阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2005年10月)   
◆2005.10.30 降誕前第8主日礼拝

「堕罪-カインとアベル」

創世記4:1~12 

牧師  大村 栄
      

◇降誕前節(契約節)には天地創造の物語を読む。創造の歴史は同時に、人間が神の意志に逆らってきた罪の歴史でもある。どうやって人間は、そのような罪の体質を身に着けてしまったのか。その克服法はあるのか。

◇禁断の果実に手を伸ばしたため、楽園を追われたアダムとエバに生まれた長男が、人類最初の殺人者カインだった。「2:アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった」。両者が捧げたそれぞれの捧げ物において、主は「5:カインとその献げ物には目を留められなかった」。なぜその差が生じたのか。弟アベルには要求以上を捧げようとする積極性があり、カインにはそれがなかったとする説もあるが、本当の理由は私たちの測り知るところではない。一方は祝され、他方は退けられるという不公平や不条理が世に存在する。それを言うのがここでの本質的主題なのだろう。

◇問題はその先にある。理由もなく自分だけが退けられる不公平に、「5:カインは激しく怒って顔を伏せた」。そして神に背を向けたままで、怒って弟を殺してしまう。「9:おまえの弟アベルは、どこにいるのか」と問う神は、当然すべてを知っていてカインの応答を求めている。禁断の果実を食べて身を隠していたあの二人に、「どこにいるのか」(3:9)と問うたのと同様だ。これは神が罪人をも見放さないことの現れである。そういう神の前で、カインは自分だけが顧みられない不公平を感じても、諦めて顔を伏せてしまうのでなく、むしろ顔を上げて「神様なぜこんなことをするのですか」と問い返すべきだった。それが本来の神と関わる方法なのではなかろうか。

◇旧約聖書には神に「なぜ」と問う言葉が多く見られる。ヘンデルのメサイアで歌われる詩編22編では周囲の嘲りや迫害に嘆く詩人が、その冒頭で「1:わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」と神に激しく問うている。この一行をアラム語で読むと「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。これを叫んで息を引き取ったのが十字架上の主イエスだった。

◇私たちの周りには、これでも神がいるのか、と思わせるような不条理が満ちている。しかしそれでも一体なぜですかと問い続けるならば、神はきっと何らかの応答をして下さるに違いない。その最大の保証が、キリストに起こった復活の出来事である。

◇問いを発する相手があり、問いは聞かれると確信できることが、信仰者と教会の宝である。カインの末裔で罪の体質を持つ私たちだが、十字架を見上げるたびに、独り子を賜うた神の愛への信頼を回復しよう。

 


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◆2005.10.23<在天会員記念礼拝>

「ともし火を備えて待つ」

マタイ福音書25:1-13

牧師 大村  栄

 
◇教会暦では今日から「降誕前節」、別名「契約節」とも言う。イエス・キリストの降誕は突如起こったのでなく、神による救いの約束の中に実現したということを心に留める時期だ。在天会員335名の人々も、今を生きる私たちも皆、神の約束の歴史(救済史)の中に生かされている。

◇その救いの約束が最終的に成就するのは、キリストが再び来たりたもう時である。この再臨待望、終末の期待こそがキリスト教の起こりであったとも言える。その期待は逆境の中で特に深まった。ローマ帝国の直轄領となって以来、弾圧の歴史に生きたユダヤ人だが、その中でキリスト者たちは「主は近い」と信じて希望を持ち続けた。しかし迫害は一層ひどくなる。こんなに待ってもまだ主は来ないのか…、本当に来るのか…、という疑念が生じていた。マタイ福音書が編集された80~90年頃というのは、そういう初代教会の危機的時代だったのである。

◇花婿の到来を期待して待つ人々がいた。「5:ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった」。ここに「終末の遅延」の問題が扱われている。もう来ないのでは、という信仰の「眠気」が起こってくる。しかしどんなに遅くなっても、キリストは必ず来る。「6:真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」。だがともし火に油を用意していなかった愚かなおとめたちは、買いに行っている間に、婚宴から閉め出された。

◇世の終わりを語るほかの部分で、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ24:12-13)。闇のような時代にも最後まで耐え忍びつつ、愛を冷やさずに持ち続けること、それが油を備えておくということだろう。「夜は更け、日は近づいた」(ローマ13:12)。夜が深まれば、必ずやその先に朝が到来するのだ。

