2001.1-3


もくじ

◆03.25「この人を見よ」イザヤ53:1-7、ヨハネ18:36b-19:16a
◆03.18「主イエスの苦しみ」マタイ福音書16:13-28、ペトロI 4:12-19
◆03.11「生きるとはキリスト」イザヤ書11:6-10、フィリピ書1:21-26
◆03.04「主を喜ぶ」ネヘミヤ記8:9-12、マルコ福音書14:3-9

◆02.25「命を得る」創世記3:1-15、ローマ書5:18-19
◆02.18「神の安息」マタイ福音書12:1-14、ローマ書2:1-11
◆02.11「生きよ!平安の中を」イザヤ50:10、ヨハネ福音書1:14
◆02.04「神の家」創世記28:10-22、マタイ福音書21:12-16

◆01.28「宣教開始」マタイ福音書4:12-17、ローマ書1:8-17
◆01.21「イエスの弟子」エゼキエル2:1-3:3、マタイ福音書4:18-25
◆01.14「キリストの体?成長する教会」マタイ福音書3:13-17、ローマ書12:1-8
◆01.07「新しい出エジプト」イザヤ書49:13-23、マタイ福音書2:13-23


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◆2001.03.25 受難節第4主日

「この人を見よ」イザヤ53:1-7、ヨハネ18:36b-19:16a

           野崎 卓道 牧師

 ◇ユダヤ人達は過越祭の折に主イエスを殺そうと、ローマ総督ビラトの下に主を告訴した。しかし、彼らは外面的な汚れを気にして官邸内部に入らなかった。その彼らが、この訴訟の最後には「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」という信じられないような言葉を口にする。それによって、彼らの信仰が皮相的なものであることが暴露された。私達は、神の御子の御前に立たされる時「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と叫んで、手段を選ばず神を自分達の前から退ける者であることを知らされる。

 ◇ビラトは、主イエスが無罪であることを宣言しつつも、皇帝の名を耳にすると、途端に自分の責任を忘れ、自己保身に陥った。この世において、神から権力を委ねられた者が直面する厳しい現実がここに示されている。私達がこの世にあって為すべき務めを十分に果たすためには、この世の声に邪魔されずに「神の御前に一人立つ」という姿勢が必要である。

 ◇このような人々の悪意と思惑が支配する法廷にあって、主イエスは一切自己弁明のような言葉を語られなかった。ご自分の神としての力と栄光を隠されたまま、あたかも「屠り場に引かれる小羊」(イザヤ書53:7)のように、ただ黙して苦しみを耐え忍ばれた。ここで私達が目にするのは、この世の権力と人々の思惑の前に完全に敗北した主の姿である。しかし、その背後において、主は私達の罪のために購いの死を遂げ、勝利を獲得して下さったのである。十字架への道は、この世の権力と人々の思惑によって、主イエスの身に降りかかった運命ではない。主は自ら私達が本来歩むべき十字架への道を選び取り、私達に代わって歩んで下さったのである(19:11)。

 ◇先日「人生の道標」というテーマの下、牧愛会・共励会の修養会が行われた。主は私達が歩むべき道を示すため、十字架という道標を打ち立てて下さったのである。十字架へと向かう主の御受難の歩みこそ、私達にとって人生の道標なのである。私達は「この人を見よ!」という御言葉を通して、神の御前にあるべき真実の人間の姿を示されており、この道を歩むように招かれている。主は、神としての地位も誉れも一切投げ打って、私達に真実の愛を示してくださった。私達キリスト者がこの世にあって歩むべき道は、十字架の死と苦しみを通って復活の栄光へと到る道である。それは自分の欲を満たすのではなく、自分の生涯を通して神の栄光を現し、真実の愛に生きる道である。

