阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2003年12月)   
2003.12.28 歳末礼拝

「喜びとしての衰え」

 イザヤ書33:13-22 ヨハネ福音書3:22-36
 伝道師 川俣 茂


◇主イエスはユダヤで、バプテスマのヨハネはアイノンでそれぞれ洗礼を授けていた。ヨハネの弟子たちは、人々が主イエスの方に行って洗礼を受けていることに対して憤慨していた。

◇しかしヨハネは、この現象を喜んでいる。「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」ヨハネは先駆者にすぎない。彼はあらゆるものに神の御手を見ている。そして彼の使命は、この現象の源である父なる神の存在を示すことにあるのだ。

◇ヨハネは自分を、主イエスの為に遣わされた者だと認識している。そしてそのことを喜んでいる。それをはっきりと示す為に婚礼のたとえを用いている。婚礼に於いて花婿は重要な役割である。その介添人も重要な役割を担っている。しかし、花嫁を花婿の所に連れてくると、介添人の使命は終わる。婚礼の中心人物となることはない。しかし、この喜ばしい席にいる以上、この介添人も共に喜ぶ。まさに主イエスの為に遣わされた者として、ヨハネの弟子たちがもたらしたニュースが彼を喜びで満たすことになったように。

◇ヨハネは「主イエスは栄えなければならない」と語る。この背後には神の支配の必然性及び「あの方」と「わたし」の対比が為されている。仕える者は必ず衰えていく。主人の地位に取って代わるのが仕える者の役目ではないはずである。

◇主は天から来られた方である。ヨハネは「天から来た者」ではない。しかし、その彼を天におられる神が用いたもうた。その点でヨハネは単に「地に属する者」とは異なった存在なのだ。

◇主イエスの語る言葉は、人間の言葉ではなく神の言葉である。主イエスの言葉を受け入れることは神の言葉を受け入れることを意味する。それは同時に「神は真実である」ということに心から同意し、それを受け入れるということをも意味している。

◇30節の「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」という言葉は、私どもにも当てはまる。自らが衰えるということはいったいどういうことなのか。そして自分が衰えていくことを、なぜ喜んで受け入れることができるのか。それは主イエスが天から来られたからである。私ども一人一人を支配されるお方、そのお方が栄える為には、この自分が衰えることを喜びを以て受け入れていい。私どもが栄えても仕方がない。主こそが栄え、み栄えがいつまでも現わされるべきなのだ。「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」アーメン。


                                    
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2003.12.21 降誕祭礼拝
「闇を照らす光」
 ルカ福音書2:1~14 イザヤ書9:1~6
  牧 師  大村 栄

◇降誕日が冬至の直後に当たる12月25日に設定されたのは4世紀中頃。冬至は「不滅の太陽の誕生日」とされていたが、ローマ教皇ユリウス1世が349年に公式にこの日をクリスマスと決定したのは、「真の不滅の太陽は、神の子キリストである」と宣べ伝える伝道的効果を考えてのことだろう。冬至は一年中で夜が一番長い日だが、この日から少しずつ昼が長く、温かくなってゆく。冬至は暗さが極まったところで光が勢いを盛り返す逆転の日である。キリストの誕生は、歴史の中でそういう逆転が起こったことなのだ。だから私たちは時代の暗さにも、人生の闇にも希望を捨てない。

◇日付はこうやって設定されたが、伝統的に紀元元(1)年と言われてきた降誕の年代特定も問題である。「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である」(ルカ2:1-2)。世界史上にもキリニウスというローマの役人は実在し、住民登録は紀元6年に行われている。だとすると降誕はその年ということになる。

◇この「住民登録」はユダヤへの圧迫開始を指している。キリニウス以来代々ローマから総督が派遣され、この地方を統治した。最も有名な総督はポンテオ・ピラト。その後も総督の権力はさらに強まり、ユダヤ人を政治的・宗教的に圧迫していった。それゆえついに紀元66~70年に大規模反乱である「ユダヤ戦争」が起こり、これを皇帝ネロの派遣する軍隊が徹底的に鎮圧した。130年ころには第二次ユダヤ戦争が起こり、これも徹底鎮圧されて、ユダヤ人はエルサレムへの立入りを禁じられ、以来ユダヤ人は世界各地に散らばっていった。

◇あの「住民登録」の勅令は、現代まで続くユダヤ人の暗い歴史の序曲であった。現代世界の最大の課題であるパレスチナ問題の端緒をここに見るとも言い得るし、2年前の9・11同時多発テロの遠因とも言える。あれ以来戦争の話題の絶えない21世紀初頭を生きる私たちであるが、約2000年前のある夜、重苦しい歴史がまさに始まっていく予感のただ中に、特別に明るい星が輝き、主の天使は「民全体に与えられる大きな喜び」を告げた。それは最も暗くて寒い冬至に光の到来が告げられるように、暗闇の世に必ず光は到来すると信じる信仰を、私たちに求める神の声だ。私たちは最初のクリスマスを告げた天使の讃美をいま心に響かせたい。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」。


