阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (200611月)   

2006.11.26 待降節第一主日礼拝>

 

「現実の彼方に」    

創世記18:1~15  ローマ書9:6~12,18

牧師 大村 栄

◇アブラハムは神から「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福」(12:2)すると言われたが、子供がなかった。家令に家督を継がせようとするが、神は「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(15:4)と言い、子孫を空の星のようにすると言われる。しかしその後も生まれない。神による可能性を信じつつも、不可能としか思えない現実にたじろぐ。信仰者の苦悩である。妻のサラが焦りだし、女奴隷ハガルによってイシュマエルを生ませた(16:15)

◇しかしさらに神は言われる。「わたしは彼女(サラ)を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう」(17:16)。これを聞いたアブラハムはひそかに笑った(17:17)。100歳と90歳の自分たち夫婦にはありえない。ひれ伏していても心の中では「まさか」とあざわらっている。約束を信じてハランを出発した自分たちだが、現実の壁は分厚い。冷めた笑いを浮かべずにおれない。これに対して神は言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい」(17:19)。神の言葉は現実の壁を突き抜けて私たちに迫ってくる。神の皮肉とでも言いたくなるような命名である。18章では、アブラハムだけでなく妻のサラも冷めた笑いを浮かべる。

◇彼らの天幕を訪れた三人の旅人、それは主なる神だった。これを懇ろにもてなしたアブラハムに彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」(18:10)。天幕の入り口で聞いていたサラは、前章のアブラハムと同じように、「ひそかに笑った」。もう自分も夫も年を取りすぎている。あまりにも現実的でない、と彼女も冷めた笑いをしたのだ。私たちは現実の厳しさを前にしてたじろぎ、世界の混乱を見ては、神は一体何をしておられるのだろうと嘆く。

◇パウロは言う、「神の言葉は決して効力を失ったわけではありません」(ローマ9:6)。混乱の中にも、人間の知恵や工夫にも左右されず、神の人類救済計画は変更なく遂行される。「肉による子供(イシュマエル=人間の可能性)が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供(イサク=神の計画)が、子孫と見なされるのです」(9:8)

◇そして約束の通りイサクが生まれた時にサラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」(21:6)。「どうせむりだ」という冷笑を浮かべていたアブラハムとサラに、喜びの笑いが与えられた。信仰とはこのように現実の厳しさの前で、なおも「独り子をお与えになったほどに、世を愛された」神の愛と救いのご計画を信じていくこと。「神の愛なんて、約束なんて…」と現実との激しいズレを感じるような、それゆえに冷笑せずにおれないような時にこそ、なお信じ抜くこと。それが信仰に生きることである。

 

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2006.11.19 <降誕前第十二主日礼拝>

 

「モーセと神のつえ」

出エジプト記4:1~17

 牧師 大 村  栄

 

◇アドヴェントに先立つこの時期は「契約節」。終わりに完成があるとの神の約束を信じ、クリスマスをそのしるしと信じる信仰の季節だ。そういう約束に生きた人の一人がモーセである。

◇モーセはユダヤ人でありながらエジプトの王宮に育ち、やがて自分の出自を知って野にさまよう時、神の召しを受ける。彼はかたくなに固辞するが神は「わたしは必ずあなたと共にいる」と言って励まし、彼の杖をへびに変えてそのことのしるしとする。しかしさらに自分は言葉の人ではないと躊躇するモーセに神は怒りを発する。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか」(4:11)。自分を見るなら、自分を造られた神を見るべき。自分を否定する者は神を否定するのである。


18以下でモーセはついに重い腰を挙げ、うめき苦しむ同胞ヘブライ人を解放するためにエジプトへ出発する。そのとき「20:モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った」。これは神が「共にいる」という約束のしるしとした杖である。見たところはただの羊飼いの杖だが、これに象徴される神の約束は偉大だ。モーセはこの約束だけを頼りにして、すなわち神の言葉に服従して出発したのである。

◇契約節はそういう神の約束の言葉を信じて生きた人々を覚え、私たちも約束を信じる志を高める季節である。モーセより200年くらい後の士師ギデオンも覚えたい。彼は32,000人の兵をわずか300人に減らされるが勝利を得る。無から世界を創造された神の力がここに発揮されたのである。

◇この記事について今年で生誕100年になる神学者D・ボンヘッファーの語った言葉がある。「(神は)ギデオンよ、あなたと共にいる民はあまりにも多いと笑いたもう。神は…武装解除すなわち信仰を要求したもう。…ギデオンは信じ服従する。兵が一人一人彼のところを去っていくにつれて、彼を笑いたもう神に対する信仰が成長していく。そして軍隊がついにごくわずかな残りの者となっていったとき、勝利が彼の手に与えられたのだ」。ボンヘッファーはナチスに対する抵抗運動に加わった。1939年に米国に渡ったがすぐに帰国し、ヒトラー暗殺計画に参加して逮捕、39才で処刑される。彼に戦乱の祖国への帰国を決断させたのも神の言葉だった。(ローズンゲンの聖句・テモテ4:21「冬になる前にぜひ来てください」が彼の運命を変えた)。

◇モーセは杖だけを頼りに出発した。この杖にこめられる神の言葉と約束を信じ、それ以外のものを放棄して、人間的には何の保証も自信もないまま、家族をろばに乗せてエジプトへ出発した。主イエスも弟子たちを宣教に遣わすに当たって「杖一本のほか何も持つな」と言われた(マルコ6:8)。「武装解除すなわち信仰」を要求する神の招きに応えよう。


