2024/01/14「御子を信じる者は裁かれない」ヨハネによる福音書3:16~21 牧師 古屋 治雄 

◇ヨハネ3:16の御言葉には、神様が私たちに呼びかけてくださっている聖書全体の言葉が凝縮されていると言ってよいだろう。冒頭の1:1-18をみると、御子イエス・キリストがこの世界全体に来られたことが壮大なスケールで語られている。1:9-10における「言」というのは、神様のひとり子イエス・キリストを指す。神様は天地創造の時から御子を「言」としてお与えくださったが、その「言」である御子イエス・キリストを、この世が拒絶していることが指摘されている。これに対し3:16で「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と告げられている。「愛する」という、1章のプロローグでは語られていなかった新しい展開がここに始まっている。神様が御子をこの世にお与えくださったことによって、創造の初めから「世を愛された」と受け止めることができる。そして、世が御子を拒絶する前から、創造の初めから神様は世を愛され、ご自身にとっても喜びとされたことがわかる。 

◇ 「既に裁かれている」など強い口調で福音書の記者ヨハネが語っていることには理由がある。「私は神の愛を受けて生きる者とされている」との確信に立って生きるか、「私は神に裁かれて生きるほかない」と受けとめて生きるか、私たちにはこの二つの道しかないことを示している。しかし私たちは、もはやイエス様に結ばれているから、神様の裁きを恐れることは全く不要になる。私たちに開かれている道は、私たち一人ひとりのために十字架の死へと挙げられ甦ってくださった御子を信じて生きていくことである。ここに、神様の前に生きる私たちの喜びがあり、希望がある。教会はこの希望を知る群れとされた。阿佐ヶ谷教会も同様である。そして、100年の歴史を与えられ、次のステップへと神様によって励まされ押し出されている。神様の愛を伝える群れとして、私たちの役割が新たに示されているのだ。自らその愛に生き、その愛を伝える者として、新たに歩んでまいりたい。