2022/09/18「宗教上の食物規定は是か非か」コリントの信徒への手紙一8:1~6 牧師 古屋 治雄

コリントの信徒への手紙一8:1~6
牧師 古屋 治雄

ー聖霊降臨節第16主日礼拝ー

◇コリント教会の人々からパウロはいくつかの質問状を受け取っていた。その中に「偶像に供えられた肉」という質問もあった。当時いろいろな神殿で動物犠牲が捧げられ、そこで用いられた肉が市場を介して肉屋に出回り、多くの人がそれらを求めて肉食としていた。この肉食についての質問である。

◇コリント教会の中で「我々は皆、知識を持っている」(1節)と主張する人々がいた。彼らと対照的に、肉食について悩んでいた人々もいた。知識を持っていると自負している人々は、自分たちは肉食のことで悩むようなことはしない。どうしてこんなことで悩むのか、信仰者としておかしいのではないか、自分たちはそういう人とは違ってしっかりとした信仰の知識を身に付けている、と主張していた。

◇イエス・キリストを信じる信仰の原点からすると、「知識をもっている」人々の主張は間違った主張ではない。しかし、1節後半に「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」とパウロは語っている。ここがパウロのこの問題に対する着眼点である。

◇「『わたしには、すべてのことが許されている』しかし、すべてのことが益になるわけではない」(6:12)とパウロは言う。許されているから何をしても良いわけではない。正しいことは、声を大にして言うべきだとならないことを知るべきである。許されているからといって自らを傷つけたり、人を傷つけてしまうことがある。また正しい主張をすることで他者を裁いてしまう場合があることを私たちは気づかなければならない。

◇パウロは偶像に供えられたかもしれない肉を食べることで悩んでいる人々のことを気にかけている。それは単なる一部の人に対する配慮や優しさを示すことに止まらず、「そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます」(11節)とパウロは判断している。

◇コリント教会に限らず主の教会には、主に招かれてこれまでの生活やいろいろなしがらみを背負って教会に来始めている人もいる。私たちにはキリストによって自由が与えられている。しかしその自由を、あえて他者のために制限することのできる「自由」とすることをパウロは身をもって私たちに示している。