2023/03/12 「人を造り上げ、励まし、慰める言葉」コリントの信徒への手紙一 14:1-5 牧師古屋治雄



私たちは今朝も阿佐ヶ谷教会に集まってイエス・キリストの父なる神様、また私たちの父なる神様を
礼拝しています。二千年の教会の歴史が流れこの地上にはたくさんの教会が生まれました。自分の属し
ている教会以外にどういう教会があるか。時に私たちの中にそういう関心が湧いてくることがあります。
いろいろな教会の伝統にふれ、また学ぶことによって自分の教会生活の特色を再認識する積極的な姿勢
の現れと言えるでしょう。また、私たちは教会生活の中からいろいろな教会生活上の疑問が湧いてきて、
改めて教会生活の大事なところはどこか、そういう視点から他の教会のことに関心が生まれてくる場合
があります。いずれの場合でも、教会にとって何が重要なことであるかを考えることは必要なことでは
ないかと思います。
私たちが聖書から神様の御言葉を聞くことを中心において信仰生活を送るのは、主の教会に与えられ
てきた信仰の遺産を受け、担い継承し、それを後の人と時代に伝えていく役割を託されています。新約聖
書の御言葉はどれをとっても、その背景に教会の群れがあります。まったく個人的な文書はありません。
どれをとってもそこにイエス・キリストを信じて生きようとする信仰者の群れがあり、様々な違いがあ
るにも係わらず、教会の基本線は何か、そのことと取り組んでいる歴史が伝えられているのです。
私たちがコリント書を御言葉として聞くのは、教会の当時の現状を知り、そこでパウロが苦闘しなが
ら教会の基本線を示していることに目を留め、私たちがしっかりした信仰に拠って立ち、また阿佐ヶ谷
教会が主の栄光を現す教会となっていくためです。それはめいめいの信仰生活を吟味するためであり、
私たちが気づいていないイエス・キリストの恵み、聖霊の働きを新たに受けることに繋がっているので
す。
ペトロの第一の手紙の冒頭をみると、この聖書箇所はパウロとは違うペトロの名前によって書かれて
いる聖書ですが、主の教会に結ばれている者には「生き生きとした希望」が与えられている、と呼びかけ
られています。「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受
け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受
けるために、神の力により、信仰によって守られています」(Ⅰペトロ 1:3-5)、とも告げられており、私
たちの教会生活には確かな到達点、ゴールが用意されていることが呼びかけられています。私たちの教
会生活には確かなゴールが備えられていることは、初代教会から、そして二千年経った今地上に建てら
れているすべての主の名による教会に示されている神様の真理です。
パウロは各地に主の教会を新しく建て、それぞれの町の特色やそこの集まる人々がどういう特徴をも
っているか、知っていたと思われます。それぞれの教会宛の手紙にそのことが滲みでて、それぞれの現状
と課題に沿って主の教会を指導してきました。
コリント教会は、霊に燃える、霊的な賜物である異言を語ることが重要視されていた教会でした。そし
て一部の人々はそのことを誇りに思い、ある場合にはそれが行き過ぎて、他の人を見下すようなことが
あったようです。
これまでのところでもこの手紙の中で、教会に与えられている働きはすべて霊的な働きを受けて与え
られているものでそこに優劣があったりするわけではない、とパウロは指摘してきました。14 章からは
はっきりと教会の中で預言する賜物と異言を語る賜物とを比べて、「特に預言するための賜物を熱心に求
めなさい」(1 節)と、論点を明確にして語っています。しかしパウロはこの預言と異言の二つを単に対照
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的に比べて優劣をつけているのではありません。12 章の末部でもすでにパウロは預言と異言を対比して
語っていますが、この両者の賜物の違いを明確にしています。教会の中で自分の信仰を表明することと、
自分の信仰の表明が周りの人にとってどのように働くか、そこには違いがあり、その違いは、自分の周り
の人々にキリストの愛を示し、キリストの愛を共有しようとする思いをもっているかという点において
まったく異なってくるというのです。
度々ふれていますが、12 章 31 節では「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさ
い」と語り、それは、キリストの愛を受け、キリストの愛を周囲の人々に現すことだ、と語っています。
キリストの愛に生かされ、キリストの愛に本当に私たちが生きること、それが教会生活をしている者に
とって最も尊いことだと言っているのです。
そしてそのことにつづいて 14 章に入り「愛を追い求めなさい」とパウロは展開しています。13 章のつ
づきとしてその先を予想するならば、特に13章4節以下に語られているように、キリストがお示しく
ださった愛を実践する者となりなさい、との勧告が思い浮かぶかもしれません。しかし直接そうは言わ