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◆2001.03.18 受難節第3主日

「主イエスの苦しみ」マタイ福音書16:13-28、ベトロI 4:12-19

           大宮 溥 牧師      

 ◇受難節に入院して眼の手術を受けた時バッハが晩年失明した時の言葉を思い起した。「わたしたちが苦難と戦わなければならないからと言って、決して悲しんではいけない。それは、わたしたちに代ってすべての苦しみを引き受けてくださる主のもとに、わたしたちを近づけてくださることなのだから」。

 ◇受難節第三主日のテキストは、マタイ福音書におけるペトロの最初の信仰告白とそれにつづく主イエスの受難予告である。主イエスと軽食を共にする間に、弟子たちは主イエスの真の姿に触れ「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した(16節)。これに対して主イエスは二つのことを語られた。信仰告白したペトロヘの信認と受難の予告である。

 ◇「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(18節)。ここで主イエスは、御自分が神の子としてこの世に来られたのは、教会を建てるためであったと語っておられる。「教会」(ギリシャ語ではエクレシア)に相当するヘブライ語は「カーハール」で「神の民の集い」を意味する。ユダヤ人は自分たちを神の民と自認していた。しかし、神は主イエスによって、新しい神の民を興そうとされたのである。

 ◇その際、主イエスはメシアの使命として苦しみを受けて死ぬことを明言された。これは当時のメシア像とは全く異なる姿であった。ベトロは篤いてその発言を封じようとした。しかし主イエスは、激しくこれを拒絶し、「サタン、引き下がれ」(23節)と叱責された。これはペトロが自分の考えでなく、主に従う道を歩むようにとの強い命令であった。

 ◇主イエスが御自分を、人間を救うメシアであると自覚された時、その進むべき道は、力によって敵を砕くような政治的権力者の道でなく、人々の罪を自分の身に引き受け、自分が代って神のさばきを受けることにより、人々が罪を赦されて神の祝福を受けるという十字架の道であると受け取られていたのである。私は今回病床で何度もヨハネ受難曲を聞いた。そこには、主イエスの激しい苦しみと痛ましい死によって、われわれが、自分の痛みを主が忍び、自分の死を主が担われるという、深い慰めが奏でられていた。

 ◇この苦難のメシアは、その弟子たちに「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24節)と命じられる。主の御苦しみによって癒されるという連帯経験が、主と隣人への献身へと導く。

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◆2001.03.11 受難節第2主日

「生きるとはキリスト」イザヤ書11:6-10、フイリピ書1:21-26

           須田 則子 牧師 

 ◇キリストは獄中にいるパウロを二つの希望で板挟みになさった。ひとつは、この世を去ったらキリストと共にいることになるという望み、もうひとつは、この世にとどまれば実り多い働きをすることになるという望みであった。主のお与えくださる希望は二つともあまりに慕わしく、パウロはどちらを選んでよいか分からない板挟みの状態となった。私どもも板挟みになることはあるが、パウロのように好ましいものに挟まれるとは限らない。生きていくのは辛い、しかし死ぬのも恐いという板挟みもあるのである。だがパウロは心から生きたいと願い、また死にたいと願った。いかにして獄中にあって不平や不安ではなく希望によって生きたのであろうか。

 ◇パウロは初めから「自分に生きる、自分のために生きる」ことは選択肢に入れていない。パウロにとって「生きるとはキリスト」であり、「生きているのはもはや私ではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」という生であった くガラテヤ2:20)。自らの満足のみを求める生き方は、裁き、滅びとしての死に至る歩みでしかなかった。本来パウロが十字架につけられ死ぬべきであった。しかし、主が身代わりとなって十字架を負い死んでくださった。このことによってパウロは今生かされている。もはや自分の命ではない。主に与えられた命である。自らの意志の力で自分を捨て生きることは難しいが、既にキリストは霊において私どもの内に生きてくださり、私たちを用いて御心を行われる。このためパウロは生を望んだ。

