阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集(2004年4月)  

◆2004.04.25 復活節第三主日
「喜びの食卓」
イザヤ書61:1-3
ヨハネ福音書21:1-14
  牧師 大村 栄
◇キリストを十字架に失った弟子たちは、かつて主イエスに招かれ、網を捨てて従った原点であるティベリアス(ガリラヤ)湖の漁師に戻っていた。主イエスと過ごした3年間は空しく終わった。暗い気持ちで一晩中漁をしたが何も捕れない。夜が明けると朝もやの中に立つ人が言う。「6:舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」。その言葉に従って網を打ってみると大漁だった。その言葉に従ってみてこれが復活の主と分かった。「分かったら信じて従おう」では何も始まらない。信じて従ってみて神の子の臨在を知るのである。

◇岸に上がると主イエスに招かれた。「12:さあ、来て、朝の食事をしなさい」。彼らはおそるおそる、しかし懐かしい主の前に腰をおろし、朝日の中でパンと魚のうれしい食卓を囲んだ。そして主イエスはパンと魚を取って弟子たちに分配された。最後の晩餐での仕草でもあるし、5000人の給食の出来事(ヨハネ6章)も連想させる。これらを起源とする「聖餐」にあずかるという行為は、意気阻喪していた弟子たちが復活の主との再会を通して、再び勇気と希望を取り戻した出来事の再現である。

◇人々が信仰深く断食をしているのに、イエスとその弟子たちはそれをしないので非難されたとき、イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」(マタイ9:15)。キリストを迎え、神と共に生きる信仰生活は、婚礼にたとえられるような人生最大の喜びである。しかめっ面して、私は一生懸命信仰の努力をしてるなどと訴える必要はない。「わたしの記念として行え」(1コリ11:24)と命じられた聖餐式の意義は、「喜びの食卓」ということである。ここに皆で共に着くことを信仰生活の原点としたい。

◇金芝河の詩「飯が天です」。天を見上げる共同体に、飯を分かち合って食べるような、人と人とが共に生きる世界が拡がっていく。神との交わりに心を向けるときに、人と人の真実な交わりが実現する。家族の回復もここに希望を見ることが出来る。

◇ガリラヤ湖で弟子たちに大漁を与えた主は、失意の弟子たちをもう一度「人間を取る漁」、すなわち伝道に召し出される。その時とれた魚153匹とは、1から17までを足した数。そして10は十戒の「律法」(神の言葉)を指し、7は恵みの完全数。復活の主イエスは、弱った私たちを神の言葉とその恵みを伝えるご用に送り出される。主の派遣を受けて、一人でも多くの人々を喜びの食卓に招くものでありたい。


                                    
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◆2004.04.18 復活節第二主日
「信じなかった人々」  
イザヤ書55:6-11
マルコ福音書16:9-18
  牧師 大村 栄

◇本来のマルコ福音書は下記の16章8節で終わっていた。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。本当に神の業が起こってそれを全身で受けとめた時、人はこのような反応を示すのではないか。それに続く9節以下は後の追加と言われる。教会の伝えてきた大切な言葉だが、「信じなかった」という言葉が繰り返される(11、13、14節)。偉大な復活の出来事も、それ自体では信仰を生じさせない。恐れだけだ。

◇復活の主に直接出会って変えられたマグダラのマリアと二人の弟子たちは、仲間たちに報告するが、彼らは「信じなかった」。直接見なければ信じない人々に、主は「14:その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」。ヨハネ20:29では主がトマスに言われた、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」。信じるとは、信頼に足る事実に対して、納得して自然に生じる感情などではない。それは「信じよう」とする人格的な決断だ.「信じられる」から「信じる」のではない。「信じること」を決断し、選びとるのだ。

◇だがその決断は容易に得られるものではない。信じることは疑うことより難しいかも知れない。しかし疑う心には苦しさが伴う。主イエスは「信じなかった」人々をそのままにしておかれない。信じないで恐れに取りつかれている彼らに現れ、信じる者に変えて下さった。そして今も「信じる人は幸い」との言葉を実現するために、信じられないでいる私たちを訪れ、私たちの心の外に立って呼びかけて下さる。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(ヨハネの黙示録3:20)。これを描いたホルマン・ハントの「世の光」という絵では、固く閉ざした戸口の外に主イエスが光をかかげて立ち、戸が開くのをじっと待っておられる。

◇「信じなかった人々」はキリストの忍耐と神の愛によって「信じる人々」とされ、さらに「15:全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」との派遣を受けた。私たちもキリストの呼び声に心の扉を開いて、信じる者に変えていただき、偉大な神の御業を伝える者としての派遣を受けよう。遭わされたそれぞれの場において、「信じる」ことの幸いと喜びを宣べ伝え、分かち合っていこう。



                                    
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◆2004.04.11 復活祭礼拝
「復活ー愛と信頼の回復」
イザヤ書43:1-5a
ヨハネ福音書20:1-18
   大村 栄 牧師

