2023/07/30「魂の救いとは?」マタイによる福音書10:28~31 ペトロの手紙一1:8~9 協力牧師 中野 実

◇「魂」という語は何を意味しているのだろうか。霊魂という考え方とも、先祖の霊とも異なる、ある複雑さをもった語のようである。Ⅰペトロは、魂の救いは信仰の目標であり、到達点であると語る。しかも、イエス・キリストを愛し信じている者は、それをすでに得ているというのである。

◇魂とはいったい何か。新約聖書のギリシア語ではプシュケーという語にあたる。例えばマタイ10:28を新共同訳では「魂」、聖書協会共同訳は「命」と訳した。これはある誤解を避けるためであろう。霊魂不滅を主張するギリシア思想では、体と魂を分離して考え、体を軽視しがちである。聖書はそうではない。使徒信条は「身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」と告白する。「身体」は私たちの存在の全体であり、それが神の御業により造りかえられる、そう私たちは信じる。体と魂は分離しない。魂とは、神と関わる人間存在の深みである。人格、実存、本当の私とも言えよう。

◇「魂」にあたる旧約聖書のヘブライ語は、ネフェシュという語である。「呼吸」とも「喉」とも訳せる。詩編42編は、「生ける神に私の魂は渇く」という。人間存在の深みにおける渇きである。しかしここにおいてこそ、神様とつながり、嘆き、渇き求め、そしてほめたたえることができるのである。Ⅰペトロは語る。私たちの魂においてすでに神様の救いが実現している。神様は私たちの現実のただ中に、私たちの存在の深みにまで来てくださっていると。私たちの罪との戦いはなお続く。私たちはなお、迷える羊のような存在である。しかしⅠペトロはこうも言う。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり監督者である方(イエス様)のもとへ立ち帰ったのです。(2:25)」私たちはすでにイエス様に導かれて、帰るべき家にたどり着くことができているのである。驚くべき神の恵みを覚えつつ、新しい週の歩みへと大胆に踏み出そう。