阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2004年12月)   
◆2004.12.26 歳末礼拝
「真理とは何か」
箴言    22:17-21 
ヨハネ福音書5:31-47  
  川俣 茂 伝道師

 

◇この箇所に於いて主は「証し」について語っている。証しとは本人の言葉だけではなく、誰か他の人によるものでなけれぱならない。主の証しは父なる神と結びついているが故に、真実なものである。
 

◇神による証しは主にとって十分なものであった。しかしユダヤ人たちは受け入れず、パプテスマのヨハネが現われた時も結局、その証しを受け入れることはなかった。

 

◇しかし、ヨハネの為した証しは今日まで続いている。彼の為した証しは人々がそれなりに注意を払えば、救いの道を歩むことができたはずなのだ。
 

◇ヨハネは「燃えて輝くともし火」であった。しかしユダヤ人たちは「その光のもとで喜び楽しもうとした」。バプテスマのヨハネは燃え尽きた。しかし主は燃え尽きない。燃え尽きないというのは、「燃え尽きない柴」のように奇跡である。主は一見、十字架によって燃え尽きてしまったように見えたが、実際には燃え尽きることなく、この世を、そして人々を照らしているのだ。
 

◇しかしヨハネの証しは主イエスの証しが指し示すようなものではなかった。なぜなら主イエスは父なる神によって遺わされた方、父なる神から出た方であるからだ。

 

◇父なる神が子なるキリストを証ししている。しかしこれを正しく理解しなかったユダヤ人の姿がある。神の声を聴かず、神の姿を見ず、神の言葉を自分の内にとどめていなかった故に、まことの意味で神に従い、神との交わりを持つ者ではなかったのだ。
 

◇ユダヤ人たちは聖書の中に「永遠の命」があると考えて聖書を研究していた。聖書を正しく読んでいれば、聖書が主を証ししているということに気づいたはずである。しかし実際にはそうではなく、聖書が証ししている主イエスが目の前にいるにもかかわらず、敵対的な態度を取ってしまった。
 

◇「真理とは何か」という言葉は、ピラトの尋問の言葉である。ヨハネ福音書によれぱ、バプテスマのヨハネは「光」について「真理」について証しをする人物であった。ある註解者の言うように、「真理」とは「神の実体」であると同時に、「救いをもたらす福音」であるといえる。
 

◇「真理」というものが「神の実体」であるならぱ、私どもが先に喜び祝った降誕の出来事は「神の実体」がこの世に到来したことにほかならぬ。福音がもたらされ、神による救いの現実性を示された出来事である。そして人となり給うた主の十字架の出来事によって罪赦され、神の憐れみによって救いへと招かれている。そのことに感謝。

 


                                    
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◆2004.12.19 降誕祭礼拝
「神われらと共にいます」  
イザヤ書7:10-14
マタイ福音書1:18-23  
  牧師  大村 栄
 
◇紀元前8世紀、南ユダ王国はアハズ王の治世。「1:アラムの王とイスラエルの王が、エルサレムを攻めるため上って来た」。北の大国アッシリアが南下して、近隣の小国を吸収しようとしてきたのに対して、アラム(シリア)と北イスラエルは反アッシリア同盟を組み、南ユダにもこれに加われと圧力をかけてきた。それがこのエルサレム攻撃である。

◇「2:アラムがエフライム(イスラエル)と同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」。その時ユダの預言者イザヤは神の言葉をアハズ王に告げた。「4:落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」。同盟軍が迫っても心配するな。主なる神は必ずダビデの家を守られる。

◇イザヤにそう言われても、王は神を信頼して委ねきることが出来ない。イザヤは神が助けて下さるという確信を得るために、「11:主なるあなたの神に、しるしを求めよ」と言う。しかし「12:わたしは求めない。主を試すようなことはしない」とアハズは拒否した。そして彼は結局アッシリアの王に莫大な貢ぎ物を贈って助けを求め、それに応えたアッシリアはシリアを叩き、さらにイスラエルにも迫って多くの住民を捕囚として連れ去った。アハズの愚行は、かつて同胞であった北イスラエル王国(10部族)を歴史から消滅させる結果となってしまった。

◇目に見えるしるしを求めることは、神の力を試す不信仰な行為に思えるが、「主を試すようなことはしない」と言った彼の態度は、決して謙虚なものではない。神を信用しないで、自分の力のみを信用する傲慢な態度だったのだ。彼はもっと素直に神の助けを求め、その保証となるしるしを求め、それを信じて行動すべきだった。

◇このように神の救いのしるしを求めない人間に対して、神は「13:もどかしい思い」をなさるが、そのもどかしさの中から、ついに神自らしるしを与えると言われた。「14:主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。

◇このしるしの意味は、700年後にダビデ家の子孫であるヨセフに、天使から告げられた通り、「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)。私たちはアハズのように、神にもどかしい思いをさせてはならない。しかし神を試すためのしるしを求める必要は、もはやない。なぜなら主イエス・キリストご自身が、最後で最高のしるしだからだ。そのことを信じて生きるならば、闇の多いこの世界にも光があることを知る。「9:信じなければ、あなたがたは確かにされない」。


