阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2004年8月)   
◆2004.08.29 聖霊降臨節第十四主日

「その言葉は世界の果てに」

詩編19編

  牧師 大村 栄

 

◇詩編19編には前半【自然による聖書】と、後半【言葉による聖書】の「二つの聖書が含まれている」(内村鑑三)。前半の自然を通して見る神の御業は、「話すことも、語ることもなく/声は聞こえ」ないという沈黙した状態だが、それでも「その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう」と讃えられる。人間の言葉を超えた神の栄光の輝きが世界に満ちている。しかし私たちは、人間の限界と弱さゆえにその隠れた言葉を聞き取ることがでずにいる。サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」(1963)が歌う世界である。

◇聖書の言葉も「空しい」と考える人がいた。大杉栄は17歳の時(1902年)に海老名弾正牧師から洗礼を受けた。しかし日露開戦以後、右傾化する社会の流れに教会も呑まれていくことに失望して、社会主義運動に身を投じていく。その際に大杉は、「初めに行為ありき」と言った。ヨハネ福音書の「初めに言ありき」に言う「言」を、時代の流れに太刀打ちできない無力な神の言葉と取ったのだ。言葉を超えた神の栄光の輝きが世界に満ちているのを信実に聞き取ることができず、性急な行為に走ったり、空しい言葉に溺れたりする私たち。

◇このような私たちに対して、神は後半に言われている【言葉による聖書】を下さった。「主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。 主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える」(8-9節)。「律法」に象徴される主の言葉は本来、心に喜びを与えるものだった。しかしそのことを素直に受けとめられない人間の罪の実態があって、律法を人をおとしめる裁きの器にしてしまった。そこで【自然による聖書】と【言葉による聖書】の両者を正しく結ぶものが必要になった。それが【命の言葉】としての主イエス・キリストである。「初めに言があった。…言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:1-5)。

◇自然の中に満ちている神の言葉を聞き取れない私たちに、神は律法の言葉を与え、しかし言葉を曲げてしまった時に、律法を超えた生きた言葉としてのイエス・キリストをお与え下さった。「まことの言葉」として世に来られた主の言葉と行いを通して、私たちはもう一度、世界の沈黙の中に満ちている愛と慈しみにあふれる「神の栄光」を見出したい。そして教会の語る言葉に空しさを覚えて背を向けてしまう、第二の大杉栄を生み出さないようにつとめたい。

 


                                    
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◆2004.08.22 聖霊降臨節第十三主日
「主イエスは命のパン」

出エジプト記16:4-12
ヨハネ福音書6:34-40

  夏期伝道実習生 柳澤 朋子

◇モーセは神の言葉を伝えました。「あなたたちは夕暮れには肉を食ベ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる。」天からのパンであるマナは、毎朝必要なだけ与えられました。人々はマナをいただく度に、神さまの恵みを味わいました。この恵みの食べ物をいただいたからこそ、イスラエルの人々は生きることが出来たのです。

◇「わたしが命のパンである。」この言葉は主イエスの十字架上での死を通して、はじめて意味をもつ言葉です。聖餐式において「主のからだとしてのパン」に与ることが、この言葉の前提になっています。それは、主イエスがわたしたちへの永遠の命のパンであり、神の力と御旨を示されるお方であることを明らかにしています。

◇主イエスはご自分のことを「命のパン」と言われました。イスラエルの人々が「マナ」によって養われたように、神の許から降って来られた神の独り子イエスは、十字架に架かられ、「命のパン」としてご自分の命をわたしたちに与えてくださいました。そのことによって、わたしたちは生きているときも、死んでからも、どんなときでも神と共にいることができます。わたしたちは十字架と復活の主イエスを信じて「わたしの主、わたしの神よ」と告白し、洗礼を受けて、聖餐にあずかるとき、「命のパン」である主イエスからの「永遠の命」をいただくのです。

◇信じるとは、主イエスのもとに来ることです。それは、主イエスのために、主イエスのところに行くことなのです。ここで大事なことは、とにかく教会の集会に来る、主イエスのところに来ることです。復活された主イエスとの交わりに入ることは、自分自身もその復活に与ることになります。主イエスが、すでに甦って生きておられることが分かれば、自分もそうなるであろうと分かるのです。

