阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2005年5月)   
◆2005.5.29

「我らは神の中に生きる」 

イザヤ書46:1-4
  使徒言行録17:22-34 
 牧師  大 村  栄
 
◇ギリシア文明の中心地アテネで、福音を語るパウロに興味を持った哲学者たちは、彼を「アレオパゴス」(評議所)へ連れていく。神から与えられた良き伝道の機会と信じて、パウロはそこに立ったが、実際はこの人々は「21:何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである」。このような動機で福音に接近する人は今も昔もいる。その時に私たちは、これぞ伝道の好機と思って真剣に受けとめる。パウロもそうした。22~31節の長い演説が彼の熱意を感じさせる。
 
◇「28:我らは神の中に生き、動き、存在する」、などと熱く語るが、これを聞いた者たちの反応は、「32:ある者はあざ笑い、ある者は、『…いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。33:それで、パウロはその場を立ち去った」。パウロの熱意は伝わらなかったのだ。天地創造からキリストの十字架と復活まで、キリスト教の基本を丁寧に語ったがだめだった。私たちも同様の失敗を繰り返している。なぜなのか。
 
◇福音信仰とは「宣言を受け入れる信仰」だからである。愛の告白は、理由や動機を説明しただけでは伝わらない。告白する者が自分の存在を掛けて語っているのが伝わり、聞く者も信頼して受け入れてこそ愛が実る。福音宣教にもそれと同様な事態が起こった時に、「伝道」が成就する。
 
◇パウロの熱弁は空しく終わったかに見えたが、彼が立ち去った後から、「34:彼についていって信仰に入った者も、何人かいた」。私たちのすることは失敗ばかりだが、神はそこにもなお人を備えていて下さる。だから恐れずに語ることができる。
 
◇ところで、パウロのこの熱意は憤りに端を発している。彼は「16:この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した」。私たちは偶像礼拝の禁止を大切にしている。しかし神ならぬものに真剣に手を合わせている人に、「憤慨」するだろうか。パウロが憤ったのも憧れのアテネで、本当の神を知らず原始的な偶像礼拝にすがる人々に対する、むしろ哀れみや悲しみだったのだろう。ラザロの死に際して、主イエスが「心に憤りを覚えた」(ヨハネ11:33)のと同様である。この憤りの底には憐れみと愛がある。
 
◇オウム真理教事件から10年。私たちはこの時代に、神でないものを神でないと言い切れないでいる同抱たちのために、深い悲しみと愛、そして忍耐をもって福音を宣べ伝えていきたい。真の神は言われる、「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ46:4)。


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◆2005.5.22

「喜びは尽きず」 

ヨハネ福音書2:1-12
阿佐ケ谷教会名誉牧師  大宮 溥 先生

◇ヨハネ福音書は「霊的福音書」といわれる。イエス・キリストの生涯を霊的世界を切り開くものとして描いているからである。人間の霊性(スピリテュアリティ)の回復と高揚が求められている現代に、深く語りかけるものである。

◇ここではキリストの働きのはじめが、カナの婚礼においてなされた。主イエスの教えの中心は「神の国」であったが、そのたとえとしてよく婚礼が語られた。人間の歴史は神とサタンとの力のぶつかり合いであるが、最後に神が勝利して神の国が打ち立てられる。この神の国は神の愛の支配のもとに築かれる愛の国であるから、愛の頂点ともいうべき婚礼は適切なたとえとなる。

◇喜びの祝宴のたけなわとなった時に、ぶどう酒が尽きた。これは人生の喜びはしばしば断ち切られることを示している。「涙と共にパンを食みしことなきもの、嘆きつつまどろみて暁を待ちしことなきも、神よ、かかる者は汝を知らず」(ゲーテ)。

◇主イエスの母がこの窮状を訴えて助けを求めたのに対して、主イエスは一見つれない返事をされた。「わたしの時」は、キリストの十字架の時(17:1)であり、そこに主イエスの第一の使命があることが語られている。しかし、主イエスは人間の一つ一つの悩みと悲しみを放置なさらず助けられる。カナの婚礼でも水をぶどう酒に変えて、尽きようとした喜びをとり戻させて下さった。

