1998.1-3


もくじ

◆03.29「主の栄光」ヨハネ福音書12:27-36
◆03.22「イエスの沈黙」マルコ福音書14:53-72、ペトロ書I2:21-25
◆03.15「御心が行われるように」マルコ福音書14:32-52,ヘブライ書5:1-10
◆03.08「愛を食べる」マルコ福音書14:12-31、ヨハネI2:1-6
◆03.01「永遠の今」マルコ福音書14:1-11、ヘブライ書9:23-28

◆02.22「小羊キリストヘの道」、ヨハネの黙示録3:14-22
◆02.15「恵みの分かち合い」列上記上17:8-16、マルコ福音書6:30-44
◆02.08「ゆるされている私」創世記50:15-21,ローマ書12:19
◆02.01「神を畏れる生活」ミカ書6:6-8,マルコ福音書6:14-29

◆01.25「福音の宣教」イザヤ書52:7-10,マルコ福音書6:6b-13
◆01.18「恵みの晴れ着」イザヤ書61:1O-11、ヨハネ黙示録3:l-6
◆01.11「故郷のイエス」マルコ福音書6:1-6a,フィリピ書:2:1-11
◆01.04「キリストの栄光」ヨハネ福音書1:29-34、エフェソ書2:1-10

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◆1998.03.29

「主の栄光」ヨハネ福音書12:27-36

             高崎正芳

 ◇画家レンブラントは主イエスの十字架を題材とした絵の中に自画像を描いた。古代ローマの情景の中に15世紀のヨーロッパ人を描くことは時代考証を誤る行為だが、そこにこの画家の信仰告白がある。彼にとって十字架は単なる画材ではなく、わたしのための出来事であった。主イエスは「わたしは世の光である」(8:12)という。世の光がともるとき、「暗闇」の現実が浮き上がる。しかし光は罪を指弾して終わるのでなく、信じるものを「光の子」としてくださる。主の十字架の傍らに立つとき、この恵みがわたしのものとなるのである。

 ◇12:27-29節はヨハネのゲッセマネの祈りといわれる。「今、わたしは心騒ぐ」とは心が揺れ動くことである。苦難の盃を目前にした主イエスの祈りと通じている。しかしヨハネは「この時から救ってください」というように、「時」が問題となる。ヨハネには「イエスの時」という理解があり、十字架の苦難から高挙までが主の栄光の時として一つに考えられている。主は「人の子が栄光を受ける時が来た」(23節)といって、苦難への道を歩き姶めた。

 ◇イエスの時は苦難への時であるとともに「栄光」の時である。しかし重罪人の死刑手段としての十字架がなぜ神の栄光が示される場所となり、信仰者を命へと導く恵みとなるのか。

 ◇主イエスはご自分の死の様をさして、「わたしは地上から上げられる」(32節)という。「上げる」とは第一に十字架上の死を意味するが、「地上から」という言葉を補うことによって、死からの復活を暗示している。主は確かに死を経験されるが、死の暗黒を打ち破って復活し、神のもとに上げられると語るのである。ヨハネ福音書では、イエスの死と復活は一つの出来事である。復活の光がなければ十字架の死を受け止めることは出来ず、死を受け止めることなく甦りの恵みを知ることは出来ない。

 ◇主イエスは罪のない真実な方であったが、十字架を経験された。それは人の罪の姿が露になるためである。独り子を惜しまず与える神の愛に、人間は僧しみをもって答えた。十字架の前に立つとき、人間の罪の姿が照らし出される。しかし主は「わたしの時が来た」と告げるように、苦難を神の業として受け止めている。人間の憎しみから逃げずに、命で受け止めてくださる。さらに死と罪の支配を打ち砕くために復活された。復活は罪に捕われた人間を、新しい命へと押し出す力である。そしてこの「新しい命」へ、全てのものを招いておられるのである。

 

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◆1998.03.22

「イエスの沈黙」マルコ福音書14:53-72、ペトロ書I2:21-25

             大 宮 溥

 ◇エルサレムの東部に「鶏鳴教会」が建っている。これは昔の大祭司官邸であった。主イエスが捕えられたゲッセマネの園からキデロンの谷を下り、今も昔の石畳が残っている坂を上ると、この大祭司官邸に着く。その中庭には井戸があり、そこに焚火が燃やされ、ペトロはそこで身を温めながら、官邸の中で行われていた主イエスの裁判のなりゆきを知ろうとしていた。

