阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2006年4)  
◆2006.4.2<受難節第五主日礼拝>
「すべて神の栄光を現すためにしなさい」ー新年度教会標語によるー
第1コリント10:23-11:1
牧師  大村 栄 

 

◇コリントは貿易拠点で華やかな文化も栄えた町。ここにはギリシアの神々を祭る神殿が林立し、信徒たちは異教との関わりに悩まされた。1コリント8章以下は「偶像に供えられた肉」の問題を扱っている。神殿に供えられた肉は祭司たちの分を除いて市場に卸された。パウロはこれについて「25:市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」と言い、詩編24:1を引用して、「『地とそこに満ちているものは、主のもの』だからです」とまで言う。世界のすべては神の被造物。我々が勝手な判断で汚れているとか、清いとかと区別することの問題性を覚えなければならない。

◇ただし、「28:もしだれかがあなたがたに、『これは偶像に供えられた肉です』と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません」。相手にこだわりがあるなら、それを無視してはならない。「良心」とは判断の基準。この場合は「29:自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです」。食べて良いか否かを自分で決めないで、相手に合わせるということか。だが「29b:どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう」とも言う。「わたしの自由」は確立しているのだ。偶像への執着や恐れから解放され、「地とそこに満ちているものは、主のもの」と信頼して受け入れられる自由であり感謝である。

◇ただしそういう自由に立った上で、なすべき務めがある。「24:自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」。キリスト者の行動の理念は、自己実現、自己満足追求のためであってはならない。また他人への迎合とも全く違う行動の目標、それが私たちの新年度教会標語に選ばれた聖句よって示される。「31:だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」。神の壮大な歴史の一部分を生きる者として、単なる自己満足や世の流れに乗った主観的目的に生きるのではなく、神の望みたもう客観的、歴史的な事柄のためにこの身を捧げて、今の時代に果たすべき務めを担うのである。

◇「33:わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから」。パウロはそのような生き方を自らに課していると語ると共に、その生き方の手本はキリストにあると告げている。「11:1 わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」。主イエスこそが「神の栄光を現すために」生きて、十字架の死を遂げられた方である。このキリストに倣って私たちもいのちの用い方を見出したい。

◇「23:すべてのことが許されている。しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」。「神の栄光を現す」目標のために、教会という私たちの信仰共同体を「造り上げる」ことをこれから一年、私たちはこころざしていくのである。

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◆2006.4.9<棕櫚の主日礼拝>
「ろばに乗る王」
マルコ福音書11:1-11
牧師  大村 栄 

 
◇今日、棕梠の主日に主イエスは戦いのしるしである馬ではなく、平和のしるしであるロバに乗ってエルサレムに入城された。主が来られたのは敵を滅ぼすためでなく愛するため、裁くためでなくゆるすためであることを主張しておられるのだ。

◇この行動はゼカリヤ書の預言の成就でもある。紀元前6世紀、イスラエルは捕囚の地バビロンから荒れ果てた故国に帰還した。神殿は廃虚と化していたが、民は生活の立て直しに追われて礼拝どころではない。だが不信仰の罪を繰り返さないためにも神殿再建に着手しようと励ました預言者ゼカリヤを通して、神は民に真の王を与えると告げた。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る」(ゼカリヤ9:9)と。しかもその王は力の王ではなく「ろばに乗って来る」平和の王だ。その預言が実現したのが約520年後の今日棕梠の主日であった。

◇ロバは平和のしるしであるだけでなく頑固な動物だ。それを示す記事が民数記にある。紀元前13世紀ころ、出エジプトの民がエリコに近いモアブに接近したとき、モアブの王はこれに脅威を感じ、預言者バラムにイスラエルを呪うよう要請し、バラムはロバに乗って出かけた。ところが、「主の御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっているのを見たろばは、道をそれて畑に踏み込んだ。バラムはろばを打って、道に戻そうとした」(民数記22:23)。ロバは主人の安全のために、動こうとしなかったのだ。キリストの頑固さを連想する。

◇受難を目前にした主イエスは大祭司の主宰する最高法院でも、総督ピラトの法廷に引き出されても黙秘を続け、沈黙のままゴルゴタへの道を歩まれた。それが神の定めだからだ。こうと決めたら何があろうと揺るがずに突き進む。このお姿がどこかバラムのロバと似ている気がしてならない。