                                    
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◆2004.12.12 待降節第三主日礼拝
「来るべき方は」  
イザヤ書40:1~8
マタイ福音書11:2~19  
  牧師  大村 栄
  
◇洗礼者ヨハネは、イエスが待ち望んでいたメシアなのかどうかを確かめるために、獄中から指示して弟子たちをイエスに遣わし、「来るべき方は、あなたでしょうか、それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と問わせた。すると主は「見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と、逆に彼らをヨハネのもとに送り返す。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、…」(イザヤ書35:5の引用)という事実の証言を託して。それらは単なる奇跡の報告ではなく、各人がそれまでと違う喜びの人生を歩み出しているという事実だ。

◇信仰とは何か、イエスとは何者かという問いに対する答えは教理や解説を通して与えられるものではない。周囲にある数々の事実を示され、あなたはそれらの中に神の御業を見出すかと問い返される。その時に迫られる決断が、信仰の出発になる。

◇イエスは「洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と彼を高く評価するが、続けてすぐに「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言われる。主は「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(マタイ18:4)とも言われた。天国での評価は持ち物を規準とするのではなく、与えられる恵みに生きることにおいて言われる。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)。

◇ヨハネの働きについて、「彼が活動し始めたときから」天国の流動化が始まったと言われる。律法主義では一部の特権階級のものだった天国が、今や、悔い改める者には誰にでも開かれる。ヨハネと主イエスの宣教の第一声は、等しく「悔い改めよ。天の国は近づいた(is at hand)」だった。

◇しかし「今の時代」はその事実を受け入れようとしない。17節の歌は「笛ふけど踊らず」の起源。日本の「はないちもんめ」に似ている。ああ言えばこう言う、天の邪鬼的議論に知恵を働かせ、相手を言い負かして自己を主張することが正義だと考える風潮がある。そのような知恵でなく、天国の流動化が起こって「天国は近づいた」という真実に対する確信と、それを実証する事実=御業が周囲に満ちていることに気付く知恵、伝える知恵を持とう。「知恵の正しさは、その働きによって証明される」。

◇「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40:8)。この神の言葉の真実を証明する働きに参与したい。「お言葉どおり、この身に成りますように」と献身して。




                                    
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◆2004.12.05 待降節第二主日礼拝
「あしたの光かがやけり」        
ヨブ記1:1-12   
ヨハネの手紙一1:5~10
  牧師  大村 栄
    
◇アドヴェントは、光の到来を信じて待つ季節。しかし光のとどかない領域が世にあると考える人々もいる。初代教会の時代にもそのような異端的な思想(グノーシス主義)があったが、これに対する反論を展開したのが使徒ヨハネである。「神は光であり、神には闇が全くない」(Ⅰヨハネ5:1)。神の支配の及ばない領域、すなわち闇の支配などこの世に存在しない。「闇」はただ人間の抱える罪の問題としてのみ存在するが、これを赦すと言われる神の愛の中で、悔い改めによって克服される。

◇人間と世界にある「闇」の問題をヨブ記に見る。ヨブは信仰深くて財産家だったが突如財産と家族を失い、健康も失う。その悲劇は「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」(ヨブ記1:9)というサタンの神への挑戦から始まった。サタンは「神の使い」の一員だった。地上を巡回して人間の罪を神に告発するのがその役目だった。現代で言えば検察官か。それが悪魔となってしまったのは、この告発が正義を口にしながらも、動機に「憎悪」があったからだ。聖書は事柄の善悪より、動機の実質を問う。いくら正義感に燃える告発がなされても、その動機に相手に対する憎悪があるなら、それはサタンの誘惑に負けた「闇」のわざであって光のわざではない。そういう闇を、私たちはいつでも抱え込みかねない。

◇しかし「神は光であり、神には闇が全くない」。正義なる神は闇にひそむ罪を決して見逃さないで告発するが、神の正義は、憎悪でなくて愛を動機とする。だからその告発は、相手を打ち負かすのでなく信頼して立ち直らせる。そのしるしがクリスマスの出来事である。神の御子は最も無力な、人を信じて任せるしかない赤ちゃんの姿で飼い葉桶に横たえられた。強烈な告発者としてではなく、神の人間に対する愛と信頼の意志を世に示すためである。これを受けとめる時、私たちは心の闇、世界の闇の奥底まで照らす希望の光を仰ぐ者となる。

◇「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(9節)。信仰者とは清い人のことではない。清めていただかなくてはならないことを自覚する人である。自分の中に救いがたい闇があり、そこに神の光を注がれたい。注がれなくてはならない。そのように心を低くしてひざまずく者たちの上に、「きよしこの夜、み子の笑みに、めぐみのみ代のあしたの光、輝けり、ほがらかに」(讃美歌109)と歌う事実が実現すると信ずる。


                                    
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