 ◇だが、パウロは本音のように死ぬ方が望ましいとも語る。主と共にいたいからであった。この世においても主は共にいてくださる。しかし、この世の者は主を拒もうとする。世を去った時、世が去った時、私どもはこの罪から完全に解放される。新しい者に造り変えられるのである。この世と、世を去ったところでは決定的な違いがある。私たちはそこでもはや主を十字架につけたりはしない。もう二度と主を悲しませたりはしない。それゆえパウロは世を去ることを望んだのである。

 ◇死を望みつつ、パウロは最後には世にとどまることを御旨と受けとめた。まだ主を知らない人がたくさんいる。フイリピ教会に起こっていた問題の解決のためパウロの働きが求められていた。生きるのも幸い、死ぬのもまた益、パウロはこの二つの希望に狭まれ、主によって絶望から守られたのである。

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◆2001.03.04 受難節第1主日

「主を喜ぶ」ネヘミヤ記8:9-12、マルコ福音書14:3-9

           大宮 チヱ子 牧師 

 ◇今日は、主イエス・キリストの十字架の御苦しみを覚える、受難節第一主日である。先週の水曜日(灰の水曜日)から数えて、復活祭までの、日曜日を除く40日間を受難節として守る。イスラエルの民が出エジプト後に、40年間荒野で苦難の旅を続けたこと、モーセの40日40夜の断食(出エジプト記34:28)、更に、主イエスが40日間荒れ野で断食し様々の誘惑を受けられたこと(マタイ4:1-11)に因んでいる。40は完全数で、十分に長い期間を意味する。この間の6回の主日は数えない。主の日はキリストが復活された記念の日、勝利の喜びの日だからである。

 ◇ネヘミヤ記8章には、モーセを通して神から授かった律法の書を読んで礼拝をしている様子が記されている。祭司であり書記官であるエズラが持って来た律法の書を、多くのレピ人が交代で読み、説明した。神の言の朗読と説教を聞いて、神を礼拝したのである。「夜明けから正午までそれを読み上げ」、人々は皆「耳を傾け」て聞き(3節)、それを理解し、泣いていた(8、9節)。長時間、熱心に神の言を聞き、心を打たれ、涙を流し、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、心から神を礼拝したのである(6節)。

 ◇真剣に真実に神を礼拝している人々に総督ネヘミヤとエズラは、「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない」と3回線り返して語った。神の言が語られ、聞かれる日、それは悲しみ、嘆きの日ではなく、喜びの日である。私たちの日々の生活には、悲しみと嘆きが満ちている。しかし神の言を受け、聞く時、主によって聖められ変えられて、喜びの日になり、感謝の中に神を讃美し礼拝することができる。

 ◇ネヘミヤとエズラは更に、「主を喜び祝うことこそ」、わたしたちの「力の源」であると告げる(10節)。この祝福と喜びを与えられたものは、大いに喜び祝い、共に分かち合って喜び祝うものに変えられる(12節)。

 ◇主が十字架への道を進んでおられる時、人々はイエスを殺す計略をしていた。しかし主は、人々が避けた「らい病の人」の家で、事もあろうに食事をしていた。徹底した深い愛の人イエスの姿である。このキリストに、価高きナルドの香油をおしげもなく、全部注ぎ、捧げ切った女がいたり与えられた愛に応える、感謝の愛の行為である。私たちのために、生命を、すべてを捧げつくされた限りない愛に応えて歩みたい。

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◆2001.02.25 降誕節第9主日

「命を得る」創世記3:1-15、ローマ書5:18-19

         神学生 松木 進

 ◇「どこにいるのか」神様は呼びかけます。神様は、天地創造で人を御自身にかたどって造り、創造の後、神様は人を探します。

 ◇物語は、蛇と女の会話から妙まります。蛇は、野の生き物のうちで、最も繋い動物でした。「善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると死んでしまう。」この言葉をめぐって、蛇と女は話しますが、正確ではありません。蛇は女を唆します。信じてきた言葉が揺さぶられ、蛇は巧に誘います。神様のように善悪を知る者となるとは大きな誘惑です。蛇の言葉によって、女は目にするものが全く変わりました。女はその木から実をとってアダムと共に食べます。神様の言葉を知っていた上のことです。食べたとき、もはやそのままでいることができない姿に気づきます。

