阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2004年5月)   
◆2004.05.30 <聖霊降臨祭>
「枯れた骨の復活」 
 エゼキエル書37:1~14
 使徒言行録2:1~11 
  牧 師  大村 栄
 
◇五旬祭(ペンテコステ)のこの日、失意のどん底にあった弟子たちに聖霊がくだり、彼らは神の言葉、福音を語り出した。ここに世に教会が誕生した。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ…」などの記述は現実的とは思いにくいが、歴史学者は言う。「この日、確かに何かが起こった。何かが起こらなければ、今日全世界に教会が存在する説明がつかない」。

◇聖霊は旧約では「神の霊」と呼ばれ、普遍的に存在する神の人格的支援であった。バビロン補囚に連れ去られた預言者エゼキエルはある時「主の霊」によって連れ出され、「枯れた骨」が満ちた谷を見させられた。それは人間と生命の残骸である。私たちの周囲にも中にも、おびただしい数の残骸が散らばっているのを見る。人生の残骸、青春の残骸、家族の残骸、友情の残骸、幸福の残骸、平和の残骸…。神はエゼキエルに、「これらの骨は生き返ることができるか」と問うが、彼は「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えるしかない。


◇それでも私たちは、この残骸に満ちた時代の中に、失意のどん底にこそ、神の人格的な支援である聖霊が注がれることを信じる。弟子たちに福音を語り出させ、世界に教会を生み出させたと同じ聖霊が再び注がれて、新しい創造が行われる。神はそのようにして、私たちの歴史の中に共にいて、働きかけて下さる方である。それゆえにこのような状況の中でも、教会は福音を語り、洗礼と聖餐の聖礼典を執り行っている。

◇私たちは現実から目をそむけずに、散乱する残骸を見ている。しかし信じているものはこれと違う。これらの骨が集まって互いに組み合わされ、筋によって結びつき、肉をまとった人間となって話したり歌ったり踊ったりする。そして神を信じ、讃美する人間となることを信じる。そのことはキリストの復活をもたらした神によって実現する。神は枯れた骨にもう一度命の霊を吹き込み、生きるものとして下さる。私たちは聖餐においてキリストの命を受ける時に、この事の実現にあずかると信じるのだ。


◇聖霊を受けたペトロが説教を語り、それに応えて多くの者が仲間に加わって以来、教会は全世界に拡大していった。阿佐ヶ谷教会の80年を振り返り、また世界の教会の歴史とそこに召されて集う人々の生きた証しを見るにつけ、私たちはここに神の業、聖霊の働きを見ると言わざるを得ない。この教会のいのちであり、世界の希望である聖霊を新たに受けて、信仰の旅を続けよう。「風立ちぬ、いざ生きめやも」。



                                    
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◆2004.05.23 特別伝道礼拝
「裁きと赦し」 
 ヨハネ福音書8:1-11 
  青山学院院長 深町 正信 先生
 
◇話題の映画「パッション」。この映画の一場面に、今日の聖書箇所がある。

◇私たちは他人を裁くことには熱心だが、自らのことについては深く反省することのない者である。この物語を読む毎に、自分自身の弱さ、愚かさを痛感させられるのだ。

◇この出来事は十字架での死を前にしていた時のことである。律法学者やファリサイ派の人たちは主を陥れる為に、律法に基づいき石打ちにすることについて反対するなら、律法そのものに反対することになると警告している。罪人の友として生きた主イエスに対して、モーセの律法への服従か罪人への愛かの二者択一が迫られているのだ。

◇しかし主イエスはあくまでも冷静である。何を思い、何を考えていたのか。それこそ大切である。主は耐えがたい憤激を感じていたのか。あるいは女の心を共有して悲しんでいたのか。それとも父なる神への思いを馳せていたのか。

◇律法学者たちは主を試すために間うている。女の不義を憤っているのではない。女の罪を口実にして、主に対する日頃の恨みを何とかしようとしていた。他人の失敗を利用して自分の利益をはかる。これは現代に於いても存在するものである。

◇普段、私たちはどのような話をしているだろうか。本当に語らなければならない真実をロにせず、 必要のないことを面白おかしく語り、他人を裁いているのではないか。もしかしたら自分自身が現代の律法学者たちになってしまっているのではないか。

