阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2006年10月)   
2006.10.29 <降誕前第九主日礼拝>

「苦難の意味を知る」

ヨブ記38:1-18
牧師 大 村  栄


◇「知恵文学」であるヨブ記の主題は、なぜ人は苦しまねばならないかということ。1章冒頭で富豪であるヨブをめぐって神とサタンが対話する。「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか」(1:9)。ヨブの信仰は豊かさの中でこそ維持されている、人間の信仰とは条件によって生ずるものだとサタンは主張し、これを否定する神と対立、両者は賭を行う。財産や家族を失ったときヨブは言った、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主のみ名はほめたたえられよ」(1:21)。

◇2章ではさらにサタンが神に挑戦する。確かに財産や家族を奪われても信仰を捨てなかったが、「皮には皮を、と申します」(2:4)。周辺でなくもっと奥を傷つければ必ず神を呪う者となるとのサタンの主張に、神はヨブ自身を傷つけることを許可する。ヨブは「素焼きのかけらで体中をかきむしる」ほどの病いに苦しむが、なおも「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(2:10)と言う。ここまでだけ読んでヨブ記を判断しようとするならば、自分はこんな立派な信仰は持てない、との感想で終わってしまう。しかしヨブ記の本当の価値はその先にある。

◇3章でヨブが重い口を開き「自分の生まれた日を呪って言った。わたしの生まれた日は消え失せよ」(3:1-3)。彼の苦悩と悲嘆の言葉がここから始まる。長い対話の中でヨブの友人たちが、苦難にはそれを受けるだけの理由があると主張する。人知れず犯している悪行を天は決して見逃さない。そういう古今東西にある勧善懲悪、因果応報の思想が友人たちの背景にある。ヨブはこれに反発し、自分の苦難の原因は神にあるのだ、「神はなぜ私をこのような目に合わせられるのか」と神に直接問いかけていく。私たちも発するこの問いに神は必ず答えて下さる。

◇しかしその答えは思いがけないものだった。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは」(38:2)。「経綸」とは神の意志や計画。口語訳聖書では「計りごと」、新改訳では「摂理」。お前はそれらを知らないのだと指摘され、それに続いて神は天地創造の手順やその秩序を述べ、それらをお前はどれほど知っているのかと迫る。人間は自力で世界を豊かに出来ると過信し、その中で起こる苦難や災難には、身勝手な理論や古来の言い伝え、迷信などで分かったようなつもりでいる。しかしヨブ記が告げるのは、実は私たちは何も知らない、知り得ないのだということである。

◇「暗黒の神秘が四方を囲むとも、わずかに澄み輝く奇跡が漏れ知らされることを知るだけで十分である」(ゴルディス)。その「奇跡」とは、独り子をお与えになったほどに世を愛された神の愛である。人は神の「経綸」を知らなくてもよい。大事なのは知ることより信じること。それも愛されていることを信じること、信じて委ねることである。神のみ前に静まる平安と、任せることができる恵みを思う。

 


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2006.10.22 <在天会員記念礼拝>

「天には大きな報いがある」

マタイ5:1~12
牧師 大 村  栄



◇「ガリラヤの風薫る丘で」(讃美歌21-57)で「2:イエスは口を開き、教えられた」。教会は「学習」の場ではないという人がいるが、主イエス「教え」た神の言葉を人は「学ぶ」べきであろう。「学ぶとは変わることである」とも言われる。キリストの教会は2000年にわたって神の言葉を教え続けてきた。変わることを恐れない者でありたい。

◇「3:心の貧しい人々は、幸いである」。ルカ版では「心の」がなくて「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6:20)。おそらくルカの方がイエスの言葉そのものであり、「心の」はマタイの追加だろうと言われる。「6:義に飢え渇く人々は、幸いである」も、ルカでは「今飢えている人々は幸いである」。

◇イエスの教えは常に具体的・直接的である。「善いサマリヤ人」の譬えでは、隣人愛とは何かを語ったあとで、「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:37)と言われた。貧しい人、飢えている人について評論するのでなく、自ら体を張って触れて行かれた。その方が、「心の貧しい人」という抽象的な表現より、「貧しい人は幸い」と具体的に語られたということは充分うなずける。

◇ただし「その人たちは慰められる」という救いの実現については、未来形で語られている。すなわちそれは「終末」における出来事である。いつかは分からないけれど、世の終わりに苦しんでいる人々は幸いを得ると言う。人生の総決算は目の黒いうちにつけなくても良いのだ。このことは、自力では克服できない絶望的、運命的な苦難に陥っている人々に希望を与える。今日は在天会員記念礼拝。天にある342名の信徒と14名の関係教職を覚える。それぞれの尊い生涯がありそれぞれの終わりがあった。どんな苦労の多い人生で、最後まで悲しいことだらけで、未完の望みだらけだったとしても、それでも「あなたがたは幸い」と言われうると聖書は告げる。