 ◇ここに召集された「最高法院」(55節)は、ユダヤ人の国会で、圭イエスを死刑に処するためには、その権限をもつローマ総督に訴え出る理由を見つけなければならなかった。そのためには、主イエスが自分を神の子であり王であると称し、ローマヘの謀反を企てているとの証拠が必要であった。人々は主イエスを憎み、彼を黒い罪名で塗りつぶし、汚名をきせて葬り去ろうとしていた。

 ◇しかし主イエスは、それに対して何の抗弁も反撃もせず、終始沈黙しておられた。rイエスは黙り続け何もお答えにならなかった」(61節)。この主イエスの姿は、イザヤ書53章に描き出されている「主の僕」の姿である。神に選ばれた一人の僕が、人々の罪の責任を引き受けて、人々に代って

苦しみ、罰せられ、死ぬのである。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛み」(4節)。そして人々の誤解の中で何の弁明も抗議も世ず「屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」(7節)。

 ◇この主イエスの沈黙は、第一に主イエスの勇気を示している。主は十字架の道を真正面から見すえて立ち向かわれた。第二に、それは父なる神の御意志に徹底的に従おうとする決意を示している。そして第三に、人々のために自分の命を捨てようとする、犠牲的な愛があった。

 ◇主イエスが父なる神への従順と人々への愛から、沈黙して犠牲の道を歩もうとしていた時、ペトロはこの主を裏切って「そんな人は知らない」(71節)と、自己弁護と自己保存に夢中であった。つい先程まで「たとえみんながつまずいても、わたしはつまずきません」(29節)と断言したペトロが、いとも簡単に裏切っている。これはペトロがこの最後の瞬間に神を見失い、そのショックから崩れたことを示している。しかし、主イエスはこのペトロのためにも、彼を責めるのでなく、彼と同じ崩壊の場に立ち、彼のために死なれたのである。「わがため十字架になやみたもう、こよなきみめぐみはかりがたし」(讃美歌138)。

 

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◆1998.03.15

「御心が行われるように」マルコ福音書14:32-52,ヘブライ書5:1-10

             大 宮 溥

 ◇主イエスは、地上における最後の夜、ゲッセマネの園に行き、切実な祈りをささげられた。その時主は「ひどく恐れてもだえ始め」「わたしは死ぬばかりに悲しい」と心の内を洩らされた。恐らく主の生涯で今まで経験したことがない様なショックを受けて、おののき驚いたのであろう。主は「地面にひれ伏し」て祈ったといわれているが、これは体を支えることができないで大地に叩きつけられたような恰好で祈っているのである。

 ◇これまで主は事あるごとに「アッバ父よ」と神に呼びかけ、そのたびに神が答えて下さり、深い交わりを与えられてきた。ところがこのゲッセマネでは、目分が身を投げ出しても、神の手が伸びてこないで、どこどこまでも落ちてゆくという、戦懐すべき状態だったと思われる。神に棄てられ見放されたという経験であった。これは、主にとって耐えがたい「苦き杯」であった。「杯」は、そこに注がれた酒を呑み干す器である。それは人間が受けとって担わなければならない運命、定めである。主イエスは神の命じたもうことは何でも受ける覚悟であった。しかし父なる神御自身がいなくなる、放り出されることは、思ってもみなかったことであった。それ故「この杯をわたしから取りのけてください」(36節)と祈られたのである。

 ◇しかし幾度祈っても、その祈りは聞かれなかった。この父なる神の沈黙を、主イエスは神の答として受けとられれ「苦き杯は呑み干すことによって過ぎ去る」(ボンベッファー)のである。逃げていたのでは解決にはならない。父なる神の御心ならば受けようと決意されたのである。「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36節)と祈り、十字架への道をふみ出されたのである。

