阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2006年5月 )  
◆2006.5.7<復活第四主日礼拝>
「わたしは何者でしょう」
出エジプト記3:1~15
牧師  大村 栄 

           
◇出エジプトの指導者モーセの召命の記事。彼はイスラエル人の家に生まれたが、人口抑制政策によって殺されるのを避けて、パピルスで編んだ籠に乗せてナイル川に流された。それがたまたまエジプトのファラオの王女に拾われ、王家の子として育った。成長した彼はある日、同胞のイスラエル人を痛めつけるエジプト人を見て打ち殺してしまう。しかしこのことから逆に同胞から拒絶された。そして今は異国のミディアンに寄留者として身を寄せ、妻の実家の世話になっている。自分が一体なに人なのかも分からなくなっている。生まれた子にゲルショムと名付けたのも、彼が「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ」(2:22)と言ったからである。


◇どこにも安らぐ居場所のない寄留者、そんな苦しさをかかえていたモーセは、神の山ホレブで燃える柴の中から語る神の召命を受け、「わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と命じられた。そのとき彼は当然ためらい、「わたしは何者でしょう」と神に問うている。この問いは、「基本的に自分を確認するための問いである。…これらの問いかけはすべて、神と一対一で向き合うなかでのみ、真の答えを得られると私は信じている」(精神科医・平山正実先生)。絶対者なる神との出会いを通してこそ、人は自己を確立するのだ。

◇「わたしは何者でしょう」と問うモーセに神は、「わたしは必ずあなたと共にいる」と自らを現す。これこそが人間の根本的不安を払いのけ、勇気を持って自立的に生きる根拠となる。神が自分に替わって何もかもやってくれるのではない。ただ共にかたわらにいて、私が生きるのを側面で支えて下さる。そこに私の成長があり、自分で生き、自分を生かす喜びもある。こうやってアイデンティティーの確立が実現するのである。

◇モーセが神の名を問うと答えがあった。「わたしはある。わたしはあるという者だ」。口語訳聖書では「わたしは、有って有る者」。英語の聖書では I am who I am。神の存在を問う私たちに、神は圧倒的な存在感を持って迫ってこられる。原語ヘブル語では英語のBeよりBecomeに近い。「わたしはある」より「わたしはなる」。神は固定的な存在ではなく、生きて働く方。目当てを目指して進む方。

◇歴史の目的に向かって突き進む神が、私と共にいて下さる。「わたしは何者でしょうか」の問いは、動きを止め、うつむいて自分の居場所を問い、立ち止まって発する問いだが、神がこの問いを受け止めて下さり、さあ共に行こう、と前に向かう歩みを促して下さる。しかも人類の救い、歴史の完成という神の尊い目的に向かう歩みへと。

◇私たちはこの神の目的の中に、自分自身を捧げることによって、「わたしは何者か」の最終的な答えを得る。その問いと答えがなされる「神の山」が礼拝であり教会である。そこでの決断と出発を巻き起こすために、神は教会を建てられたのだ。


<目次に戻る>


◆2006.5.14<復活節第五主日礼拝>
「今は憐れみを受けている」
ペトロの手紙 一 2:1-10
伝道師 北川 善也 

 
◇我々は、神に対して礼拝を「献げる」存在であり、礼拝において我々は神の御言葉を「受ける」存在である。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」(2:2)。この「霊の乳」とは、神の御言葉を指す。我々は、神の御言葉に与ることによって「成長し、救われるようになる」のである。

◇「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(礼拝招詞、ヨハネ6:63)。主がこの言葉を発するや否や、それまで主に付き従ってきた多くの人々が一斉に主のもとから離れ去った。彼らにとって、この言葉がまさに「つまずきの石、妨げの岩」となった。そして、彼らが主を十字架へと追いやるのだ。けれども神は、そこまで愚かで罪深い人間を見捨てず、主が死から甦り、暗闇の世界に勝利されることによって、その暗闇で生きる我々を救いの光の中へと招き入れてくださった。

◇CS全体教師会で、大村牧師よりマルコ10:13-16の聖書講解があった。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。そこで言われているのは、大人にすがり付かなくては生きていけないことを自覚している子供のように神にすべてをお委ねするということ、そして親から与えられた乳を疑うことなく飲み込む子供のように神に全面的な信頼をもって従うということ。これに照らせば、「生まれたばかりの乳飲み子のように…」とは、「疑うことなく、全き信頼と謙遜をもって、ひたすら神の御言葉に聴き従う」ことだと理解できる。

◇次週礼拝後、定期教会総会が開かれるが、総会資料に目を通すと、この教会が一年間にわたって、いかに多くの恵みを受けてきたか、そしてこの主から受けた恵みを再び主にお返しするために集まってきた一人一人の業によって、この教会が限りなく前進し続ける共同体であることを強く思わされる。我々は、そうすることによって初めて、「すべてのことを神の栄光を現すためにしなさい」という御言葉に従う存在となることが出来る。「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」(2:9b)。我々が「霊的な家として造り上げられる」のは、我々が教会を基盤として、主の栄光を宣べ伝えるために他ならない。

◇自分が罪に満ちた存在であり、主に背く生き方をし続けてきたことを誰よりも知っている我々が、本来ならば抜け出せなかった「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を」人々に宣べ伝えるために召し出されている。そしてこの伝道の業が全うされ、この世のすべての人々が神の民とされる時にこそ神の国は完成され、その時にこそ我々が今、神の憐れみによってはるかに仰ぎ見ることを赦されている終わりの日の希望を、現実のものとすることが出来る。

