阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2006年3月)  
◆2006.3.26<降誕節第九主日礼拝>
「どう祈るべきか」
マタイ福音書6:5~15、ローマ8:26~28 
川俣 茂 副牧師

 
◇我々人間は、困難にぶつかった時など、祈りたくなってしまうものだ。教会やキリスト者は確かによく祈る。我々の「祈り」というものは、神との対話の時である。

◇5-8節の主の言葉は、祈りを知っている者の為の言葉である。では神や祈ることを知らない者は、仮に祈りたくとも、誰にどう祈ったらいいかわからない。祈りの手引といったものが必要になる。それが9節以下の「主の祈り」である。

◇神学校の松永希久夫先生の授業で、「主の祈りは地上に於ける最大の殉教者だ」との話をよく覚えている。形式的に口にしたり、呪文のように唱えるというような乱暴な扱いをされている、という意味に於いてである。確かに指摘どおりかも知れぬ。

◇J・ウェスレーの「祈りについての自己検討」という文章がある。それを初めて読んだのは神学校に入る前のことであった。

◇神学校に入学して間もなくのある体験、それは「教会に、礼拝に集いたくても集えない」ということ、「祈ることの重要性」、そして「我々には祈ることが許されている」ということを改めて知らしめられた時でもあった。

◇自分自身にとって、その一連の出来事は「祈り」、「祈るということ」に対する思い入れというか、黙想的なものではあるが、阿佐ヶ谷教会では祈祷会というものがあり、大切にしてきた。祈ることの大切さ、祈りの力、祈りは聴き上げられるということをよく知っているはずである。祈りこそ、「教会がもう一度生きるようになった基」、「原動力」であり、教会が祈りによって生き、生かされたことはすでに証しされている。

◇フォーサイスの『祈りの精神』。その冒頭は「最大の罪は祈らないことである」。あらゆる罪の原因は、その人が祈っていないからであると。しかし考えてみれば、我々は主が問題とされる程に、熱心に祈っているか。そう問われると、考え込んでしまうのではないか。

◇我々には「祈れない時」ということがある。しかし祈れる、祈れないということをどういう基準で決めるのか。自分で自分自身を判断して「自分は神に対してしっかりと祈っている」と思ってしまうことも違うのではないか。祈れない時、祈る言葉が出てこなければそれはそれでいいと。なぜなら、我々に必要なものを神は知っていて下さる。祈りの内容や言葉によって、救いの道を変えてしまうような神ではない。祈れなくても、備えられたもの、救いの道に感謝すればいい。祈りによって我々は、喜びと恵みを戴いている。それにまさるものはない。

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◆2006.3.19<受難節第三主日礼拝>
「人生の目的」
マルコ福音書10:32-45
牧師  大 村  栄

 
◇主が受難予告を三度も繰り返すのは、ご自分に言い聞かせるためでもあったのだろう。「わたしは」でなく「人の子は」と言うのも、主がその運命をまだ自分のものとして受けとめていないことを示す。受難を本当に引き受ける覚悟をされたのは、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)と祈ったゲッセマネにおいてだろう。ゴルゴタへの道のりはこの祈りに到達するまでの道のりでもあった。神からの課題に悩み苦しみ、繰り返し祈って問うたのだ。

◇それに比べて我々の生き方がいかに浅薄かということが、「ヤコブとヨハネの願い」に示される。「37:栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。先生は殺されても復活するというのだから、その後神の栄光を受ける際にはどうぞ私たちを天国の一番良い席に座らせて下さい。弟子たちは世間的な立身出世の道を捨てて主に従ったはずなのに、死後において相変わらず序列的な基準で夢を抱いている。

◇これに対して主は、「38:あなたがたは、自分が何を願っているか分かっていない」、言い換えると、「何を願うべきか分かっていない」。そして主は、「38:このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と問う。これらは殉教の死を指している。彼らは「39:できます」と答えたが、それが天国の上座を保証するわけではない。「40:わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない」。いかなる人間の功績によっても保証されるものではなく、ただ神が神ご自身の判断によって決められるのだ。

◇ただこう言われる、「43:あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44:いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。僕とは奴隷のこと。自由を謳歌するより一生を捧げよ、仕える人となれと言う。聖書で「仕える」とは特に食卓の給仕をすることを指す。食事を作り提供することによって、人をいかし養う仕事である。

◇そして本当に仕える者は、世の評価を望んではならない。ルカ福音書17:7以下に登場する僕のように、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(17:10)と言うのみである。1984年の「信徒の友」12月号に、阿佐ヶ谷教会を辞任して隠退した大村勇牧師が「たそがれの記」という文章を寄せ、上記を引用している。自分も今は「しなければならないことを…」と言うのみだが、「心から感謝と喜びをもってそう言うことができる」と書いている。僕として主に仕えて生きた生涯の、厳しさより豊かさがここにある。

◇主イエスは仕えることの豊かさを言葉と業で教え、十字架への歩みを通してそれを実現するために世に来た。教会と私たちは主に仕えるがゆえに、そのキリストが仕えたもうた世に仕え、キリストが生かしたもう人をいかす働きに参加していくのだ。