 ◇神様がこ人に近づいたとき、二人は木の間に隠れました。自らの姿では神様の前に出られなくなりました。神様はアダムを探し、木から食べたのかを追及します。罪の代償は神様と人間との断絶であり、人の間に亀裂を生み、労苦し死に至ることでした。

 ◇アダムが罪を犯した結果、人は皆罪人とされましたが、死が人に及んだのは、すべての人が罪を犯したからです。

 ◇三浦綾子の『塩狩峠』には、主人公が術頭で路傍伝道する伝道師に会う場面が出てきます。伝道師は「あなたの罪がイエス・キリストを十字架につけたことを認めますか」と尋ねますが、主人公はイエス・キリストを十字架につけるほどの罪は自分にないと思いました。伝道師は「聖書の言葉を、ただの一つでも徹底的に実行してご覧なさい」と勧めます。主人公は「良きサマリヤ人」になろうとしますが、自らの力で聖書の言葉を実行する難しさを知りました。

 ◇罪の中にいる人はただ滅びゆくだけでは終わりません。アダムによって、罪が入り込んだ私達は、一人のイエス・キリストによって、義とされ、命を得ることになります。私達は、自らの力によって、木から実を得ようとする必要はありません。その結果は罪です。神との関係を破綻し、人間との関係を破綻させることになるのです。しかし、私達が、一本の丘の上に立てられた木を仰ぐとき、そこには私達の罪を圧倒する恵みの賜物があります。

 ◇今週の水曜日は「灰の水曜日」です。主イエス・キリストの十字架への道を覚えながら恵みの賜物に与り、新しい命へと生かされましょう。

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◆2001.02.18 降誕節第8主日

「神の安息」マタイ福音書21:12-16、ローマ書2:1-11

         大宮 溥 牧師            

  ◇キリスト教やユダヤ教など聖書にもとづく宗教では、7日に1度の安息日がある。これが今ではほとんど共通に日曜休日というライフスタイルになっている.この制度の起源は確実にはわからないが、一説ではこれを月の運行から、その形態が大きく変る7日毎に、そこに働く魔の力から身を隠す忌日であったとされる。ところがイスラエルでは、忌日でなく、仕事から解放され神の懐に憩う喜びの日となった.天地の創造主なる神への信仰から、このような変化が生じたのである.

 ◇「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という掟は十戒の一つであるが、これを記している出エジプト記20章と申命記5章では、それを守る理由について異なる説明をしている。出エジプト記では天地創造物語における第7日日の神の安息に関係させ、人間もそれにあずかって、無際限に働くのでなく、休息し、自分を取り戻し、生きることを喜ぶように定められている。申命記ではイスラエル民族がエジプトの奴隷から解放されたことに関係させ、解放と自由の日とされている。これは安息日の垂直次元と水平次元を示している(ロツホマン)。真の安息は「神の懐に憩う」くアウグステイヌス)ことによって与えられる。安息日は礼拝の日となるのである。

 ◇主イエスはフアリサイ派との間で安息日論争をされた。それは当時のユダヤ教が厳しい戒律主義に陥り、仕事の禁止に力点が置かれ、安息日が元来憩いと自由の日であることが忘れられていたからである。律法の掟であっても、より高い掟に従うためには「破っても罪にならない」(5節)。最大の掟は「神への愛」と「隣人愛」である。安息日律法に関しても、憐れみを強調するホセア書6:6が優先され、また「人の子は安息日の主なのである」(8節)と宣言された。

 ◇主イエスは安息日を守られたが、その日を、神に立ち帰り、自分を取り戻し、隣人と共に喜び祝う日とされた。後にキリスト教会は日曜日を安息日と定めた。この日主イエスがよみがえられたからである。主イエスは、十字架についてわれわれの罪を購って下さり、復活して永遠の命の道を開いてくださった。この主イエスに出会うことによって、われわれは罪を赦され、新しい命を与えられ、主の愛を受ける。その時われわれは身も心も憩いを与えられ、自分を取り戻すことができるのである。この主が「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と招かれるのである。

