礼拝説教


2021/10/24

「残りの日々を数えさせてください」

詩編90:1〜17
牧師 古屋 治雄


◇今朝は神様の御許に召された方々を覚えつつ、生きることと死ぬことを支配しておられる神様を礼拝している。コヘレトの言葉に、人間はどんなに名声を博しても皆死んでいかなければならないことが告白されている。今朝の聖書も死に向かっている私たちの人生のはかなさが語られている。さらに、その大元に神様の怒りと憤りを思わざるを得ないことをはっきり示している。

◇旧約聖書のアブラハムの死に際しては、長寿を全うし、満ち足りて死に、先祖の列に加えられたと聖書にあり、イサク、ヤコブの死についても同じように報告されている。他方で、先ほどの御言葉のように人の死を神様の怒りによって滅んでいく姿としても語っている。

◇しかし、この詩編で同時に呼びかけられている御言葉を聞かなければならない。信仰者は嘆きの中に沈み込んでいるのではなく、神様が御心を変えてくださるようにと執拗に懇願するのである。死から引き上げてくださる、罪を赦してくださる神様への深い信頼がなければ、このような言葉は出てこない。神様の怒りを知りつつ神様の慈しみを確信していることを見逃してはいけない。

◇この詩編は詩編全体でただ一つだけ「神の人モーセの詩」と題されている。イエス・キリストがまだ登場しておられない神の民の時代を代表してモーセの言葉として、天地創造の初めからすべてのことが神様の御支配の中にあることが高らかに宣言されている。神様は私たちがこの地上に生きることを良しとしてくださっているのである。ルターはこの「宿るところ」を「避難所」と訳し、神様が私たちを保護してくださり、私たちがその中に生きる者とされていることを強調している。

◇この詩編は葬儀のみならず大晦日に聞く御言葉としても親しまれてきた。親しい人の死にふれながらも、新しい1年私たちはなお地上の与えられた生を、具体的な日々の働きを担い、神様の栄光を現すように生きていく。私たちは死を克服してくださったイエス・キリストをいただいており、その希望が注がれている。地上の歩みを与えられている者として日々主の栄光を現す歩みを進んで参りたい。

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