阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2005年11月)   
2005.11.27
「目を覚ましていなさい」    
マルコ福音書13:24~37
牧師 大 村  栄
    
◇今日から始まるアドヴェントは、「救い主の来臨の前ぶれであり、緊張と信仰とを呼びかける告知の季節」(今橋朗『礼拝をゆたかに』より)である。主の「来臨」とは終末の出来事である。「小黙示録」と呼ばれるマルコ13章は、主イエスの終末に関する教えをまとめた部分である。「14:そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」。抵抗するより、何も考えずにとにかく逃げろと命じられる。終末の裁きとは、いかなる自己弁護や自己主張も通用しない。圧倒的な力で押し寄せてくるものだからだ。

◇マタイ福音書の並行記事(24:40-42)では、「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」。マルチン・ルターは目の前で友人が落雷で死に、自分は助かった経験が契機になって修道院に入ったと言われる。なぜ自分だけが助かったのか。そんな問いに対する聖書の答えは合理的な説明ではなく、哲学的な論理でもない。神の裁きとその延長に備えられている終末の裁きとは、あらゆる人間の知恵や理屈を超えた圧倒的なものだということを告げ、だから人はただ神のご意志に信頼し、おまかせするしかないということを教えるのだ。

◇だが終末は暗い、恐いとは言われていない。「28:枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる」。主イエスは終末のしるしを、万物が凋落していく冬のイメージでなく、生命の躍動する夏のイメージで表そうとされる。聖書の信仰の究極は、夏のような明るくて暖かな時の到来を希望の内に待つということだ。いたずらに終末の恐怖をそそったり、焦らせたりする宗教は私たちの信仰とは決して相容れない。

◇「32:その日、その時は、誰も知らない」。この明るい終末は遠い将来の事柄ではなく、突然やってくる。「35:だから、目を覚ましていなさい」と言われるが、眠らないで疲れ果てても困る。花婿の到来を油を用意して待っていた思慮深い5人と、そうでない愚かな5人の乙女たち、実はどちらも眠気がさして眠り込んでいた(マタイ25章)。「目を覚ましていなさい」とは、いわば油を用意した上で安心して眠るということである。心に信仰の備えをした上で、神に委ねて平安な日々を過ごすということ。「その日、その時は、誰も知らない」のだから。

◇始めのクリスマスを与えて下さった神が、きっと再び圧倒的な力をもってこの世界に臨み、私たちの理想や希望にはるかに優る形で、救いを実現して下さる。それを信じて待つ信頼と信仰の季節としてアドヴェントを過ごしたい。

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2005.11.20
「共にいます主」    
マタイ福音書14:22-33 
小林眞先生(教団副議長・遠州教会牧師)

◇「湖の上を歩く」の小見出しがある今日の箇所を注意して読むと、「24:逆風のために波に悩まされていた」弟子たちは、主イエスに助けを求めていない。マタイ8章では嵐に悩む舟に共に乗っておられる主に、「助けて下さい」と叫んだ彼らだが、今回主イエスは陸に残っておられる。こんなに遠く離れたところから助けを求めても無駄だと考えたのである。

◇こんなことは祈っても無駄と思うような時も、そう思わせる現実の壁をこえて主はおられる。兄と対立して父の家を飛び出し、荒野を旅するヤコブは夢で神のはしごを見て、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」(創世記28:16)と言った。まさかこんなところでは、と思うところにおいても、主は共にいて下さる。

◇水の上を歩いて近づいて下さった主に、ペトロは「そちらに行かせてください」と願う。嵐の中でも毅然として歩ける者になりたいと願ったのだろう。こうやって自分の能力とは別の根拠にゆだねて生きることを願う時に、「来なさい」と主は招かれる。これに応えて歩み出すことが信仰生活である。

◇「30:しかし、強い風に気がついて怖くない、沈みかけたので『主よ助けて下さい』と叫んだ」。まっすぐに主を見つめていた時は水の上を歩けたが、周囲の現実に目が向いた途端に沈む。8章では「助けてください。おぼれそうです」と叫ぶ弟子たちを主は「信仰の薄い者たちよ」と叱られた。私たちも現実の厳しさに悩む時に、不信仰を叱られなければならないのか。「おぼれる」は「滅びる」の意味。すべてがおしまいになってしまう事態のことだ。彼らはそうなると思って叫んだのだ。

◇しかし実際は主によってさらに先に可能性が拡がっている。どんな絶望のときにも、主による平安がある。死さえも終わりではない。「 わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる」(詩編23:5)。そのことに気付かないで嘆いている者を主イエスは叱られる。そして沈みかけたペトロに「手を伸ばし」、一緒に舟に乗り込まれた。そこはペトロの元いた場所である。主によってそれぞれの生活の場へと遣わされるのだ。

