2022/11/13 「神様が遠くにしか見えないとき」コリントの信徒への手紙一10:14~22 牧師 古屋 治雄


牧師 古屋 治雄

◇8章でパウロは、偶像に捧げられたかもしれない市場で出回っている肉を食べてもよいのかという質問について答えている。このことから信仰による自由に話を集中させて続けている。

◇14節で、パウロは「偶像礼拝を避けなさい」と注意を喚起している。コリント教会の中に、他宗教の神殿での食事に参加する者がいたことが想定されたからである。信仰によって自由を得ているのだから、そのような儀礼に加わることに問題はないと考えたのかもしれない。しかし、私たちが礼拝の中で宗教的な意味をもった食事として拠りどころにすることは、キリストの血とキリストの体に与ること、すなわち聖餐の恵みである(16節)。

◇偶像礼拝とそこでの宗教儀礼としての肉食は、自分たちの目的を叶えてもらうため、こちらから働きかけることに主眼がある。そこには、神様ではなく、神様から引き離そうとする悪霊のもくろみが潜んでいる。

◇パウロは、「わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話しています。わたしの言うことを自分で判断しなさい。わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」(10:15-16)と呼びかけている。

◇信仰に自信をもち、神様をはっきり知っていると思っていても、実は神様との距離が離れてしまっていることがよくある。パウロは出エジプトを経験し、約束の地を目指した旧約の民が神様としっかり結ばれているようであってもそこに誘惑や試練が入り込み、近くにいてくださっているようで実は神様が近くにおられず、遠くにしかおられない不安に包まれたことをコリント教会の人々に話した。

◇パウロはここで私たちがイエス・キリストの血とキリストの体に与る者とされている、境遇がさまざまに異なる人々がイエス・キリストに結ばれていると語る。キリストの救いを体感できる恵み、それが聖餐の恵みに与ることである。私たちはこの聖餐によって現に一つとされている。この恵みに感謝して、今週の歩みに向かおう。