◇クリスマスを12月25日に祝うようになったのは、冬至と結びついたからだと言われる。冬至は一年で夜が一番長い日。闇夜の暗さがここに極まり、これ以後は光が勢いを盛り返していく。イエス・キリストの誕生は、世界の歴史の中でそういう逆転が起こったことなのだ、という思いを込めてこの日が降誕祭に定められたのだろう。どんな闇夜にも、独り子を賜うた神の愛がきっと勝利する光の時が必ず来る。

◇聖書の告げる救いは、個人の生涯においてのみ完結するものではない。それは世界と宇宙の歴史全体をステージとして展開される。その壮大な約束の歴史の中に、私たちは天にある者も、地にある者も、それぞれ命を与えられているのである。

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◆2005.10.16<全家族礼拝>

「大事なあずかりもの」

マタイ福音書25:14-30

牧師 大村  栄


 ◇主人が旅に出る際に、三人の僕にそれぞれ5、2、1タラントンを与えた。5Tと2Tの僕はそれで商売をして倍に増したが、1Tの僕は地中に隠しておいた。やがて帰ってきた主人は、商売をした二人を誉めたが、1Tの者を「怠け者の悪い僕だ」と叱りつけ、「外の暗闇に追い出せ」と命ずる。タラントンは英語のタレント(才能)の語源だ。1Tの者は自分に与えられたものが乏しく、劣等感に悩んだに違いない。それをこんなに叱られるのは理不尽ではないかとさえ思う。

◇1Tの僕は量を気にしてか、預かったものを無くさないよう、これに手を付けず、危険を冒さないで安全に取って置いた。しかしこういう態度は神の裁きを受ける。ルカ福音書16章19節以下に「金持ちとラザロ」という主イエスのたとえ話がある。

◇ある金持ちの家の門前に、ラザロという名の貧しい人が重い病気で横たわっていた。やがてラザロは死んで天国に行く。金持ちも死ぬが、こちらは陰府(地獄)へ落とされる。何がこのような逆転劇を生み出したのか。金持ちはラザロに何か悪いことをした訳ではない。ただ彼は自分のすぐそばで苦しんでいる者を見ても、何もしなかったのだ。聖書は悪いことをした人の罪を責める以上に、良いことをしなかった人の罪を問題にする。1Tの僕も、それを無くしてしまうような悪いことはしなかったけれど、活かし用いるという良いこともしなかった。だから外の暗闇に追い出されてしまうのだ。

◇ペテロの手紙一は「万物の終わりが迫っています」(4:7)と、キリストの再臨(=主人の帰宅)を語った上で、続く10節でそれに備えて「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」と教える。「賜物」がタラントンのことであり、それは「さまざまな恵み」であるとも言う。量が違うだけでなく、それぞれ一人一人に異なった、しかし最も相応しい形で、神様からの「恵み」として頂いているのだ。決して一律の規準で比較されるべきものではない。

◇そしてこれは「互いに仕え」るために、つまり自分の満足のためでなく、他者のため、互いを尊重し合う世界のために用いられねばならない。神様は私たちを信頼し、期待して預けて下さったのだから、少しでも期待に応えられるよう心掛けて、この「大事なあずかりもの」を用いたいと思う。

◇そのために時には勇気や忍耐が必要だ。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(イザヤ43:5・今年度の教会標語)と支えて下さる神を仰いで踏み出そう。

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◆2005.10.09<神学校日・伝道者献身奨励日礼拝>

「敬神愛人 ー共存する世界へ」

ローマしょ:8-18

東京神学大学教授 棚村 重行 先生

◇日本人にとって15節は不思議な感じがする。それは「足」にまつわる慣用句は、美的イメージを伴わないからだ。この15節はイザヤ52:7を踏まえているが、パウロはここで一体、何を言いたかったのだろうか。

◇この箇所を読む毎に、映画『炎のランナー』を思い出す。若者が目標を目指し懸命に走る。その足並みが人生の真剣さを示している。パウロも、救いを一途に伝える伝道者の足をイメージしていたのか。