 ◇このように主イエスを捨て、その祈りに沈黙しておられた、父なる神の「御心」はどのようなものであったのだろうか。それはキリストを人間の死と滅びの只中に送ることであった。「人は皆罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」(ローマ3:23)。そのような罪を神は拒否される。しかし、神は罪人をさばき、砕きつつ、なお人間を救おうとされる。主イエスは、父なる神から捨てられ砕かれた人間の世界に入って来られたのである。父なる神は人間の罪を砕きつつ、その人間と連帯した主イエスをも砕き、主が人間の罪と死を担って死に、人類再生のためによみがえる道を開いて下さった。主イエスと共に父なる神も苦しみつつ、救いの道を開かれたのである。

 

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◆1998.03.08

「愛を食べる」マルコ福音書14:12-31、ヨハネI2:1-6

             大 宮 溥

 ◇「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」は、出エジプトの解放を祝うユダヤ教最大の祭であった。ユダヤ人は神の奇蹟的な救いを毎年心に刻み、あの時したように、種入れぬパン(除酵)を食べ、小羊を屠って食べた。この過越祭の時に、主イエスの十字架の死が起った。それは、主の死が、人々を救う、尊い犠牲であったことを意味しているのである。

 ◇主イエスは過越の食事のさ中に、改まった口調で「はっきり言っておくが、あなたがたの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18節)と語られた。原文では「アーメン。わたしはあなたがたに言う」と厳かに断言している。それに対して弟子たちは「代る代る」(一人一人)「まさかわたしのことではないでしょうね」と問うた。自分が裏切り者ではないかと不安になり、主イエスに「お前ではない」と言ってほしかったのである。それは、主イエスを裏切るような、罪人がわたしであることを示している。マタイ受難曲ではここに「私です。私こそ悔い改めなければなりません」というコラールが響くのである。

 ◇主イエスは、このような人間の不真実と罪の姿を見すえ、自分に迫って来る死を見すえつつ、父なる神への絶対的服従と、人間への深い愛をもって、十字架への道をふみ出される。そしてこの最後の晩餐において、自分を人々に与え、自分の命を与えることによって人々を生かすという事実を示されたのである。「取りなさい。これはわたしの体である」(23節)。これは御自分を人々に与え尽くそうとの意志表明である。主は人間と、ぶどうの幹と枝のような不可分の関係に入られたのである。◇特に主イエスは「わたしの体」と言われる。主イエスとわれわれとの結合は、生身の主と生身のわれわれとの結合である。このことをわれわれは聖餐において経験するのである。またぶどう酒は「契約の血」と言われている(24節)。神と人間との契約においては、小羊の血(これは命を意味する)が祭壇と人々双方にふりかけられ、神と人とが生命的な結合に入ることが示される。主か命がけでわれわれと神とを結び合わせて下さったのである。

 ◇最後の晩餐において、弟子たちは主イエスの愛を食べたのである。「主の恵み深いことを味わい知った」(詩34:9)。受難節は、主を十字架に追いやったのが私であることを知ると共に、このような罪人を愛し、罪の赦しを支えて下さる主イエスの愛を新しく食べ、愛を新たにする時である。

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◆1998.03.01

「永遠の今」マルコ福音書14:1-11、ヘブライ書9:23-28

             大 宮 溥

 ◇受難節に入り、「長い序文つきの受難物語」と言われるマルコ福音書を通して、十字架の主を仰ぎたい。14章では、冒頭にユダヤ教の指導者たちが、イエスに対する憎しみをっのらせて、殺害計画を立てたことが記されている。そして10-11節では、イエス殺害の外の動きに応ずるかのように、イエスの弟子の内側から、イスカリオテのユダが、主を裏切って主を敵の手に引き渡す折をうかがっていたことが告げられる。このような憎しみと裏切りの暗く冷たい動きの真中に、闇の中に光り輝くダイアモンドのように、一人の女性が主に香りたかきナルドの香油を注いたことが告げられているのである。

 ◇これは、旧約以来、王の即位に際して行われた「油注ぎ」の儀式であったと解釈する人がある。「油注ぎ」は、神が霊を注いで、その人を神の民を導く者にされたことをあらわした。メシアは「油注かれた者」という意味である。十字架の危機が迫り、人々が主イエスから離反しようとする様な時に、この女性は主イエスがメシアであるとの信仰を告白したのである。

