2000.1-3


もくじ

◆03.26「キリストに触れる」ヨハネ福音書13:1-14、第1ヨハネ5:6-12
◆03.19「勝利の信仰」マタイ福音書4:1-11、第1ヨハネ5:1-5
◆03.12「愛の勇気」ホセア書6:1-6、第1ヨハネ4:13-21
◆03.05「人生の支配」使徒言行録16:6、ガラテヤ 4:13-14

◆02.27「キリスト教信仰の急所」ヨハネ1:14-18、第一ヨハネ 4:1-6
◆02.20「キリストの愛そそがれて」創世記3:8-13、ヨハネI 4:7-12
◆02.13「信仰と愛の歴史」ヨシュア1:1-9、ヨハネI 3:11-24
◆02.06「神と悪魔」ダニエル書7:9-14、ヨハネI 3:4-10

◆01.30「使徒の務め」ホセア書6:1-6、コロサイ書1:24-29
◆01.23「キリスト凝視」マルコ福音書9:2-8、ヨハネI 2:28-3:3
◆01.16「主のゆきとどいた配慮」哀歌3:22-33
◆01.09「正統な信仰」ヨハネ福音書6:66-71、ヨハネI 2:18-27
◆01.02「光は闇に輝く」創世記1:1-5、ヨハネ福音書1:1-18


メッセージへ

ホームページへ

 


◆2000.03.26 受難節第3主日

「キリストに触れる」ヨハネ福音書13:1-14、第1ヨハネ5:6-12

       大宮 溥 牧師

 ◇ヨハネ福音書の洗足物語は、ヨハネだけが伝えており、他の三福音書が伝えている最後の晩餐物語は載せられていない。だからこの物語を、最後の晩餐に関するヨハネ的解釈とも考えられる。ヨハネはこのような形で主イエスの十字架の死の意味を説いているのである。

 ◇主は御自身の生涯の終りを自覚された時「この世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛された」(ユ節)。「この上なく」は「最後まで」(口語訳)とも訳される。ここに主がその最後の段階で、最大の愛を注がれたことが強調されている。この時主はユダの「裏切り」を知っておられた(2節)。「裏切る」は「引き渡す」という意味である。主イエスは敵の手に渡され、悪魔と死の手中で砕かれた。しかしそれは実は、死と滅びの奥深くに身を置いてそれを粉砕し、そこに閉じ込められている人間を解放するためであった。

 ◇これはまた人間を神から引き離して滅びに至らせる罪を拭い去ることであった。それを示そうとして、主は弟子たちの足を洗われた。旅人の足を洗うのは下僕の仕事であった。それを「圭であり師である」イエスがなさったのである。シモン┬疋ペトロは師に足を洗っていただくことに耐えられぬ思いでこれを固辞したが、しかし主イエスに罪を拭っていただく他に、罪赦されて神に帰る道のないことを知り、感謝と畏怖の思いで主に身を委ねたのである。

 ◇ヨハネの第一の手紙は、5章6-12節で現在のわれわれが主イエスに触れ、足を洗っていただく道を示している。ここでキリストをわれわれに証するもの、すなわちキリストに触れさせてくれるものとして「水と血と霊」があげられている。「水」は洗礼、「血」は聖餐である。それを単に物質的な接触でなく、聖霊によってそれが霊的な働きとなる時、われわれは生けるキリストに触れ、主によって罪を洗い潔めていただけるのである。

 ◇キリストは「水だけでなく、水と血によって来られた」(6節)という言葉は、イエスの洗礼の時霊か下ったが、十字架においてはイエスを去ったと説く、キリスト仮現説を斥け、十字架の死こそ罪の蹟いであることを強く訴えているのである。

 ◇先日聖書協会世界連盟の大会前準備金のためインドネシヤのバリ島に行き、現地のカトリック教会に行った。その礼拝堂の正面に大きな三角形の目が描かれていた。三位一体の神の目がわれわれに注がれているのを感じた。われわれの神は、主イエスにあってわれわれに親しく触れて下さる。

            もくじへ 


◆2000.03.19 受難節第2主日

「勝利の信仰」マタイ福音書4:1-11、第1ヨハネ5:1-5

       大宮 溥 牧師

 ◇受難節40日間の40という数字は、聖書では人生の試練の期間を示している。ノアの洪水では雨が40日40夜降り、エリヤは王妃の迫害を避けて40日の旅をして神の山に行き、イスラエルは40年の荒野の旅をし、主イエスも40日の断食の後に誘惑と戦われた。これらはいずれも人生は試練と誘惑の只中にあり、主イエスもその中を生きられたことを示している。

