礼拝説教


2021/05/23

「人間の混乱と神の摂理」

エフェソの信徒への手紙2:11〜22
協力牧師 中野 実


◇使徒言行録第2章が伝えるペンテコステの出来事は教会の歩みの開始であるが、単に2000年前の出来事ではない。現代の私たちも福音伝道の目的のため、その一員とされている。しかしコロナによる制約の中、閉塞感、不安、挫折を経験している。いわば「自分を自分たらしめていたもの」の喪失である。何によって生きるのか、神様から何者とされているのか、再確認する必要がある。

◇今日の聖書箇所は、私たちがキリストにあって神の子とされていることを示す。それは初めからそうなのではない。私たちはあの放蕩息子(ルカ15:11-32)のように、まことの父を拒絶していた。しかし父なる神に迎え入れられ、抱きしめられることによって子たる身分を回復されるのである。自分で神の子になろうと努力する必要はない。キリスト者は、すでに神の子とされている者として生き、歩むのである。それは神様の一方的恵みとしての愛であり、そのしるしが洗礼である。私たちは洗礼によって神様に抱きしめられた存在として歩むのである。

◇説教題の「神の摂理」は、神様が深い計画を持っておられ、世にかかわり、ご計画を実現しようとなさる神様の働きのことである。この世界は神様の摂理によって導かれており、神様の支配は世界の隅々まで及んでいるということを私たちは信じる。ところが今、世界に見えるものはコロナの猛威、人間の混乱、弱者の虐待、危機に乗じて拡大をめざす権力の動き、そうしたものばかりである。人間は、このコロナの状況の理由を知ることができない。神様のみ心を知り尽くすこともできない。しかし教会に知らされている大事な事実がある。私たちはどんな時にも、あの放蕩息子のように父なる神のみ腕に抱きしめられている。だから大丈夫だということである。

◇私たちは、神の創造と摂理を知ることにより、あらゆる不遇の時にも忍耐強く、幸福の時には感謝し、未来のことについては、依り頼むべきわれらの父によく信頼するようになり、もはや、いかなる被造物もわれわれを神の愛から引き離すことはできないほどになるのである。(ハイデルベルク信仰問答 問28より)

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