 ◇この香油注ぎの場にいた人々は、彼女の浪費を非難し「300デナリオン以上に売って、貧しい人に施す」(5節)方が、愛の主イエスの御心に適ったことだと言った。ところが主イエスは、彼女の行為を高く評価された。それは、この時が「一期一会」の、彼女にとっても主イエスにとっても、かけがえのない大切な時だったからである。彼女はこの時を、主イエスの最も深い、命と力にふれる時として受けとり、他の一切を捨てて、その主に触れようとしたのであった。

 ◇この時は世界の歴史において、人間が神の救いを、決定的な形で与えられる「ただ一度」の時であった(ヘブライ9:25-28)。イエス・キリストが神と人とを決定的に結び合わせるために、人間と全く一っとなって、神の審きを受けて死に、人間が神から罪を赦されて、新しい人間として生きることが可能になる時であった。十字架と復活のこの時は、人間が死から生へ、裁きから赦しへ向う、ただ一度の転換点だったのである。あの時十字架についた主が、今も生ける主として、あの時の贖罪行為にわれわれをあずからせて下さるのである。われわれの救いもあの十字架の死によってなしとげられるのである。

 ◇あの女性が、この「ただ一度」の時を正しく受けとめた様に、われわれも今改めて、十字架の主を仰ぎ、その蹟罪の恵みを受けたいものである。

 

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◆1998.02.22

「小羊キリストへの道」ヨハネの黙示録3:14-22

             北見さとみ

 

 ◇ヨハネの黙示録は、ローマ帝国からのキリスト教迫害が起こりつつある頃、礼拝の中で読まれた。ラオディキア宛ての手紙は天使に託され、発信人はキリストであり受信者は教会である。天使の理解は、当時、天上の礼拝には教会の代理としての天使が出席し、教会に代わって福音宣教の会議の場にいたと考えられた。そこで地上の教会と天上の会議との間で、決定と評価に差が生じた時、「わたしはあなたの行いを知っている(15節)」という言葉が代理の天使に託されるのである。教会が闘う福音宣教の業は天上の会議での業であり、教会の存在は神の永遠の世界の現実に、参加し用いられているという意識がそこにはあった。

 ◇ラオディキアはローマ帝国の中でも経済的に豊かな町であったため、その町にある教会も豊かであった。「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要なものはない(17節)」は、教会の自己評価である。経済的豊かさを批判しているのではなく、自己満足が根底にある自己理解を、主イエスは「なまぬるい」と表現した。

 ◇主イエスはラオディキアにある教会の戸を強くたたいた。この音は教会のなまぬるさを悟らせる神の愛の音である。本当の豊かさは主イエスにあり、神の国に属する者として教会が生きることを命じられた。

 ◇ローマ帝国による迫害が起こりつつある時に、主イエスは信じることの内容を教会に問うた。神とこの世との闘いの傍観者である教会。今も主イエスが闘う闘いを、教会は体験していない。この時だからこそ、信じることを証しせよと語られた。

 ◇主イエスはラオディキアにある教会を「愛する者」と呼び、「だから熱心に努めよ、悔い改めよ(19節)」と勧めた。キリストの愛である。迫害の中で信仰を証しすることは苦しみであり、大きな忍耐であった。しかしキリスト者の忍耐は積極的な忍耐である。

 ◇わたしたちが生きる現実の中には、キリスト者としての闘いが多くある。自己満足な自己評価でその闘いをあいまいなものにしてはいないかと問われている。この世の状況を見つめる時、キリスト者が教会が何ができるのかとあきらめたくなる。その時、主イエスはわたしたちの戸を強くたたくのである。この世での困難を主イエスは知っておられる。しかしこの世で信仰が試され、磨かれ、救い主イエスと出会うのである。主イエスの闘いを共に闘うなら、教会はこの世にありながら、天上の礼拝に列席し勝利の玉座に着くのである。主イエスがたたく戸の音を聞きましょう。

 

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◆1998.02.15

「恵みの分かち合い」列上記上17:8-16、マルコ福音書6:30-44

             大 宮 溥

 

 ◇主イエス・キリストは「良い羊飼い」(ヨハネ10:11)である。主はわれわれを「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴われる」(詩編23:2)。

 ◇主イエスのこの配慮は先ず御自分の弟子に向けられる。ここでは弟子が「使徒」と呼ばれている。彼らがその遺わされたところでの使命を果して帰ってきた時、主は「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と、いたわられたのである(31節)。これは、われわれが日曜日ごとに守る礼拝にあてはまる。人間が真の休息、レフレッシュを与えられるのは、神の前に出る時である。主は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と迎えて下さる。

