2023/06/04「『復活』はたわごとか」 コリントの信徒への手紙15:29~34 牧師 古屋 治雄


◇パウロは第一コリントの最後の部分で、復活の希望を繰り返し語っている。その中で特にコリント教会の復活の希望を否定するかのような一部の人々に対して、叱責しているとも受けとめられる強い語調で語りかけている(33−34 節)。
◇使徒言行録 17 章から 18 章に、アテネの人々が主イエスの復活の福音を理解できず、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞か せ て も ら う こと に し よ う』と 言 っ た」(17:32)と報告されている。アテネの人々が「復活などたわごとに過ぎない」と直接言ったわけではないが、彼らの反応は復活ということを聞くすべての者に共通して生じる反応である。
◇今日の個所の 29 節以下で、パウロはコリントの教会の人々が、自分たちが復活することを期待していること、復活への期待を明言できないが、信仰生活の支えになっていることを取りあげている。
◇復活を信じるために理解しようとしても、私たちは納得する理解には至らないであろう。私たちが主イエスの復活を信じることは、私たちも復活の恵みに生かされ、永遠の命に生きる者と約束されていることを信じることである。だが、どうしたらキリストの復活が私自身の事柄となり、私自身のこととして受けとめられるのか、考えさせられる。

◇主イエスが復活されたことは、キリストは生きておられることである。キリストが今も生きておられることを信じていることは、キリストの復活を受け入れていることになる。キリストの復活は、キリストご自身にとって意味があるにとどまらず、十字架の死が私たちのためであった以上に、地上に生きている私たちに働きかけてくださることに意味がある。
◇キリストは生きて今私たちに働いてくださっている。そして「御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るため」に、キリストは教会をとおして私たちに働いてくださっている。この信仰を私たちは受け継ぎ、今生かされている。 (要約:李 暁静)