2022/08/07 「仲裁に導く者がいないのか」コリントの信徒への手紙一6:1~11 牧師古屋治雄

コリントの信徒への手紙一6:1~11

牧師 古屋 治雄

◇コリント教会の人々は町の中では小さな群れだった。その後の歴史において、教会の力が社会全体に及び、世界に対して神様が正しい裁きを発揮されることが福音として知らされていた。

◇しかし、コリントの信徒への手紙が書かれた当時、福音に生かされているはずの教会信者が、福音を知らず福音に生かされていない者のように、不道徳な問題を引き起こしていた。さらに群れの仲間同士の中で争いがおこり、それが裁判沙汰にまで拡大している。このことは一般社会では問題にならないが、教会内ではそう考えない。自分の利益を守るために訴えることが起こる教会はもう崩壊状態と言わざるをえない。5章に続き、6章でもパウロは彼らの自己中心的な行動を取りあげ、コリント教会の覆い隠すことのできない「膿」の部分をはっきり語っている。

◇パウロから糺されているコリント教会の人々のみならず、主の教会に結ばれているすべてのキリスト者は日々主イエスの名によって受けた洗礼に立ち返ることができる。それはイエス・キリストが、新しい福音に生きる時代を到来させてくださり、私たちをその中に生きる者とされたからである。

◇教会内の争い事をこの世の裁判官に委ねるようなことは、イエス・キリストによって示された神様の御支配を、あたかもなかったことのようにしてしまうことである。私たちは信仰を与えられた者として、積極的にこの世の人々を主イエスが成し遂げてくださった仲裁、和解へと導く者とされている。私たちは神様から赦された者であることを知っているゆえに、未だ神様の赦しを知らない人々にその福音を宣べ伝える者とされている。

◇パウロはこの手紙の冒頭で私たちの教会生活は終わりのない日々がずっと続くものではなく、キリストが再び来られる日までであることを語っている。キリストが私たちの信仰生活を確かなゴールへと引き揚げてくださる。そのことを信じて待ちつつ、信仰生活を感謝と畏れをもって歩んでいく者となろう。