 ◇人生の試練と誘惑は、この世が神とそれに対抗する力、光と闇との激突する戦場であること、また人間は「神のかたち」に似せて造られ、自由な存在であること、それ故、正しく責任ある選択が求められるのであるが、それを誤っ危険性も生じることを示している。

 ◇聖書に伝える誘惑物語の最大のものは2つで、第1はアダムとエバの誘惑である。神はエデン(楽しみ)の国に彼らを住ませたが、只一つ園の中央にある善悪を知る木(全知を示す)の実を食べることを禁じた。しかし彼らは、慾に負けて、禁断の木の実を食べた。「神のようになろう」とした。神かエゴかを迫られて、神に背いた。それは自分の存在の基盤を踏み抜く行為であった。

 ◇それに対してイエス┬疋キリストの誘惑物語では、主イエスはパンの誘惑(物か神か)、投身の誘惑(自己か神か)、悪魔と手をつなぐ誘惑(神かサタンか)のいずれにも神の言葉によって、神の郷心のままに生きる道を選ばれた。それは、父なる神から示された十字架の道を、逃避や保身や自己主張の誘惑に打ち勝って進まれたのである。

 ◇ヨハネの手紙1の今日の個所は、このイエス┬疋キリストを信じ受け入れて生きる者は、試練や誘惑の世にあって、それに屈服せず、神の愛に満たされて、神を愛し人を愛する道を歩むことを語っている。主イエスを信じる者は、自分が孤独でなく、主が共にいて、助け、共に戦い、勝利の道へと導いて下さることを確信する。その時、試練や誘惑の中にあっても、恐怖や不安に駆られて、投げ出したり、悪と妥協するのでなく、忍耐と希望をもって、七転八起の歩みをつづけてゆくのである。

 ◇「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリント110:13)。この約束の言葉に励まされ、支えられて、われわれは勝利の道を歩むのである。

            もくじへ 


◆2000.03.12 受難節第1主日

「愛の勇気」ホセア書6:1-6、第1ヨハネ4:13-21

       大宮 溥 牧師

 ◇受難節は、主イエス┬疋キリストの御苦しみと十字架の死を心に刻み、われらの罪の繊悔と謹慎克己の生活の時である。しかしこの時期の過し方の最も大切な点は「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。このことによって、わたしたちは愛を知りました」(ヨハネエ3:16)という、主イエスの限りなき愛をしっかりと受けとめることである。

 ◇「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:10)。イエス┬疋キリストは、人間の憎しみの連鎖反応の只中に引き込まれたが、それに怨みと憎しみをもって返すのでなく、彼らのためにとりなしの祈りをささげ、その救いのために、御自分の身を犠牲にされたのである。ここに神の愛が集中的に注がれている。

 ◇旧約聖書において、神の愛について最も深い経験をしたのはホセアである。彼はゴメルを妻として裏切られ、嫉妬と憎しみに燃えたのであるが、彼女の悲惨を聞くとそれが憐れみと愛に変ったのである。彼はこの経験を通して、神の愛の真の姿を知ったのである。愛が傷つけられて憎しみに変るのが人間の愛であるが、神の愛はそれを突き抜けて、もう一度愛を回復する。ホセアはこのような愛を「ヘセド」(憐れみ)と呼んだ。主イエスばこのヘセドの愛を生きられたのである。

 ◇われわれは、この神の愛を受ける時、自分自身が憎しみから愛へと変えられる。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(19節)。こうしてわれわれは、神を愛し隣人を愛する、愛の道を歩き出すのである。この愛は、憎しみによって傷づけられると自分の方も憎しみに代るような弱い愛ではなく、憎しみを愛へと変えずにはおかない様な強い愛として燃えつづけるのである。

