2024/03/31「あなたがたに平和があるように」 ヨハネによる福音書20:19〜23 牧師 古屋 治雄

◇イエスさまの十字架の死と復活は私たちの信仰の核心部分である。私たちはこの出来事を見つめなければならない。けれども、イエス様の十字架の一連の出来事は神秘ともいえる出来事であって、私達人間の知恵をはるかに超えた、もっとも分かりにくい出来事でもある。ゲツセマネの祈りと言われる個所もその一つである。 

◇このゲツセマネの夜において、イエス様は間違いなく死を恐れて、深く悲しみ、死ぬほどだった。けれども、イエス様のこの悲しみ、苦しみは、自分の死の恐れによるだけではなく、自分の罪に泣くほかない私たちの代わりに、人間の罪のゆえに、神様に見捨てられ、神様の裁きを免れることができないことに、深く悲しみ、死ぬほど苦しんでおられるのである。イエス様がうつぶせになったのは、私たちの罪を背負わされたからである。私たちが飲むべき神の裁きであるこの杯を、神のみ子イエス様がこのゲツセマネで、代わって飲んでくださったのである。 

◇十字架の出来事は、このゲツセマネの夜、イエス様が「うつぶせになり」、倒れてしまったその瞬間に始まった。イエスさまはすべての人の罪の重荷と、神の怒りを背負わされ、「この瞬間に、イエス・キリストの陰府降下が起こったのだ。イエス・キリストは、『この私は死ななくてもよいように、地獄を通り抜けられたのだ』」(カルヴァン)。 

◇このゲツセマネの出来事によって、死の意味が変わった。私たち罪人の死は、神様に裁かれ、神様に捨てられる永遠の死、絶望から、イエス・キリストの復活の命に与るものになった。 

◇私たちはイエス様が苦しみ悶えたその御姿を見つめるだけでなく、イエス様が神様の御心に従って、十字架の死へと赴かれ、その歩みを全うされ、私たちに救いをもたらしてくださった、このことを見つめなければならない。主の受難を覚えて、救いの恵みをしっかり握りしめ、主が歩まれた道を歩む者として、歩み続けよう。