◇16節にはイザヤが直面した伝道の悲しい現実がある。パウロを悲しませたのは、ユダヤ人が福音に聴くことを頑なに拒否していること(1-3節)。新約に於ける「神の義」は「福音」である。神による一方的な愛と裁き、そこから罪の赦しや永遠の命が出てくる。この「神の義」に対する人間の姿勢は一つしかない。ただ信仰のみにより、福音を受け入れることである。

◇ユダヤ人が言う義とは、モーセの律法を守る、その守りきった自分を根拠に、神が自分を認めてくれるだろうというものである。『炎のランナー』の主人公ハロルドの姿と合致する。目に見える目標が達成された途端、空しさを感じ、成功の故に新たな意欲を失ってしまっている姿、それは「やりきった自分を根拠に、神が自分を認めてくれるだろう」という姿そのものだ。

◇戦後を経てきた日本人が最も好きな諺は「人事を尽くして天命を待つ」だと言われる。これも考えてみれば、「頑張った自分を根拠に、神が自分を認めてくれるだろう」という姿勢であるということができる。

◇しかしパウロは「自分の義」・「律法の義」ではなく、キリスト教信仰の自由な世界を語っている。宗教改革者たちの言葉を借りれば、「キリストのみ」「恵みのみ」「信仰のみ」。それだけではない。心と口という、内から外にあふれる讃美。三一の神を呼び求める世界教会が外側に向かって生まれてきているではないか。そこには同じ主がおり、聖霊が働いているではないか。どんな時、地であっても、伝道の「炎のランナー」の原動力はここに由来している。

◇映画のもう一人の主人公エリックは宣教師の子であった。それゆえ、「神の栄光のために走る」。正に伝道者の姿である。 ◇『炎のランナー』のラストシーン、それは一体何を意味するのか。それは人間のものさしで勝敗を測ってはいけないということ、神の御目から見て、この世のものさしから自由にされ、本当に神のために走り尽くした人の足はなんと美しいことか、と。 「出でよ、炎のランナー」。

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◆2005.10.02<振起日礼拝>

「神のものか、人のものか」

マタイ福音書22:15-22

牧師 大村  栄


◇宗教正統派を自任する「ファリサイ派の人々」は、ローマ帝国による統治への反体制、野党勢力である。一方「ヘロデ派の人々」はローマの援助によってヘロデ王家を再興したいと願っていた与党体制派である。この両者がイエスをおとしめるという一点において一致し、共同戦線を張った。 ◇彼らの問い、「17:皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」。主はそこに悪意を見抜いて、「18:偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか」と言われるが、論争を拒絶はせず、続けて「19:税金に納めるお金を見せなさい」と言われた。そのデナリオン銀貨の表面にはローマ皇帝の肖像と文字、「崇拝すべき神の崇拝すべき子、皇帝ティベリウス」が刻まれている。これは単なる通貨ではなく、皇帝崇拝のシンボル、偶像と言えるものだったのだ。

◇主はこれを見て言った、「21:皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。皇帝の像が刻まれている貨幣は皇帝に返せばいい。社会的義務は果たそう。だが私たち人間には神の像が刻まれている(創世記1:27)のだから神に帰属し、この世の事柄には相対的に関わればいい、のだろうか…。そのような解釈の仕方には、信仰と生活の分離を引き起こす危険が隠されている。

◇もっと良く読もう。「17:皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」という問いは、ローマへの納税が「合法か、非合法か」を問うており、事柄をあくまで「法」という人間の基準で判断しようとする過ちを犯している。「18:偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか」と言われた主は、そういう問いの立て方自体の中にある偽善を指摘した。合法(非合法)という枠組みの下に事柄を正当化し、自分たちの権威を維持しようとする両派は、揃って人間的傲慢におちいっているのだ。

◇21章18節以降、受難週の「論争の火曜日」に展開された論争の中心は、そして聖書全巻の中心とも言えるのは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」(22章34-40節)だ。だとすればこの世界の何が「神のもの」で、何が「人のもの」かを問うのでなく、すべては神のものであって、その一つ一つに私たちは愛をもって臨んでいくべきなのである。

◇「地はお造りになったものに満ちている」(詩編104:24)。すべての被造物を愛するがゆえに、ひとり子の犠牲によってそれらをご自分に取り戻し、赦し、生かそうとしておられる神の恵みに応えたい。今日は世界の教会、すべての被造物と共に、恵みのしるしである聖餐にあずかろう。

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