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◆2001.02.11 降誕節第7主日

「生きよ!平安の中を」イザヤ50:10、ヨハネ福音書1:14

         代田教会牧師 平野克己先生

 ◇教会には光がある。それは主の日の朝、東方より射し来る陽の光だけではない。私たちの罪の暗闇の中で輝く主イエスの光である。この光が私たちを照らす。しかし、光がないと思うこともある。だが、主は預言者を通して問う。「お前たちのうちにいるであろうか。主を畏れ主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも主の御名に信頼し、その神を支えとする者が」(イザヤ50:10)。

 ◇ルターは、自分が闇に、悪魔に捕らわれてしまっているのではないかと悩む婦人に手紙を記した。「どうか、自分の感情や思いに捕らわれないでください。ただ、私たち説教者の言葉だけを信じてください。」ルターは暗闇しかないと思っている者に、主の僕によって語られる主の言葉を信じてはしい、主の光の中に立ってほしいと預言者イザヤのように語ったのである。

 ◇1984年、教会創立60周年記念礼拝において大村勇牧師はこのイザヤの御者葉を語るった。大村牧師は1945年、東京最後の空襲の夜、教会の屋根から燃えゆく町を見つめた。それは燃えてはいたがまさに暗闇であつた。そしてこの光景は今も変わっていないことを思い、イザヤの言葉を告げられたのである。「神は神であられる。神は光である。だから光はあなたを旅らしている。私はこの説教を聞いた時、私をたずね求めてくださる主の御声を聞いた。「なぜあなたは暗闇にいるのか。」この声を聞いて私は自分が恥ずかしくなった。しかし同時に、どれほど嬉しかったであろうか。「汝は我に従え」と主の御声を開いたのである。

 ◇ヨハネは「暗闇は光を理解しなかった」(1:5)と悔い改めの思いを込めて記している。私たちは自分の思いや感情に囚われそれを第一とし、光に来ようとしない。光を信じないのである。しかし、「言葉は肉となって、私たちの間に宿られた」(14節)。宿るとは主が私たちの真ん中に来てどっかりと天幕を張り、礼拝場所を建てられたということである。暗闇の町に主は光の教会を建てられた。主の言葉は肉となり、つまり声となって、代々の説教者たちを通して私たちに届けられるのである。

 ◇主の光を妨げること、これは罪です。光よりも暗闇の方が私たちを支配していると思うこと、これは罪です。どうか、主の光を受けてください。主の光の中を生きてください。私たちはそのように生きることがゆるされています。いつの日か、全てのものが主の光に照らされることでありましょう。           

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◆2001.02.04 降誕節第6主日

「神の家」創世記28:10-22、マタイ福音書21:12-16

         大宮 溥 牧師            

 ◇阿佐ヶ谷教会は「阿佐ヶ谷にある神の教会」(大村勇)である。われわれがこの教会に連なった動機は様々である。しかし人間の側の動機や理由はどうであれ、そこに神の御手が働いてわれわれをとらえ、キリストの生ける幹に一つの枝としてつないでくださったのである。

 ◇創世記28章のヤコプの夢の物語は、人が神の家に招き入れられる姿を実に鮮やかにえがき出している。これはユダのエルサレムと並んでイスラエルの宗教的中心となつたベテルの聖所の起源を告げる物語でもある。イスラエルの父祖ヤコブは、家督の相続をめぐる争いから郷里を出奔して旅に出た。その途中日が暮れ、宿るに家なく、路傍の石を枕に野宿する。ところが夜の夢に「先端が天まで達する階段が地に向って伸びている」(12節)のを見た。これはこの地方にあるジクラットで神殿である。そして彼は自分を守り導くという神の約束を聞く。彼にとって行きずりの場が、実は「神の家」であり「天の門」だったのである。われわれにとっての阿佐ヶ谷教会もそうである。