 ◇ところが、弟子たちが休息のために出かけた所に、主を慕う多数の群衆が待ちうけていた。普通の人であれば、折角の休みを台無しにされたと不機嫌になるところである。しかし主は「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれた」(34節)。主は弟子だけでなく、すべての人の羊飼いであられたのである。

 ◇このような主イエスの態度に対して、弟子たちは現実主義者として振舞う。大群衆を解散させようとの弟子たちの進言に対して、主は「あなたがたが、彼らに食べ物を与えなさい」と命じられる(37節)。弟子たちの手には5つのパンと2つの魚しかない。しかし主が「天を仰いで讃美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡して配らせ」(41節)ると、「すべての人が食べて満腹した」(42節)。人間は分かち合うことによって豊かにされ、満たされ、喜びを与えられるのである。

 ◇主イエスは、食べ物を分ち合うだけでなく、御自分の体をも分かち合おうとされた。このパンの奇蹟と最後の晩餐とが結びついて、現在の教会の聖餐式になっている。われわれは、主イエス・キリスト御自身を受けることによって、キリストと一つになり、その命と愛によって養われるのである。

 ◇「人里離れた所」(31,32,35節)とは「荒れ野」とも訳され、「組に分け」(39節)、「まとまって」(40節)という言葉と共に、イスラエルの40年の荒れ野の旅を想起させる。「荒ら海をも打ち開き、砂原にもマナを降らせ、主はみ心なしたまわん」(讃美歌494)。命のパンである主によって生かされつつ、われわれもまた分かち合って生きる愛へとうなかされる。今日地球的規模で一体化されている社会において、「恵みの分かち合い」が求められる。

 

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◆1998.02.08

「ゆるされている私」創世記50:15-21,ローマ書12:19

             二宮幸雄先生

 ◇阿佐ケ谷教会創立74周年記念礼拝に招かれて、感謝です。神様の御業がこの教会の姿となり、みなさまの讃美の歌がよい証となっていることを心から喜びます。

 ◇創世記の50章19節には「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか」という御言葉があります。ヨセフの仕返しを恐れ,赦しを乞いに来た兄たちへの言葉です。「赦」ということについて考えさせられる御言葉です。

 ◇私たちはキリスト者として生活していく中で、何度も赦しについて考えざるを得ません。赦しを乞う者に対して「神に代わることができましょうか」というのは、神様が赦し、祝福を与えておられるのに、どうして私があなた方を罰することが出来ましょうかという意味と共に「人を赦すのは神様だけか出来ることです」という信仰告白が含まれているのです。後に主イエスのまわりを取り囲んでいた律法学者が「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(マルコ2:7)と言ったのは正しかったのです。ただ彼らは、確かに神の御子であられる主イエスを正しく理解していなかったのです。

 ◇教会の土台は、神様の赦しです。私たちが赦すので、教会になるのではありません。たくさんの赦し難きを抱えて生きているこの私を、神様がお赦し下さるところに教会があるのです。75年目に向かって、神様の赦しをスタートにして、さらに前進をと願います。

 ◇ローマ書12:19には「復讐はわたしがすること、わたしが報復する」という御言葉があります。神様は一切の復讐を私たちから取り上げ、ご自分の手に握られました。なぜでしょう。ある人は「私たちが美しく生きるため」と言いました。私たちの人生が復響の思いに満ち、そのチャンスを窺うことに多く時間が費やされるとしたらどうでしょう、あまりにも悲しすぎます。神様は私たちにそのように生きてほしくないので、私たちから復讐を取り上げたのです。教会が真実に神の教会となるためです。

 ◇また「わたしが報復する」とも言われました。何と慰めに満ちた御言葉でしょう。この年まで生きてきますと、報いきれない御恩の数々を思います。それも神様はして下さると言われます。自分がするのではなく、神様の御業が私に起きてきます。

 ◇阿佐ケ谷教会も74歳。神様が本当に主君であり、悠々とお働きになられる教会として、神様の赦しと、その御業を豊かに経験できるようにと祈ります。

 

