伝えた。

 ◇「最も大切なこととして」。直訳するならば、「先ず、第一に」と訳せる言葉。最も大切なことだからこそ、パウロは「先ず第一に」このことを告げ知らせた。救いへ至る「良き知らせ・福音」だからこそ、真っ先にパウロはこのことを宜べ伝える。

 ◇福音書は、「空の墓」の出来事に続いて「主の顕現」の出来事を記す。「空の墓」においては、駕きと恐れとが全体を支配していた。驚きと疑いとを喜びの声へと変えて下さるために、復活のキリストはその御姿を確かに現して下さった。

 ◇復活の主イエスは御自身の手と足とをお見せになった。復活の主イエスのお姿は亡霊の姿ではない。ましてや、夢や幻などではない。よみがえりの主を信じる私たちの信仰も、夢や幻のような中身を伴わないものではない。私たちを確かに、救いへと至らせる福音を信じる信仰である。

 ◇パウロもまた「現れた」という言葉を繰り返す。旧約聖書でその言葉は、神御自身が現れる場面で用いられた言葉。神御自身が御自身の方から御自身を現して下さる。復活の主イエス・キリストもまた、このように現れて下さった。疑いと不安との内にあった者たちの上に主は確かに御自身の方から現れて下さった。

 ◇「最も大切なこと」は「わたしもまた受けたもの」であるとパウロは記す。それは、彼に先立って教会の中で語り縦がれてきた教会の信仰の言葉。教会の信仰に連なりつつ、パウロは「この私にもキリストは現れて下さった」と語る。同じ教会の信仰の言葉に連なりつつ、この信仰の言葉に「私にも主が現れて下さった」と加え、それを「最も大切なものとして」伝える。

 ◇この同じ主に連なる同じ福音が、私たちにも今告げ知らされている。私たちもまたこの福音によって救われる。

 ◇復活のキリストは私たちにも現れて下さる。私たちは主日の礼拝において復活の主と見(まみ)える。私たちもまたこの福音を教会の信仰として告げ知らせる。「私にも主が現れて下さった」。教会の信仰に連なる者として、私たちもそう加えることが許されている。終わりの日に至るまで教会は復活の証人として主イエスの十字架とよみがえりとを宣べ伝える。

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◆2001.04.15 復活主日

「キリストと共なる生と死」マタイ福音書28:1-10、ローマ書6:3-11

           大宮 溥 牧師        

 ◇ゲーテの『ファウスト』の冒頭で、ファウストが世界の底まで見究めたけれど、人生の喜びが失せてしまったと嘆きつつ、毒杯をあおろうとした時、教会の鐘がひびいて、キリストの復活を告げる讃歌が聞こえる。「キリストはよみがえりたまいぬ。身も心も損うべき。死ぬべき者らに歓びあれ」。これを聞いたファウストは思わず杯を下に置いて「なんという深い調べ、何という音色であろう」とつぶやき、生きる力を取りもどす。21世紀の最初のイースターを迎えたわれわれにも、復活の主イエスが夜の闇を照らす太陽の様に輝き出て下さり、すがすがしい朝風のように「生きよ」と呼びかけて下さるのである。

 ◇マタイ福音書は、イエス・キリストが十字架で死なれた翌週の日曜日の朝、主をしたう女性の弟子が恩師の葬られた墓に行ってみると、「大きな地震が起こった」(2節)と告げている。この福音書は主の死の時にも「地震が起こり、岩が裂けた」(27:51)と記している。地震は人間の生活の基盤を根底から破壊するものである。主の死に直面して弟子たちは、自分を支えていたものが崩れ落ちる経験をしたのである。死はわれわれの土台をつき崩す地震である。しかし、マリアたちが経験した地震は、すべてを崩す死そのものを打ち砕く、神の一撃だったのである。主イエスの復活によってわれわれは、死によっても砕かれない、真の命へと生かされるのである。39才で処刑されたボンヘッファーが「これが最後です。わたしにとっては命の始まりです」と言い残したのは、この真の命の証しである。

 ◇復活は「神の愛の能力証明」(ヴィルケンス)である。主イエスが十字架上で死なれた時、それは神の愛の無力さを証明するものであり、結局死は命より強く、憎しみは愛より強いとの印象を与えた。しかし主が死者の中からよみがえられた時、神の命は死を砕き、神の愛は憎しみを愛へと変えることが証明されたのである。

 ◇キリストの復活は、われわれ人間に真の命をもたらすと共に、われわれの世界全体にも新しい命の希望をもたらす。パウロはローマ書8章で「被造物のうめき」を語っている。人間が堕落して生存競争と搾取の道をたどる時、自然も破壊され、うめくことを告げている。そして人間が万物の管理者としての自分を取り戻す時、「万物の回復」が起こるのである。21世紀の希望はここにある。そのためにわれわれは復活の主イエスから、罪の購いと命を受け、「キリストにある」存在となり、キリストと共なる生と死の道を歩まなければならない。

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◆2001.04.08 棕梠の主日礼拝・大村勇先生・愛子夫人記念礼拝