 ◇主イエスの宮潔めの記事は、礼拝が形式化していることへの厳しい警告である。

 それと共に主は「目の見えない人や足の不自由な人たち」を迎え入れられた。この人人はこの地を神の都としたダビデが汚れた者として排除したのである(サムエル記下 5:8)。主はそのような人をこそ迎えられたのである。また子どもたちの讃美を受け入れられた。これらの事は、まことの神の宮は、エルサレムの神殿ではなく、イエス・キリスト御自身であることを示している。

 ◇神殿とは、神と人とが出会う所である。神と人との仲だち、媒介である。そして罪人の罪を潔め、慈しみをもって受け入れ、聖霊を注いで新しい力を与えてくださるのは、イエス・キリストである。教会はこの主によって立てられている。「イエス・キリストのいます所、そこに公同の教会がある」(キプリアヌス)。

 ◇主イエスは「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」と語られた(13節、イザヤ書56:7の引用)。阿佐ヶ谷教会の記念祈祷会が今年も守られて、60余年前の教会の危機に際して小さな群が捧げた祈りが教会再起の転機となったことを新しく心に刻んた。生けるキリストに、祈りによって結びつき、かしらなるキリストとからだである教会とが生命的関係に入れられたのである。われわれも、この教会の歴史の中へと導き入れられていることを感謝し、主を讃美し、神の民の歩みを進めたい。

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◆2001.01.28 降誕節第5主日

「宣教開始」マタイ福音書4:12-17、ローマ書1:8-17

         大宮 溥 牧師            

 ◇キリスト教は伝道の宗教である。「火が燃えることによって存在しているように教会は伝道することによって存在する」(エミール・ブルンナー).人が学びにやって来るのを待っているのでなく、自分の方から出かけていって、道を伝える。このような伝道は主イエスから始まっている。主イエスの存在そのものが、神が人のところへ来られた行為であるが、地上における主イエスも故郷ナザレを出てガリラヤー帯に宣教の足を運ばれたのである。

 ◇主イエスの宣教閑地は「ヨハネが捕えられた後」であった(12節)。「捕えられる」とは「引き渡された」で、主イエス御自身がユダに裏切られ、敵の手に渡されたことを表すのにも使われた言葉である.人間が自分の運命を神の御手に委ねて生きる姿を示している。主イエスはヨハネが自分の使命を果し終えたのを見て、神が自分を立たせられるのを覚え、伝道者として立たれたのである。

 ◇その時主イエスは、ユダヤ本土から遠い「異邦人のガリラヤ」に、故郷ナザレから離れてカフアルナウムに出向かれた.主は宗教的中心地エルサレムから、周辺の地、辺境に行かれた。主イエスは中心から周辺に行かれた。神は宇宙の中心である。人間は罪を犯してエデンの園を追われ、神に追われて滅びの只中にある。主イエスは神のもとを離れてこの追放の地、滅びの辺境に来られたのである。そして辺境にいるわれわれを愛し、われわれのために命を捨てて下さった。それによって人間が神の愛の中心に迎えられたのである。「暗闇に住む民は大きな光を見た」(1.6節)のである。

 ◇主イエスは「天の国は近づいた」(17節)と告げられた。これは「神の支配」がイエス・キリストの人格を通して、この世に力強く働いていることを告げる言葉である。それ故「悔い改めよ」と訴えられる。「心の向きを変える」「方向転換をする」ようにとの訴えである。使徒パウロも、福音が全世界の人々に信じられるために、地の果にまで行く決意を披瀝している(ローマ1:14、16)。