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2006.11.12<降誕前第十一主日礼拝>

 

「嘆きから希望へ」

 哀歌3:1-26
マルコ福音書10:46-52

 久山康彦 牧師


◇元東京神学大学の左近淑学長は、私がバークレーで奉職中に訪問して下さり日系アメリカ人教会の課題を語る中で「集団と個」の問題から事柄を見る切り口を示唆された。少数者がアメリカでどのような待遇を受け、その精神性が傷付けられたかは言うまでもない。戦時中の強制収容は日系人をセカンド・クラスの市民として位置づけ、その影響は現在まで続いている。しかし楽観的な「約束の地」のモデルを自分達にあてはめようとする人々に、警鐘をならす者もいる。アメリカの文豪スタインベックは、カインとアベルの物語をベースとした「エデンの東」の中で、人間の自己破滅的な罪の問題を取り上げているが、その希望をもたらす役割を中国人の召使いリーに語らせる。排斥され続けたカリフォルニアの中国人に預言者的な役割を与えているのだ。

◇米国の少数者の位置づけについて、「バベルの塔」以上に示唆的な物語はない。旧約学者ブルグマンは、散らし集める神が言葉を乱されたのは人間の傲慢に対する罰ではなく、相互に注意深く聴き合うためであるという理解を示した。私たちの違いがお互いの理解を深める恵みであるとすれば、私たちはどのようにして何処へ向かえばよいのか。これは単に日系人教会の問題ではない。各自がそれぞれの所に散らされ、自分の選ぶ事の出来ない状況の中で人々と暮らす以上、誰にとっても大切な問題となる。

◇この理解を進める上で哀歌は重大な示唆を与える。哀歌3章はバビロン捕囚前の悲劇的状況をリアルに伝えている。その現実があまりに過酷なので、詩人はその原因を自分達の神への離反におきながらも、嘆きをやめることが出来ない。現実を神に嘆かなければ発狂しそうな詩人はその中で極めて大胆な告白をしている。神はその過酷な裁きの中にあって、なお私たちの上から沈み込むように私達を包まれると詩人は感じ語る(20節)

◇叫ばなければ自分を維持できなかったのは、目の不自由なバルディマイも同様であった。彼は神に呪われ罰せられ視覚を失ったと言われ続けられた。しかし彼は、神が自分を呪うという事を受け容れられない。自分はなお愛される者だという確証こそが彼の求めているものだった。そして、主イエスは彼にその確証を与えられた。「見えるようになる」事はまさにその確証である。

◇アメリカの日系人のみならず、人はあまりに過酷な現実に出会うと、自己破滅に陥るか、しかたがないと妥協の道をさぐるのが普通である。しかし聖書は、私たちにその嘆きを共有する人々と「共に」嘆く事の大切さを語る。嘆きはつぶやきではない。嘆きは、現実の深淵の中で神との新たな関係をもたらす。そして嘆きは希望へと私たちを導く。自分だけ心地よくなる信仰は、他者と嘆くことをしない。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣き」(ローマ書12:15)、一緒に嘆く時に、私たちに御言葉のダイナミックな力があらわれる。

 


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2006.11.5<降誕前第十主日礼拝>

 

「原罪とその赦し」

 ローマ書5:12~21

 牧師 大村 栄

◇ローマ5:12「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」。この「一人の人」とは最初の人類アダムのこと。彼はエデンの園で神の命令に違反して禁断の果実を食べてしまう。その実は「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」(創世記3:6)。物欲と虚栄心、自己中心の権力欲など、人間の欲求をすべて満たすものに見えたのである。この「一人」の行為によって世に入った罪を「原罪」と言い、それに対する罰として人類に「死が入り込んだ」。今も禁断の果実に手を伸ばし続ける私たちに、世界を覆う罪と死の問題を克服することは出来ない。

◇しかし、「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです」(5:18)。ほかの「一人」イエス・キリストの「正しい行為」すなわち十字架の死によって、それを代償とする方法で、私たち人類に新しく生きる希望の道が開かれた。

◇「いまの人はみんな人間の命を食べて生きている。戦争で死んだ人の命をたべて生きている。戦争に反対して殺された人の命をたべて生きている。平気で命を食べている人がいる。苦しそうに命をたべている人もいる」(灰谷健次郎『兎の眼』より)。

◇キリストが十字架に捨てられた命を食べて私たちは生かされている。命を捨てた主に感謝し、み子を下さった神の愛に感謝するのが「聖餐」である。私たちはそこにいのちの原点を見出すのだが、その前提として、十字架で捧げられた命を食べてキリストによる「新しい命」を生きるためには、「キリストと共に死ぬ」ということが起こらなくてはならない。それが洗礼(バプテスマ)の行為である。バプテスマとは本来、水に沈むこと、地に葬られることを象徴している。すなわち洗礼とは死ぬことであり、新たに生きることである。

◇「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:4)。聖餐は洗礼を受けた人だけに限られているが、洗礼はすべての人に開かれている。クリスマスに新たな洗礼の決断が与えられることを心から願う。

◇「原罪とその赦し」という説教題だが、「許し」は「~してよい」、「赦し」は「~しないでよい」を表す。最初の人アダムの行為に象徴される罪によって、「罰としての死」を体験しなくてはならなくなった人間が、もう一人の人イエス・キリストの十字架の代償によってそれを体験しなくてもよくなり、むしろ「永遠の命への輝かしい出発」として死を迎えられるようになった。その「赦し」の恵みと神の愛に感謝をもって生きる者でありたい。

 


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