礼拝説教


2020/08/30

「罪からの解放」

ヨハネの手紙一3:4〜10
伝道師 上田充香子


◇「本音」と「たてまえ」が存在する社会を私たちは生きている。しかし、私たちキリスト者にとって「本音」と「たてまえ」は必要か。「御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。」(6節)は私たちにとってたてまえになってしまってはいないか。キリスト者だって罪を犯してしまう、ということが本音となって、本音がたてまえを凌駕してしまってはいないか。そのような時、悪魔が働いているかもしれない。

◇私たちは罪人である。讃美歌21-306にあるように、1節「あなたもそこにいたのか、主が十字架についたとき。ああ、いま思いだすと/深い深い罪に/わたしはふるえてくる。」私たちは主イエスを十字架に架け、その十字架を何も知らまま見上げていた内の一人である。しかし5節「あなたもそこにいたのか。主がよみがえられたとき。ああ、いま思いだすと/深い深い愛に/わたしはふるえてくる。」主イエスは私たちを十字架の傍らにだけ立たせるのではなく、復活の傍らにも立たせてくださった。罪にふるえる私たちを、主イエスの愛にふるえるものと変えてくださった。なぜなら、主イエスの十字架は私たちの罪を代わりに負うためであり、復活は今なお戦う罪そのものに勝利してくださるためだったから。そのことを信じ、「知っている」(5節)者とされた私たちに、たてまえはもう必要ない。「キリストの救いによって、罪を犯さない。」と本音で言うことが出来る。主イエスがこの世に来てくださったことによって、私たちを本音とたてまえの世界から自由にし、解放してくださった。

◇私たちは神の子どもとして、神の種を育む生き方が与えられている。日毎に栄養(神の言葉)を受け、また時に、犯してしまった罪を主イエスに弁護していただきながら(2:1)、私たち自身も神の種(神の言葉)を蒔く者とされている(マルコ4:14)。そのようにして、奴隷の軛ではなく、キリストの軛のみにつながれて(ガラテヤ5:1)、真の自由の中を歩むのである。

(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com