礼拝説教


2020/07/05

「キリストを紹介する」

使徒言行録8:26〜40
牧師 古屋 治雄


◇圧倒的な聖霊の力によって、フィリポは一人のエチオピアの宦官のもとに遣わされる。当時こうした人は神の会衆に加わることが禁じられていた。しかしエルサレムに巡礼に来ていることから、異邦人でありながらユダヤの神に心寄せる人であったと考えられる。彼はなぜこの箇所(イザヤ書53章、「主の僕の歌」と呼ばれる)を読んでいたのだろうか。

◇当時のユダヤ人のメシア理解はダニエル書7:13-14、マラキ書3:17-18のような、力に満ち、しいたげられている民の境遇を超越的な力によって改善し、まことの王として君臨する、というイメージであった。「主の僕の歌」に表されている卑しめられ、殺されるような人がメシアであるはずがない、と思われていたのである。しかしイエス様は復活してくださった。父なる神様が救いの出来事をみ子において起こしてくださった。ここに新しい神の民の望みがある。初代教会のキリスト者たちはこれこそ「主の僕の歌」の実現、成就であるととらえることができたのである。

◇この宦官は、エルサレム滞在中に「主の僕の歌」について語る使徒たちの説教を聴いたのかもしれない。それで馬車の上でも読んでいたのではなかろうか。そこにフィリポが遣わされ、宦官は、馬車の上で聖書の解き明かしを受け、はっきりとイエス様を信じ、水のあるところに来て洗礼を受けた。私たちから見れば拙速とも見えるが、私たちは、私たちの働きを通して聖霊が働くとき、憚ることなくイエス様の救いの現実に生きることができるのである。ここではフィリポが何をしたかは問題ではない。聖霊を運ぶものとして、福音を伝える者として用いられたのである。私たち人間の想像を超えて、神様の救いに新しく生きる人が生まれたのである。もはや神の民の交わりから排除される者はなく、新しい民が招かれるのである(イザヤ書56:3)。ここでの出来事はたった一人に対してのことだったが、決して小さいことではない。ユダヤの文化や伝統の壁を越える出来事であった。この後、このような救いの出来事が世界のあちこちで起こる。時が良くても悪くても私たちはキリストを紹介する者とされているのである。

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