阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2006年12月)   
2006.12.31 <歳末礼拝>

「慰めよ」

イザヤ書40:1~11
伝道師 堀江綾子


◇わたしたちはなぜ教会に来るのか?それは教会にこそ、まことの慰めがあると信じているからである

◇「慰めよ、私の民を慰めよ」と神は天使に命じる。慰められるべき「私の民」とはどのような人々か?それは心に染み入るように語らなければならないほど、心がかたくなになっている人々。バビロン捕囚によって故郷において堅く信じていた神との関係が崩れてしまった人々。礼拝を捧げていた神殿は壊され、他 の宗教が盛んな異国の地で神を見失い、信仰を失っていた人々である。

◇そのような人々に、今や苦役は満ちた、と天使が語りかける。その苦しみから解放されるときが来、頑なになるほどに心を縛り付けていた鎖が今や解き放たれるのだと。もちろんイスラエルの人々が過ちを犯したことは事実である。神を王とせずこの世の王に信頼を寄せていた。あるいは他の神々を礼拝していた。 そのような問題を抱えた人々に対して、もはやそれらの咎は償われたと宣言する。それは何か悪いところを改善したから救われたのではなくどのような状況にあろうとも、主の自由な恵みの選びにおいてあなたは救われたのだ!と宣言されるのである。

◇この救いの宣言を天使は預言者に伝え、預言者が人々に伝えるように命じている。しかし預言者はこの救いの宣言を自分には語れないと、その命令を拒んでいる。なぜなら肉なるものはみな草に等しいことを知っていたからであり、人間のはかなさ、あるいは国家と言うものの不安定さを知っていたからである。「 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたのだ」と語っているように主の息が吹きかけるならば、つまり神様が怒りを発せられるならば、罪深い人間は滅ぼされてしまう。今や神のその裁きの中にあるのに、なぜ救いの宣言などできるのか、と嘆いているのである。ある意味この預言者は事実を語っている。人々は戦争に負け捕虜 とされた、これは神の裁きであった。しかしこの預言者は知らなかった。神は徹底的に裁かれるお方であるけれども、同時に徹底的に救いをもたらすお方であることを。

◇「草は枯れ、花はしぼむ」天使も確かに人間は神の裁きに対して無力であり滅びてしまう者であることを認めている。しかし、同時に神より発せられる救いの御言葉が必ず実現するものであることをも伝えている。あらゆる人間の現実、否定の言葉、あるいは耳障りのよい言葉、それらよりも前に、唯一の神の言葉 が先行するのである。未来からその救いが来る、わたしたちの前を行く神の言葉こそ、今なお砂漠に生きる人々の最終的な支えなのである。

◇慰めとは何か、それは他の何ものでもない神のみ言葉が、私たちの前に立つことである。私たちの心に神のみ言葉が立つ。それは私たちが神様のみ名を呼ぶとき、つまり神を礼拝するときにこそ実現することである。神様に名を呼ばれ、私たちも神様の名を呼ぶ、この神様との正しい関係が結ばれるときにこそ神の 栄光があらわされる。

◇1月1日礼拝を持って始まったこの1年、礼拝をもって終わろうとしている。主の名を呼ぶ礼拝を通して慰められ歩み通したこの1年は祝福に満ちたものであった。
 

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2006.12.24 <降誕祭礼拝>

「闇に輝く光」

ヨハネ福音書1:1~18
牧師 大村 栄


◇クリスマスは「闇に輝く光」を仰ぐ季節。「闇があるから光がある」と言ったのは「蟹工船」を書いたプロレタリア作家小林多喜二(1903ー33)。少年時代には教会の日曜学校に通ったが、非合法地下活動によって特高に逮捕され、警察署内で凄惨な拷問を受けて殺された。母小林セキはその後信仰の道に歩むようになり、葬儀は教会でなされた。三浦綾子さんがそのことを『母』という小説に書いた。

◇似たような状況を生きて死んだ人に、大杉栄(1885-1923)がいる。17歳の時に海老名弾正牧師から洗礼を受けたが、日露開戦以後の時代の流れに呑み込まれる教会に失望して去っていく。その際彼はヨハネ1:1「初めに言があった」をもじって「初めに行為ありき」と言った。「言」を、暗い時代の流れに抵抗できない無力なキリスト教的思想と取ったのだろうか。その結果彼も憲兵隊に逮捕されて殺害された。大杉栄も小林多喜二も、その生と死は日本の暗黒の時代を代表する出来事だった。彼らが一度は接近した当時の教会とキリスト教が、彼らの問題意識に応じることが出来なかったのは残念だ。

◇「言ありき」では駄目だと大杉は言ったが、「言(ロゴス)」とは、単なるキリスト教的思想や神学ではない。何も媒介のないところから「光あれ」と天地を創造し、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と、命を育む神の創造の力である。そして「4:言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」。神の力にこそ命があり光がある。すべてを呑み尽くすこの世の罪の闇も、ただひとつ神の命の光には勝つことが出来ない。「5:光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。前の口語訳聖書では「やみはこれに勝たなかった」。