◇墓で泣きながら天使に「13:わたしの主が取り去られました」と訴えるマリアにとって、十字架の出来事は彼女の主に対する想いが拒絶されたことだった。いま彼女は遺体を引き取って、日本流に言えば菩提を弔いながら残る一生を過ごそう、そうすることが「わたしの主」との愛の交わりを回復し、全うする方法だと思っている。だから彼女は墓穴を見つめ、そこにあるはずの遺体を探し求めている。美しい仕草のようではあるが、彼女が向いている墓は死と滅びの支配する世界、人間を絶望に引きずり込む深い穴だ。人間は時としてそういう負の世界に惹きつけられ、引き込まれていく。そしてそれが美しいと誤解したりしている。これをサタンの誘惑と呼ぶのか。

◇180度うしろの光の中から復活の主イエスが呼び掛けられた。「婦人よ」と呼ばれた時には園丁と思っていたが、「マリアよ」と名を呼ばれて、いま始めて彼女は気がついた。そして「ラボニ=先生」と応えた時に、マリヤは死と滅びの世界から解放された。キリストの復活は、まさにこのような絶望から希望ヘ、挫折から信頼へと、180度の転回が起こることである。

◇イザヤ書43:1「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」。マリアがイエスを「わたしの主」と呼んだように、私たちにも「わたしの~」と呼ぶ人々がおり、「自分自身のものである私」と思っている。しかしすべての人間を創造された神が、「あなたはわたしのものだ」と、私たち一人一人の名を呼んでおられる。私たちは誰かのものである以前に、そして自分自身のものである以前に、まず神のものなのだ。その神のものである私たちが、自分を見失って惨めな状態に陥っているのを見たとき、神は私たちの名を呼び「恐れるな、わたしはあなたを贖う」と宣言して下さる。

◇贖いとは身代金を払って解放すること。「復活において我々が認識することは、神は地を放棄したのではなく、奪回したもうたということである」(ボンヘッファー)。その奪回のために身代わりとなったのがキリストである。神の愛の呼びかけに応えて、今日二人の兄弟が洗礼を受け、信仰を告白した。彼らはまさに「あなたはわたしのものだ」と呼ぶ声に応える決意をしたのだ。墓穴を見つめていたマリアを、そして私たちを死と滅びの支配から解放し、神の愛と希望の光の中へ引き戻すことが十字架と復活の目的だった。そのことを信じる信仰と信頼を回復するイースターでありたい。


                                    
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◆2004.04.04 棕櫚の主日礼拝
「 わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(2004年度教会標語)
イザヤ書6:1-10
ヨハネ福音書15:11-17
  大村 栄 牧師
◇41通の聖句が寄せられた中から、上記が教会標語に選ばれた。教会創立80周年を記念する今年だが、過去への感謝よりも未来へ向かっての「派遣」の言葉が与えられたことを感動をもって覚える。その言葉がイザヤの口から出たのは紀元前8世紀。物質的豊かさと繁栄、しかし社会は腐敗し、ウジヤ王の死と共に深刻な政情不安。そんな騒然とした時代のただ中に、若き預言者イザヤは神に出会った。

◇神殿礼拝の最中に神の栄光が現された。セラフィム(天使)が「3:聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と賛美する声を聞いたイザヤは叫ぶ、「5:災いだ。わたしは滅ぼされる」。神を見た者は死ぬと書いてあるからだけでない。神の前に立つときに人は自分の罪を知らされて、痛みを味わう体験をする。そのように自分の汚れと罪を深い恐れをもって自覚した者は、しかし続いて、赦しが与えられるのを知る。天使がイザヤの口に、祭壇から運んできた炭火を触れさせて言う。「7:見よ、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」。徹底した罪の赦しである。このような<罪の恐れと赦し>が実現する場が礼拝なのである。

◇「8:そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください』」<罪の恐れと赦し>は<派遣>へと展開していく。神の言葉を宣べ伝える使者が求められており、「わたしを遣わしてください」との申し出が待たれている。しかし、イザヤに託された言葉は不思議だ。「10:この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。…悔い改めていやされることのないために」。これは預言や警告というより、神を信じないで世の力に頼る着たちへの有罪判決である。

◇しかしイザヤは、悔い改めのない民に次の7章で、最後の望みとして「インマヌエル預言」を口にする。民に真実な悔い改めは期待できない。人間の内側に解決の道はない。最後の望みは神が実現して下さる救いのみ。そして約700年後のクリスマスにこの預言は成就したのである。私たちは、まず神の栄光の前に立つ者としての畏れを持つ。しかしそれに対する赦しが与えられていることを知り、そして赦された者として神の派遣に応えて献身していくのである。創立80周年の阿佐ヶ谷教会は、主による新たな派遣を受けることを使命としたい。それを促す礼拝の中心に、愛と赦しのしるしであるキリストの十字架が立つ。


                                    
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