◇7節での主の一言は、そこに立つ人々の急所をつき、一人又一人と去っていった。「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれる(マタイ7:2)」。主イエスの前に立つ時、罪がないと言える人は一人もいない。義人はいない。「すべては罪人である」、これが聖書の人間観の根源である。

◇最後に残ったのは女と主イエスであった。「だれもあなたを罪に定めなかったのか」。この言葉によって彼女の凍りついていた心が溶けた。そして「わたしもあなたを罪に定めない」との言葉は彼女の罪を見過ごしたとか無視したのではない。「これからは罪を犯してはならない」。罪をはっきりと認め、心を病めつつ罪を感じているのだ。

◇主イエスの使命は人を裁くのではなく、無自覚の罪から救うことにある。主は神の御子としてこの世に来られ、すべての罪人と共に十字架に挙げられた。神の前に贖いの業を成し遂げられ、復活された。そして私たちを救われる。それに倣って生かされようではないか。神の赦しの愛に押し出されながら、神に仕える生活を為していきたいと願うものである。


                                    
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◆2004.05.16 復活節第六主日礼拝
「愛から引き離すものは」 
 イザヤ書6:8-13
ローマ書8:28-39 
  牧 師  大村 栄
 
◇「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたした ちは知っています」(ローマ8:28)。「ご計画」とは神の計画、世界に対する救いの計画である。 「益」は「塞翁が馬」的な「災い転じて益となる」がごとき人間の利益ではない。神の計画が実現し、しかし結果的に私たち自身にとっても良かったと言えるような事態。これが聖書の語る真の「益」であり、神の「御計画」である。

◇「32:わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。それほどにこの世を愛して下さる神は、私たちの万事において最善の益をなして下さる。これを信じ、まかせれば良いのに、私たちがそう出来ないのは、私たち自身が「与える」より「受ける」方が好きだから神も同じ、と類推してしまう。そして無条件な恵みを信じられないから、お祓いをしたり修業をしたりして、恵みをいただく資格を得ようとする。私たちのあらゆる不安の源は、神の「与える愛」を信じないところから来る。

◇「31:もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」ヘンデルの「メサイア」終曲直前に置かれ、メシアの恵みを歌い上げるこの言葉だが、これを逆に言うと、神が味方でなければ様々なものが私たちに敵対し、私たちを信仰から離れさせる。「35:艱難か。苦しみか。迫迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」。こんな物騒なものでなくても、私たちはほんの些細なことでキリストの愛から離れていく。しばしの別れ、少しの不幸、ささいな中傷。あるいは人生の喜びの中にも、私たちをキリストへの愛から離れさせる要素が多々ある。しかしここで言うのは私たちのキリストへの弱い愛ではなく、私たちに対するキリストの愛、「39:キリスト・イエスによって示された神の愛」なのである。

◇イザヤに告げられた赦しと清めの福音(イザヤ書6章)は、私たちが小さく謙虚になって、人間の計画から離れて神の「御計画」に委ねる時にこそ実現する。本当に「万事が益となる」その時まで、神は愚かな私たちをつかんでいて下さる。「39:どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。神の愛はどんな時にも、弱い私たちを見捨てず手離さない。そこに最後にして最高の望みを見出すものでありたい。



                                    
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◆2004.05.09 復活節第五主日礼拝
「石の心を取り除く」 
 エゼキエル36:22-28
    ガラテヤ5:13-25 
  牧 師  大村 栄
 
◇バビロンの捕囚民の中に立てられた預言者エゼキエルは、祖国への帰還こそが神の望まれるイスラエルの将来だと強く訴えた。 「23:わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる」。<新しいイスラエル>である私たちの教会にも、神が主であることを諸国民に示す使命が託されている。だがこれは重苦しい使命ではなく、喜びの務めである。

◇バビロン捕囚は先祖が偶像礼拝の罪を繰り返した結果であるから、彼らは祖国帰還の前に清められなくてはならない。「25:わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める」。清めのために洗って水に汚れを移すように、清いものを犠牲にして失われた魂を本来の場所に取り戻すのが神の愛のわざ。その究極がキリストの 十字架である。私たちを浄めるために、代償として支払われた尊いものを忘れてはならない。この独り子を賜うほどに世を愛された神の愛を告げる福音こそが、礼拝において私たちに注がれる「清い水」なのである。