「キリストがあがめられる」マタイ福音書21:1-11、フィリピ1:19-27a

           大宮 溥 牧師        

 ◇最初の棕梠の主日に、主イエスは王の凱旋の姿でエルサレムに入城された。それは、これに続く主の若しみと死が、敗北と失敗ではなく、神の救いの働きの実現と完成のためであったことを、人々の心に刻みつけるためであった。今年も棕梠の主日を迎えて、十字架と復活の道を開いて下さった主が、われわれのもとに来て下さるのを歓呼の声をあげて迎え入れたいものである。

 ◇今日われわれは、大村勇先生(1991年4月10日逝去)の10年と愛子先生(1986年4月19日逝去)の15年の記念礼拝を守っている。われわれは先生夫妻から受けた福音の恵みと力を思い起し、主の群としての信仰の歩みを新たにしたい。

 ◇大村勇先生の生涯を思う時「われは永遠に主の宮に住まん」という詩23末尾を思い起す。先生にとって教会は、まことの故郷であった。また青山学院神学部を卒業して牧師となられてからの先生の思いは、神の召命に心を尽くして応えることであった。日本メソジスト教会の命令で、監督から千葉市の開拓伝道に任命された時、先生は厳かな神の召しを覚えて「身振るいを感じた」と述懐しておられる。この召命感を先生は生涯の最後まで持ちつづけ、主に応えて歩まれたのである。

 ◇大村牧師は阿佐ヶ谷教会の牧師であるという強い自覚を持っておられた。大村牧師と阿佐ヶ谷教会は、パウロとフイリピの教会のような、まことに温かな、信仰の喜びを共にする関係であった。フイリピ書のはじめにパウロは、自分の近況報告をしているのであるが、人々がパウロにとってマイナス要因であろうと想像するようなことも実は「福音の前進」に役立ったと伝えている。そしてパウロが「切に願い、希望していること」は「これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられることである」と告白しているのである。

 ◇「キリストがあがめられる」という言葉は「キリストが大きくなること」である。暗い問題に満ちた世界の中で、キリストの偉大さが輝き出る。罪と悪魔と死が猛威をふるっている世界を、十字架のキリストが打ち砕き、復活の光をもって照らす。これが福音の前進の目標である。大村先生もその身をもって「キリストが公然とあがめられる」ために生涯を捧げられた。愛子先生も「生くるうれし、死ぬるもよし。主にあるわが身のさちはひとし」(讃美歌361)と告白された。われわれもこの主の力に励まされて、絶望から立ち上り、信望愛の光を灯して歩みたいものである。

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◆2001.04.01 受難節第5主日

「目を覚ましていなさい」マタイ福音書26:36-46、第1コリント16:13-14

           大宮 溥 牧師 

 ◇阿佐ヶ谷教会の2001年度の教会標語は「目を覚ましていなさい」である。これはコリント教会に宛てられたパウロの手紙の末尾の言葉である。この教会はパウロの伝道によって設立され、彼はこの教会を「コリントにある神の教会」と呼んだ。しかしこの教会は信仰に熱心であったが、その熱心さが誤った方向にそれたり、お互いの主張がぶつかり合って分裂や分派が生じたのである。これに対してパウロは個々の問題にていねいに指示を与えているのであるが、その根本として13章の愛の教えと15章の復活の教えを説いている。復活の主を仰ぎ、愛に生きることをすすめているのである。

 ◇その末尾の「目を覚ましていなさい」は、復活して、今も生きておられるキリストを見つめて生きるようにとのすすめである。旅に出た主人がいつ帰ってきても、すぐ戸を開けてあげられるように用意している僕のように「目を覚ましていなさい」(ルカ12:35-40)と主イエス御自身も語っておられる。これはキリストの再臨に備えよとの勧めであるが、再臨の時にすぐ迎えられるためには、今の時に信仰によって霊のキリストと交わっていることが大切である。「見ないで信ずる」信仰に立つことが「目を覚ましている」ことなのである。

 ◇最初の弟子たちが復活のイエス・キリストに出会ったことは、闇夜を照らす太陽を仰ぐような経験であった。この生けるキリストに出会う時、われわれの人生は、太陽の光に照らされた夜明けの世界に生きるものとなる。「目を覚まし」「しっかりと立ち」「雄々しく生きる」という13節は、眠りから覚めて、力強く一日の生活を始めようとの励ましである。

 ◇21世紀を迎えたが、人々は新世紀を新しい夜明けという希望と期待をもって始めているであろうか。バブルの崩壊、資源の桔渇、環境破壊、人口爆発と食糧の不足等におびえ、夕暮の世界に立っているような不安を感じているのではなかろうか。しかしわれわれが目を覚まして、太陽であるキリストを仰ぐ時、この世界は神がそのひとり子を賜わったほどに、愛し、救い、再生させて下さることを信じることができる。その時希望を与えられて世界を築き直すことができるのである。

 ◇受難節にあたって「目を覚ましていなさい」という言葉を聞く時、われわれはゲッセマネの祈りを思い起こす。眠りこけている弟子たちのそばで、主イエスは目覚めて祈っておられた。そして「あなたが立ち帰った時には兄弟を力づけてあげなさい」と命じられた。主に支えられて目覚めよう。     

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