2024/03/17「信頼できる言葉を語る者がいるのか」 ヨハネによる福音書4:43〜54 牧師 古屋治雄

◇役人の息子の癒しの出来事は、ヨハネが伝える第2の奇跡である。イエス様は「あなたがたはしるしを見なければ信じない」と言われる。この父親は期待して、イエス様のもとに遠い道のりを来た。イエス様は「帰りなさい。息子は生きている。」と言われる。父親はその言葉を信じて帰る。息子に起こされる大きな業を確証するようなしるしを求めず、信じた。そしてイエス様の言葉どおりになったことを知る。イエス様は、私たちが神の生命に生きることができる、と宣言する神様なのである。 

◇私たちの信仰は、見える神、御神体などを拝まない。言葉で顕現される神を信仰する。その言葉は人間の言葉ではないから、伝える人、預言者が必要である。その言葉は真に神の言葉であるか、常に試されなければならない。招詞(イザヤ書55:11)にあるように神の言葉は出来事を起こすのである。ヨハネ福音書の冒頭にあるように、初めに言葉があり、その言葉が人としての肉体をとって私たちのもとに来てくださった。そのイエス様から神様の言葉を直接聞くことができるのである。 

◇これはユダヤ人の伝統にない、全く新しいことで、彼らにはつまずきとなる。神様は御子を、人としてこの世界に遣わし、その御子は私たちの言葉を神の子として聞いてくださる、そういう時代が到来したのである。ルカ4章でイエス様はイザヤ61章を引用して「この言葉は、今日、あなたがたが耳にした時実現した」と宣言される。私たちは、言葉の力に支えられて進むことができる。悲しみから立ち上がり、言葉の実現に励む者とされるのである。 

◇私たちを取り巻く現実は、気休めの言葉や、何も信頼することができない人であふれている。しかし、言葉を出来事にするイエス様は、信仰をもって言葉を受け取り、生きる者を起こされる。この父親は「信じて」帰って行った。現実の中で働かれるイエス様は、私たち一人ひとりを信頼する者にされるのである。欠けの多い私たちであっても、現実に向き合うように方向づけてくださるのである。