阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2006年07月)   
2006.07.30<聖霊降臨節第九主日礼拝>

「少年ダビデの戦い」

  サムエル記上17:32-50
 牧師 大 村  栄

◇羊飼いの少年ダビデは戦地にいる兄たちに食糧を届けに来た時、身長3メートルもある戦士ゴリアトがイスラエルの陣営に向かって大声で叫ぶ声を初めて聞いた。そして「イスラエルの兵は皆、この男を見て後退し、甚だしく恐れた」(24)という大人たちの実態に失望した。この「イスラ・エル」というヤコブに付けられた民族名は、「神と争う」あるいは「神が戦う」との意味だ(創世記32:29)。少年ダビデは言う、「生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか」(26)。神の戦いを戦う神の民が、不信仰(無割礼)な者によって辱められ、神が卑しめられていることに対してダビデの怒りは燃えあがった。
◇サウル王が自分のよろい兜を着せたが、「こんなものを着たのでは、歩くこともできません」(39)と脱ぎ捨て、いつもの羊飼いの道具だけ持って巨人に向かって行く。「ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた」(49)。有名な場面である。
◇ダビデはゴリアトに対して、「万軍の主の名によってお前に立ち向かう」(45)と言い、「この戦いは主のものだ」(47)と言っている。人間の力強さによって勝った戦いではなく、神が戦いたもう(「イスラ・エル」)戦いゆえに与えられた勝利だ。天地創造において無から有を創造し、闇を封じ込めて光を輝かせ、海を封じ込めて地上の生物が生きる場としての陸を出現させ、聖なる秩序を実現された神。そして神の勝利によって実現した聖なる秩序を、私たちに管理させるために、私たちと共に戦い、勝利したもう。私たちは自力で戦うのではなく、神の勝利の跡をなぞるのだ。
◇たとえ眼前に立ちはだかる敵はゴリアトのように強大であっても、神への挑戦はそれ自体が無意味であることを知らせるのが私たちの務めだ。その「敵」とは特定の国や組織団体などではない。真の神を神と認めないあらゆる勢力である。そこには私たち自身の疑いや不安や恐れも含まれる。被造物である世界と人間を聖なる秩序の中に置き、いのちを豊かに生きること、生かし合うことを促す神に対抗し、神のみこころを否むあらゆる勢力、すなわち罪の支配こそが私たちの敵である。
◇この戦いに私たちは、人間の力によってではなく、「万軍の主の名によって」、すなわち神ご自身によって戦う。創造の初めから既に勝利しておられる神の戦いに、私たちはただ参与するのみ。「この戦いは主のものだ」。この戦いを戦う群に与えられている神の勝利のしるしが十字架である。十字架を仰ぐ「新しいイスラエル」としての教会。少年ダビデのように無力ではあるが、神の勝利のみ跡をたどるということにおいて、そこにおいてのみ私たちは偉大であり得る。「主が共におられ、味方となられる。何を恐れよう」(讃美歌21-392)。




                                    
<目次に戻る>


2006.07.23 <聖霊降臨節第八主日礼拝>

「ザアカイ、降りてきなさい」

 ルカ福音書19:1-10
 牧師 大 村  栄

◇ザアカイはローマの植民地支配機構の末端にいる「徴税人」ゆえに「金持ち」だったが、人々に憎まれ、さげすまれていた。彼が「イエスがどんな人か見ようとした」のは、金銭では満たされない心の空虚を埋めるものを求めていたのだろうか。桑の木に登ったのは背が低かったせいもあるが、馬鹿にされまいと背伸びをして生きている姿を象徴する。主イエスはそのザアカイの足下に立ち、下から「もう背伸びをしなくていいよ、自分の足で立てる所に降りてきなさい」と語り掛ける。主は私たちの一番下の不安と絶望の部分に立ち、そこで払たちと共に生きて下さる。そのしるしが十字架である。教会の礼拝はその十字架を中心とした群れの集いだ。
◇その夜イエスを迎えたザアカイは言った、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。金銭に限らず、これまでの人生で価値あると思っていたものが価値を失い、彼は他者と共に生きる喜びを発見した。「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになった」(フィリピ3:7)。堅く閉じていた人生が次々と開かれていく。主イエスとの出会いによって、ここにもいのちの解放と躍動が始まった。それを聖書は「救い」という。「今日、救いがこの家を訪れた」(9節)。
◇生活スタイルや職業はそのままでも、人生の価値観が変えられ、いのちの用い方が変わってくる。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」。本来あるべき所から逸脱し、誤った所に置かれていたザアカイが、主イエスとの出会いを通して、自分にふさわしい位置に立ち返ることができた。教会は昔も今も、この人生の方向転換、すなわち悔い改めを宣べ伝えるのだ。
◇ザアカイが主に近づいた時、「群集に遮られて見ることができなかった」のは背の低さだけでなく、彼を嫌う町の人々が妨害したせいもあったろう。しかしザアカイにはもう一歩近づこうとする勇気があって桑の木に登り、主イエスがこれに目を止めた。私たちはこの群衆のように、周囲の人々が主イエスに近づくのを妨げてはいないだろうか。自分が人を教会から遠ざけ、キリストとの出会いを遮っている可能性はないだろうか。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」(マルコ10:14、礼拝招詞)。子供たちだけでない。あらゆる人への主の招きを、私たちが妨げてはならない。
◇主の招きに応えることによって、ひとより少しでも高くなどという比較や競争の世界に生きる不安から解放され、他者と共に同じ地平に立って生きる喜びを発見し、いのちの躍動感が始まる。ザアカイが体験したそういう偉大な変化を、一人でも多くの人が体験するために仕えるものでありたい。十字架において最も低いところに立って下さった主イエスが、「降りてきなさい」と招く声を伝えよう。