 ◇先日、韓国の堤岩里(チェアムリ)事件を劇とした「銃剣と処容(チョヨン)の舞」が上演された。1919年の独立宣言を弾圧しようとした日本官憲が、堤岩聖教会にその村の男子を全部集め、銃剣で殺し、会堂を焼いたのである。50年後この地を訪れた尾山令仁牧師が、謝罪のしるしに、日本のクリスチャンの献金によって教会堂を建てようとする。未とその父親チ青ソ『ソネである牧師とを殺された田岡穫という女性が抗議した。しかし、口では赦すと言えぬまま、和解の舞を舞うのである。主イエスを仰ぐ時、罪人のため和解の犠牲となった主によって、恨の只中に和解が生じるのである。

            もくじへ 


◆2000.03.05 降誕節第11主日

「人生の支配」使徒言行録16:6、ガラテヤ4:13-14

       高橋 豊 神学生

 ◇「私は私のものではない」。

 ◇人生は、病気別れ、成育歴、劣等、後悔、挫折、逃避、失敗、老いなどによって、目分で自分をコントロールすることができない。それは言い換えれば自由ではないことにもなる。そして常に人は「なぜ」と、人生そのものに問いかける。

 ◇使徒パウロも実は、私たちが経験する人生の苦しみを経験していた。彼のガラテヤ伝道の最初のきっかけは、伝道を目的として訪問をしたのではなく「体が弱くなった(ガラ4((I%ユ3)」、すなわち、病気で立ち寄ると言うことだったのである。つまり、彼は伝道旅行半ばで、病気によってその計画を断念した、挫折をした結果としてやってきたのである。しかし、パウロはそれによって「伝道できた」とも記しているのである。つまりそこには、神の手が働いて、神が病気によってパウロをガラテヤに送り、伝道させたのである。だから人間の挫折の思いではなく、神によって最終的にどう使われたかが重要である。

 ◇しかしそうなら、それは結果主義であり、また自分がまったく神の計画によって自由では無いことになってしまうのか。

 ◇ガラテヤの人々は、そのような病気のパウロを受け入れ介護した。そしてそれによってガラテヤの人々にも福音が告げられたのである。つまり、単なる結果なのではなく、そこにいたる途中の出来事や交流こそが、その結果を生み出すのである。更に人間の求めている自由とは、実はその場しのぎの利益優先のようなものでしかなく、そこには自由と言うよりも罪の様相がある。そしてそのような人間だからこそ、十字架による神の救いが必要なのである。

 ◇私たちの人生にある苦しみや悲しみは、神の手の内では新しい自分になる、地に落ちた種の意味がある。そこに復活という神の命の言葉がまかれるとき、新しい命が誕生する。新しい自分になるのである。そしてその自分が誕生したときに、私たちの悲しみや苦しみさえもが、神の計画の中で重要な意味を持っているものと分かるのである。

 ◇更にパウロのこの挫折とそこから誕生したガラテヤ教会までのことを、ルカは神の聖霊の命令(言行16((I%6)と記している。パウロの挫折は聖霊の命令によって、まったく新しい命を開いていたのである。

 ◇私が私のものではないことを知るとき、人間は自分を、また隣人を、そして人生そのものを愛して慈しむことができる。私は私のものではなく神のものだからである。

            もくじへ 


◆2000.02.27 降誕節第10主日

「キリスト教信仰の急所」ヨハネ福音書1:14-18、第Iヨハネ4:1-6

       大宮 溥 牧師

 ◇このたび宇宙船エンデヴァーが地球観察の旅を終えて無事に帰ってきた。毛利飛行士が、地球の汚染や森林破壊等の問題が出ているが、宇宙船から地球全体をみると今なら地球の再生は可能だと思われると語っていた。この言葉を聞きながら、宇宙で只一つの生命の星である地球に、自分が今生かされていることの恵みを改めて感じた。

 ◇創世記のはじめに、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(1:2)とある。この「動く」は「おおっていた」(口語訳)とも訳せるので、神が地球をだき抱えて命を産み出そうとする姿にもとれるのである。この神の霊は、宇宙をおおい、地球を包んでいると同時に、この地上を生きる人間一人一人の内に注ぎ込まれてもいる。キリスト教会はこの神の霊を注がれて生まれた共同体である。

 ◇使徒言行録の聖霊降臨節の記事は(2章)、聖霊によって使徒たちが立ち上がり、主イエスの復活の証人になったことを伝えている。教会は聖霊によって生かされ、愛され、力を得て生きる群である。今日の人間は、自分たちが神の愛を注がれて生きているという事実を、改めて心に刻むことが

