2023/03/19「世の初めと終わりを今、ここに」ルカによる福音書 9: 28 ~ 36 神学生 太田好則


私は先日、3月 10 日に東京神学大学大学院博士課程前期課程を修了しました。家族の支え、クラスメ
イトの支えがあったことはもちろんですが、何よりも、送り出してくださった阿佐ヶ谷教会の皆さんの祈りがあったからこそ、ここまで進ませていただくことができました。祈りには大きな力があります。教会の皆さまには本当に感謝しています。神様の導きは、私たちには知ることができない、不思議なものです。それは、私が今この場に立っている、そのことが示しています。この出がらしのような私が、阿佐ヶ谷教会の主日礼拝で神様の御言葉の取次の役割を担うことになると、誰が想像したでしょうか。神様は、私たちの想像や知識を超えて奇跡を行われるのです。
東神大に入学してくる人たちはどんな人たちかといいますと、ひとつ大学を出てから、とか社会人としての生活を数年送ってから、という人が多いです。定年退職後、という人も少なからずいます。信仰歴としては、それほど長くなく、洗礼を受けて3年とか5~6年というかたが多いように思います。入学してすぐに気づくことは、クラスメイトたちが非常に信仰深いことです。よく祈るのです。実際、私自身も、彼らの祈りによってしばしば、支えられました。神学校で学んだことの一つは、すべてのことを祈りをもって行わなければ、何もうまくいかない、ということです。それどころか、祈りなしには物事がおかしな方向に進んでしまう、ということさえあります。それほどに祈りは大切なことなのです。
4つの福音書が描き出すイエス様のお姿は様々です。働くイエス様、子どもたちと親しく交わるイエス
様、奇跡を起こされるイエス様、御言葉を語るイエス様、さまざまなお姿を思い描くことができます。なかでもイエス様がゲッセマネで、父なる神に祈られる姿に、私たちは心打たれるものがあります。ルカによる福音書は、イエス様がゲッセマネの場面以外でもよく祈られたことを伝えています。
祈る時にはしばしば荒れ野に出かけたり、山に登ったりなさいました。今日の箇所も祈るために山に登られたのです。しかも3人の弟子だけを連れて行かれました。ペトロ、ヨハネ、ヤコブです。この3人だけを連れて行かれたことは他にもあります。会堂長ヤイロの娘を死から蘇らせるという奇跡を行われた時、それにゲッセマネの祈りの時です。いずれも非常に重要な場面です。でも弟子たちは、それが重要な時であるこ
とを、あまりよく理解していませんでした。
今日の聖書箇所の少し前、9章の 20 節では、「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『神からのメシアです。』」とあります。ペトロが答えたその言葉は正解です。しかしペトロは、どういう意味でイエス様がメシアなのか、よく解っていませんでした。22 節では、イエス様ご自身が苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっている、と予告しておられるのに、弟子たちは、それがどういう意味か解っていません。そうは言っても、弟子たちを「ダメだな~」と非難することもできません。ユダヤの伝統の中ではメシアが死ぬなんてことは考えられないことですし、死んだ人が3日目に復活するなどということは見たことも聞いたこともなかったのですから。
イエス様は3人を連れて山に登られます。山は神様との交わりの場としてとても大切な場所です。イエス様もしばしば山に登られました。旧約聖書から聖書全体を読んでいくと、神様はご自身を、山で現わされます。山は神様の啓示が現れる場所なのです。特に印象的な山がシナイ山です。イスラエルのリーダーであったモーセは、シナイ山に登って神の言葉を聞き、十戒という掟を授けられました。十戒はイスラエルの人々の信仰と生活の掟であり、十戒を守る限り、主なる神様はイスラエルの神であり、イスラエルは主なる神様の民である、という契約関係に入れられたわけです。この、シナイ山に登ったモーセが神様と出会って、律法、つまり掟を授けられたという出来事は、イスラエルの人々の「そもそも」といいましょうか、民の根っこのところであるといえるでしょう。出エジプト記 20 章で十戒が授けられます。その時の様子はどうだったのでしょうか。出エジプト記 20 章 18 節から少しお読みします。
民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。
民は見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」民は遠く離れて立ち、モーセだけが神のおられる密雲に近づいて行った。
雷鳴がとどろき、稲妻が光る中、神様は密雲、雲の中で、いわば雲を乗り物として降ってこられるので
す。そして 25 章で神様は幕屋、つまりテントで作った移動式の神殿を作るように命じられます。さらに 34章 29 節以下には、モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかった
が、モーセが呼びかけると、アロンと共同体の代表者は全員彼のもとに戻って来たので、モーセは彼
らに語った。その後、イスラエルの人々が皆、近づいて来たので、彼はシナイ山で主が彼に語られた
ことをことごとく彼らに命じた。と書いてあります。モーセがシナイ山で十戒の書かれた石の板を授けられた時、モーセの顔が光ったのです。モーセの顔が自ら光を放った、というよりは、神様の光を受けて、神様の光を反射して光ったのです。そしてイスラエルの人々全員はモーセのもとに集まり、彼が語る神様の命令を聞いたのでした。
再び今日の聖書箇所、ルカによる福音書9章に戻ります。イエス様は祈っておられます。祈りの力は大
変強いのです。祈りには大きなことを成し遂げる力があるのです。イエス様のお顔の様子が変わっていきます。マタイによる福音書はそのお顔が太陽のように輝いた、と記します。マルコによる福音書はこの世のどんな晒し職人もかなわないほど、その服が真っ白に輝いた、と伝えています。イエス様のお顔が、人間イエス様の顔かたちから、神様としてのイエス様のお顔に変わり、その服から、いえ、イエス様のお体から光が放たれているのです。その光は稲妻のように、いえ、稲妻の光は瞬間的ですが、連続的に、継続してあたりを、いえ、世界を照らす、まばゆいばかりの光がイエス様のお体から放たれているのです。これは外からの光を反射しているのではなく、神の栄光そのものがイエス様から出ているのです。それは、イエス様が成し遂げられようとしている十字架の死によって、イエス様が栄光をお受けになるからです。30 節「見ると」と訳されていますが、これは「見よ」と、読者に注意を促す言葉です。今、目の前で大変なことが起きているのです。しっかり見なければならないのです。なんと、あの、イスラエルの歴史の「そもそも」であるモーセと、数々の奇跡を行った、旧約聖書のスーパースターであり、しかもこの世の終わりに再び現れるとされているエリヤが、イエス様と話し合っているのです。モーセは律法を、エリヤは預言者を代表しますから、この二人で旧約聖書全体がここにある、といっても良いでしょう。モーセとエリヤは栄光に包まれて現れます。ただ彼らの光は反射光です。神様の光を受けて、神様の光を反射しているのです。この3人が会話していることだけでも素晴らしいことですが、私たちにはその会話のテーマまで知らされているのです。そのテーマは、イエス様が遂げることになる「最期」のことです。この「最期」という言葉は、元のギリシャ語では ἔξοδος という語です。基本的な意味は「道から離れること」です。イエス様の「死」ということを直接言うのを控えて「今まで
生活しておられた道から離れて、行ってしまわれる」と婉曲に表現した、という面もあるでしょう。でもルカによる福音書が伝えようとしていることは、それだけではありません。イエス様が十字架にかかって死なれる、それで終わりではない、と言っているのです。ἔξοδος…. ἔξοδος….、気がついたかたもあるでしょう。出エジプト記のことを英語で Exodus といいます。なんと、イエス様の死は「出エジプト」でもあるのです。イエス様の十字架の死は、私たちにとって、新しい「出エジプト」なのです。イエス様の死によって歴史が変わる。私たちは変えられる。ルカによる福音書はそう言いたいのです。
このような、重要な時に、弟子たちはどうしていたのでしょうか。32 節には(新共同訳は)ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。「眠いのに頑張って起きてたんだ。弟子たち、よくやったね。」という風に受け取れそうです。しかし新しい訳、(聖書協会共同訳は)ペトロと仲間は、眠りこけていたが、目を覚ますと、イエスの栄光と、一緒に立っている二人の人が見えた。としています。聖書の元の言葉を少し詳しく見ますと、どうやら弟子たちは眠っていたようです。そして気がつくとモーセとエリヤがイエス様と話していた、というのが実態のようです。あ~、こんな大事な時に眠りこけてしまう弟子たち。彼らは後のゲッセマネでのできごとの場面でも同じ失敗を重ねてしまいます。こんなに素晴らしい恵みに与っているのだけれども、イエス様のことがよく解っていないし、体も心も弱いのです。
挙句の果てに十字架を前にして、わが身可愛さに逃げ出してしまう。それはこの3人の弟子たちだけのことではありません。私たちもまた、大きな恵みに与っているのに、イエス様のことがよく解ってない、体も心も信仰も、弱いのです。
モーセとエリヤがイエス様から離れようとしたとき、ペトロが口をはさみます。
「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあな
たのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
仮小屋とは先ほどの天幕、テントで作った移動式の神殿です。世の初めを象徴するモーセと、世の終わ