◇「1:弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」たのは、彼らの常識や推測を超えて、主が共にいますことを示すためだ。マタイ福音書は「インマヌエル、神は我々と共におられる」(1:23)から、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20)に至るまで、「共にいます主」を証ししている。そしてそのことがキリスト教の最大のテーマなのである。
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◆2005.11.13
「何をしたら救われるのか」   
マルコ福音書10:17-31
牧師 大村  栄
   

◇ある人が主イエスに、「17:善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」とたずねると、主は、「19:殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という十戒の後半の掟を提示された。十戒は前半で神を愛し、後半は人を愛せよと命ずる。どちらも「愛を生きよ」との命令である。彼はそれに対して、「20:そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と応える。彼は愛を、単なる命じられた掟としてしか捉えていないのだ。

◇主はそんな彼をじっと見つめ、「21:あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」。愛するとは差し出すこと、捧げること。それを実践して富を手放し、天に富を積む者となれ。そして神を中心とする価値観に生きよと招く。すると彼は「22:この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」。

◇「25:金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたが、金持ちでなくとも、自分の持ち物に執着する者は救われないとしたら、「26:それでは、だれが救われるのだろうか」。

◇ご自分を「17:善い先生」と呼ぶ彼に対して主は、「18:神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と答えた。どんな「善いこと」をすればよいのかではなく、唯一の「善い方」である神に信頼することが大事なのだ。「27:人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と主は言われた。だとしたら神は、かたくなな私をも救って下さらないはずはないと信じたい。多くのものを捨てられない自分をそのまま神にゆだね、この私をまるごと赦し、救って下さいと神に信頼する時に初めて、救いの希望が与えられるのだ。

◇あの青年はその後も悲しみを抱え、どうかこの罪深い自分を救って下さいと祈り続けたかも知れない。去っていく彼の背を見てペトロは、「27:わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と誇って言った。自分たちは真っ先に救われる資格があると自負する彼に主は、「31:先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われた。あの悲しみながら去っていった青年を、その「後にいる多くの者」の一人に加えて考えてはいけないだろうか。
 
◇「よい子になれないわたしでも、神さまは愛してくださる、ってイエスさまのお言葉」(讃美歌21-60)。人間の完全を目指すのでなく、キリストを通して神の完全に信頼し、委ねていく者でありたい。


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◆2005.11.06
「口先だけでなく」
ヤコブの手紙2:14~26
牧師 大村  栄
   

◇ヤコブの手紙は伝統的に「主の兄弟(イエスの弟)ヤコブ」の作とされてきたが、最近はもっと後の2世紀初頭、パウロ以後とする説が強い。パウロはローマ書で「信仰義認」の教理を確立したが、それを逆手にとって、信仰さえあれば愛の業はしなくても良い、と言い出す者が出てきた。そこでヤコブ書の、信仰と同時に行為を重んじる教えが必要になってきたのである。そんなヤコブ書を「わらの手紙」と呼んだのは、パウロのローマ書を根拠に「信仰のみ」を宗教改革の旗印としたルターだが、パウロも「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(1コリント13:2)と述べており、愛の志しと実践は、聖書全体が示す信仰の実質であることが分かる。

◇最近「ホワイトバンド」が出回っている。「世界の貧困を気に掛けている」ことの表明として腕に着ける。教会もこのような問題に、聖書の語る愛の実践として取り組んでいる。阿佐ヶ谷教会は特にこの一年、アジア学院との関係を大切に考えてきた。また私はかつて日本国際飢餓対策機構というNGOとの出会いを体験した。総主事の神田英輔牧師を1999年の清水市民クリスマスに講師として招いた際に、彼は「南米ボリビアで飢餓に苦しむ方々の姿に触れた時、それまで伝道者として自分の語ってきた神への『愛』、隣人への『愛』が、言葉や口先だけでのものでしかなかったという悔い改め」に導かれたと語った。

◇また神田先生は講演の中で、明治の文豪二葉亭四迷が、英語の I love you を日本語に訳す際に、「おまえのために死ねるよ」と訳したことを教えて下さった。ちなみに二葉亭四迷というペンネームは、「くたばってしめえ」と父親に言われた経験から付けたものらしい。そんなふうに罵倒し合い、互いの生きる価値を破壊し合うような世界の中で、「おまえのために死ねる」と言って下さり、それを真に実践した人がいたことを、教会は語り続けている。

◇古井戸に落ちた旅人に、上から説教したり、綱だけ投げて終わるのでなく、自ら古井戸に降り、泥まみれになって肩にかついで這い上がって下さる。そういうイエス・キリストの十字架の愛、そしてこの「独り子をお与えになったほどに、世を愛された」神の愛(ヨハネ3:16)を知る者は、隣人が困っているのを見た時に、もはや「口先だけで」慰めて終われるはずがない。

◇だが私たちが、行動を起こせない自らの弱さという現実に悩む時、その悩みのただ中にこそ、ただひとり口先だけでなく命がけで世界を愛し、私たちを愛して下さる方が共におられる。


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