阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集(2004年3月)  

◆2004.03.28 受難節第五主日
「一粒の麦死なずば」 
コヘレトの言葉11:1-10
ヨハネ福音書12:20-26
  牧師 大村 栄
◇「ギリシア人、イエスに会いに来る」(小見出し)という場面。彼らは直接主のところに行かないでフィリポに仲介を依頼し、フィリポは「22:アンデレに話し、アンデレとフィリポは行ってイエスに話した」。キリストとの出会いは人を媒介として起こる。媒介なしには起こらないし、媒介とならない人はいない。これに対して主イエスは、「23:人の子が栄光を受けるときが来た」と言われた。弟子たちはそれを聞いて期待に胸をふくらませただろう。しかし続く言葉は、「24:はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。自らを十字架に捧げようとしているのだ。

◇さらに言われる。「25:自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。「自分の命を愛する者」とは、生理的な生命を維持することのみに執着し、生きていることの意味や目的を考えない人。そのような人は「それを失う」と音われる。「タラントンのたとえ」(マタイ25:14以下)にあるように、神から与えられた賜物を、失う危険を冒してでも用いた人は評価され、損なうまいと隠しておいた人は裁かれる。神から頂いた命を、大切だからと握りしめておいたのでは、やがて意味を失う。この命、すなわち一粒の麦を握りしめていた手を開いて捧げることによって豊かに用いられ、やがて「多くの実を結ぶ」ことになる。

◇「独り子をお与えになったほどに、世を愛する」神の愛(3:16)を全うするために、命を捧げた主イエスにならって、そのような命の使い方をする人は、「永遠の命」すなわち其の命に至る。主は私たちを、そのような生き方へと招いておられるのだ。神から頂いた大切な命を「自分の命」として握りしめるのではなく、他者のために、世界のために、そして神とキリストのために惜しみなく捧げよう。

◇「むくいを望まで人に与えよ、こは主の尊きみむねならずや、水の上に落ちて流れし種も、いずこの岸にか生いたつものを」(讃美歌536)。水の上に落ちた種のように、地に落ちて死んだ一粒の麦もやがて多くの実を結ぶ。それはキリストの十字架が空しく終わらず、復活の朝を迎えたという事実において証明されている。世界の教会はその復活の朝を記念して、毎週日曜日に礼拝を守ってきた。一粒の麦が死んで、多くの実を結んだ事実をここに見ている。私たちも水の上の種となり、神から頂いた一粒の麦をささげていく者でありたい。


                                    
<目次に戻る>



◆2004.03.21 受難節第四主日
「愛の浪費」  
申命記15:7-11
ヨハネ福音書12:1-8
  牧師 大村 栄