◇その原動力は何か。人間の喜びと悲しみ、特に悩み苦しみに対するイエス・キリストの「共感」(シンパシー)である。音や運動でも共鳴現象が起ると大きなエネルギーとなる。現代社会は「共感」の反対の「無感動」(アパシー)によって、人が孤立化し社会が分裂している。その中でマザー・テレサのような愛の運動が社会をよみがえらせる。その原動力は人間の罪と苦しみに対する神の共感である。

◇イエス・キリストは「共感]より以上の 「共生」、神が人間と共に生きて下さった姿である。「インマヌエル」(神はわれわれと共におられる)(マタイ1:23)である。今日の世界は環境破壊と人口爆発によって生存の危機にさらされている。これを乗り切るのは、人間同士、生あるものすべての共生の道以外にない。このような中で、イエス・キリストによって、神がわれわれと共に生きて下さったことを深く心に留め、悲しみ嘆くわれわれに共感し、罪と死をわれわれに代って負って、神と人間の共生の道を開いて下さった事を深く心に止め、われわれも共生の道を歩みたい。    

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◆2005.5.15<聖霊降臨祭>

「すべての人にわが霊を注ぐ」 

ヨエル書3:1~5
使徒言行録2:1~13
大村 栄 牧師
 

◇「五旬祭(ペンテコステ)の日」に「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1-4)。ここで起こった出来事は、誰に対しても、その心にとどく神の言葉が語られたということだ。「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです」、とペトロが引用して語ったのが、旧約のヨエル書3章。この預言書は、全体で世の終わりの審きを語る。歴史には始めがあって終わりがある、と考えるのが、聖書の終末論的歴史観である。創造から完成に向かうこの直線的歴史観、人生観には本来、日々目標に近づく期待があり、昨日より今日、今日より明日を待ち望む希望がある。
 
◇ヨエルはその終わりの時が「主の怒り」による「恐るべき、破滅の日」(1:15)だと告げるが、2章ではその怒りをまぬがれる方法を語る。「あなたたちの神、主に立ち帰れ。(そうすれば)主は…くだした災いを悔いられるからだ」(2:13)。悔い改めれば、主は思い直して下さるかも知れない。しかしそこには、イスラエルだけはという限定がある(2:17など)。旧約の預言に、そういう排他的民族主義的な要素があったことは否定できない。けれども今日ペンテコステの日にペトロが聖霊に満たされてこれを語った時、それは民族を越えて世界の希望となった。彼は限定を超えて、「主の名を呼び求める者は皆、救われる」(使徒2:21、ヨエル3:5の引用)を強調する。
 
◇ヨエルの言う「主の怒り」は、被造物でありながら神を裏切る全世界に向けられた。しかし神の子キリストは十字架に死んで、神の怒りを身替わりに引き受け、それによって世界に救いを実現された。ペトロは「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」という預言は、キリストにおいてこそ実現したと告げ(2:22)、更にそれを聞いて心打たれた人々に、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」(同38)と勧める。「悔い改め」は、ヨエルが「主に立ち帰れ」と告げた事柄に他ならない。
 
◇これに従って、「その日に三千人ほどが仲間に加わった」(2:41)。ここに最初の教会が誕生した。神の言葉が語られ、聞かれ、決断を与えることが教会の出発だった。そして今日も私たちの教会に5人の方々が、主の招きに応える者の「仲間に加わった」(受洗)のである。教会は常に、創造から完成に向かう希望の方向を示すと共に、主の招きが、あらゆる人間的な<限定や諦め>を超えて、すべての人に注がれていることを語り続ける。


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◆2005.5.8 <復活節第七主日>「母の日」

「天を仰ぐばかりでなく」  

使徒言行録1:1-11 
 エフェソ書4:1-16
大村 栄 牧師


◇主は復活の後、「40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(使徒1:3)。そして天に昇られた。弟子たちは主の輝かしい昇天を、感動と誇りをもって見上げた。「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」(使徒1:10)。私たちも天を仰いで希望を得ようとする。ゴシック建築のカテドラルなどは、そんな人間の思いを表している。