りを象徴するエリヤと共にイエス様がここにおられる、これは素晴らしいことです。幸せなことです。ペトロはこの3人のために、それぞれ仮設の神殿を作りましょう、という提案をしているのです。世の初めと、世の終わりを、今、ここに留めておきたい、過去と、未来と、現在がここにある。この幸せを今、ここに握りしめていたい、そう願ったのかもしれません。あるいは、モーセの時代、仮設神殿は、イスラエルの民とともに 40 年間荒れ野を旅しました。神様は、イスラエルの人々の隊列の前に雲の柱、火の柱を立てて、イスラエルの民を導かれました。今、再びこの世を訪れたモーセとエリヤ、そしてイエス様にイスラエルの民を導いていただきたい、ペトロはそのように願ったのかもしれません。しかし、モーセとエリヤは雲に包まれて去っていきます。雲は神様の乗り物ですから、弟子たちは神様を見てしまうかもしれません。神様を見たものは死ぬと考えられていましたから、弟子たちはひどく恐れたのです。
すると天から直接、神様の声が聞こえます。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」マタイとマルコは「これは私の愛する子」としています。イエス様の洗礼の時も同じ言葉が聞こえた、と記されていますから、「これは私の愛する子」のほうで記憶しておられるかたも多いでしょう。しかしルカによる福音書のここは少し違います。「選ばれた者」と記しています。これは「前もって選んでおいた者」という意味です。神様は急に思い立ってイエス様を地上に遣わされたのではありません。あらかじめ、決めておられたのです。神様がお選びになった、それには目的があるはずです。イエス様が地上に来られた目的、それは「ご自分の民を罪から救う」ためです。イエス様は、ご自身には罪が全くないのに、この世の人の罪をすべて背負って、どんな極悪人よりも悪い罪人として十字架にかかってくださいました。それは、私の罪のためです。それはあなたの罪のためです。
モーセはシナイ山の頂で律法を授与されました。イエス様の場合はどうでしょう。天から聞こえる神様の声は、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」と言われます。聞く、という言葉は、「聞き従う」という意味です。聞くだけでなく、従うことを含んでいるのです。神様は「私の子、イエス・キリストに聞き従いなさい」と言っておられるのです。イエス様の言葉は聖書を通して読むことができます。それはルカによる福音書では6章の 17 節以下の平地の説教といわれる箇所や、マタイによる福音書では5章から7章にかけての山上の説教です。モーセが授与された律法に代わる、新しい律法、契約、それがイエス様の言葉そのものなのです。
ペトロは、世の初めを表すモーセと、世の終わりを表すエリヤにここに留まってほしいと願いましたが、それは叶いませんでした。いえ、叶うべきではないのです。今、ここから新しい時代が始まっているからです。
今や、律法も、預言も、イエス様が完成してくださる。モーセもエリヤも役割を終えたのです。イエス様の言葉を聞いて、イエス様と共に歩む、そういう新しい時代が来ているのです。
昨今、いわゆる宗教団体が取りざたされることがあります。宗教が人を縛ったり、人を脅したりするかのように捉えられているフシがあります。しかしイエス様が言われたように、真理は私たちを自由にします。イエス様の御言葉は私たちを解放するのです。そして私たちは自由に神様に仕えることができるのです。イエス様は「これをしないと滅ぼされる」とおっしゃったでしょうか。ただ「聖霊を冒涜する罪だけは赦されない」と仰いました。聖霊とは神の働きそのものですから、神様を否定する罪は赦されない、それだけです。私たちは、信ずることで救われます。他に条件はありません。2000年前にすべての人を救う、という神様の大プロジェクトが始まりました。大伝道命令です。伝道ね、それは牧師、伝道師ががんばればいいんじゃない、と思われるかもしれません。しかし、私たちプロテスタント教会は全信徒が祭司ですから、一人ひとりが伝道の業を担うように定められています。とはいえ、時にはその任務の重さに「神様、無茶ぶりするなぁ」と思うこともあるでしょう。しかし、神様は同時に、その任務を行う力をも授けてくださいます。その力が直接、神様から来ることは少ないかもしれません。でも、手伝ってくれる人、教えてくれる人、祈ってくれる仲間、という形で神様が人を遣わしてくださいます。大丈夫です。祈って待ちましょう。
教会の暦でいうと今、私たちは受難節の第4主日を迎えています。私たち自身の罪がどんなに大きく、
重いか、ということを改めて知り、嘆く時です。悔いて涙する時です。しかし、イエス様がその大きな、重い罪を担って十字架にかかって、私たちの罪を滅ぼしてくださったことをも覚えましょう。イエス様の十字架の死は、「死んだら終わり」ではないことを示してくださいました。イエス様の死は、私たちには新しい出エジプトなのです。どんなに苦しいときでも、私たちは打倒されたままではないのです。イエス様が手をとって立ち上がらせてくださる。イエス様が私たちを担って新たに歩ませてくださる。私たちは新しく出発することができるのです。この受難節の日々、いつもより少ししっかり聖書を読んで、そこに記されたイエス様の御言葉を味わいつつ、イエス様の御業に感謝しつつ、歩んでまいりましょう。