阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2005年8月)   
◆2005.8.28<降誕節第十六主日礼拝>

「未来を信じて待つ心」

マタイ福音書13:24-43

牧師 大村栄

 

◇「24:天の国は次のようにたとえられる」。天の国と同義の「神の国」は6章などにある。「何を食べようか、…と思い悩むな。何よりもまず、『神の国』と神の義を求めなさい。そうすれば、…」。生死を超えて求めるべき神の絶対的支配。すべての思い悩みを捨ててこれに委ねるなら、神は最善をなして下さる。そう信じる信頼と希望を生き、宣べ伝えるのが伝道だ。

◇13章前半に伝道を象徴する「種蒔きのたとえ」が語られる。どんなに効率が悪くても、あらゆる土地に種を蒔き続ける主にならい、教会は愛と忍耐を持って御言葉の種を蒔く。しかしその直後にある今日の「毒麦のたとえ」で、種蒔きに対する妨害があると言われる。「25:人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った」。「毒麦」は食べるとめまいや吐き気を起こす。後半の説明では、「39:毒麦を蒔いた敵は悪魔」。人の心に巣くう悪魔的な思いである。

◇私たちは、それを早く排除しなければと考える。畑の僕たちも、「28:行って(毒麦を)抜き集めてきましょうか」と進言するが、主人は、抜かないで「30:刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言う。麦と毒麦は識別しにくいから「そのままに…」と言われたのだとすれば、私たちが善、悪のレッテル張りをして「悪」を排除することの傲慢さを指摘していると考えられる。根が絡み合っているから無理に抜くなと言われるのならば、今あせって抜かなくても良い。毒と思われる存在もいつかきっと良い麦に変わるかも知れない。今という部分しか見ないで、全体を裁いてはならない。これら主の言葉は神の忍耐を示す。

◇「39:刈り入れは世の終わりのこと」。種蒔きの総決算は、世の終わりに神によって行われる。身近なところで伝道の成果を喜んだり嘆いたりする必要はない。ひたすら種を蒔いてあとは主に委ねよう。私たちの思いを越え、限界を超えて、人間の目には「毒麦」としか見えないようなところにさえ、神の恵みが及ぶことを信じたい。

◇毒麦を抜かずにいるのは忍耐を伴うが、私たちの忍耐に先立って主の忍耐がある。「子を育て/学びしことは/赦すこと/いつも待つこと/祈ること」(阿部光子)。子育てや様々な試練の中で忍耐し、祈って待つ私たちが、実は神の忍耐の中に赦され、待たれている。これが最大の希望である。

◇現在は「31:からし種」のように小さくても失望する必要はない。神への信頼によって、どんな小ささ、弱さにも、直面する困難にも希望を持って忍耐することが出来る。信仰によってこの希望を養われ、<未来を信じて待つ心>を持って生きていこう。

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◆2005.8.21<降誕節第十五主日礼拝>

「もう待たなくて良い」

ルカ福音書7:18-23

神学生 北中 晶子

 

◇主のご降誕の何百年も前から一部のユダヤ人の間で受け継がれてきたメシア待望の教えだが、洗礼者ヨハネは、メシアは今こそ現れるのだと人々に説いた。「来るべき方はあなたですか、それとも他の方を待たなければなりませんか」というヨハネの間いのように、私達は誰もが、自分自身で「ナザレのイエスとは誰なのか」という問いに答えを出す他ない。


◇ヨハネは主イエスが救い主であることの確認を求めたが、主はこれに対してただご自分の奇跡を示された。あなたはこれ以外の何を待ち望むのか、私の実現している奇跡に目を開き、人々の喜びの声に耳を開きなさい、それによってあなたの問いに答えを出しなさいと主は言われた。


◇私達は自分が正しいかどうかの確認を思わず求めてしまう時があるが、本当に必死な時、人は確認などするだろうか。自分の身に奇跡が起こった時、その奇跡を起こしてくれた人に対して「まだ待たなくてはなりませんか」と聞くだろうか。主はご自分を、健康な人ではなく病人のために来た医者にたとえられた。健やかであっては知ることのできない喜びを主はもたらした。


◇ルカによる福音書15章の三つの話を思い起こせば、そこにあるのは迷子の一匹の羊・なくなった一枚の銀貨・身を持ち崩した駄目な息子の身になってみなければ、決して知ることのできない喜びばかりだ。主は私達に、強く賢く正しくあることを求めない。裁きの主や怒りの神は確かにあるが、私達と主との関係において何よりもまず先に来るのは、神の憐れみであり、その次は喜びである。


◇私達は心が砕かれて初めて救われたいと望み、そう望んで初めて奇跡の喜びを知る。正しさを求めるより、ただ必死の思いで救いを待つ事ができるなら、私達はもう待たなくて良いという福音を確かに聞くことができる。


◇私達の中には強い人もいれぱ弱い人もいる。だが完全無欠さは、神の愛の敵である。神に愛された偉大な王と言われるダビデさえ恐るべき罪を犯した。人の弱さ惨めさを見下すものは、救いの喜びを知ることができない。弱い人も強い人も一同に、私達の弱さ惨めさをこそ憐れみ癒すこの人は、あなたにとって誰なのかと間いかけられている。苦しみが苦しみのままではなく、死んだ人も死んだままではない。この偉大さを驚きと共に喜ぶことのできる人は、いかにも幸いな人である。またこの喜びを証する教会は、いかにも幸いな群れとして、まさに恐れずに歩むことができる。