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◆1998.02.01

「神を畏れる生活」ミカ書6:6-8,マルコ福音書6:14-29

             大 宮 溥

 ◇立春を前にして厳しい寒さの中をくぐり抜けるような一週間を過した。それは自然だけでなく人間生活も、心が冷たくなるような事件が続いたからである。今日の社会の根底に神がいない。神不在の社会になっていることがつきつけられている。神の愛によって暖められ支えられる経験がない。また神を畏れてへり下り身を正すことがないのである。

 ◇預言者ミカは「人よ、何が善であり、主が何を求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へり下って神と共に歩むこと、これである」(6:8)と語った、これは今日のわれわれにも語りかけられている神の言葉である。

 ◇ミカと同様に、神とその正義を真剣に語ったのは洗礼者ヨハネであった。彼は領主ヘロデ・アンティパスが異母兄弟ヘロデ・フィリポ2世の妻ヘロディアを奪い、自分の妻としたことを批判したため、捕えられて、死海東岸のマケラスの砦に幽閉され、紀元28年ごろ処刑された。

 ◇ヘロデ・アンティパスとヘロディアの姿は、自分の欲望を満たすためには、どんな手段も選ばない、闇の力につき動かされた人間の姿である。欲望のままに動き、それを正そうとする者を逆怨みして、抹殺するのである。このような生活が可能なのは権力を持っているからである。そのため彼らは全力をあげて力の獲得と拡大につとめ、それを奪う可能性のあるものは、肉親といえども容赦なく抹殺したのである。

 ◇しかしこのような力の論理は、逆に自分が権力ゲームの犠牲になる危険もはらんでいる。ヘロデ・アンティパスは、ヘロディアの兄アグリッパの中傷でローマ皇帝によって領主の地位を奪われ、追放の身となった。ヘロディアはそこで力の論理を超えた愛の論理を学んだのか、夫と運命を共にするのである。

 ◇他方ヨハネは預言者として、身の危険をもかえりみず、神の御旨を領主に大胆に語った。力の論理でなく神の義の論理に従って行動したのである。かつてダビデ王は不倫の罪を預言者ナタンに告発された時、「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)をもって悔い改めた。しかしヘロデは自分を砕くのでなく、神の人を砕いてしまった。こうして、ヨハネはあえなく消えたかに見えたが、その声はヘロデの心の中に生きつづげ、響きつづけていた。だからヘロデはイエスの噂を聞いた時、彼をヨハネの再来とうけとったのである。「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」(マタイ10:28)。神を畏れて生きよう。

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◆1998.01.25

「福音の宣教」イザヤ書52:7-10,マルコ福音書6:6b-13

             大 宮 溥

 ◇今年の年頭祈祷会は「神の民の新しい歩みのために」という主題のもと、第一日目「召しに応えて」第二日目「主に遺わされて」の思いを深めて祈った。マルコ福音書は、主イエスの弟子たちの道が「主の召しに応えて」主のもとに来、「主に遺わされて」町々村々に出かけてゆく生活であったことを記している(3:13-15,6:7-11)。

 ◇主が弟子たちを召し、またそれぞれの場所にお遺わしになったのは、御自分の宣教の働きを弟子たちにも担わせるためであった。主は伝道のわざをひとりでなさらす、共に働く仲間と担おうとされた。そして神の国を宣べ伝え、神の国のために働く人のいる所に、今もキリストは共におられるのである(マルコ16:20参照)。

 ◇武久源造氏が親子三代に続く視力障害という厳しい人生を歩みつつ、命と喜びの音楽を奏でているが、対談の中で人生のハーモニーについて語られた。音の世界で一部だけ聞くと不協和音であっても、全体としては美しいハーモニーを奏でているように、人生も一部だけを見ると無意味としか言いようのないものが、全体的には深い意味を秘めているというのである。ここに武久氏の信仰が表わされているが、その根本は、イエス・キリストを通して「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)という福音にある。イエス・キリストにある神の愛に触れる時、この愛によって導かれている世界が、神の国のハーモニーを奏でていることを知るのである。この福音の宣教のために、われわれは召さ払派遣されるのである。