 ◇今日われわれはこの伝道の使命を強く自覚しなければならない。日本はバブル経済がはじけると共に、人間そのものが泡のように壊れてしまっている。今テレビで北条時宗が放映されているが、ある人は平安時代は「巨大なバブル」で、それがはじけたのが中世だと言う。そしてこの時代に日本人の生活に根ざした仏教が興った。今日霊性の枯渇の時代に、主の福音が人々を再生させる力として聞かれなければならない。

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◆2001.01.21 降誕節第4主日

「イエスの弟子」エゼキエル書2:1-3:3、マタイ福音書4:18-25

         大宮 溥 牧師            

 ◇プロテスタントの信仰が近代社会の形成に影響を与えた一つとして、職業を神の召しに応える道として受けとめた「職業聖召観」がある。神の召しを宗教家になる道だけでなく、各人が職業を通して応える道として受けとめたのである。職業だけでなく自分の生活の全領域において、すべての人を神は召しておられるのである。預言者や使徒の召命は、すべての人が受けている召命に気付かせるものである。

 ◇ペトロたち最初の弟子の召命物語において先ず注目されるのは、このドラマのイニシアティヴを取っているのが主イエスであるという点である。ガリラヤの湖畔に主イエスが歩いて来られ、漁師たちを御覧になり、声をかけられる(18節、21節)。このように主イエスが目を注ぎ、呼びかけ、「わたしについて来なさい」と招かれたのがキリスト者である。

 ◇マタイの召命物語の特徴は、それまでの弟子たちと主イエスとのかかわりについては一切語らず、ただ主イエスの招きと弟子たちの服従とだけが記されていることである。このような簡潔でしかも強烈な表現は、マタイがここでペトロたちの召命を、すべてのキリスト者に対する主イエスの招きを代表するものとして描こうとしたことによる。ここではペトロたちが「使徒」として召されたとは語られず、また弟子になることを表す「イエスに従った」という表現が、ペトロたちにも、群衆の場合にも使われているのもそれを示している(20、22、25節)。

 ◇これはわたしを招かれた主の物語である。ガリラヤ湖畔での出来事が瀬戸内海の海辺でも起った。「神のみこえはむかしのごと、今なおひとを召させたもう」(讃美歌392番)。しかも牧師や教師だけでなく、主はすべての人を招いておられる。わが教会の一兄弟も実業界での働きの中で「召命」の道を証している。今日の人間は、自分が生きているのを当然と考えて、生かされていることへの感謝を忘れ、仕事も自分の生きるための手段としてしか考えない。「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである」(エフェソ2:10、口語訳〕ことを心に刻んで歩むべきである。

 ◇「イエスは、あの湖のほとりで、彼が誰であるかを知らなかった人々に向って歩み寄ったように、またわれわれの方にも歩んで来られる。彼はわれわれにもまた『わたしに従ってきなさい』と語り、われわれの時代において、彼が解決しようとする課題を示す。」(A.シュヴァイツアー)。

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◆2001.01.14 降誕節第3主日

「キリストの体?成長する教会」マタイ3:13-17、ローマ12:1-8

         大宮 溥 牧師            

 ◇世界教会協議会WCCのマークは、船の中に十字架が立っている単純な図柄であるが、意味するところは大きい。教会、ひいては世界は、十字架の主イエスが乗り込んでおられる船である。この船が21世紀の航海に出た。この船はどのような展望のもとに、どこへ向って進むのか。われわれはどのようにこの航海の責任を分担するのか。

 ◇今日の主日聖書日課は、主イエスの受洗の箇所である。主イエスは公生涯の初めにヨハネから洗礼を受けた。洗礼は罪の悔改めのしるしであるから、主イエスにも罪の自覚があったのかという問題が出てくる。しかし、主イエスは御自分の罪を認めて受洗したのではなく、悔い改めて神に帰る人々の群に加わり、この人々と連帯するために洗礼を受けたのである。そして主イエスが洗礼を受けて水から上られた時「天がイエスに向かって開いた」(16節)。それまでは天が閉じ、神と人との関係が切れていた。主が人間と「体になって下さった時、天開けて神と人とが何の隔りもなく、共に歩めるようになったのである。