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◆2006.3.12<受難節第二主日礼拝>

「教会の権威」

マルコ福音書2:1~12

牧師  大 村  栄

 

◇キリストによる癒しは、すべての被造物に天地創造の秩序を回復させる。その作業をかき乱す悪魔的勢力を「悪霊」と総称する。人間は本来神への信頼の内に、愛と自由を生きるために造られたのに、悪霊はこれを恐れや憎しみに生きる者へ変えようとする。主イエスの使命はこの悪霊の計略を阻止し、世界と人間を、神との正しい関係に立ち返らせ、本来のあるべき姿に立ち返らせることであった。

◇しかし人々はそれを理解しない。「22:あの男はベルゼブルに取りつかれている」と批判し、また「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」とも言う。ベルゼブルは悪霊の首領。サタンの別名。ひどい言いがかりだが、主イエスはこれに対して丁寧に反論する。「23:どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない」。サタンの内輪もめだとすればいずれ自ずから「立ち行かず、滅びてしまう」だろう。

◇主イエスはご自分の使命が、「27:まず強い人を縛り上げ」た上で、「その人の家に押し入って、家財道具を奪い取る」ことだと告げられた。つまり悪霊のかしらを縛り上げ、悪霊の支配するこの世界に押し入り、捕らえられている私たち人間を解放するという意味だ。この解放と救いのための戦いが、私たちの教会に託されている。これが「教会と社会」の関わり方の原点である。

◇ただしその戦いの武器は一本の十字架。悪霊がはびこる世界の破れを一身に帯び、代償となって十字架に死ぬことによって、主はこの世に打ち勝たれた。世の悩みを払いのけ、追い払うのでなく、これを前身で受けとめ、これを担ったまま十字架に死ぬことによって、主はこれに完全勝利されたのだ。そして今、主は教会にこの働きを託された。

◇「28:人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。29:しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」。使徒信条に「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず」。「聖霊」は教会を召集する。教会には「罪の赦し」が託されている。人間が犯すどんな罪も赦されるが、その罪が赦されるということを信じない者、罪の赦しの権能が教会に託されているということを認めない者はゆるされない。

◇主イエスの「21:身内の人たち」と「22:エルサレムから下って来た律法学者たち」は正反対の存在でありながら、同じように主イエスを「抑え込もうとし、抹殺しようとしている。血縁などの人間的な関係だけでなく、神という「絶対的他者」を間に置いて成り立つ新しい人問関係。これが教会の目指す信仰共同体、別名「神の家族」である。「35:神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」。この教会を建てるために命を捧げ、ここに世界を変えるほどの権能を授けて下さったキリストの十字架を仰ぎつつ、受難節を歩もう。

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◆2006.3.5<受難節第一主日>

「新しく生きられる」

第2コリント5:16~21

東京神学大学助教授 中野 実 先生


◇古い自分を脱ぎ捨て、新しい自分になりたい。しかし自分の中を覗き込んでも新しいものは発見できず、見えてくるのは古い自分だけである。しかし、イエス・キリストがこの世界に来てくださった事によって、私たちは根底から新しく造りかえられた。しかもその救いの御業が本当に私たちのものとなるように、キリストは私たちの外から私たちの中へと入って来てくださった。


◇しかしなお私たちは新しいのに、なお古い。そんな自分をどう生きたらよいのか?そこでパウロの語る「和解」の出来事に注目したい。天地の創造者である神が「新しい創造」を、すなわち「和解」を御子イエス・キリストにおいて成し遂げた。それは単なる創造のわざではない。私たちが神との関係を壊してしまったからである。「新しい創造」は「マイナスからの創造」である。

◇パウロの語る「和解」という言葉は「交換」という意味を持っている。

(1)キリストにおける神との和解において、キリストと私たちとの立場は交換された。私たちが立っていた場所にキリストが、キリストが立っていた場所(神の子としての立場)に私たちが立たされた。私たちは自分の惨めさにすらしがみつこうとする。そんな私たちのところへキリストは来られ「私が代わってあげよう。今はあなたの出番ではないから、ちょっとどいていなさい」と言ってくださる。キリストによる「和解」は、自分だけで抱え込まなければならないと思い込んでいた自分の惨めさ、弱さを、キリストが引き受けてくださり、しかも私たち以上に真剣に、深く悲しみ、引き受けてくださった出来事である。

(2)そもそもなぜ神さまと私たちとの間に「和解」が必要なのか?私たちが神に対して敵対しているからである。神も私たちに対して敵意を持って対処されてもよかった。しかし神は人間の敵意に対して、敵意で返すのではなく、違うものに交換された(ローマ5:6-10)。神は、神に反抗する私たちに対して憎しみを向けてよいところで、愛を示された。敵意を違うものに交換された事によって、そこに新しさが生じた。憎しみに憎しみを、敵意に敵意を返してしまう私たちに対して、神は憎しみに愛を、敵意に憐れみを持って返された。そこに新しい創造が成し遂げられた。私たちは神の大きな創造のわざ、和解の働きに参与すべく集められている(5:18)。


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