阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2005年7月)   
◆2005.7.31<聖霊降臨節第十二主日>

「教会-苦難の共同体」

使徒言行録20:17~35

牧師 大村  栄

 

◇パウロがエフェソ教会の長老たちに残した「惜別説教」である。同胞による迫害という試練を過去に経験し、将来にも苦難が待っていることを予感しているパウロだが、臆することなく命がけで「21:神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰」とを語り続けてきた。

◇「悔い改め」は人生の方向転換だ。使徒言行録の著者でもあるルカの福音書には悔い改めの勧めが 多い。有名なのは15章にある三つのたとえ。「放蕩息子のたとえ」では、苦難の中で息子自身が「我に返って」「父のもとに帰ろう」と決意する。これが「神に対する悔い改め」だ。「迷子の小羊」では、羊飼いが小羊を谷底まで探し求める。この羊飼いの捜索によって、「我に返る」ことのできない小羊も立ち帰る。この羊飼の呼び声に気付くことが「わたしたちの主イエスに対する信仰」である。

◇度重なる苦難の中でパウロはこれらのことを、「31:三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきた」と言う。教会を愛し、命がけで語りかけてきた彼に、それをさせた動機がある。それは「28:神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」という言葉に込められた神の愛である。神は御子の血を流してまで、教会をご自分のものとされた。この言葉は「神が御子の血によって御自分のものとなさった<世界、その恵みを宣べ伝える>神の教会」と意訳することも出来るだろう。


◇ノアの洪水後に神は言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。…この度したように 生き物をことごとく打つことは二度とすまい」(創世記8:21)。創造後に「極めて良い」(1:31)と喜ばれた世界を滅ぼすことは、神の本意ではなかった。繰り返される「二度とすまい」は後悔と同時に、今後は人間の罪を忍耐すると神が決意されたことを示す言葉である。


◇しかし人類の罪を見過ごさない正義の神は、「この度したように」処理はしない代わりに他の方法で処理する。それが独り子を十字架につけるという方法だ。そうやってご自分の独り子に担わせることによって世界の罪を赦し、そういう方法で世界を愛する愛を貫徹されたのである。「神が御子の血 によって御自分のものとなさった」世界に、教会はこの神の愛を宣べ伝える。


◇教会は幾多の苦難の中でそれを語り続けてきた。そういう歴史の中で育った教会は、苦難を忘れる逃避の場でなく、それを共に生きる「苦難の共同体」である。この共同体に愛の神が共におられる。そのことを宣言するのが高い所にある十字架である。


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◆2005.7.24<聖霊降臨節第十ー主日>

主の名によって恐れずに

使徒言行録9章26~31節

北川 善也 伝道師

 

◇サウロが回心に至る出来事の中で最初にしなければならなかったのは、「サウル、サウル」と呼びかける声に「主よ、あなたはどなたですか」(5節)と尋ねることだった。つまり、彼は天からの光に照らされ無力な者とされることによって、ただ主の名を尋ね求めるしかない存在へと変えられたのだ。しかしそれだけでなく、彼は人々に手を引かれなければダマスコに行けなかったし、目が見えず食べも飲みも出来なかった彼は、アナニアによって手を置いて祈られなければ見えるようにならず、洗礼を受けなければ元気を取り戻すことは出来なかった。あの衝撃的な出来事によって、内面的には一瞬にして回心が与えられたかも知れないが、彼が肉体の行動を変えていくには、なお人々の助けが必要だったのだ。

◇アメリカンフットボールでは、司令塔と呼ばれるクォーターバックを守り抜き、前進させるために他の選手は身を挺して相手の前に倒れ込み、何人もの大男たちに押し潰されたり、踏み付けられたりすることを厭わずひたすら動き回る。それを彷彿とさせるかのように、サウロは彼を殺そうとする者たちから「弟子たち」によって助け出され(23節以下)、その回心を信じないキリスト者との関係を「バルナバ」によって取りなされた(26節以下)。また、裏切り者を殺そうと狙うかつての同僚たちから「兄弟たち」によって守られた(29節以下)。