                                    
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2003.12.14 待降節第三主日礼拝
「荒れ野で叫ぶ声」 
 イザヤ書40:1-11  ヨハネ1:19-28 
  牧 師  大村 栄
 
◇バビロン補囚の終わり(BC539年)を告げるイザヤ40:1~11の中から、ヘンデルの「メサイア」に5曲もの歌詞が取材されている。いかにこの預言がキリストを指し示すものと考えられてきたかを示す。

◇1-2「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と」。そもそもこの苦役は、不信仰の罪によって始まった。神より人の力を頼り、北の大国バビロンの抑圧に対して、南の大国エジプトの力を借りて対抗しようとした。その結果がバビロンによる徹底的な破壊であった。しかしもう充分に、「罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた」と言う。

◇そして祖国への帰還の道が開かれる。3-4「主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」。「荒れ野」とは、故郷への遠い道のりであると同時に、これまで彼らが歩んできた苦難を指す言葉でもある。「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」。「谷」や「険しい道」などは、帰還の道を阻む障害である以上に、彼らのこれまでの傲慢な態度そのものだった。しかし今や主を忘れて荒れ野となっていた心が開墾され、「山と丘は身を低く」、謙虚にされて「主のため」の道が開かれる。

◇バプテスマのヨハネは「あなたはどなたですか」と聞かれた時、イザヤの言葉を用いて、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」(ヨハネ1:23)。彼はキリストと共に神の国が到来したことを指し示して、民に「悔い改め」を促し、そのしるしの洗礼を施した。「荒れ野で叫ぶ声」に聞いて、自ら生きる荒野の只中に、神の言葉による広い道を見出すのが「悔い改め」(人生の方向転換)だ。それによって人は、空しい世界の彼方に永遠に確かなものを見出し、そこに向かって生き始める。8「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。

◇11「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」。主は弱い小羊をふところに抱き、母の羊を慰めながら、永遠に変わらない確かなものへ向かう道に群を導いて下さる。この羊飼いの導きに従う群が教会である。「荒れ野」を行く時もそこで「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と叫ぶ声に気付いて心を開き、歴史と人生の背後にある真理を見通す目を与えられたい。



                                    
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2003.12.7 待降節第二主日礼拝
「人生の旅人」 
 イザヤ書55:6-11 ヨハネ福音書1:14-18  
  牧 師  大村 栄
 
◇前6世紀、バビロニヤ帝国はペルシアの王キュロスによって滅ぼされ、補囚とされていたユダヤ人は祖国への帰還が許される。イザヤによれば、バビロン捕囚はイスラエルが神の言葉に背いた結果であった。だから今、単に故郷へ帰るだけでなく、主に帰れ、信仰に帰れと彼は叫ぶ。「7:主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる」。補囚の苦しみを体験したことも、今そこから解放されようとしていることも、みな創造主なる神のご計画だ。その神の計画に生かされ、動かされているのを体で感じる今こそ主に帰るチャンスだ。

◇「人間はだれもが生きている自分を自覚している。こうしてわたしは生きていると、そう思っている。だが、あるとき、ある瞬間、自分は生きているのではなく生かされているのではないか、ということに気付く。そしてそのときから、その人は人生の旅人となる」(森本哲郎『神の旅人』P27)。喜びであれ悲しみであれ、「生きている」のではなく「生かされている」ことを知るこの瞬間の出来事を通して、私たちの「主に帰る」信仰の旅が始まる。

◇その旅路は予想できない道だ。「9:天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」。人間には想像もつかない形で神は歴史を導き、個々の人生に介入される。「もし自分で生きているのだったら、どうして死が予期せずにやってくるのか、誰が自分を死へと至らしめるのか、それは不条理というほかあるまい。しかし、自分が何者かによって生かされているのだとしたら、不意に死が襲ったとしても、そして死が不可避であっても、それは当然ではないか」(前掲書続き)。

◇阿佐ヶ谷教会では今年すでに14名の信徒が天に召された。私たちは「天の故郷」(ヘブライ11:16)を目指して地上を旅する旅人である。この旅路を歩む私たちに寄り添ってくれる支えが神の言葉。それは決して空しく終わるものではない。「10:雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない」ように、「11:わたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす」。

◇そのことのしるしがクリスマス。「言は肉となって、わたしたちの内に宿られた」(ヨハネ1:14)。このしるしを頂き、神の言葉に導かれて、「旅人」としての人生を歩む決意を深くするクリスマスでありたい。


                                    
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