2023/06/25「砕けた心を捧げる」 詩編51:3~21青山学院大学名誉教授 大島 力 牧師


◇詩編は祈りの書である。その前半には、神様に向かって「いつまでですか」、「なぜですか」と繰り返す、嘆きの歌と呼ばれる詩が多く集められている。詩編は、2,500年以上の時を越えて、私たちの嘆きの言葉でもある。しかしこれらの嘆きの歌は、決して嘆きや訴えにとどまらない。詩人に不思議な変化が起き、賛美の歌へ、集会の中で歌われる歌へと変わるのである。

◇詩編51編は、拭う、洗う、といった動詞を重ねることで、自分の罪の問題を自力で解決できないことを、神様に嘆き、訴える。かつてルターは、「洗えば洗うほど、汚れる手」と言った。人間が努力しても自力では罪の問題は解決しない。神様の憐みによって解決されるほかにない。神様に頼るしかない。その事実を詩人は、「罪は絶えず私の前に」、「過ちの内に生まれ」と、徹底的に告白する。そして12節以下で創造という神様の御業を自分に起こし、混沌や闇から引き揚げてください、と願うのである。

◇17節でこの詩は大きく変化する。当時の常識であった動物犠牲をこの詩は突破するのである。「砕かれ悔いる心をあなたは侮りません」という言葉は、新約への道を大きく開いている。この詩人は預言者へと変化するのである。人間のなすべきことは、犠牲を捧げることから礼拝へと変えられた。「牡牛1,000頭よりも悲嘆にくれた心」という言葉がある。人に言えない秘密や醜さを神様の前にさらけ出すとき、神様に会うことができる。神様に受け入れられる捧げものは、こうした砕けた心なのである。

◇イエス様は、神殿で祈る二人の祈り、ファリサイ派の祈りと、徴税人の「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」という叫びを対置して、聞き届けられたのは徴税人の叫びだと言われる(ルカ18:9-14)。こうした叫びは恵みにより喜びの賛美へと変えられる。私たちは、その喜びを告げ知らせる者とされる。それが信仰者の姿である。 (要約:太田好則)