 ◇弟子たちを派遣するにあたって、主は3つの指示を与えておられる。第一は「2人ずつ組にして遣した」(7節)。これは宣教上の助け合い(コヘレト4:9-10参照)のためでもあるが、法廷における証言には2人の証人か必要とされたことを思い起させる。宣教は自分のことを語るのでなく神の恵みを証言することである。第二は「杖一本のほか何も持たず」(8節)、「入った家にとどまる」(10節)ことである。取るもの取りあえず出発し、宿るところを選りごのみしないとは、使命が緊急なものであることを示している。人間が崩れてゆく時代の中で、神とその愛と力を伝え、これによって生きる喜びと道を示すことは、緊急を要するのである。第三は、福音を無視し、蔑視する人々には「足の裏の挨を払い落せ」(11節)と勧める。これは、福音を聞いたものは、応答の責任かあることに気付かせることである。われわれもまた、この福音の宣教に召されつかわされている。

 

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◆1998.01.18

「恵みの晴れ着」イザヤ書61:1O-11、ヨハネ黙示録3:l-6

             大宮チヱ子

 ◇先週の15日は「成人の日」だった。大雪ではあったが、支区内諸教会の兄姉と共に、信仰と交わりの基礎、教会の一致の出発点は「礼拝から始まる」ことを学び、神を真実に神として崇めることの大切さと、その恵みの豊かさを教えられた。

 ◇成人式に晴れ着を着た人、雪のために着られなかった人の姿が当日のニュースになった。しかし雪のためばかりではなく、さまざまな理由で晴れ着とは遠い生活をしている若い人々も少なくないことを思わされた。そして、私共もまた、不安や恐れを抱え重荷をひきずってあえぐ経験をし、暗く重い心になることがある。

 ◇しかし聖書は、そこにも心暗れる喜びがある。闇が深く、生活の苦しみや重荷か大きくても、そこにも光がある、喜びは消えず希望は尽きないと語りかけている(ヨハネ福音書1:5,9)。

 ◇イザヤ書61章は第三イザヤと呼ばれる預言者の「救済預言」の一部である。神は「打ち砕かれた心を包み捕らわれ人には自由をっながれている人には解放を」告げ知らせ、いやしと解放を与えられる。イザヤはその恵みを「主は救いの衣をわたしに着せ,恵みの暗れ着をまとわせてくださる」と「喜び楽しみ、喜び躍る」心をのべている。この喜びは「主によって」、「神にあって」与えられる喜び、神の恵みの賜物である。神が「まとわせてくださる」愛の衣、祝いの晴れ着であり、キリスト御自身である(ガラテヤ3:27)。

 ◇ヨハネの黙示録には、信仰の勝利者、命の書(救われた者の名が記されている)に名を記された者について、「白い衣を着てわたしと共に歩くであろう」、「白い衣を肴せられる」と、神の恵みの衣に装われる信仰者の姿が描かれている。

 ◇ヨハネから手紙を送られた5番目の教会、サルディスの教会は「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」との叱責を受けた。神の生命に生かされている群として(エフェソ2:1,5)、「目を覚ま」して歩むように、「受け、また聞いた」福音をしっかりと「思い起こし」、「それを守り抜き、かつ悔い改め」るようにと奨められている。福音をたえず思い起こし、常に覚え続け、神の恵みに立ちもどって悔い改めなさいといわれている。

 ◇私共の弱さと破れをおおい、痛みと苦しみを担ってくださるキリストが与え、着せてくださる「白い衣」、神が備え、まとわせてくださる「救いの衣、恵みの晴れ着」を頂いて勝利と喜びの道を歩みたい。

 

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◆1998.01.11

「故郷のイエス」マルコ福音書6:1-6a,フィリピ書:2:1-11

             大 宮 溥

 ◇新しい年に改めてマルコ福音書を学ぼうとして、その最初の記事が、故郷に帰って受け入れられず、淋しくそこを去る主イエスであることは、何か痛ましい印象を受ける。しかしわれわれが置かれている現代の社会も、自分の帰るべき家を持たず、故郷を持たない多くの若者を持つことを考えると、この「ホームレス・イエス」(小山晃佑)の姿は、われわれに無関係でない。

 ◇故郷ナザレの人たちは、帰郷したイエスに接して「驚いた」(2節)。それは彼らがかつて触れていたイエスと、今彼らの前に立つイエスとの大きな変化を感じたからである。彼らは自分たちの同類としてだけ、イエスを迎えようとした。しかし主イエスはそのような枠に収まらない、それを破って、新しい世界に生きる人だったのである。

