礼拝説教


2021/7/4—聖霊降臨節第7主日礼拝—

「神の国へと招く主イエスの洗礼」

使徒言行録19:1〜10
牧師 古屋 治雄

◇今日は洗礼について語る。今日の箇所では「ヨハネの洗礼」と「主イエスの名による洗礼」が対比されている。どのような違いがあるのだろうか。

◇パウロらは第3回の伝道旅行でエフェソに至り、2年にわたって本格的な伝道を展開する。第2回の旅行の際、パウロはこの町にアキラとプリスキラの夫婦を残している(18:18以下)。そこへ雄弁家のアポロがやってきて「正確に」教え始める。彼は聖書に詳しく、伝道者として適任だったと思われる。しかし彼が教えていた内容は、主イエス・キリストの福音の全体像を捉えきれていなかった。そこでアキラとプリスキラは彼を呼び寄せて「もっと正確に」説明したのである。そこでは「主イエスの名による洗礼」について語られたであろう。

◇「ヨハネの洗礼」は悔い改めの洗礼である。今日の洗礼式でも悔い改め、すなわち生き方の転換は重要視されている。悔い改めを強調する洗礼者ヨハネの働きをイエス様は「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」(マタイ11:11)と最大限に評価しておられる。しかしイエス様は悔い改めに留まらず、神様の恵みの内に生きる道を切り開いてくださった。その時、私たちは今までの生き方が神様の前には正しくなかったことに気づかされるのである。ヨハネの役割はマタイ3:11で彼自身が預言しているとおり、イエス様の道を備えることである。

◇悔い改めは、私たちに一人の責任ある人格として、全力で自分の生き方を転換することを要求する。しかし、自分の力で神様に喜ばれる人間になろう、悔い改めよう、これは実は不可能である。一方、「主イエスの名による洗礼」は、受洗者が一度「死ぬ」ことを含意している。イエス様は私たちに代わって死んでくださった。受洗者はその死に与る。すなわち一度「死ぬ」のである。イエス様の死によって私たちは引き上げられ、神様の恵みの中に生きるものにされる。だから私たちは、かつての自分の生き方を悔いることができる。そして神様の新しい恵みの中に生かされてることを喜ぶことができるのである。

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