◇そしてこの暗闇に勝つ光のしるしとして、神はみ子を世に遣わされた。「9:その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」、これがヨハネ福音書の告げるキリスト降誕の意味である。さらに「14:言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」、これがクリスマスの出来事の意味である。この神が人となりたもうた事実の中に光がある。ここにしか世をおおう闇の支配に勝つ光はない。

◇今年2006年も闇を思わせる暗い出来事がたくさんあった。預言者イザヤの活動した紀元前8世紀後半も暗い時代だった。しかしイザヤはそこに、無から有を生み出す神の言葉による希望を語った。それが救世主メシア到来の預言だった。イザヤ書9:1「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。そして5節「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」。その預言の実現としてのクリスマスを今年も迎えたのだ。

◇教会に託されている神の言葉。ここにこそすべての人を照らすまことの希望と光があることを確信して、それを告げる福音に生きよう。「初めに言ありき、言なるキリストありき、キリストの光ありき、キリストを賜うた神の愛の勝利ありき」。

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2006.12.17 <待降節第四主日礼拝>
「もう一つの受胎告知」
ルカ福音書1:5-25
牧師 大村 栄

 


◇祭司ザカリアが生涯に一度の機会を得て香をたくために聖所に入った時、主の天使が現れて言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」(1:13)。高齢の夫妻には子供がなかった。「願い」は原語では「祈り」。彼らが「子供を下さい」と祈ったとは書いていない。日々の生活そのものが祈りだったのだろう。そのような祈りも必ず顧みられる。

◇生まれてくる子には特別な力が神から授けられると天使は言う。それは「16:イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせ」、「17:準備のできた民を主のために用意する」ということ。後に3章でヨハネは荒れ野で叫ぶ預言者として登場し、ユダヤ人の選民意識を批判し、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(3:3)。「洗礼(バプテスマ)」は新しい世界に足を踏み入れることではなく、「主のもとに立ち帰らせ」、神に造られた本来の自分を取り戻させることである。

◇しかしヨハネは「7:洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆」を「蝮(まむし)の子らよ」と激しく批判し、彼らにバプテスマを授けない。それは彼らが「罪の赦し」を得て天国へのキップを手に入れるという「御利益」を求めてやって来たに過ぎないと見抜いたからだ。だが「15:メシアを待ち望んでいた民衆」に対しては「16:わたしはあなたたちに水で洗礼を授ける」と言う。メシアを待ち望む「民衆(ラオス)」と、単に御利益を求める「群衆(オクロス)」とが明確に区別されている。

◇先週は主イエスが故郷ナザレの会堂でイザヤ書の告げるメシア預言を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言された箇所(ルカ4:16以下)を読んだ。ナザレのイエスこそがメシアであり、旧約聖書が語る「ヨベルの年」の解放の宣言はこの方において実現した。自分が罪に束縛されている状態であることを自覚し、ここから「メシア」によって解放される必要があると確信する人々、それが「民衆(ラオス)」である。「群衆(オクロス)」は、自分の状態を変えようとせず、現在の状態を補強し、このままで天国へ行けることを望む。その違いを覚えたい。

◇その受胎告知においてザカリアに、この子は「準備のできた民を主のために用意する」ために生まれると予告された洗礼者ヨハネは、悔い改めてメシアを待つ「民衆」を起こすために用いられ、やがてその務めを終えた。「主の道を整え」(3:4)、主が来られると指し示して聖書の舞台から退場する。そして今、このヨハネの「準備のできた民を主のために備える」務めは教会に託されている。「民衆」Laosは Layman(「信徒」)の語源だ。そういう民を起こすために遣わされたヨハネの働きにもう一度目をとめ、私たち自身が主のために「準備のできた民」となってクリスマスに備えたい。



                                    
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2006.12.10<待降節三主日礼拝>

「神の言葉、解放の宣言」

民数記26:8-17   ルカ福音書4:14-21
牧師 大村 栄


◇主イエスはある安息日に故郷ナザレの会堂(シナゴーグ)で礼拝に出席し、聖書朗読を担当された。与えられた聖書箇所はイザヤ書だった。「主がわたしに油を注がれた」(18節)の「油注ぎ」は王や預言者を任命する儀式だが、ここでは「メシア=救世主」の選びと派遣を意味する。大国の圧政に嘆き苦しむイスラエルの民は、救世主を待ち望んでいた。イエスはそのメシア預言を成就する者として来られたのではないか。この日会堂に集まった人々は期待してイエスの聖書朗読を聞き注目した。読み終えた主イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)と言われた。つまりほかならぬご自分が「油注がれた」、メシア救世主として来たのだと宣言されたのだ。この瞬間、会堂内がどよめいたことだろう。

