2023/06/11「死んだらどうなるのか」 コリントの信徒への手紙15:35~49 牧師 古屋 治雄


◇私たちは「身体の甦り、永遠の生命を信ず」と告白する。では、死者はどのように、どのような体で復活するのか、という発想をしがちである。パウロはその疑問に直接答える代わりに、「愚かな人だ」と一喝する。死んでいない私たちが、死後のことを考えることは愚かなことだ、と言うのである。
◇死は、決定的断絶である。体は滅んでも霊魂は不滅だとする説があるが、これは決定的断絶を回避する人間の発想でしかない。また、ルカ20:27以下に、7人の兄弟がいて、長男が子を残さずに亡くなった。律法に従い次男がこの女性を妻として迎えたが、同様に亡くなった。こうして7人すべてがこの女性を迎えたが、復活の時、この女性は誰の妻になるのか、という問答がある。これも人間の知識、経験からの発想である。パウロはまた種の譬えを用いる。種は自分がどうなるかを自覚してはいない。そして死ななければ(種としての本質を失わなければ)、芽吹くことも、実らせることもできない。種としては死ぬからこそ、想像を越えた実りを神様から与えられる。このように、人間の知からでは死後の事、復活のことを捉えることはできない。
◇牧師は火葬前式で「なきがらを御手にゆだねて、土を土に、灰を灰に、塵を塵に還します」 と祈る。土の器に過ぎない私たちは、神様に息を吹き込まれて生きる者となり、そして土に還る。そこには霊魂不滅の考えが入る余地はない。だが、しかし、ここからが大事なのである。死にゆく者の身体は、私たちの目からは消えるが、主の目には空しくならず、新らしい天と地の成るときに神様の大きな力によって栄光の体に変えられることを信じるのである。
◇イエス様は私たちに、ヨハネ11:25-26の問いを投げかけられる。「どのように、どのような体で」という疑問から、「信じるか」という信仰の問いへと、私たちの発想、思考、生活の転換を呼びかけておられる。その呼びかけに応えて生きる者となりたい。
(要約:太田好則)