肝要である。

 ◇ヨハネ第一の手紙の著者は「神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります」(3:24)と、われわれが神の命と愛の霊を受けて生きていることを教えた後、今日のテキストで「どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい」(1節)と、霊の吟味を勧める。神の霊の働きか人間の主観的な空想かの区別が大切なのである。

 ◇その吟味の基準は「イエス┬疋キリストが肉をとって来られだということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです」(2節)という、キリストの人性の信仰である。古代教会では神の霊は人間イエスに宿ったが、十字架上ではイエスを離れて天に帰ったという、キリスト仮現説があった。これに対して正統的キリスト教は、イエス┬疋キリストは「まことの神でありまことの人」(カルケドン信条)と告白した。主は「まことの神」である故に、入間を完全に救う力があり、「まことの人」である故にその救いは人間の根底にまで及ぶと告白したのである。これがキリスト教信仰の急所であり、原点である。イエス┬疋キリストはわれわれの人生の旅の変ることなき同伴者であり、神の霊はわれわれをキリストと共に歩ませる力なのである。

            もくじへ 


◆2000.02.20 降誕節第9主日

「キリストの愛そそがれて」創世記3:8-13、第Iヨハネ4:7-12

       寺島 謙 神学生

 ◇ヨハネの手紙I4:7以下には、「愛」がどこから生み出されるのか、そして「愛」の本質とはいったい何であるのか、さらには「愛」が私たち人間にとって、いったい何を意味するものであるのかについて語られている。

 ◇聖書には旧約の歴史から新約の歴史へと連続したときの流れが語られている。その中心は神が人間に示された愛の業である。全ての生き物を支配させるために人間は創造されたと記されているが、ここで特に重要なことは人間が神にかたどって創造されたということである。しかし、その関係はアダムの堕罪により破壊されてしまうのである。

 ◇「どこにいるのか。」と園の中を歩かれる主なる神の問いかけは、神と我々人間との全き交わりの崩壊を象徴的に表している言葉である。そのような神なき闇の中を歩む存在となった私たちであるが、神は決して私たちに愛を注がれることを忘れないのである。「どこにいるのか。」という神の問いかけは、木の間に隠れている罪人への呼びかけてもあり、神の愛に基づくものである。

 ◇主イエス┬疋キリストは罪の汚れもない、真の神の子であった。にもかかわらず、主イエスは私たちと等しき、肉の体をとられ私たち人間の中へと来られた。それは、私たち人間の罪のために十字架に登られ、その罪ゆえに蹟いの死をその身に受けられるためであり、さらにその死より復活され、もう一度、私たちに神の御前において生きる「新しい生命」を与えられるためであった。神は主イエス┬疋キリストを通して示された「愛」を、私たちの内なる心に注いで下さったのである。

 ◇神との断絶は私たち人間同士の関係をも破壊するものである。しかし、主イエス┬疋キリストか神と私たち人間との断絶を埋め、もう一度神の御前に私たちを呼び戻されたのである。これは、神と私たち人間との縦の関係が修復されただけではなく、横の関係、つまり私たち人間同士の関係をも、キリストの愛により修復されたことを意味する。私たちは主イエス┬疋キリストによって、真の愛を示され与えられ、そして互いに愛し合う者とされたのである。そのときに、私たちの間に神は臨在してくださり、そして私たちの内に生きてくださるのである。

            もくじへ 


◆2000.02.13 降誕節第8主日、教会創立76周年記念礼拝

「信仰と愛の歴史」ヨシュア1:1-9、ヨハネI3:11-24

       大宮 溥 牧師

 ◇イスラエルの民が40年の荒野の旅を終えて、約束の地カナンに入ろうとする時、神は新しい指導者ヨシュアに語りかけ、先の時代と同じく神が共にいますことを約束し、それ故「強く、大いに雄々しくあって」神の言葉に従って前進せよと命じられた。阿佐ケ谷教会創立76周年にあたり、われわれも今日新たに生ける主イエス┬疋キリストを仰ぎ、御言葉に導かれて、使命の道を強くかつ雄々しく歩みたい。