◇主イエスは本当の命の糧、ご自身こそが世に命を与えるパンそのものであると示されました。人はパンだけで生きていけるものではなく、神の言葉、命のパンが必要です。「命のパン」は、イエス・キリストを信じる者にとって、霊的な必要のために、神が備えてくださるものをも意味します。神は、いつもわたしたちに心を配り、わたしたちを養おうとしてくださいます.神の御手に頼って人生を歩み、そのための生活の必要を満たそうとする人に、「日々のパン」を用意すると約束されたのです。


                                    
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◆2004.08.15 聖霊降臨節第十二主日
「父の忍耐」

創世記22:1-18

ローマ書3:21-26

  伝道師 川俣 茂

◇この箇所は「義を示す神」について記されている有名な箇所である。しかしここには神の別な姿も記されている。「罪を見逃す神」と「忍耐される神」の姿である。神はあくまで「罪を見逃した」のであって、「罪を赦された」わけではないのである。

◇神はいったい何に「忍耐」しておられたのか。口語訳等に拠ると、「罪を見逃すことを忍耐をもってしていた」ということになる。この「罪」とは、少なくともパウロ以前、いやキリスト以前の罪、過去の歴史の中で神の民、つまりイスラエルによって犯されてきた罪であるといえる。

◇過ぎ去った時代に為された「忍耐」は、神の義、神そのものについての人間の理解を曖昧にしてしまうものであった。神を畏れないことによって、人間は次々と罪を犯し続けてしまっている。しかし今この時、神は人間が招いた神の怒りと裁きとを取消す為に、キリストという「罪を償う供え物」が必要だったということを示された。現に神はキリストを十字架につけられた。そしてそれによって神が罪を見逃す時代は終わり、神の忍耐も終わったとパウロは記している。

◇義なる神が「人間の罪を見逃し忍耐された」ことは、神が神であるが故の行為である。我々人間にできることではない。併せて神の忍耐は一時的なものではなかった。創造以来キリストに至るまでの間、忍耐していた。「しかし、今や」イエス・キリストが転換点となって、神の忍耐は終わるのだ。忍耐が終焉を迎えることによって神は、「今この時に義を示された」。神の義を示されることにより、「イエスを信じる者を義となさる」という出来事が起こるのだ。

◇イエス・キリストの出現によって、罪の見逃しと忍耐が終わった。しかしそれは、「キリスト・イエスによって贖いの業」が為され、「キリストが罪を償う供え物」となった事に由来している。あの十字架の出来事は「神はこのキリストを立て、…罪を償う供え物となさいました」。神がキリストを、罪を償う供え物とされたのである。

◇私どもは旧約のイサク奉献物語に於いて、ある「父の忍耐」を見る。アブラハムは愛する独り子イサクをささげるという状況に対し、信仰によって対処し、それを神は認められた。しかし「あなたは自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」。これは主イエスを私どものために犠牲として捧げた神の姿でもある。

◇神は忍耐し、犠牲をささげてまでも私どものことを待っておられる。その招きに応えること、それが私どもに求められている。


                                    
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◆2004.08.08  聖霊降臨節第十一主日
「ふさわしくないままで」

詩編78:23-39

コリント11:23-2

  牧 師  大村 栄

◇かつてプロテスタント教会はカトリック教会に比べて聖餐卓は目立たず、説教台が高くそびえ立っていた。だがカトリックの改革に呼応して、プロテスタントも聖餐を重んじるようになった。説教は礼拝堂でなくてもできるが、聖餐は教会の、少なくともキリストの血と肉に感謝と畏れをもってあずかる信徒の群れの中でしか行なわれない。教会は聖餐共同体であると言える。

◇今日の新約聖書は聖餐式式文の「序詞」に採用される聖句だが、「ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである」(11:27-口語訳)は、時にはきつい言葉だ。私は聖餐を受けるのに「ふさわしくない」罪多い人間だ、このような私がこのままで聖餐にあずかれば、「主のからだと血とを犯す」ことになる…。この言葉に真剣に聞き従おうとすれば、恐ろしくて手が出せなくなる。

