2024/02/18「渇くことのない水をください」ヨハネによる福音書4:1~15  牧師 古屋 治雄

◇私たちは今、神様の前に集う者とされ、イエス・キリストとの確かな出会いを与えられている。これは奇跡と言っても過言ではない。4章4節以下では、主イエスが一人の生(なま)の人間として登場されている。炎天下、喉をからして疲れ果て辿り着いたサマリアの井戸辺で、主イエスは一人の女性とめぐり逢うのであるが、当時は旧約時代からの歴史が関係する事情により、ユダヤ人はサマリア人との交流を避けていた。主イエスの一行が敢えてサマリアを通ったことには、重要な意味が込められているのである。このサマリアの女性にとって見知らぬユダヤ人の男性から声をかけられ対話へと導かれたことは、主イエスの、二重の常識破りの行動に拠るものであるが、今日の私たち一人ひとりに出会ってくださるお姿として受けとめることができる。主イエスがお語りになる「生ける水」と、井戸辺に現れた女性の考える「汲んで飲む水」との間には不一致があるが、しかしそのやり取りはズレを抱えながらも「生ける水」の力がこの女性の中に働き始め、やがて「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」(4:15)と、主イエスとの出会いを通して「生ける水」を求める者へと変えられていることがわかる。
◇「生ける水」に与ると、渇きが癒やされるどころか「その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」のだ。それどころかその人自身が泉と変えられ、神様の生ける水が湧き上がり、その人を通して周りの人々が神様の命に生きることができるように広がっていくのである。
◇この時代の中で、神様の命を生き得ていない現実が数多くある。しかし主は、それら一つひとつのところに神様の「生ける水」が注ぎ出されるように、私たちを用い給うのである。宣教第二世紀に導き入れられた私たちの阿佐ヶ谷教会を通しても、イエス様に数多くの人に出会ってもらいたい。そういう活動を私たちは担うのである。 (要約:金井 恭子)