2022/07/10 「自分の子を諭す父親として」コリントの信徒への手紙一4:14~21 牧師 古屋治雄

コリントの信徒への手紙一4:14~21
牧師 古屋 治雄

◇コリント教会の土台を据えたパウロは、この教会の問題点を指摘し、勧告を与えなければならない。10節でパウロは、「わたしたちは愚か者、弱い、侮辱されている。あなたがたは賢い者、強い、尊敬されている。」と対比しており、関係が良くないことがわかる。5節で、「先走って裁くことはしない」と言いながら、パウロは黙っているわけにはいかない。

◇パウロは、14節から語り口を変える。父親として、コリント教会を愛する子として諭すのである。これは、私たちが経験するような、血縁関係に基づく父親の諭しの延長線上にはない。また、「~の生みの親」などという浅い比喩表現でもない。聖書には、父親が「生む」という表現が、特に系図などに多く出て来る。これは、神様の救いの歴史を担う役割を継承するという意味である。

◇15節でパウロは、父親と一万人の養育係を対比する。いかに多くの養育係がいようとも踏み込むことができない、父親に固有の領域がある。コリント教会を生んだ責任のゆえに、愛情を込めて「わたしに倣う者になりなさい。」と言うのである。この言葉は決してパウロを絶対化しているのではない。15節で「キリスト・イエスにあって、福音を通して、あなたがたを生んだのは、私なのです。(聖書協会共同訳)」と言っている。つまり、キリストに結ばれて生き、キリストに結ばれて教会に仕え、キリストに結ばれて使徒として働いている、そのことに倣いなさい、と言っているのである。

◇私たちの阿佐ヶ谷教会の100年の歴史においても、多くの先輩信徒、長老たち、教職の先生方から「キリスト・イエスにおいて、私はあなたがたを生んだ」と呼びかけられている。それはパウロからの、イエス様からの、父なる神さまからの呼びかけでもある。それによって教会の歴史が続けられる。教会生活をするということは、私たち一人ひとりが新たに生み出されるということと同時に、阿佐ヶ谷教会が、教会として生み出されることでもある。この呼びかけを受け止めて、これからの教会の歩みに皆で取り組んで行こう。