◇主イエスはしばしば徴税人や罪人たちと一緒に食事の席につかれた。正統派の人々は「なんであんな連中と」と批判するが、主は言われた。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)。「あんな連中」と後ろ指を指され、「ふさわしくない」とされる人々、しかしそれゆえにキリストの愛を必要としていたに違いない人々とこそ、主は食事を共にされたのではないか。

◇1982年に南米ペルーの首都リマに全世界の教会の代表者が集まり、歴史的な会議が行なわれた。そこでまとめられた「リマ文書」の「聖餐の制定」に関する記述。「聖餐は、イエスが地上での生涯のあいだに、そしてまたその復活の後に、神の国のしるしとして共にされた食事を継承するものなのである」。つまり聖餐とは「最後の晩餐」の追体験だけでなく、主イエスがその生涯で繰り返し様々な人々、特に徴税人や罪人と共に食卓についた、あれらの食事を思い出すためのものだと言うのだ。

◇では「ふさわしくない」のは誰なのか。「あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがある」(11:18)。「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならない」(同20)。自己主張のぶつかり合う人々の群には、「聖餐共同体」としての教会が成立しない。教会は神の前に罪の自覚と悔い改めを持ち、しかしそういう人々を神が食卓に招いて下さることを感謝するところだ。ここに、教会の一致にとどまらず世界の一致の原点、あるいは目標もある。これこそが教会のいのちなのである。これを宣べ伝える教会でありたい。


                                    
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◆2004.08.01 平和聖日礼拝
「人知を超える神の平和」

列王記上17:8-16

フィリピ4:4-9

  牧 師  大村 栄

 

◇紀元前850年頃、北王国イスラエルのアハブ王の時代。「オムリの子アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った」(列王記上16:30)。彼はシドンの王女イゼベルを妻に迎え、彼女の持ち込んだ農業神バアル礼拝を奨励した。預言者エリヤはその不信仰に対するさばきとして、干ばつを予告し(17:1)、それは実現する。しかし王は悔い改めず、神と預言者に対して牙をむいた。そのすさまじい争いの場面は、18章から22章までに記されている。

◇エリヤはアハブ王の激しい迫害を避けて逃亡生活に入る。17章2-7節で神は逃亡中のエリヤをカラスに養わせ、今日の8節以下では一人のやもめに養わせると言われる。しかし彼女も飢えていて、残ったわずかの食物を食べたら息子と二人で死のうと思っていた。だがそれをエリヤに命じられるまま差し出すと、以後食物は尽きなかった。ここに神の言葉への信頼が与えられた。


◇しかし続く17節以下で悲劇が起こる。一人息子が死んだのだ。エリヤとの出会いを通して、一旦は神の言葉を信頼したが、その後、前より悪くなった。「18:あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」そう叫ぶ彼女は、こんなことならエリヤと出会わない方が良かったと思ったに違いない。


◇怒りと暴力が世に満ちている。「エルサレムの平和を求めよう」(詩編122:6)と歌ったがその町の周辺には今、20世紀が戦争の世紀であったことを象徴する暴力が渦巻く。期待した新世紀も紛争が続き、国の指導者たちは強さを競い合っている。キリスト者はこういう時代に、人類の罪を嘆かずにおれない。そしてこのような世界において、神の言葉を聞くことの意味があるのか、神の言葉はこの時代に働きかける力があるのか、そんな惑いに陥るのである。

◇エリヤもこの事に苦しみ、息を引き取った息子を抱いて真剣に祈った。すると子供は生き返った。そしてやもめが言う、「24:今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」。この事件は、アハブ王の迫害の中で神の言葉を語ることの虚しさにとりつかれ、その厳しさに怯えるエリヤに、神の言葉が真実であることを確信させるための出来事だった。そして今、神を見くびって自らの力を誇る世界に、それゆえに混乱と暴力に満ちる世界に、しかし必ず「人知を超える神の平和」(フィリピ4:7)が実現することを聖書は教えるのだ。「平和の神はあなたがたと共におられます」(同4:9)。

 


                                    
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