<目次に戻る>


◆2006.5.21<復活節第六主日礼拝>
「悲しみが喜びに変わる」
ヨハネ福音書16:16~24 
牧師  大 村  栄

     
◇短い間に「しばらくすると」が7回も出てくる。これはいかに当時(紀元90年頃)の教会が主の再臨を心待ちにしていたかを示す。キリストの召天後60年くらいた経つと、再臨の約束は偽りだったのではないかと疑う者が現れ、それゆえに教会を離れる者も出た。これに対して福音書記者のヨハネは、あの約束は真実だということを、全力を挙げて主張する。それがこの「しばらくすれば」という言葉をめぐるやり取りのくどさをもたらしている。


◇「20:はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」。主イエスの死によって弟子たちは悲嘆にくれ、周囲からは嘲笑や侮蔑を浴びた。しかしこの悲しみは出産の際の産みの苦しみ(21節)と同様、やがて「喜びに変わる」。しかも単なる過去の回復ではなく、「22:その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。それはいつか分からない。その時まで私たちは悲しみと不安の中を過ごさねばならない。しかし産みの苦しみが必ず誕生の喜びに変わるように、苦悩の末に必ずや満ちあふれる喜びが約束されているのを信じる。

◇「このよに てんごくのきたる その日まで わがかなしみのうたはきえず てんごくのまぼろしをかんずる その日あるかぎり わがよろこびの頌歌(うた)はきえず」(八木重吉)。

◇「てんごくのきたるその日」とは、「しばらくすると」到来する主イエスとの再会の日である。私たちはその日が一日も早く来ることを待ち望む。「み国を来たらせたまえ」と祈りつつ。しかしそれは果てしなく遠く、そんな日が来るとは思えないくらい、私たちの周囲には悲しみが満ちている。だから「その日まで わがかなしみのうたはきえず」。しかし、主イエスは「その悲しみは喜びに変わる」と約束された。それがある限り「わがよろこびの頌歌はきえず」と八木重吉と共に歌おう。

◇後半に、「23:願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」。今日の旧約の聖書日課は創世記18章。ソドムとゴモラが滅ぼされようとした時、アブラハムがその町に正しい人、すなわち神を信じる信仰に生きる人が50人いたら赦して下さい。いや40人、30人、20人、ついには10人だけでもいたら赦して下さいと、値切るように主に赦しを願う。主は正しい者が10人いたら「その十人のためにわたしは滅ぼさない」と約束された。何人の中の10人かは分からないけれど少数だろう。

◇「しばらくすると」悲しみが喜びに変わる時が来ると信じて待つ人は、たとえ少数であっても、その人々の存在によって世界が救われるのだ。私たち教会に連なる者たちは、世界に「かなしみのうたはきえず」という厳しさが満ちていても、信仰によって「てんごくのまぼろしをかんずる」者でありたい。それによってソドムとゴモラにはいなかった10人の役割を果たそう。 

<目次に戻る>


◆2006.5.28<復活節第七主日礼拝>

「喪失した者の祈り」 

詩編102:1-19 

牧師  大 村  栄
 
◇表題に「祈り。心くじけて、主のみ前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩」。原始的な祈りは神々を動かし、自分の目的を遂げるための手段だったが、聖書に学ぶ私たちの祈りは、神との人格的な交わりの中に、人生と社会における生きる道を見出すことだ。真実な祈りは「私たちが欲していること」ではなく、「神が欲しておられること」に私たちを関わらせていくものである。

◇様々な集会を祈って始めることが多いが、祈りは決してその場の第一の言葉となり得ない。第一の言葉は「神の言葉」であり、祈りはそれへの「応答」である。神の言葉はただ語られるだけでなく、応答としての祈りを引き起こしてこそ、語られ、聞かれたと言いうる。そんな祈りの指導書が詩編である。聖書の多くの部分は「私たちに向かって」語りかけるが、詩編だけは「私たちと共に」語る。

◇102編は「嘆きの詩」に属する。「10:わたしはパンに代えて灰を食べ、飲み物には涙を混ぜた。12:わたしの生涯は移ろう影、草のように枯れて行く」。旧約の偉大さは、詩人がこのような苦悩の中で、過去から未来に目を向き換えていること。そして自分個人の問題に執着せず、イスラエル全体の救いの歴史に関心を移していることだ。

◇次の13節の冒頭に口語訳では「しかし」があった。「13:主よ、あなたはとこしえの王座についておられます。14:どうか、立ち上がってシオンを憐れんでください」。個人の思い悩みに沈む者が、シオン(エルサレム)の回復を祈る者に変えられる。自分の問題が解決した訳ではないが、シオン復興の希望の中に、「18:すべてを喪失した者の祈り」が顧みられると確信し、未来を信じて生きる者とされる。「19:後の世代のために、このことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された』」。

◇シロアムの池で盲目の原因を問う弟子たちに主が言われた言葉、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:2-3)、また教会標語の「すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリント10:31)ともつながる。人生の目的と意味は「神の栄光」を賛美し、その「み業(働き)」を現わすというところにある。そういう志を生きる中で神は「すべてを喪失した者の祈りを顧み」て下さる。

◇自分自身の思い悩みから、「しかし」と神の支配に委ねる心を与えられる時、私たちの生きる「今」は、単なる過去の堆積としての現在ではなく、神のみ手にとらえられ、神の永遠につながる尊い「今」となる。そのような「今」を生きる人生は、長さより意味を、形より志を大切にする人生となる。

◇「心くじけて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩」。その「心くじけ」た人、「すべてを喪失した者の祈り」こそが顧みられ、神を讃える賛美に変えられるということを、詩編を通して教えられ、また信仰生活全体を通して体験させて頂きたい。

 


<目次に戻る>