◇バラムは何度もロバを杖で打った。するとロバの口が開いて叫ぶ、「30:わたしはあなたのろばですし、あなたは今日までずっとわたしに乗って来られたではありませんか」。このロバが頑固なまでに貫き通してきたのは、今日までずっとあなたを乗せてきたという奉仕と服従の姿勢だ。本当に仕えること、愛することというのは、頑固なほどに変わらずにいることなのだろう。ロバが主人に疑われ、殴られても彼を見捨てて逃げ出さなかったように、真実に愛するとは、相手の変化に応じて巧みに態度を変更したりすることではなく、相手の変化に関わらず、あるいはその相手に疑われ、嫌われ、侮辱を受けても愛し通すということなのだろう。

◇そのことを誰よりも真実に実行なさったのが主イエス・キリストであり、独り子を下さった神である。十字架の愛とはそういう頑固一徹の愛だった。愛に徹しにくい私たちのただ中に、その不変の愛を示された主が再び来る。「見よ、あなたの王が来る」。大いに踊り、大いに喜ぶものでありたい。

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◆2006.4.16<復活祭礼拝>
「よみがえりを信ず」
ダニエル書6:11-18、マルコ福音書6:1~8
牧師  大 村  栄

 
◇ダニエルはイスラエルからバビロンに連れ去られた捕囚の子孫だった。優れた賜物によって重用されて大臣の地位を得たが、それを妬む人々がダニエルを陥れるために、ダレイオス王に「向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる」(ダニエル書6:8)という法律を設けることを進言する。王は言われるままに署名をして、この法は「変更不可能なもの」となった。

◇ダニエルはそのことを「知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた」(11)。彼にとっては神への祈りと礼拝が「変更不可能なもの」だったのだ。両方の「変更不可能」の対立と矛盾の中で、ダニエルは飢えたライオンの穴に投げ込まれ、石が置かれて封印がなされた。

◇「使徒信条」に名を残すポンテオ・ピラトも苦悩した。イエスへの激しい批判は人々の「ねたみのためだと分かっていた」(マルコ15:10)が、「十字架につけろ」と叫ぶ群衆に屈してバラバを釈放し、イエスに死刑判決を下す。彼にとっては民衆の圧力が「変更不可能なもの」だったのである。結局処刑は実行され、主イエスのなきがらはヨセフの墓に葬られて大きな石でふたをされた。ダニエルも飢えたライオンの穴に投げ込まれ、その穴には厳重な封印がなされた。「変更不可能なもの」による絶望的な破綻をここに見るのである。

◇しかし穴の底では、神の守りによってライオンが大人しくなり、ダニエルは翌日救い出された。そして主イエスは、今朝よみがえられた。この日はあらゆる人間的な封印が解かれる日である。「変更不可能」と諦めてしまう私たちに、キリストの復活を通して、神が新しい可能性を開いて下さった。

◇「主イエスが十字架に息たえられた時、すべては終わったかのように思われました。まさに暗黒が世を覆ったのでした。…しかし暗黒をひき裂くように朝の光が射し込む時すべてが変えられるように、週の初めの日の朝早く、墓に急いだ女性たちに、『あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ』という言葉が告げられ、新しい時が始まったのでした」(船本弘毅先生『十字架から復活の朝へ/レント・カレンダー』)。

◇「よみがえりを信ず」ということは、この「すべてが変えられる」という神による可能性を信じることだ。「もうだめだ」と心を閉ざし、「もう変わることはあり得ない」とあきらめてしまう暗闇に、新しいいのちの喜びが湧きあふれるのである。

◇幾重にも封印した洞窟を神の力によって突破したダニエルにまさって、人間の最後的な限界であった死をも克服された復活の主イエス・キリスト。ここに実現した神のみわざを、私たちのいのちの根幹に関わる恵みの出来事として深く心に刻みたい。

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◆2006.4.23<復活節第二主日>

「信じる人は幸い」

ヨハネ福音書20:19-31

牧師  大 村  栄

 
◇「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。弟子たちは自分達への迫害も恐れたろうが、それ以上に、主イエスを裏切り見捨てて逃げてしまったという後ろめたさと、それによって神との関係を破壊してしまったことで悩み苦しんでいた。「そこへイエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和(シャローム)があるように』と言われた」。「よくも見殺しにしたな」などと恨み言を述べたのではない。大切な先生を見捨てた罪におびえる弟子たちに、おびえなくてよい、平安でいなさいという深い赦しの言葉がかけられたのである。