◇しかし人々はメシア到来の意味を充分理解していない。イザヤ書の解放の預言を彼らは、ローマの圧政に「圧迫されている人」(18節)という風に、自分たちを被害者とし、この圧迫からの解放がメシアによって行われると期待しただろうが、主イエスの読んだイザヤ書でもっと大事なのは、「主の恵みの年を告げる」(19節)という部分。この「恵みの年」は「ヨベルの年」(Jubilee)と呼ばれる。

◇レビ記25章にそれについて記されている。「あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この50年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それがヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る」(9-10節)。自分の土地を売らねばならなかった人々にそれを無償で取り戻す権利を与え、奴隷として売られていった人々に無条件に家に帰る権利を与える。50年に一度、ヨベル(角笛)の響きと共に、原点に帰ろうという画期的な考え方である。あまりに画期的で実行された記録は見られないが、これは「人も土地もすべては神のもの」という信仰から発している。

◇「私の持ち物全ては私のものではない。いつか神にお返さなければならない。すべては神のものだから」。「私の仕える主人は絶対ではない。いつかここから解放される。私の主人は神のみだから」。預言者イザヤは語った。「まことのメシアが来られる時、ヨベルの年が到来し、解放が実現されるのだ」。人々はその日を待っていた。そして主イエス・キリストは言われた、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。

◇私たちはキリストによって解放された。もはや誰の奴隷でもない。罪の奴隷、死の奴隷でもない。全てから解放されたのだ。全てが解放されたからには、私たちが持っているものも、もはや「私のもの」とは主張できない。私たちの悩みの原因はとかく「私有物」に執着するところにある。ヨベルの角笛は吹かれた。私たちの持ち物、私たちの人生さえも、それらはもはや私たち自身のものではない、主のものである。もう全てを神にお委ねしていいのだ。



                                    
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2006.12.3<待降節第二主日礼拝>

「夜は更け、日は近づいた」

 ルカ福音書21:25-36
 牧師 大村 栄

 

◇ルカ福音書21:5-38は「小黙示録」と呼ばれ、世の終わりに起こる出来事が語られている。ローマ軍によるエルサレム神殿の崩壊(紀元70年)を目にした人々の絶望感が背景にある。終わりの時には様々な天変地異が起こり、「26:恐ろしさのあまり気を失う」ほどだと言う。いま私たちの周囲には地球温暖化による異常気象が見られ、「恐ろしさのあまり気を失う」ような事件・事故も頻発している。

◇しかし聖書は、だから逃げろ、身を隠せとは言わず、「28:身を起こして頭を上げなさい」と、その日をしっかりと迎えよと命じる。なぜならその日は、「27:人の子(キリスト)が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」日であり、「28:あなたがたの解放の時」、希望の日だからだ。たとえ最悪の事態に陥っても、さらにその先に救いが来ると主の言葉は約束する。「33:天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。アドヴェントはこの主の言葉を信じて待つ時である。

◇天使ガブリエルから受胎告知を受けた処女マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(1:38)と、この重大な出来事に素直に身を委ねた。マリアはすぐに親類のエリサベトを訪ねると彼女はマリアに、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(1:45)と語る。二人の女性の誠実さと対照的なのがエリサベトの夫ザカリア。彼は天使からヨハネの誕生を予告されたとき、高齢の自分たちにはあり得ないと信じなかった。すると天使に口を利けなくされる。「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」(1:20)。

◇「時が来れば実現するわたし(神)の言葉」を信じて待つことが、待降節・アドヴェントのテーマである。待ち続ける時間のあまりに長いのを感じざるを得ない。しかし、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(?ペトロ3:8)。

◇讃美歌21の243の詩「闇は深まり夜明けは近し。あけの明星輝くを見よ。夜ごとに嘆き、悲しむ者に、よろこびを告ぐる朝は近し」を書いたドイツの作家J・クレッパー(1903-42)はユダヤ人女性と結婚した。ナチスによるユダヤ人迫害が激しくなり逃亡できないと判断した時、彼は日記にこう書いて家族三人でガス自殺をした。「私たちはこれから死ぬ-ああ、このことも神のみむねの中にある。この最後の時、キリストの祝福する像が私たちの頭上に立っている。そのまなざしの中で私たちの生は終わるのだ」。「このこと」とは自殺のことだろう。この犯すべからざる罪を犯さずにおれない人間の弱さという闇の中にも光は来ると彼は信じた。

◇「夜ごとに嘆き悲しむ者に、喜びを告ぐる朝は近し」。たとえ天地は滅びても、喜びの到来を告げる主の言葉は「決して滅びない」。「28:あなたがたの解放の時が近い」との約束を信じよう。「信じて待つアドヴェント」は信仰者の生涯そのものだ。



                                    
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