阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2004年1月)   

◆2004.01.25 降誕節第五主日礼拝
「そそげ命のましみずを」
出エジプト記17:1~7 
ヨハネ福音書2:1~12
   牧師 大村 栄
 
◇イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)であることの「11:最初のしるし」は、名もない家庭の婚礼の祝宴であらわされた。その婚礼の途中でぶどう酒がなくなってしまう。人生においても、いつまでもあると思っていた喜びや愛が、突如さめてしまう時がある。そんな時、私たちは母マリアがしたように、「3:ぶどう酒がなくなりました」と主イエスに訴えるのである。しかし主は、「4:婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と拒絶された。これは全生涯を神の支配に委ね、決断と行動の時を静かに待つ者の言葉である。しかし拒絶された時、マリアは召使いたちに「5:この人が何か言いつけたら、その通りにして下さい」(文語訳「何にてもその命ずるごとくせよ」)と言う。窮状を訴えて救助を願い、それが拒絶された時、あきらめたり、すねたりするのでなく、むしろ「みこころのままに」と祈る者へと変えられていく。

◇「6:そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった」。「清め」とは律法の規定に従って、大量の水で身体などを洗うこと。清くあれと強制することは人を萎縮させ、それを実行できる人と出来ない人とを隔てる。主イエスは、そのような裁きとつまずきの器だった水がめに水をいっぱい入れさせ、その水を喜びの酒に変えた。どんな荒野を行くときも、キリストを中心に、「何にてもその命ずるごとく」従う人生を歩むなら、水がぶどう酒に変わるような、喜びの変化が起こる。

◇しかも後になるほど良い。宴会の世話役が花婿に言った。「10:だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」。キリストと共に生きる生涯には、終わりほど良いという事態がある。人生の終わりに天国への道があり、歴史の終わりに世界の完成がある。終わりほど良いのだ。

◇世話役はこの事態を不思議に思ったが、「9:水をくんだ召使いたちは知っていた」。キリストが彼らに命じられたのは、大量の水くみというきつい地味な仕事だった。なぜこんなことが必要なのか、意味がないようにも思えた。しかしそれをなし終えたときに、大いなる奇跡が起こる。これは主の業に仕える教会の奉仕に似ている。地味なきつい奉仕かも知れないが、あの水汲みの僕たちの働きを、喜びの出来事に変えて下さった主が、それらを「終わりほど良い」喜びと祝福に変えて下さるに違いない。


                                    
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◆2004.01.18 降誕節第四主日礼拝
「生きた石、聖なる国民」
出エジプト記 19:1~9
ペトロの手紙一 2:1~10 
  キリスト教学校教育同盟主事
相澤 眞喜先生
 
◇ペトロの手紙の教会論は、新約聖書の中にある教会について語られている文書で最も美しい、そして包括的な記述の一つである。ローマ帝国の迫害の中で、キリスト者が信仰が養われ救いが完成されることを望みつつ生きる生活、それが教会生活であることを教えている手紙である。

◇キリスト者は、 1:23にあるように「神 の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれた」者である。しかし「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」という悪徳はキリスト者になっても、いつも付きまとうものである。従ってこれら肉につけるものを脱ぎ捨てて、裸になることである。そして「生まれたばかりの乳飲み子のように」「霊の乳」である神の言葉を慕い求めなければならない。「これを飲んで成長し、救われるようになるため」である。この神の言葉が語られ、私たちの信仰が養われるところが教会である。私たち一人ひとりの信仰の成長は教会の成長でもある。

◇神の恵みは、主イエス・キリストの十字架によって私たちを救い、新しい命へと導き入れてくれた。この救いの業がなされているところが教会である。カルヴァンは「教会の外に救いなし」と言った。 教会は建物ではない。しかし教会は建物である。それは霊の建物、「霊的な家」である。その士台石はイエス・キリストである( Iコリント3:10~ 11を参照)。イエス・キリストという石は、「人々からは見捨てられた石」であるが、「これが隅の親石」となった。これは驚くべき神の御業である。救われた私たちも「霊的な家」である教会においてしっかりとイエス・キリストに結びついて「生きた石」として、用いられなければならない。

◇私たちのような小さな石を「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」と言っている。私たちは神の歴史の中に選ばれて参与させられているのである。それは神の恵みのゆえである。

◇生きた石、聖なる国民とされた私たち教会の共同体の務めは何か。「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げる」ことである。すなわち第一に神を礼拝すること。「霊と真理」を持って礼拝することである(ヨハネ4:24を参照)。第二に全生活を神に献げる感謝の生活をすることである(ローマ12: 1~2を参照)。第三に伝道することである(9節後半を参照)。いつの時代でも福音を宣く伝えることが教会の使命である。

 