◇しかしエフェソ書は、昇天の前の段階に注目させる。「9:(キリストは)『昇った』というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか」。主は昇天に先立って地上に降り、私たちの限りある地上の生を共に生きて下さった。フィリピ書2章の「キリスト賛歌」も、キリストの降下と昇天(「謙卑と高挙」)を讃えている。


◇そして「10:この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです」。エフェソ書は、主が天に昇ったのは「すべてのものを満たすため」だと言う。昇天して見えなくなることによって、むしろあらゆる所に行き渡る普遍的な存在となったのだ。


◇そしてあらゆる所に満ちるべきキリストとは、この低いところに「降りて来られた」謙遜と従順の姿勢。すなわち神と人を愛する愛にほかならない。主は私たちをそれぞれの仕方で招き、その愛の実践を私たちに託しておられる。「11:そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです」。宗教家や指導者だけでなく、あらゆる人がそれぞれの持ち場においてキリストの愛を実践する者とされる。


◇「12:こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、…」。私たちがこの地に造り上げる「キリストの体」とは、教会を指す。キリストをかしらとする体であり、様々な部分が互いに生かし合いつつ、主の御用に当たるのだ。「13:ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」。ここにこそ世界の一致と成長の可能性が開かれている。そのような道を示して、主は天に帰られた。


◇主イエスが昇られた天を見上げて、再び来られる日を待つと同時に、主は地上で何をされたか、そして今地上に生きる私たちに何を期待しておられるかを考えよう。そのための媒介として、キリストの体なる教会、<母なる教会>がある。

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◆2005.5.1
 「究極の祈り」
列王記上18:20~29
マタイ福音書6:1~15
牧師 大 村  栄
     
◇「主の祈り」は6つの祈願から成っていて、初めの三つは神に関すること、①御名(神ご自身)があがめられ、②御国(神の支配)が来たらされ、③御心(神の意志)が行われますように。信仰生活の基本は神を第一とする生活だ。祈りは多くの場合、自己の目的を遂げるために神を引き寄せ、その超越的な力を利用しようとする手段である。しかし聖書の教える祈りは、神との人格的な交わりであり、自己の意志を神の意志に従わせる努力である。
 
◇後半も祈りのテーマは三つ。日毎の糧、罪の赦し、悪(誘惑)からの救済である。前半が神のためだとすれば、後半は私たち自身のための祈り。最初の④「日毎の糧」は大きな関心事だが、それを、今日も明日もいつまでもではなく、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」。今日の必要だけを求め、それ以上は神が備えて下さるとの信頼がある。そして自分さえ良ければという独占的要求ではないから、「わたしに必要な…」ではない。世界の人々を含む「わたしたち」の糧を祈り求めよう。
 
◇⑤罪の赦しを求める部分は難解だ。1880年訳の「主の祈り」では、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と唱えるが、「赦しますから赦して下さい」などと条件付きを考える誤解を与える。その路線に立って語られる14-15節は後の挿入だろう。結局赦すことと赦されることは、どちらが先かではなく、神に赦された者として、赦し合う生活に向かうということだ。神との縦の関係が、人との横の関係と密接に関係する。
 
◇⑥「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。わたしたちを誘惑に遭わせるのは神ではなく、私たち自身だ。誘惑に身をさらしながら、しかしそれが災いしませんように、と勝手なことを願う自分を見つめ直させられる。
 
◇かくして「主の祈り」は、人間が自然には祈らない祈りだが、これを祈らないなら私たちの生活は腐敗する。最も不自然な言葉が、冒頭の「天におられるわたしたちの父よ」。本来こう言いうるのは神の子キリストのみだが、主の執り成しによって、私たちは神の子とされた。「キリスト者とは『主の祈り』を祈ることを学んだ人間にほかならない」と言った人がいるほどに、これは私たち信仰の原点であり、「究極の祈り」なのである。“もしあなたが、主の祈りのことばを、真剣に受け取っていないなら、決して「アーメン」と言わないで下さい。”「アフリカの主のいのり」より。
 


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