れていないのです。「愛を追い求めなさい」とは、愛をすでに手中収めていないことを語っています。い
まだ完全に知ることができず、しかし「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることに
なる」(13:12)と言われている、その愛を追い求めるようにと勧められているのです。
そしてこの勧めに結びついて「特に預言するための賜物を熱心に追い求めなさい」とつづくのです。愛
を追い求めることが、対人関係で実践すべきことを挙げて語るのではなく、預言する賜物を求めること
へと話しを進めているのです。私たちがキリストからいただいている愛を大切にし、そこから自分の生
き方を組み立て直していこうとするとき、パウロは私たちに預言するための賜物を得てそれによって生
きなさいと言っているのです。人を愛する言葉は預言する言葉として神様は私たちに与えてくださって
いるというパウロの確信がここにみられるのです。
預言と区別して異言が教会で語られることをパウロが評価していないのではありません。それは異言
を語る人の素晴らしい霊的な神様を讃える表明ですが、その人と神様との関係に限定されてのことです。
もしも異言が解き明かされて他の人にも通じるならば、そこから愛の関係が生まれてきますが、そうで
なりならば、本人以外の人が神様を讃えることにはなりません。パウロは教会で交わされる言葉がキリ
ストの愛を指し示し、キリストの愛の発露となることを知っています。そういう言葉が教会の生きた言
葉であり、担うべき言葉なのです。
異言を語る人はその中に自己陶酔してしまう恐れがあります。自己陶酔状態にある人は自分がそのよ
うな状態になっていることを冷静に知ることがきません。キリストの愛が生きて働く教会は自分以外の
人がどういう人かを知る者とされます。そしてその関係は言葉によって繋がれます。教会には人を造り
上げ、励まし、慰める言葉が与えられています。キリストが生きて働いてくださり、聖霊を注いでくださっているからです。
「異言」と訳されている言葉は「舌」という言葉で示されています。異言が語られるとはどういう現象
であったのか。私たちは聖霊降臨日の出来事を思い起こすと良いと思います。ペンテコステの日、あの使徒言行録のペンテコステの出来事が教会の群れの中ではなくその人たちにとってどう見えたかが伝えられています。その人々にとっては弟子たちを中心にした世界中から集まったユダヤ人たちが朝から新しい酒によっていると見えたというのです。あの場面では不思議なことに皆が言葉は違っていても神様をほめたたえていることが分かったと伝えられていますので、それらの人々の間ではパウロがコリント教会内で問題にしている異言とは状況が違うように思えます。ペンテコステの出来事に二つの受け止め方が実際発生していたことが分かり、今日の 14 章の箇所でパウロが異言を大切な賜物と受けとめている一方で、異言よりも預言の賜物を重視していることに繋がってきます。
あのペンテコステの出来事に関連づけて語るならば、この出来事が一部の人が朝から酔って騒いでい
ると受けとめているエルサレムに集まった人々にペトロは極めて冷静に異言ではなく理解できる言葉に
よって呼びかけました。この語りかけはペトロによる教会が生まれたときの最初説教と言ってよいと思
いますが、まさに教会に与えられたイエス・キリストの救いを語る預言の言葉にほかなりません。事実このペトロの語りかけによって、当初酒に酔っている人々の集まりだと思っていた人々が大勢悔い改めへと導かれたのです。
パウロがコリント教会の人々の呼びかけていることはペトロが聖霊降臨日に語ったことを指してます。
預言というと何か特別な人が語る言葉と考えるかもしれません。しかしそうではないのです。預言する
ための賜物を熱心に求めなさいと、パウロはコリント教会のすべての人に呼びかけています。「預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます」(3節)私たちは普段なかなかこのように考えることができません。そもそも私たちが普段経験している言葉の生活が豊かとは言えず、言葉には本来力があることを経験することがすくなく、むしろ言葉に真実が込められてないこと、言葉によって傷つけ合っていることをたくさん経験している私たちです。
パウロが指し示す預言の言葉とは、イエス・キリストがご自身を捧げて現してくださった、神様の真実
であり、私たちを愛してくださった救いの出来事です。主の教会にはこの言葉が生きて働き、ここに集う私たちをすでに神様のこの真実の中に生きる者としてくださいました。
私たちはキリストに愛されていることを知っています。私たちがこの事実に立つ時、神様は私たちの
周囲にどのような人たちがいるか関心をもつように促してくださり、その人たちと共に神様の愛を受け
て生きる者にしてくださいます。言葉が人を生かすものであることを知らず、絶望している世界の中で
私たちは「愛によって造り上げられてゆ」(エフェソ4:16)き、人を「励まし、慰め」る言葉を神様から預かる者とされています。