 ◇教会は「天が開け」神との交わりを与えられ、神と共に歩む群である。今日の人間の問題は霊的世界の天が閉じていることである。教会はこの霊的次元へと人々を招いて共に歩ませる使命がある。

 ◇教会がイエス・キリストが乗っておられる船として、その航路を正しく進んでゆくためには、4つの働きを担わなければならない。「教会形成の4つの課題」である。その第1は「上向きの働き」up-reach ministriesである。教会は主イエスによって、天が開け、神との交わりが深められ、神の国をめざしての旅が進められる所である。その中心は礼拝であり、「御言葉に聞き、祈る教会」である。

 ◇第2は「内向きin-reachの働き」である。教会の中で、神の恵みのお互いの心が一人一人に届いていなければならない。生きた交わりである。人間は個人であると同時に共同体の一員である。われわれは万人祭司として、この交わりの担い手である。

 ◇第3は「外向きout-reachの働き」である。われわれは祈祷会で月に一度証会を持っているが、「証する教会」として、証しと奉仕を通して、伝道する教会の歩みを進めよう。

 ◇第4は「下向きdown-reachの働き」である。主が恵みの受肉者であられたようにわれわれの信仰も受肉した形で、会堂が整えられ、働き人が備えられ、献金が満たされるという面も充実することが求められる。主のいます船に共に乗り組み出発しよう。

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◆2001.01.07 新年礼拝

「新しい出エジプト」

イザヤ書49:13-23、マタイ福音書2:13-23

         大宮 溥 牧師

 ◇2001年の最初の主日に、「あなたの神、主が、年の初めから年の終りまで、常に目を注いでおられる」(申命記11:12)との約束のもとに、一年の旅を始めよう。教会暦では1月1日は主イエスの名がつけられたことを記念する「命名日」である。われわれが救主の名を知っていることは、人生の旅で、緊急電話番号を知っているようなものである。主の名を呼びつつ主と共に歩もう。

 ◇マタイ福音書2章後半は、主イエスが公生涯に立たれる前の消息を伝えるものである。主イエスの生涯は「預言者を適して言われていたことが実現する」(15、17、23節)ものであった。聖書は人間の歴史を神の救いの歴史(救済史)として把えており、それはすべて主イエスの働きへと流れ込んでいるのである。

 ◇特にここではイエス・キリストは旧約におけるモーセに似た存在、新しいモーセとして示されている。旧約聖書の中心はモーセであり、主イエスはその完成者である。嬰児虐殺を企てた王の手からの救出の言い伝えは、エジプト王の滅びの手を脱出したモーセの幼児物語と過越の出来事の反復である。

 ◇第三イザヤは「見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける」(49:16)という神の言葉を聞いた。クラーク宣教師はこれを引用して「わたしは神様の手造りの作品です」と証された。主イエスこそ最も甘い神の作品として、父なる神が人間と悪魔のあらゆる攻撃から守られたのである。しかも主イエスはこの時は逃れて生を全うされたけれど、神の定められた時に十字架につき、不条理な生に苦しみ、死にゆく人間と連帯し、御自分の死と復活によって、人間を神の命と愛によって生かして下さったのである。ナザレ人についての預言は土師記13:5とイザヤ書11:1に関係し主イエスが神に聖別された若技であることを告げている。

 ◇主イエスは「新しいモーセ」として「新しい出エジプト」の導き手である。かつてイスラエルの民はエジプトの奴隷であることから解放されて約束の地に導かれた。主イエスは一民族の解放でなく、全人類を圧政や搾取から解放し、共に生きる世界へと旅立たせて下さる。南米のカトリック神学者たちは『解放の神学』を展開して、今日における出エジプトの歩みを進めようとした。われわれは現代のイスラエル再建に歴史の神の働きを見ると共に、それが一民族の解放でなく、共に生きる世界の解放に向かうことを神の御旨と受けとめよう。

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