◇この「幸い」は、神と人との関係における概念、すなわち「祝福」を指す。終末に神の支配がすべてを覆い、私たち一人一人の人生の総決算が行われるその時に、私たちは地上のレベルを越えた神による真の幸い、祝福を得る道が与えられているのだ。

◇「貧しい人々」が幸いであるなら、私たちはその幸いを最後に得るために、具体的に貧しくならなければならないのだろうか。聖書の言う「貧しさ」とは、権力者や外敵に所有物を奪われ、不当に貧困に陥らされた状態のことを指す。現代のように福祉や社会保障の制度が全くなかった時代、そのような「貧しい」人々は、ただ神にすがるしかなかった。主イエスが「貧しい人々は幸い」と言われる時、それは経済的困窮とは別な次元で(それも含むが)、自分自身や所有物に依存せず、ひたすら神により頼む信頼を貫く人、そうするしかない人々に、神から最大の祝福が与えられると教えているのだ。

◇イエスの教えは頭で理解するのでなく、それによって変えられ、新たに生きるよう私たちを招く。


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2006.10.15 <全家族礼拝>

「神さまがつくられたこの世界」

創世記2:4b-9,15-25
 牧師 大 村  栄

 

◇「神さまがつくられたこの地球」(改訂こどもさんびか112、1節)は美しい。でも神さまが造られた最高のものは「この命」(同2節)だ。動物にも植物にも命があるけれど、神さまは私たち人間の命をいちばん最後に造り、ほかの生き物の命も守るようにと期待しておられる。「土の塵」に神さまが「命の息」を吹き込んで命が始まった。だから死ぬ時は息を全部吐ききって命がなくなり、体は土に帰る。

◇私には戦争中に中国大陸で幼くて病気で死んだ姉が二人いる。戦争が終わった時、両親は二人のお骨を日本に持ち帰り、山梨の先祖のお墓に入れた。その後両親は自分たちのお墓を建てたので、二人のお骨を移そうと掘り出しに行った。中学生くらいだった私も一緒に行ったが、木製の箱は腐ってなくなっており、中にあった骨も土になっていた。両親はそのあたりの土を壺に入れて帰った。私はその時、本当に人間は土に帰るんだと感じた。

◇人間は土で造った容れ物でしかない。しかし「わたしたちは…宝を土の器に納めています」(2コリント4:7)。この「土の器」に神さまの「命の息」という「宝」を納めている。命こそ宝。沖縄の言葉で「命(ぬち)どう宝」。沖縄では戦争で大勢の人が死んだ。戦争で死んだ人たちや私の姉たちの命も宝物だった。何より大切にしたい。しかしこの宝は私たちが造ったものではなく、神さまが吹き入れて下さった「息」だから、神さまが責任を持って下さる。2コリント4:7の後半「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないこと…」。死ぬことを「息を引き取る」と言うけれど、最後には神さまが私たちの宝物を引き取って下さる。だから安心して過ごしていける。

◇宝の命を生きる間、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(2:18)と神さまに言われて女の人が造られた。男女の問題ではなく、ほかの人と一緒に生きるということだ。初めは動物と一緒に生きることも考えられた。人間が支配することを許された(1:28)動物と暮らすのは楽だ。しかしアダムはどんな動物の中にも「自分に合う助ける者は見つけることができなかった」(2:20)。そこで神は彼を眠らせ、そのあばら骨からもう一人の人を造った。自分の一部みたいな相手だけど言う通りにはならない。でも常に一緒に生きてくれる。それが神さまが用意して下さった「自分に合う助ける者」、「骨の骨、肉の肉」、家族だ。今日は「全家族礼拝」。教会はそういう家族の集まりなのだ。

◇「二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(2:25)。裸とは自分の弱いところ、自信のないところ。そこを安心して見せ合い、理解し合うことが出来る。そういう相手が本当の「自分に合う助ける者」なのだろう。神さまはそういう人、人たち、そういう社会と世界、そして教会を、私たちのそばに置いて下さる。「神さまがつくられたものすべて、大切にします、いつまでも」(同3節)と歌おう。




                                    
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2006.10.8 <神学校日・伝道献身者奨励日>

「神を宣べ伝える」 

  使徒言行録17:16~29
 東京神学大学教授 大住雄一先生


◇パウロはローマ書で「主(キリスト)の名を呼び求める者はだれでも救われる」(10:13)と救いの本質を言う。しかし同時に「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう」(10:14)。「信じる」ことは「聞く」ことから始まる。「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」。さらには「(神から)遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」(10:15)。この神から出て神に帰るサイクルが伝道である。伝道者不足は深刻だが、独り子を賜うほどに世を愛された神が、私たちの救いのために伝道者をお立てにならないはずはないという希望もある。「収穫のために働き手を送ってくださるように」(9:39)と願う祈りでこれに参与しよう。