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◆2005.8.14<降誕節第十四主日礼拝>

「救いの宣言」

マタイ福音書15:21-28

伝道師 川俣 茂

 

◇主は群衆たちの追求や誤った期待を避ける為にティルスとシドンの地方に退かれた。祈りや黙想の時を過ごす為であったが、ここでも主を必要とする者が待っていた。


◇カナンの女の叫びは、主がどのようなお方か、ある程度知っていたことを示し、それに基づいた信頼があったことを示す。


◇これに対する主の答えは沈黙であり、直接的な宣言による拒絶だった。ご自分の働きがイスラエルの民に限定されていることをはっきりさせている。神の国への道というものは、まず神によって選ばれた契約の民に示されねばならないということだ。


◇それでもこの女性は、自分を犬とされたことに憤るどころか、主に全ての希望を託すかの如く、「主よ、どうかお助けください」と語る。この女性はイスラエルの救いの優先性ということを知っている。しかし「子供たち」がパンを与えられて、そのパンの意味を本当に理解し、眞の意味でパンに与っているかと考えた時、その大多数はそうではなかった。そう考えると、もしかしたらこの食卓は空席だらけだった、閑散とした食卓だったかもしれないのだ。


◇この女性が求めたものは「パン屑」。それによって必要なものが満たされるという信頼に基づき、求めた。主の力、憐れみ、慈しみは大きいものがあると同時に、それに対する信頼がここで示されている。


◇主がこの時代に為したことは、神への信頼を回復させること、つまり神を信頼できない人々を神へと立ち帰らせることであった。そこで主は何をしようとしたのか。信仰を見つけようとし、生み出そうとした。


◇「信仰」というものは、本質的には個々人、一人一人に関わること。主は一人一人、その人の状況と必要とに応じて、接し、導かれる。我々に決定権があるわけではない。あきらめている自分を捨て去って、主が助けて下さると確信すること、神の為さんとすることを絶対的な信頼を以て受け入れるのが信仰である。この信頼が回復された時にこそ、主による「救いの宣言」が為され、「癒し」も起こるのだ。


◇秋田に赴任した神学校の同級生と、「信じる」・「すべてを委ねる」ことについて話すことが多い。すべてを委ねると言いつつ、その実、すべてを委ね切れていないことがある。そのような時にこそ、聖霊の働き、導きを信じ、そこにこそすべてを委ねる。この女性は主に全てを託し、全てを委ねることによって、主に信頼を示したのだ。


◇この女性に為された「救いの宣言」、それは今を生きる我々も与ることが許されている。そのことを感謝を以て覚えたい。

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◆2005.8.7<平和聖日礼拝>

「人間であるということ」

創世記2:4b-25

牧師 大村  栄

 

◇「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(7)。神は陶芸家が粘土をこねて作品を作るように、人間を造られた。私たちは神の被造物。自分で始めた人生ではない。イザヤ書46:4「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」。土から出て土に帰る弱さともろさを持った存在だが、これに神が「命の息を吹き入れた。それは「霊」という意味もあり、神の命、力、愛を表す。それらが私たちの内に宿っているのだ。こうして神のパートナーとして生きることを許されたのが私たち人間である。

◇「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し守るようにされた」(15)。神はパートナーとしての人間に、被造物世界の管理という職務を与え、神の作業に加わることを期待される。だが人類はこれを忠実に担うより、自らの欲望に身を委ねて生きる道を選ぴとってしまう。そのことを語るのが3章の物語。へピが誘惑する禁断の果実は、「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」(3:6)。これらの欲望に溺れた結果が自然破壌であり、戦争である。

◇神はなぜ背かない人間を造らなかったのか。食べるなと言われたら絶対に食べないのは生きた人間ではない。神は人形やロボットではなく、愛の対象としての人間を造られたのだ。子供たちは自由を求めて親から自立する。むしろそれを促し、助けてやるのが親の使命であり、また教育の課題であろう。愛する者に自立的に生きてほしいからこそ、神は人間に命を活用する自由を与えられた。それを感謝して互いに尊重し合うべきで、侵害してはならない。「子どものいのちは親のもの」、「国民のいのちは国家のもの」などという命の私物化や独占があってはならな。「自分のいのちは自分のもの」と考えることも、創造主への感謝と敬意を欠くと言わざるを得ない。

◇神は最初の人間である男に、「彼に合う助ける者」(18)として女を造られた。人間は自分とは違う他者と、共に生きる様に定められている。神のパートナーとして、神と向き合って生きる神との縦の関係が、横の関係に反映して、男と女、人と人という、もう一つの向き合ったパートナーの関係を与えられている。この縦と横の二つの関係が調和を取るときに、人間が人間らしく生きる生き方が与えられるのである。

◇戦後60年、今度こそ創造主への畏敬と感謝、人間相互の敬意を実現しよう。それを人間であるということの原点としたい。

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