2022/07/17「教会の中で覆い隠しておきたいこと」コリントの信徒への手紙一5:1~8牧師 古屋 治雄

コリントの信徒への手紙一5:1~8
牧師 古屋 治雄

◇今日の聖書は、牧師として避けて通りたい誘惑にさらされる。しかしこれは、コリント教会で起きている現実である。「父の妻をわがものとしている者がいる」。目を覆いたくなるような事実である。このことが、コリントを離れているパウロの耳に届く。パウロは黙ってはいられない。現代の教会においても、極めて稀ではあるが、金銭や家庭内のトラブルに教会として対応しなければならないことがある。それは、国や社会の法によってではなく、教会の視点で行われなければならない。

◇パウロは4章までで、教会の分裂の危機に対して、教会員はそれぞれ背景が異なっていようとも、キリストの十字架によって神の真理が示され、その福音によって捕えられている、その一点において皆、一緒であると語る。「わたしに倣う者になりなさい」と、パウロは父親のように、自己を誇り、高ぶることを戒める。高ぶりは、神を畏れる思いとは対極にある。神を畏れる思いは、隣人とどう生きていくか、神に喜ばれる生活とは何かに結びつく。

◇5章に至りパウロは、同じ視点に立ちつつ、さらに踏み込んで不品行の問題を取り上げる。9、11節で不品行の例を挙げ、そのような者とは交際を断て、共に食事もするなと教える。主を汚し、自らを汚し、傷つけ、教会を分断するような交わりを断て、と言っている。彼らのうちには福音による新しい生き方が根づいていない。この新しい生き方は、主によって回復され、成長させられなければならないのである。

◇不品行な人々についてパウロは、自らを裁判官の席に着かせてはいない。容認、黙認するのでもない。彼らを永遠に断罪せよとも言っていない。悲しみながら、「サタンに引き渡す。『霊が救われるためである』(5節)」と語る。それは彼らが永遠の滅びの中に放置されないためなのである。教会には確かに破れがある。しかし神様は私たちに懺悔、悔い改めの思いを起こさせてくださる。それによって救いが与えられる。そこに教会生活の希望がある。この希望を仰ぎつつ、主の御心を訪ね求めつつ、姿勢を正して歩んで行こう。