阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2004年2月)   
◆2004.02.29 受難節第一主日
「誘惑を受けるとき」 
出エジプト記17:1~7
マタイ福音書4:1~11
  牧師 大村 栄
◇灰の水曜日から主日を除く40日間を受難節(レント)と呼ぶ。これは主イエスが受洗後に40日間荒れ野でサタンの誘惑に遭われたことに由来する。私たちも洗礼を受けた後に試練や誘惑に遭うが、その時、洗礼を受けた者は最善をなされる神を信じて平安を得ることができる。「3:神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。第一の誘惑は食欲を介して攻めてくる。「4:人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(申命記8:3の引用)。出エジプトの試練において、飢えた民は神を信じ通せなかった。しかし主イエスは同じ試みに対して、神への絶対的信頼によって勝利した。パンが必要なら神が下さる。自分で作り上げる必要はない。生活のあらゆる領域において、「神の口から出る言葉」に信頼するということが第一の誘惑の課題であった。

◇第二の誘惑は「6:神の子なら、飛び降りたらどうだ」。主の応えは「7:あなたの神である主を試してはならない」(申6:16)。神を試みるということの問題だ。シナイの荒野で民が「『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試した」(出17:7)場所の名を「マサ(試し)とメリバ(争い)」の泉と呼ぶ。自分ならそこまで面倒見れないだろうとの思いから、自分にできなければ相手もできないと考える人間的類推は、神に対してはいっさい排除されなくてはならない。

◇「8:更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、9:もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう、と言った」。第三の誘惑は、サタンの提供する繁栄と権力への誘惑のように見える。しかし主イエスの応え「10:退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(申6:13)に見られるのは、目的達成のためには神以外のものにひれ伏すという「偶像礼拝」の問題である。主イエスはそのような妥協に「否」を言うことを貫き、ただ神だけに仕えた。

◇程度の差はあっても、私たちも様々な誘惑や試練に遭う。これらに共通するのは、そこに神の力を疑い、神の限界を推定し、神以外のものに頼る誘惑がひそんでいるということ。一見、神は沈黙しておられるとしか見えない。しかし私たちには、荒野の厳しい誘惑の中で、神の沈黙のただ中で、「わたしたちと同様に試練に遭」い、それでも疑わずに信じ抜いた主イエスが「大祭司」(ヘブライ4:15)として共におられる。


                                    
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 ◆2004.02.22 降誕節第九主日
「別れ道を越えて」 
箴言16:1-9
マルコ福音書7:1-13
  棟方 信彦 先生
◇キリスト教への見方の中で