 ◇ヨハネの第一の手紙は、3章11節でキリスト教はその歴史のはじめから「互いに愛し合いなさい」という教えに従って生きてきたと語っている。この世の歴史は創世記のカインとアベルの物語に始まる憎しみの歴史であった(12節)。カインの憎しみと殺人の原因は、神との関係が切れたために、人との愛の関係も切れたためである。かようにこの世の歴史が憎しみと死の歴史であるのに対して、教会の歴史は憎しみから愛へ、死から命への転換の歴史である(13-15節)。そしてこの転換をなしとげて下さったのがイエス┬疋キリストである。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」(16節)。

 ◇バルトは世界の基礎として「創造と契約」をあげている。世界が創造されたのは神と人間との真実の交わり(契約)の舞台となるためである。また神は御自分だけで存在することに満足せず、愛の相手を求め、それと愛の関係(契約)を結ぼうとして、この世界を創造されたのである。この世界の奥義がわかる時、わたしたちは自分の存在の根底に神の愛があることを知り、愛を土台として生きようとする。これが理解できないと、生きていることは偶.然で、生の中心は自己になり、そのエゴとエゴとの激突により憎しみの歴史が形づくられるのである。

 ◇この憎しみの世に、イエス┬疋キリストが来られ、憎しみの子である人間をあふるるばかりの愛をもって愛け入れ、この人間を救うために御自分の命を捨てて下さったのである。このことによってわれわれはもう一度神の愛につれ戻され、愛を土台とし愛を中心に生きるように再創造されるのである。

 ◇阿佐ケ谷教会の創立者平岩愃保牧師が牧師として献身した動機も、夢多き青年の時、父上の事業の失敗と母上の死を経験し、その内的痛みを真に癒す神の愛に触れ、それを中心に生きようと発憤興起した故であった。この神の愛はわれわれをも動かし、「主の名を信じ」「互いに愛し合う」道へと導くのである。

            もくじへ 


◆2000.02.06 降誕節第7主日礼拝

「神と悪魔」ダニエル書7:9一14、ヨハネI3:4一1O

       大宮 溥 牧師

 ◇教師に注意され、「キレた」と言ってその教師を刺した子どもの事件は、今日の人間の姿を示す例である。「切れる」というのは、自分の心をコントロールする糸が切れることであり、信頼関係の糸が切れることである。

 ◇聖書では神と人間との関係の基本として、神への愛と隣人愛が示されている(マルコ12:30以下)。これが律法の核である。この愛の関係が切れた状態をヨハネの手紙は「法に背く」(口語訳では「不法」)と呼んでいる。今の時は「不法の時代」なのである(4節)。

 ◇これに対して、神の子キリストは「罪を除くために現れました」(5節)。この言葉は洗礼者ヨハネがキリストを指して語った「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ福音書1:29)という言葉を思い起させる。代々の教会はこの「神の小羊」Agnus Deiを仰いで礼拝を捧げ、生かされてきた、「除く」と訳された言葉は「担う」「自分の身に引き受ける」という意味と、「取り除く」「取り去る」という意味とがある。キリストは十字架上で犠牲となり、人間の罪を自分が引き受け、それによって人間の罪を取り除いて下さった。これによってわれわれは「不法の時代」にあっても「義」(6-7.節)に生き、神と人との真実な関係を回復することができるのである。

 ◇更にヨハネの手紙はこの世を、神と悪魔という二つの力がぶつかり合う、光と闇の激突する舞台として描いている。そして人間は神の子として生きるか悪魔の子として生きるかと、自分を駈り立てる力に動かされているのである。そしてイエス┬疋キリストがこの世に来られたのは「悪魔の働きを滅ぼすため」(8節)であった。「勝利者キリスト」Christus Victor(G.アウレン)である。十字架上で悪魔は人間イエスを一呑みにしようとしたが、主イエスは神の力を持っておられたために、悪魔の只中で悪魔を砕き、人間を罪と死と悪魔から解放したのである。

 ◇人間が神との関係も人との関係も切れて、神に対しても人に対しても敵対的な、憎しみと怒りの関係にある時、キリストはこの不法の世の只中に来て、死を砕いて生命を与え、憎しみを砕いて溢れる愛を注い一で下さったのである。この「勝利者イエス」の信仰は、19世紀のドイツで牧師をしていたクリストフ┬疋ブルームバルトが、心身共に砕かれていた一人の教会員の傍で、リアルに経験したことであった。ダニエル書が示す「人の子」か、主イエスとして、今もわれわれを勝利へと導いて下さる。