◇さらに「シャローム」とは神が共におられる時に与えられる平安だから、罪に悩む弟子たちに主は、そんなあなたたちを神は見捨てず、共にいて下さる、という赦しと慰めの言葉を語られたのだ。

◇主イエスが遂げられた十字架の死は、私たちの罪の贖いと救いのためだったが、私たちは主をそんな目に遭わせて平気でいられるだろうか。私を豊かにするために努力してくれた人が、それによって不幸になっていたら素直に喜べない。その人も恵まれた状態になってこそ、私の豊かさは喜びとなる。キリストの復活は、身代わりの死に対する後ろめたさに苦しみ、見捨ててしまったことの呵責に耐えかねていた者たちの罪を赦し、神との正しい関係、シャロームを回復させる出来事だったのだ。

◇そして復活の主は、弟子たちに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。…赦さなければ、赦されないまま残る」。罪を赦された者が、今度は罪を赦す者として送り出されていく。それが復活の主による派遣である。

◇だがそれは人間の力で全うできることではない。「彼らに息を吹きかけ」「聖霊を受けなさい」と言われてこの派遣は実現する。息=聖霊は天地創造の際、土の塵で造られた人に吹き入れられた「命の息」(創世記2:7)である。だから聖霊を吹き入れられるということは、人間の再創造だと言えよう。これが最初になされたのが復活の日、日曜日であった。以来毎週の主日礼拝において、私たちはこの聖霊による再創造を与えられ、罪赦された者が赦す者として遣わされる派遣を受けるのである。

◇その場にいないで復活の主にお会いできなかったトマスは「あの方の手に釘のあとを見、この指を釘跡に入れてみなければ、…わたしは決して信じない」と言ったが、「八日の後」つまり次の日曜日に復活の主イエスが彼に現れ、「信じる者になりなさい」と言われた。それはキリストの復活において成就した神の赦しを信じ、神に人生を委ねる者となれとの招きである。疑い惑いの世にあって、私たちは日曜日毎の礼拝で復活の主に出会い、それよって罪の赦しを確信し、自らが赦す者と変えられ、不信に悩むこの世界に送り出されるのである。

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◆2006.4.30<復活節第三主日>

「人によってではなく、神によって」

ガラテヤの信徒への手紙1:1-5

東京神学大学助教授 中野実先生


◇ガラテヤ書の書き出しはかなり独特である。手紙の冒頭からパウロはせきを切らすように中心的メッセージを語り出す。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって」現在自分は歩まされている。この確信をパウロはガラテヤの諸教会の人たちと共有したかった。確かに私たちが教会に結び付けられた動機は様々である。パウロが「人々によってではなく、人を通しでもなく」と言う時、そのような具体的な動機を無視してはいない。しかしそれらの出来事の中にイエス・キリストを私たちにくださった父なる神のご計画があった。そこまで私たちの確信が共に深まっていかないと、知らず知らずのうちに教会は教会ではない別の集団に変容していってしまう。

◇二週間前に復活祭を祝った。私たちの信仰の出発点は、キリストの復活の出来事である。すべての事柄をイエス・キリストの復活の光のもとで見直していく時、それらすべての意味がはっきりとしてくる。1:1に「キリストを死者の中から復活させた父である神」という表現が出てくる。キリストは死なれた方である。キリストの死は悪しき世が勝利してしまった出来事か?決してそうではない。キリストの復活の出来事の光のもとにキリストの十字架を見直す時、そこに人間の思いをはるかに超えた神の御心を発見する。

◇人間は存在の最も深いところで破れを持った存在である。その破れの故に、真の神との間に心が通じ合わなくなった。しかし、神は私たちを見捨てない。神に反抗して歩んできた私たちをご自分のものとして取り戻すために、ご自分のすべてを、愛する御子を私たちに与えてくださった。私たちは本来破れの故に、死ななければならない存在であった。しかし、キリストの十字架と復活の出来事によって死は私たちの人生の終着点ではなくなった。イエス・キリストが私たちのために死んでくださったからである。それによって、私たちが死ぬべき死を滅ぼしてくださった。キリストの復活は、死の死である。キリスト教会は2000年間そのように信じ、語ってきた。このようなイエス・キリストの十字架と復活の光のもとに、自分自身を理解していく時、私たちは自分自身の価値(かけがえのない神の子とされている事実)を発見する。そのような神の恵みを互いに確認しあう共同体が私たちの教会である。


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