 ◇ここに描き出されている故郷の姿は、人間の自立を拒む社会の姿である。そのような社会を自立しようとする人間は破って出てゆく。この問題に対応して、イニシェーション(成人式、入門式)があった。子供としての生活に区切りをつけ、自立した大人として成人社会に迎え入れる儀式である。今日「成人の日」というような形は残っているが、それが現実には機能していないのである。そのような問題に苦しむ時、主イエスでさえ、この問題をめぐって、苦悩されたことを知ることは、慰めである。

 ◇自立と成人社会への受け入れが、円活に行われるためには、幼児期こ愛情を豊かに受けて一人立ちの自信が与えられることが必要である。主イエスが「わたしは自分の父の家にいる」(ルカ2:49)と、「アッバ父』の愛子としての自覚を持っておられたことは、故郷に受け入れられずとも、敢えて「預言者」(4節)として立たれた力であった。

 ◇この故郷のイエスの姿は、教会というキリストを中心とする共同体が、イエスを主とするという立前を取りながら、その実主を迎えず、主のおられない集団になっておりはしないかという警告である。「住みたまえ君よ、ここにこの胸に」(讃美歌124)と、主を新たに迎えよう。

 ◇主イエスの地上生涯においては、主イエスを受け入れなかった家族が、十字架と復活の出来事を経て、原始教会に迎えられその兄弟たち、ヤコブやユダが教会の指導者になっていったという事は,かつては故郷が異郷であった主イエスが,新しく故郷に共に住むような信仰の共同体を築かれたことを示している。主イエスによって神の子とされ,神の民として歩むのである。

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◆1998.01.04

「キリストの栄光」ヨハネ福音書1:29-34、エフェソ書2:1-10

             大 宮 溥

 ◇新らしく明けたこの一年、主の恵みの光が照らし続けて、われわれの歩みを導かれることを祈るものである。キリスト教会では1月6日をエピファニーと呼んで祝った。公現日、栄光祭、顕現節などと訳される。主の降誕から始まって、その生涯を学ぶ教会暦の「主の半年」で、1月1日は命名日(ルカ2:21)であり、6日は主がヨルダン川で洗礼を受けた時、その栄光が顕われ出たことを学ぶのである。このキリストの栄光は今もわれわれを照らしている。

 ◇降誕祭で覚えられるキリストの誕生は、神の子が人間として生まれたことで、神の子の本来の姿を人間の姿の中に照してこの世に来られたのである。「隠蔽」(キルケゴール)、お忍びの姿である。それは主が人間の只中で一人の人間として生き、人間と連帯し、一体となるためであった。しかし大切なことは、主が人間の只中に身を置くだけでなく、人生の闇を照らし、死を命に転じることである。それは最終的には十字架と復活によってなしとげられたのであるが、その前の生涯においても折々に、キリストの輝き、栄光が洩れ出ていた。

 ◇「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1:14)。洗礼者ヨハネもそれを「見て」(34節)・われわれにそれを「見よ」(29節)と証したのである。この栄光は今もわれわれを照らしている。16世紀の英国のカトリックの修道士R.サゼルの「燃える幼児」という詩は、罪人を憐れむ涙が油のように燃えて冷だく黒い鉛のような罪人を、赤く燃え上らせずにはおかない、幼児イエスを歌っている。

 ◇エフェソの信徒への手紙2章では、人間がイエス・キリストとの出会いによって、死から生へ、「神の怒りを受けるべき者」から神の子へと転換させられたことを記している。ここではキリスト御自身が神の子としての栄光をあらわされただけでなく、われわれと一体になって、われわれ自身をも光として下さることが示されている(5-6節、5:13-14も参照)。顕現祭はキリストが輝き出ると共に、キリストを信じる者も、主の輝きに照らされる日である。

 ◇大江健三郎氏が、障害を持つ光さんの存在を通じて「人間存在の破壊され得ないことの顕現(エピファニー)」を経験したという。破壊され得ないのは人間を存在せしめる神の恵みと真実である。われわれは「神に造られたもの」「神の作品」である(10節)。

 

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