◇O.ブルーダーの『嵐の中の教会』は、ドイツの山深い村の教会に遣わされてきた、若く伝道意欲に燃えた新任牧師の物語である。牧師は暗い時代の到来を感じ取る。教会員の中にナチス党員のリーダー格が存在し、ナチスによる「ドイツ的キリスト教」運動の勢いに乗じて教会を支配しようとしていたのだ。しかし、牧師を始めとする教会員たちの多くはこうした勢力に抵抗し、牧師は礼拝の中でナチスを厳しく断罪する。この物語の中で注目すべきなのは、牧師が窮地に立たされそうになると、すぐさま牧師を守り、支えていく教会員一人一人の働きだ。牧師はこうした助けなしに暗闇の勢力と闘い抜き、正しい福音伝道を貫き通すことは出来なかった。

◇我々は伝道の業にたった一人で取り組むことは出来ない。助け合い支え合う共同体としての教会に、主が御霊を注いでくださることにより初めてそれは可能となる。教会が絶えず御言葉に聞き、その福音によって生かされているという喜びを増し加えられ、外に向けてその喜びを証しする共同体であり続けることを心から願う。


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◆2005.7.17<聖霊降臨節第十主日>

「さあ、ここから出かけよう」

ヨハネ福音書14:15-31

川俣 茂 伝道師

◇主イエスは、自分に従う者ならば、自分が与えた掟を守るということによって、その愛が表現されているということを語り、祈りを聞き届けることを約束している。その結果として父なる神は「別な弁護者」を送る。これは「真理の霊」であり、「永遠に」弟子たちと共にいて下さる方である。

◇しかし世は「見ようとも知ろうともしない」。それは聖霊について、主イエスについて言える。主が語ること、それは遠い将来についてではない。十字架の時が近づいている。十字架は主を人々から引き離すものではあるが、あくまでしぱらくの間であり、主が消え去ることによって、逆に「キリスト」は「生きる」ことになる。それは我々にとっても重要な意味があるのだ。

◇愛する者はその愛する人の掟を守る。主を本当に受け入れ、愛する者はキリストの掟を守る。そのような人を父なる神だけが愛するのではなく、子なるキリストも愛して下さる。つまり愛が愛を呼び起こすのだ。

◇聖霊はキリストの業を続ける為に遣わされた存在である。主の教えを不要なものとするわけではない。むしろ思い起こさせられるべきは、主の言葉であり、教えなのだ。

◇主の「ここから出かけよう」という言葉それは父なる神に献身し、従順に従うことを内面的に決断した言葉であるといえる。

◇「さあ、ここから出かけよう」という言葉は、今を生きる我々にも語られている言葉である。しかしどこから「出かける」のか。それはこの礼拝であり、教会である。その教会を讃美歌59番は次のように表現している。「かみのめぐみ、主イエスの愛、ゆたかに満つ、このみとの」「とこしえのさちぞあるこのみ殿」「よろこびはつねにみち/憂きは失するこのみ殿」。このような教会から我々は押し出されるようにして遣わされていく。しかし単に遺わされ行くだけではない。教会は戻ってくる、帰ってくるところでもある。ある教会員の、「教会に来ると思わずくただいま>と言いたくなる」という言葉がそれを象徴している。

◇我々が出かけていくこと、それは世に身を置くことであり、終末へと一歩進むことでもある。本当に信じる者にとって、それは恐れることではない。なぜなら、父なる神は聖霊という必要な助け手を与えて下さるし、神の国に、眞の意味での救いに入れられる日が近づくということになる。信じる者にとって、これほど力づけられ、慰められることはない。そのことを信じ、聖霊の働きにすべてを委ねて、この礼拝から、そしてこの教会から出かけていこう。

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◆2005.7.10<聖霊降臨節第九主日>

「私を見たもう神」

創世記21:9-21
大村 栄 牧師

◇アブラム(アブラハム)は、神の祝福を受けて旅立ったが、祝福のしるしである子供が生まれない。養子を取ろうとするが、「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(15:4)と言われて思いとどまる。しかしその後も生まれない。神による可能性を信じつつ、不可能としか思えない現実にたじろぐことがある。信仰者の苦悩だ。妻のサライが焦って、「わたしの女奴隷のところに入ってください」(16:2)と提案し、計画通りハガルは身ごもったが、その結果、女性二人の関係にゆがみが生じ、身重のハガルはサライの元から逃亡する。神なきところで事を謀る愚かさの結果としての悲劇だ。