◇パウロのアレオパゴスにおける説教は、使徒言行録の頂点と言われる。これを通して「伝道とは何か」を知ることが出来る。伝道は神が私たちに自らを救い主として現して下さったということを告げ知らせる業である。神は私たちの救いのために独り子の十字架において犠牲を払って下さった。この独り子が神ご自身であることを示すのは、「死人からの復活」によってである。パウロはアレオパゴスで、「イエスと復活について福音を告げ知らせていた」(17:18)。イエスの復活を語ることと福音を告げ知らせるということは一体なのだ。

◇異なる文化の中で行う伝道は、相手の分かる言葉で行うべきとも言えようが、パウロはここで全く「値引き」をしなかった。復活は議論して説得する事柄はなく、事実として証言するしかない。パウロは値引きなしにそのまま語った途端に、アテネの人々からきつい拒絶反応を受けた。しかし彼はそれでも福音の本質である「復活」をそのまま語った。「神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」(ローマ書1:1)らしく。

◇「18:エピクロス派やストア派」が登場する。どちらもこの世に肉体を持って生きることは苦痛だという考え方をする。「エピクロス派」は快楽主義。「ストア派」は禁欲主義。どちらも肉体の問題に悩む哲学者。パウロの語る「復活」の福音は、肉体の悩みからの解放ではなく、新しい体を与えられるということだ。これは彼らに分からなかった、分かりたくなかっただろう。「復活」とは私たちの理解の及ばない出来事であり、理解して自分のものにできないもの、自分の都合のいいように使えないものである。だから私たちは理解を打ち砕かれ、生き方を打ち砕かれて、全く違うあり方を求められる。復活のキリストに出会うとはそういうことだ。

◇私たちはどういう言葉で伝道したらいいかと考える。工夫も必要だが、「イエスと復活について」証しする最後の言葉は、神が語られた通りに語り、神がなされた通りに証しするしかない。しかしそれはその言葉に出会った人を変える。私たちは神の言葉そのものによって救われたことを確信しよう。




                                    
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2006.10.01<世界宣教の日>

「その言葉は世界の果てに」

 詩編19編
 牧師 大村 栄

◇「すべて神の栄光を現すためにしなさい」(1コリント10:31)の教会標語を掲げて半年を過ごしてきたが、「神の栄光」とは何か。詩編19編は「2:天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」と、天地創造の御業に神の栄光を見る。そのような「自然における神の栄光」は目に見える神の言葉である。それは人間の言語の限界を超えて、「5:その響きは全地に、その言葉は世界の果て」にまで向かう。これが第一段階だとすれば、次は見えないけれど耳で聞き目で読むことのできる神の言葉、すなわち「律法」を語る。

◇「8:主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える」。続いて律法を、「定め、戒め、恐れ、裁き」と言い換え、それが「完全で、真実で、まっすぐで、清らか」だと告げる。第一段階で自然を通して「神の栄光」を拝し、それに導かれて第二段階で「神の言葉」に触れて真理に目を開かれ、人は第三段階へと導かれる。それは神の言葉への応答としての「祈り」である。祈りは、三人称で呼んでいた「主」なる神を、「あなた」と二人称で呼ぶようになることだ。

◇「12:あなたの僕はそれらのことを熟慮し、それらを守って大きな報いを受けます。…15:どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように」。かくして「天然」と「言葉」によって「祈り」へと導かれた人は、最後に「15:主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ」との第四段階「信仰告白」へと到達する。

◇「岩」は嵐や敵から身を隠す「隠れ場」(詩編46:2)。「贖い主」は、私たちが受けるべき罰を身代わりして私たちを解放する方。旧約聖書はこの方を預言し、キリストにおいてその預言は成就した。神の栄光の出来事とそれを言葉で伝える聖書。それらによって私たちは神からの呼びかけを受けて、祈りを口にする者となり、主のみ前にひざまずき、神の救いを心から求める礼拝者となるのである。こうやって信仰告白が生じるまでの「信仰のサイクル」こそが、「神の栄光」の御業である。このことの実現のために世界の教会は用いられる。

◇「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55:10-11)。

◇世界に「神の栄光を現すために」、いのち与えられたすべての人々に言葉を超えた神の語りかけが届き、一人一人の魂を潤し、芽を出させ、生い茂らせることができるように。「神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:3)とのみ声が一人一人に実現するように。そのために福音を語り、福音を生きる世界のすべての教会と共に、そこに集うすべての人々と共に今日、贖いの聖餐にあずかろう。





                                    
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