                                    
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◆2004.01.11 降誕節第三主日礼拝
「最初の弟子たち」 
 創世記28:10-22
 ヨハネ福音書1:35~51 
  牧 師  大村 栄
 
 ◇洗礼者ヨハネがヨルダン川で主イエスを指して、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と叫ぶその声に動かされてイエスに従ったのは二人。ささやかなだが貴重な出発だった。彼らは「38:何を求めているのか」と主に問われて途惑ったろうが、「38:先生、どこに泊まっておられるのですか?」と逆に問い返す。しかしこれは素直な答えになっている。つまり「あなたのおられる所に一緒にいたいのです」という意味だから。信仰はキリストを頭で理解することより、共にいたいと願うこと。「インマヌエル-神我らと共にいます」を生きることを望むのが、真の信仰生活である。

◇その先のことは主に委ねて従おう。主は言われる。「39:来なさい。そうすれば分かる」。イエスと共に生きることを決断して踏み出すならば、あとは自ずから明らかにされていく。伝道とは何とかして人をキリストに連れて来ること。あとは必ず「来れば分かる」。この伝道が振るわないのは、私たちに確信がないからだ。自分の兄弟シモン・ペトロを「42:イエスのところに連れて行った」アンデレや、同郷のナタナエルを彼の反論にもめげずに、「46:来て、見なさい」と、イエスへと導いたフィリポに学びたい。ここに真実があるという絶対の確信が成功の秘訣だ。

◇「来れば」何が「分かる」のか。「51:天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを見る」。これは創世記28章のヤコブの夢。荒野をさすらう体験の中でその夢を見たヤコブは、いずこにもおられる神の普遍性と全能性を知って、恐れおののいた。それは「聖なるもの」に接し、これによって自分は存在するのだという「被造物感」に包まれることである。「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7)。

◇来れば分かるのはキリストと神のことだけではない。自分が分かる。シモン・ペトロとナタナエルが経験したように、キリストとの出会いによって明らかにされるのは、自分の過去、現在、そして未来である。人間の可能性は、キリストに生涯を捧げるときに正しく引き出される。キリストに委ねる人生に踏み出すとき、人間の思いを越えた可能性が開かれていくに違いない。

◇もっと理解してからとか、自分をもっと把握してから、などと先延ばししないで、キリストによって過去・現在・未来のすべてが明らかにされることを信じて、飛び込んでいこう。そして「来て、見なさい」と人々を連れていける者でありたいし、連れて行くに値する教会でありたい。


                                    
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◆2004.01.04 新年礼拝
「見よ、神の小羊」 
 出エジプト記12:1-14
ヨハネ福音書1:29-34 
  牧 師  大村 栄
 
 ◇ヨルダン川でバプテスマを宣べ伝えていたヨハネは、そこに現れたイエスを指して叫んだ、「29:見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。「小羊」といえばユダヤ人は「過越」を連想した。かつてイスラエルのエジプト脱出を実現するために、神の指示で小羊の血が流された。「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない」(出12:13)。この小羊が、主イエスの存在に類似しているというのだ。

◇エジプト王の支配に喘いでいた民が自由を得るためには、神から救いの手が伸ばされることが必要であり、そのことのために血の犠牲が要求された。それと同様に「罪」の支配に囚われている私たちのためにも、神から与えられる救いの手が必要であり、そのためには血の犠牲が、しかも神の独り子が血を流さなくてはならなかった。ここに「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」とのヨハネの叫びは、その重要な意味が実感されるのである。

◇しかも彼が指し示すのは、個々人が罪の支配から解放されるというだけではない。「我が罪」でなく「世の罪」のすべてを「取り除」き、罪を「滅ぼす者の災い」を過ぎ越させて下さる小羊である。この出来事の知らせ(「福音」)は私たちに、人生の指標を与えるだけでなく、世界観そのものを正しく取り戻させるのである。

◇出エジプト後のイスラエルは、シナイ山で神から「十戒」を授けられた。この神の言葉を得て、彼らは民族共同体を超えた信仰共同体として出発したのである。キリストの救いにおいてもそれと同様のことが起こらねばならない。キリストの救いを体験した者は、個人の救いを超えて、人と人を隔てる「敵意という中垣」(エフェソ2:14)が崩壊し、ひとつの新しい共同体を築く者へと召されていく。この新しい共同体、すなわち「神の家族」(同2:19)を形成するために呼び集められた者たちの群が、キリストの教会である。ここにおいて「世の罪を取り除く神の小羊」が証しされ、この方を仰いで共に生きる共同体が成り立つことを、神は期待して下さる。神の実験がなされる場としての教会の使命を思う。

◇ヨハネが、幼なじみのイエスをメシアだと確信したのは、聖霊の導きによる。私たちもこの聖霊の導きを乞い求めたい。それによって「世の罪を取り除く」救い主を見出し、仰いで生きるものでありたい。


                                    
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