◇だが人は見捨てても、神は彼女を見捨てない。「主の御使い」が彼女と出会い、その苦悩を受け止めた上で、「女主人のもとに帰りなさい」と命じる。受容されたことによって、彼女は困難に立ち向かう勇気を得た。主人の家に帰ってアブラムに男子を産み、イシュマエルと名づけられた。


◇17章では、99歳になったアブラハムに主が「16:彼女(サラ)によってあなたに男の子を与えよう」と言われたとき、彼は下を向いて笑い、信じなかったが、主はイサクの誕生を予告し、やがて実現した。

◇するとサラは再び、21章で「10:あの女(ハガル)とあの子を追い出してください」と言って、再びアブラハムを苦しめた。妻の苛立ちに悩む彼だが、「12:すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。13:しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする」との言葉にすがる思いで、二人を去らせた。荒れ野で水が尽きて死にそうになった時、「19:神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた」。絶望の時には見えないものが、主の慰めの中で見えてくる。後にイシュマエル(イスマイール)は父アブラハム(イブラヒーム)と共に、イスラム教の偉大な預言者と呼ばれた。神はイスラエルだけ、キリスト教だけ、教会だけの神ではない、ということか。

◇人間同士の争いにおいて、敗れた側、弱い立場にある者に、人に替わって神が導きと祝福を与える。アブラハムは愚かでだらしのない夫だった。妻に気をつかい、弱い者たちに対する責任を放棄して見捨てた。しかし神がその尻ぬぐいをして下さり、この二人を救って下さる。ハガルの言葉「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」(16:13)。言い換えれば「私を見たもう神」である。私たちは、弱者を見守る神の視線があることを心に刻み、そのまなざしが行き渡るよう配慮したい。

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◆2005.7.3<聖霊降臨節第八主日>
「狭き門より入れ」
マタイ福音書7:13-29
牧師 大村 栄


◇滅びに通じる「広い門」から入るか、命に通じる「狭い門」から入るか、信仰の決断が問われている。家と土台に関する説話では、「24:岩の上に家を建てる」ことと、「26:砂の上に家を建てる」こととが比較される。両者の違いは「24:わたしのこれらの言葉をきいて行う」か否かだ。「聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人」で、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲う」とき、ひどく倒れて跡形もなくなってしまう。

◇信仰の決断と実践の重大さを思うが、同時にその困難さを覚える。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マタイ19:24)と主が言われた時に、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った弟子たちに共鳴する。

◇アンドレ・ジイドの小説「狭き門」は、ノルマンディー地方を舞台に、アリサという女性のプロテスタント的信仰による自己抑制の悲劇を描く。彼女は、救いの道は「狭き門」であって、どんな愛する人とでも二人で一緒に通ることは出来ないと信じた。本当にキリスト教信仰は、二人並んで進むことができないほど狭い道を行くことを、私たちに要求するのだろうか.

◇自己抑制と禁欲に徹し、ラクダが針の穴を通れるほどにやせ細り、あらゆる持ち物をそぎ落として初めて、天国の門を入ることができるのだとしたら、天国の門が本当にそんな「狭き門」ならば、私たちは弟子たちと共に、「それでは誰が救われるのだろうか」とたじろぐのみである。しかし主イエスは弟子たちに言われた。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(19:26)。神が共にいて、この「狭き門」を通らせて下さるのだ。

◇命に通じる「狭き門」を行くべきと知りながら、どうしても広い方に心が向き、「滅びに通じる広い門」に足が向いてしまう弱い私たちに、神は言われる、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする」(イザヤ書43:4)。

◇そして最大の「身代わり」として独り子イエス・キリストを差し出して、私たちを「滅びに通じる門」から引き戻し下さった。今日はその身代わりとなって死んで下さった方の恵みを、身をもって味わう聖餐にあずかる。そんなにしてまで「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(同43:5・年間教会標語)と呼びかけて下さる神に従い、み手に支えられ、勇気と希望を持って人生と歴史を歩むものでありたい。

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