            もくじへ 


◆2000.01.30 降誕節第6主日礼拝

「使徒の務め」ホセア書6:1-6、コロサイ書1:24-29

       横井 武男 神学生

 ◇主は立ち返り、御下にひれふす者を拒まれません。不義を行う者を主は懲らしめられます。主の懲らしめは、その者を主に立ち返らせる事を目的とし、決して亡ぼす事が目的ではないのです。主は民の悔い改め立ち返る心を朝の霧、すぐに消え失せる露と見なされる。民が真に信仰をもっていない事、真剣に主に向き直っていない事を思い起こされる。真に神に立ち返るならば、神と共なる新なる生活態度を生じ、日々の生活に現われるでしょう。ホセアの苦悩は民の脆い信仰と主の御旨の間にあって、民の心を真に主の御心に叶うように誘う事でありました。

 ◇使徒の務めは、ホセアに似ていて、しかし決定的に違っています。救いの御業が主イエスによって成し遂げられ、宣べ伝えるのは主イエスの事柄でのみあるのです。主イエスの苦難の継承を見て、使徒パウロは喜んで苦難に耐えるのです。

 ◇「あなたがたの内にいるキリスト」というキリスト教の奥義によって、神が世界中の人々の只中に侵入し、主イエスにおいて一つとなしたまうのです。主の御体なる教会が私達の生活するこの地上に建てられた事実に基づき、使徒は、教会において奉仕する事で主イエスの御旨を行う事が出来るのです。神が使徒に与えた委託は、主イエスを宣べ伝えるという事です。民が強情な性格を捨て、心の底から主イエスを求め続ける為に使徒は語り続けなけれがならないのです。福音宣教は、主イエスを宣べ伝える事であり、生活を福音から実証する事が求められます。ここに使徒の委託と生活は一つとなり、宣教と苦難も一つとなるのです。主イエスがお用いになられる手段は、主によって派遣された使徒の言葉、振舞、飲食、黙々と苦しむ事なのです。

 ◇主はあざけられてもあざけり返さず、ののしられてもののしり返さず、打ち叩かれても打ち返さず、神の全権を委ねられている方が決して隣人に対して強権を発動する事はなさらなかった、唯ひたすらなる十字架への従順と、生命の充溢という形で私達に一人一人と共に臨んでおられます。

 ◇使徒は復活の主によって永遠の命が与えられる確かな約束の内にこの世を生きることが出来るのです。この世にあって、ありとあらゆる苦難、苦痛、屈辱がキリスト者にせまって来るでしょう。しかし、困難であればあるほど主は御力を示して下さいます。主イエスの御光によって私達は苦難を克服する事が出来ます。主と共に歩みつつ主の御栄光に輝らされた日々なのです。

            もくじへ 


◆2000.01.23 降誕節第5主日礼拝

「キリスト凝視」マルコ福音書9:2-8、ヨハネI2:28-3:3

       大宮 溥 牧師

 ◇ヨハネIは「終りの時が来ている」(3:18)と告げている。この手紙が書かれた紀元1世紀末には、種々の思想や宗教が乱立し、キリスト教の中でも相対立する派が生じ、これからの世界がどこへ径くのか、視界が不透明であった。「終りの時」末世という閉塞感が強かった。そして終りの時に自分たちが神の前に正しく立つため、今をどう生きたらよいのかと、不安や焦りを覚える者も多かったのである。不透明な見通しの下で生きる基本姿勢が定まらぬのは今も同じである。

 ◇どのように神に会う備えをしたらよいのかという問いに対してヨハネIは「子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい」(28節)と勧める。この「とどまる」と訳された言葉は、ヨハネ福音書15章の有名なぷどうの木と枝のたとえで、主が「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(4節)と語られた中で「つながる」と訳された言葉と同じである。長く変らない真実な関係を示している。ヨハネの時代には、生けるイエス┬疋キリストとの人格的な交わりよりも、神秘的体験を重視するグノーシス派が起りつつあった。それに対して著者は、最初からのキリスト教信仰である、主イエスとの交わりにとどまり続けるよう勧めたのである。