                                    
<目次に戻る>


2006.07.16 <聖霊降臨節第七主日礼拝>

「覚えていないのか」

 マルコ福音書8:14-21
 牧師 大 村  栄

◇8章冒頭に「4000人に食べ物を与える」の記事。6章には「5000人に食べ物を与える」の記事がある。よく似ているから、マルコが間違って2度書いたのではないかと思ったりする。さもなければ前に同じことを経験したのに、すっかり忘れているようだ。私たちは困難に直面したとき神に助けを求める。そしてその祈りが聞かれると、飛び上がるほど喜んで神に感謝もするが、やがて忘れてしまう。そして再び同じような困難に直面すると、前のことを忘れて、同じように慌てふためく。祈りは聞かれる、主は助けて下さるという経験は、とかく記憶の中心を占めない。その都度うろたえ、疑い、動揺する。この恵みの経験を忘れてしまうという実態が、この箇所のテーマなのである。
◇自分たちがパンを持っていないことを恥じる弟子たちが、主イエスに叱られる。「17:なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。18:目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」。そして二度の奇跡を思い出させ、「21:まだ悟らないのか」と言われる。主イエスが共におられるなら、パンはなくても良かったのだ。二度も体験させられたのに、彼らはそのことをすっかり忘れていた。ここに恵みに対する記憶喪失状態が見られる。
◇しかし感謝すべきことは、主イエスは愚かな弟子たちに、そして彼らと同様の私たちのために、二度も同じ奇跡を見せて下さったということ。三度目もあり得たかも知れない。しかしそれ以上何度も繰り返すかわりに、主はすべての奇跡にまさる最大の「しるし」である十字架と復活への道をたどられた。二度の奇跡を見ても、「まだ悟らないのか」と叱られた弟子たちが、復活の主に出会ってからは、生まれ変わったように力強く神の言葉を語り出す。私たちも、日曜日に礼拝で復活の主イエスと出会うことによって、豊かな恵みを思い出そう。
◇「11:ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め」た。彼らの求めるしるしとは信じるための保証。大勢にパンを食べさせた奇跡が、彼らにこういう要求を起こさせたのかも知れない。しかし主イエスのなさった奇跡は、いずれも人が生きるための助けとなるものだった。盲人が見え、歩けない人が歩けるようになり、ライ病人がいやすなど。聖書に見る「しるし」は常に愛と命に関わる出来事なのである。超自然現象のような仰々しくても意味のない「天からのしるし」は与えられない。
◇神は私たちが生き、生かし合うための最大のしるしとしてイエス・キリストを与えて下さった。どんな奇跡よりも大きなこの方の事実を見つめることが、私たちの信仰生活の原点だ。日曜日ごとに復活の主にお会いして主の恵みの事実を思い返し、互いを生かし合う使命に新たに遣わされていきたい。



