2022/01/23 「返すべきところはどこか」マルコによる福音書12:13~17 副牧師 上田充香子

マルコによる福音書12:13~17
副牧師 上田充香子

◇主イエスを十字架へと追いやろうとする、陰湿な策略が渦巻いている箇所である。普段は一致するはずのない二つの党派が同じ、主イエスという敵を前に一致して、主イエスを陥れるために問う。「皇帝に税金を払うべきか否か。」どちらでも答えても陥れる準備をして、ファリサイ派も、ヘロデ派も近づいてきた。しかし、そのような策略を主イエスは知っておられ、デナリオン銀貨の肖像と銘を問うことで回避された。主イエスはこの問答を通して、普段律法を守って生活している者たちに、「本当に神を愛しているのか。愛しているのは律法を守って生きている自分ではないのか」と問うておられるのである。

◇この問いは私たちにも通じるのではないだろうか。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(17節)と言われたイエス様は何を伝えようとされているのか。「神のもの」とは一体何なのだろうか。人はどのように、これは自分のもの、これは人のもの、これは神のものと判断しているのだろうか。人は自分のものと思っているものが自分からは離れること(取り上げられること)で不満や不安を抱く。しかしこの世界は、私たち人間を創造された主のものである。創世記で人間を創造された時、神に似た者として造られた人間は、銀貨に皇帝の肖像と銘が記されているように、私たちひとりひとりにも神様の肖像が刻印されており、神様が支配してくださっているのである。

◇「神に返す」とは、自分が自分のものではなく、神様のものであることを認めることから始まる。自分の家族も神様のものであり、学校も社会も国も、神様のものである。教会もまた、神様のものである。私たちは、自分が握りしめていると思っているものをすべて神様にお返し出来るはずである。なぜなら、誰よりも率先して自分の命を神様にお返しした、主イエス・キリストを知っているからである。この主イエスの歩みを知らされている私たちは、主のものとして、イエス様に倣って生きることが出来る。皇帝は時代と共に変化するが、神様は永遠に変わることなく、支配し続けてくださる。