 ◇さらに「御子の現れるとき」(28節)という終末がいつかを神経質に問う人々に対して、明日のことを思い煩うのでなく、今生イエスと共に生きることが、将来への鍵であることを教えている。「御子が正しい方」(29節)というのは「義なる方」と訳した方がよい。イエス┬疋キリストは、われわれを義として下さり、神との正しい関係に導いて下さる方である。この神によって、われわれは新しく生まれ変らせて頂き「義を行う者」(神を愛し人を愛して生きる者)とされるのである。

 ◇われわれの将来について、ヨハネ1はそれを知るのは神のみであると、不健全な思弁を禁じるのであるが、ただ一つ確実なこととして「御子が現れるとき(再臨)、御子に似た者となる」ことを告げている。それは「そのとき御子をありのままに見るからです」(2節)。キリスト者はキリストと交わり、キリストを見つめることによって、キリストと同じ姿に変えられるのである。

 ◇主イエスは山上で父なる神と相対して変貌された。われわれもこの主イエスと対面し、主を凝視することによって変貌する。ルターはキリスト者を「小さなキリスト」と呼んだ。終末においてそれが完成する。

            もくじへ 


◆2000.01.16 降誕節第4主日礼拝

「主のゆきとどいた配慮」哀歌3:22-33

       野方町教会牧師 内藤留幸先生

 ◇主イエスは、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をした直後に突然受難を予告された。なぜこの場所で受難予告がなされたのか。それは弟子達の誤った考えを訂正するためであった。21節の「復活することになっている」という言葉は本来「ねばならない」という神的必燃性を表わす言葉である。福音書記者は主イエスが十字架の死と復活を経験されて初めて救いを成し遂げられることを全力を尽くして語ろうとしたのである。21節の「このときから」という言葉は、今や救いのための準備の時が終ったことを示している。

 ◇それに対して「ペトロはイエスをわきへお運れして、いさめ始めた」(22節)。ぺトロは自分を主イエスの保護者のような立場に身をおいてこう言ったのである。十字架の本当の意味が分からないと、ペトロのようにどんなに深い人間的な愛をもっていても十字架を避けてしまうのである。

 ◇すると主イエスはべトロに対して「サタン、引き下がれ」(23節)と言われた。主イエスは憎しみをもっとこう語られたのではない。この言葉の背後には、主のゆきとどいた深い配慮があるのである。

 ◇主イエスはここでペトロの口を通して、以前に荒野で主イエスを誘惑されたサタンと同じ声を聞いたのである。サタンの本質は、十字架ではない道を歩ませようとすることである。サタンは非常に巧妙に、私達の最も親しい人を用いて誘惑するのである。これは一番打ち勝つことの難しい誘惑である。ここでの「引き下がれ」という言葉は直訳すると「行け、私の後に、サタンよ」という意味である。主はいつの間にかご自分の前に立ち、指し図をするようになったペトロに対して「あなたは自分のいる場所を間違っている。あなたは私の後ろに従うべきではないか」ともう一度晦い改める機会を与えたのである。ここにもペトロに対する主の深い愛を感じるのである。

 ◇主イエスは本当にご自分に従おうとする者に対して「自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」(24節)と招きの言葉を語られるのである。主に従うとは、徹頭徹尾主に倣うことである(Imitatio Christi)。しかも、十字架を負うということはネガティブなことではなく、主が与えて下さる恵みとして、聖霊の導き、主の配慮の下に可能なことなのである。しかも、一人では弱い私達には祈り合う群れとして教会が与えられている。教会の中にある限り、私達は主のゆきとどいた配慮を受けて、信仰生活を送ることができるのである。

            もくじへ 


◆2000.01.09 降誕節第3主日礼拝

「正統な信仰」ヨハネ福音書6:66-71、ヨハネI2:18-27

       大宮 溥 牧師

 ◇今日は「西東京教区の日」である。教区内諸教会がこの地域の灯台として、全体でその使命を果すことができるよう、共に祈り合って進みたい。教団の諸教会は様々な教派的伝統と特徴をもっているが、イエス┬疋キリストをかしらとする信仰において一致し、それぞれの個性が全体を豊かにするのである。

 ◇今日の聖書の個所には、イエスの弟子たちの中に分裂が生じた姿が描き出されている。ヨハネ文書は紀元1世紀末から2世紀のはじめころに書かれたものと思われる。このころ初代教会を導いた使徒たちは世を去り、しかもキリスト教は地中海世界に大きく拡っていた。そのためキリスト教の基礎についての理解も曖昧になり、教会の一致と連帯が破れるという危険があった。