◇「26:わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」。福音の水に清められた者は内面が変えられずにはおれない。固い「石の心」を柔らかい「肉の心」に変えられる。その変化をもたらすために必要な助け手が聖霊だ。「枯れた骨」(37章)のようにかた
くなっている私たちに聖霊の息が注ぎ込まれ、神の子としての自分を取り戻すことができる。赦されることを知る者は、柔和な、赦す心を持つことができるはずだ。主イエスは「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5:5)と約束された。そのような柔和な「肉の心」を持つ人々が「地を受け継ぐ」ことを願う。すなわちこの世界が神の愛の福音で満ちますようにと願うものである。

◇清い水を「振りかける」のは、祭儀において祭司が担当する執り成しの行為である。神への不信仰を批判する預言者だったエゼキエルが、バビロン捕囚民の間にあっては、民衆の汚れという現実を受け止め、そこに御言葉の水を注ぐ祭司の務めを担った。教会にはこの預言者と祭司と両方のつとめがある。「わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」との主の御心が実現するために、二つの大事な使命を雄々しく担う教会でありたい。



                                    
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◆2004.05.02 復活節第四主日礼拝
「健やかなときも、病むときも」 
 イザヤ書62:1~5 
ヨハネ福音書21:15~22 
  牧 師  大村 栄
 
◇湖畔で朝食を共にした後、復活の主はペトロに「わたしを愛しているか」と三度問う。それは主イエスが逮捕された晩、ペトロが主イエスを三度「知らない」と言って裏切った問題を克服するためである。これは彼に必要な心のリハビリだった。彼は当然良心の呵責から、胸を張って「はい、愛しています」とは言えない。主イエスの問う「愛」には始め「アガペー」が使われていた。これは神の愛を表す言葉で、旧約聖書のヘブル語の「アハバー(選びの愛)」と「ヘセド(契約の愛)」を合わせたもの。神はイスラエルを選び、アブラハムと契約を交わした。以来、イスラエルの不信仰にもかかわらず、これを選んで契約を交わしたゆえに、憐れみ慈しむ。たとえ相手に変化が起ころうとも、変わらずに愛し続けるという<絶対的な愛>がアガペーである。

◇結婚式では、「健やかなときも、病むときも(お互いに変化が起こっても、変わらずに)」、相手を愛し、敬い、慰め、助けることを誓うかと問う。自然発生的に愛し合うようになった男女が、この時から契約関係に入る。その契約を、自ら私たちのために完全に実行された神の前で交わすのだ。

◇ペトロの応答には「アガペー」でなく「フィリア」が使われる。それは「兄弟愛」などの自然発生的な感情を表す言葉。彼は不変の愛を誓えず、こう答えるしかできない。ところが主は三度目には自ら「フィリアするか?」と問う。弱きペトロに近づき、彼の限界ある愛を赦し、受け入れたと言えよう。そしてこのペトロに、「わたしの羊を飼いなさい、世話をしなさい」と言われる。主の教会を託す言葉である。

◇ヨハネ21章前半では人間をとる漁師として伝道を展開せよと命じられたが、後半は羊飼いとなって、すでに集められた教会の民を養うことが命じられている。教会には漁師に象徴される「伝道」と、羊飼いに象徴される「牧会」とがあってどちらも大切である。受洗しても途中で離れてしまう方が多いが、最後には戻ってくることが出来るように勧める「牧会」でありたい。

◇信仰の生涯の全うは人生の終わり方に極まる。ペトロは「19:死に方で、神の栄光を現す」と殉教の死を予告される。彼はもう一人の弟子を指して「21:この人はどうなるのでしょうか」と聞いてみた。しかし主は、それが「22:あなたに何の関係があるか」と答える。他人と比較する必要はない。それぞれ与えられた生き方において、死に方においてさえも、「わたしに従いなさい」と言われる愛の主に従う道を祈り求めたい。


                                    
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