                                    
<目次に戻る>


2006.07.09 <聖霊降臨節第六主日礼拝>

「人間は何者なのか?」  

 詩編8:1-10、 ヘブライ書2:5-9
 東神大助教授 中野 実先生

◇旧約聖書の創造物語には、神が人間に他の被造物を「すべて支配せよ」(創世記1:28)と記されており、それが人間の傲慢さを助長してきたと見る主張がある。しかしそれは大きな誤解だ。詩編8編は「主よ、私たちの主よ。あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう」という言葉で始まる。この詩編の詩人は先ず「天に輝く神様の威光」(2節)に目を向ける。神の創造の業の大きさに目が開かれた時、詩人は驚嘆し、感動する。しかし同時に、「私たち人間は一体何者なのか?」という疑問を彼は持つ。神の創造の業の大きさと比べると人間はなんと小さく弱いことか!
◇詩人はさらに「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何者なのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは」と言う。人間は弱く死ぬべき存在にすぎない。しかしそんな人間が神の御心に留められている。神は弱く小さな人間にどうして大きな尊厳と責任を与えるのか?我々はこれをしっかりと確認しなければならない。そうでなければ我々は傲慢になり、神の創造の業を平気で破壊するとんでもない人間になってしまう。神の創造の業の前で圧倒され、自らの小ささ、弱さ、貧しさを認め、しかもそのような自分を神が顧みてくださっている事に気づかされる時、我々は与えられている自らの尊厳を心から感謝し、それを大切に用いることができる。
◇人間に尊厳と責任を与える神の顧みと憐れみは、主イエス・キリストによって与えられた。ヘブライ書の著者は、詩人の言う「人の子」をイエス・キリストのことであると解釈してみせるのである。塵に等しい我々のところまで、神の尊厳と栄光に満ちた神の子イエス・キリストが低く降ってきて下さった。それによって人間の尊厳は回復させられた。神の子イエス・キリストは、我々のことを兄弟、姉妹と呼ぶことを恥としないで、すべての点で我々と同じ完全な「人間」となって下さった(ヘブライ2:11‐18)。神の子のへりくだりによって、我々は全く無力な死ぬべき存在でありながら、神の子のように尊い存在とされ、すべてのものを管理する重大な責任が与えられた。
◇我々はそのような尊厳を自分の力で手に入れたかのように考え、傲慢に振舞うことはできない。他者の尊厳を軽んじることも許されない。フランクルの『夜と霧』の中に、そのような尊厳の豊かさの例を見る。アウシュヴィッツ収容所の極限の中でも、ひとは夕焼けの美しさに見とれることを喜びとした。自然における神の創造の素晴らしさを賛美する内的な自由は、誰も奪い取ることは出来ない。
◇主イエスにおける神の一方的な顧みによって尊いものとされている我々に求められているのは何か?それは我々を重んじてくださる神への感謝と讃美である。「主よ、私たちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう」。




                                    
<目次に戻る>


2006.07.02 <聖霊降臨節第五主日礼拝>

「呼ばれています、いつも」

 マルコ福音書6:1-13
 牧師 大 村  栄

◇故郷ナザレの会堂で神の言葉を語る主イエスに、同郷の人々は「2:この人は、このようなことをどこから得たのだろう」と疑う。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)と低く見られた土地だが、神は無からでも尊い神の器を造り上げることが出来る。そういう信仰に立てず、自分たちの慣習や生活の中でしか主イエスを見なかった彼らは、こうして「3:イエスにつまずいた」。
◇彼らは救世主のあり方を自分たちの思う通りに設定し、主イエスにおける神の大胆な御業に素直に目を向けることが出来なかった。私たちも、とかく主イエスを自分の知識や理想といった先入観の中に閉じこめてしまう。主がなされたように生きよう、などと言うけれど、その主イエスのなさりようについては決めつけがあるのではないか。
◇「5:そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」。信じない者が多かったゆえに、ここでは奇跡はあまり行われなかった。奇跡を見てから信じるのは聖書の信仰ではない。見ないで信じて待つ人に、奇跡(神の御業)は行われる。御業にふれるためには先入観や固定観念を捨て、呼びかけに対して開かれた耳を持ちたい。
◇主に呼ばれて応えた者は集められ、主のご用のため各所につかわされる(「召集と派遣」)。
◇12人の弟子たちが派遣されて行ったとき、彼らは「8:杖一本のほか何も持た」なかった。あれもこれも持たなければ派遣に応えられないと考えるのは間違いだ。必要なものは神が備えて下さる。また最初に入ったら、「10:旅立つときまで、その家にとどまりなさい」。途中で他と比較して渡り歩くな。自分でより良い状況を求めるのでない。この人の世話になると決めたら、とことんその人に頼れということだ。神に頼る生き方とはすなわち他者に頼る生き方である。自分でできると思う高慢を捨て、人の世話になるという謙遜を身に着け、それを通して神に従って生きる生き方を知っていく。
◇このように、主は弟子たちを派遣する際に、持ち物や人の世話になるためのマナーなど、専ら生活の仕方について教えているが、何を語れとはあまり言われない。何を語るかと同時に、それを伝える者の生活態度が大事なのだ。どう語るかよりも、それをどこまで信じて、生きているかが問われる。私たちがそれぞれの生活の場で、神を信じて謙遜に、シンプルに、周囲の人々と助け合って生きることを実践するなら、神の国の福音は、言葉を超えて自ずと伝達されていくであろう。
◇そういう福音の喜びに生きる証し人として、私たちは召されている。「呼ばれています、いつも、聞こえていますか、いつも」(讃美歌第Ⅱ編83)。その呼び声に心の耳を開いて聞こう。ナザレの人々のように先入観で主を拒絶しないように。聞こえたら素直に従ってシンプルに生きよう。



                                    
<目次に戻る>