 ◇第一にキリスト教はユダヤ教から拒否され、異端として排除された。そこで教会は、自分たちの特質を明確にし、自立の道を確立しなければならなかった。そこでユダヤ教が律法の宗教、錠の宗教であるのに対して、キリスト教は霊の宗教、自由なる愛の宗教であることが強調された。ヨハネの手紙Iでは、これがキリスト者は「聖なる方から油を注がれている」(20節)「内に御子から注がれた油がある」(27節)と「油」(聖霊のこと)と表現されている。キリスト者は神とキリストから、聖霊が与えられ、神の命と愛に溢れているのである。

 ◇しかし、キリスト教が霊の宗教だと言うと、心の中に信望愛が宿るなら、何を信じようと、結局は同じだと言うことになりかねない。「分け登る麓の道は多かれと同じ高嶺の月を見るらん」とか「神は多くの顔を持つ」(ヒック)とかいう方向に流れがちである。古代世界では神秘主義宗教が広く影響力をもち、キリスト教もその一つと考える立場の人もあった(グノーシス派)。それに対してヨハネの手紙は、キリスト教は単なる霊的宗教ではなく、その霊がイエス┬疋キリストを通して働くということ、従って聖霊を受ける時に「イエスは主である」という信仰に導かれることを強調したのである(21-25節)。

 ◇神の恵みは様々な形でこの世に注がれているが、しかしそれが一つの焦点に集められる様に、集中して現われ、われわれ各自と一対一の人格的な関係において出会って下さる。それがイエス┬疋キリストである。これを「イエスは主である」と告白することによって、人間的にどんなに違っていても、共に一つのかしらに通る一つの体として生きてゆくことができる。この正統的な信仰に堅く立って進みたいものである。

            もくじへ 


◆2000.01.02 新年礼拝

「光は闇に輝く」創世記1:1-5、ヨハネ福音書1:1-18

       大宮 溥 牧師

 ◇主の年2000年にあたって、ヘルンフート兄弟団発行の『日々の聖句』は、「年の聖句」として、次のエレミヤの言葉を揚げている。「わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう」(29:13-14)。エレミヤ書29章は預言者エレミヤがバビロンに強制連行された捕虜のユダヤ人同朋に書き送った手紙である。彼はその捕囚の人々に身の不幸を嘆いて現実逃避に陥ることなく、そこに家を建て、土地の人と交わり、住む町の平安を祈れと助言した。そしてかような地にあっても恥を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会う」という神の約束を伝えたのである。この言葉がわれわれに与えられたことは、前途の定かでない時代の転換期にあって、われわれが置かれた現実を勇気をもって直視し、腰を据えて生活を築くように命じ、そこで「神共にいます」との約束を与えてくれるものである。

 ◇新年によく創世記冒頭の天地創造の記事が読まれる。歴史のはじめの神の祝福に立ち帰り、この神によって新しい歴史を切り開いて歩もうとの信仰を新たにするのである。この記事についてユダヤ教の聖書注解であるタルムードは、神はその創造された一つ一つに「それを見て、良しとされた」と記されているのに、人間に対しては「良しとされた」という記述がないことに注意を促している。人間は「神の像」を与えられるほどの神の最高の作品なのに、良いとの評価が与えられていない。それは人間は神によって造られた初めの段階ではまだ未完成であって、人間自身が神から与えられた自由と力を用いて、神が良しとされるように自分と歴史を築いてゆかなければならないからである。楽園追放やノアの洪水物語では、神は人間を造ったことを後悔し、心を痛められたとすら記されている。

 ◇それに対してヨハネ福音書は「初めに」という言葉で┬疋イエス┬疋キリストの歴史をえがいている。神が始められた世界史と人類史を┬疋神は人間の歩むままに放置されず、神自ら共に歩んで下さり、語りかけ、導いて下さるのである。そしてその頂点として「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」(14節)。「宿る」とはテント生活をすることで、イスラエルの荒野の旅を思い起させる。神はその旅を共にされるのであ乱「世の光」なるキリストが共に歩まれることによって「光は暗闇の中で輝いている」のである。新しい千年期は、地球的な時代であるが、その時代を生き抜くためには個の確立が求められる。この旅を主と共に歩み出したいものである。

            もくじへ 


ホームページへ